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十戒と主の祈り
鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
主の祈り(文語)
天にまします我らの父よ
願わくはみ名をあがめさせたまえ
み国を来たらせたまえ
み心の天に成る如く地にもなさせたまえ
我らの日用の糧を今日も与えたまえ
我らに罪を犯す者を我らが赦す如く我らの罪をも赦したまえ
我らを試みに遭わせず悪より救い出したまえ
国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり
アーメン
=御国=
第二の祈り①・神の支配
ルカ17:20~37
「御国をきたらせたまえ」という第二の祈りは、主の祈りの中で最も短い祈りです。しかし、それでいて最も多くの意味を含んでいる祈りであると言われています。そのことを何回かに分けて理解することにします。
最近読んだ主の祈り本の一つに、この「御国を来たらせたまえ」について、国という言葉があるためでしょうか、「政治的な」性質のある祈りであると解説しているもの(ウイリモン、ハワーズ「主の祈り」、日本基督教団出版局、100頁)がありました。
この祈りが全宇宙的な神の支配を求めると言う意味がないわけではありませんから、政治的な祈りと考えるのでしょうが、この祈りはそういうことを中心に求める祈りではありません。イングランドの内戦の状況下で、しかも議会の求めに応じて生み出された、政治的な環境の中から生まれたウエストミンスター大教理問答にも小教理問答にも、そうした意味のことが記されているわけではありません。
事実、ファリサイ派の人々は、そうした政治的な国の到来を願って、「いつ来るのですか」と主イエスに尋ねたわけですが、主は、「神の国は、見える形では来ない」と言われました。
主イエスが「御名を崇めさせたまえ」という第一の祈りに続いて、「御国を来たらせたまえ」という第二の祈りを教えられたのは、第一の祈りが実現するための手段として、「御国を来たらせたまえ」という第二の祈りをお教えになりました。御国が来ることによって、御名が崇められることになり、崇められる程度も、御国が来る程度に連動するからです。
この「御国」は、主イエスが弟子たちにまず求めるべきものとして、マタイによる福音書6章33節で、人々に言われました。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」。
この「神の国」を求めることは、神の支配に服することを求めることです。そして、「神の義」を求めるようにと言われたのは、その神の国の支配に服することは、神の義に従う程度によって現わされることになるからです。
神の義とは、神の契約にみられる神の真実、恵み、それゆえ、契約に入れられた者の間の平和、正義、助けなどです。それを求める程度に応じて、神の国が見えます。そうすれば、生活の上での必要は添えて与えられるという約束です。
このように、まず神の支配が私たちの心に生まれ、それが次第に強化されることを願うことがいかに重要であるかということが頷けます。しかし、私たちは自分でこの神の支配に完全に服して行くことはできませんから、主はこの第二の祈りをするようにお教えになったわけです。更に進んで支配に服していこうとするにつれて、神の民は御名をそれだけ崇めることができるようになるからです。
憐れみ深い神は願う前から与えようとされておられますが、大事なことは神の支配の中で与えられていることを知っていることです。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」