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「今月のことば」
あなたがたは、地の塩である。
あなたがたは、世の光である。
=マタイ5:13~14=
このみ言葉は、神様の御業がこのような形で、小さく貧しい私たち人間を神の民、信仰者として招き、用いてくださる時、大いなる希望と使命が託されていることを知らされます。
日々の生活に追われ、小さな出来事に翻弄されてしまう私たちを「塩となり、光として」お用い下さるというのです。信じ難いことです。しかし、創世記1章には「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ』・・・。こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。・・・。第一の日」(1:1~5)。とあります。この全能の神が、私たちを「地の塩、世の光」とされるというのです。
この世界は、争いの絶えない歩みです。多くの国民が、民族が、悲惨な悲しみに陥ってきました。そのような今であるからこそ、キリスト者は、神様から託された役割を果たさなければならないのではないでしょうか。
圧倒的な武力の前には本当に個人は無力です。しかし、武力をもって争いを引き起こすのが人間なら、平和や希望もまた人間の手によって作り出そうと信じたいのです。
私たち自身が「地の塩、世の光」ではありません。私たちが神の民、キリスト者として用いられるとき、「・・・であろう」という未来形ではなく、「である」の言う現在形として、日々を考え、祈る存在であるとしたら、何と幸いなことでしょう。
「闇に光が打ち勝つ」ことは、まさに主イエス・キリストの贖いの十字架が示しています。主イエス・キリストは、神の子として、私たちの「地の塩、世の光」そのものです。そのイエスを唯一の救い主と信じる民が、その役割を担っているというのですから、感謝以外にありません。
私たちは、何をすべきでしょうか。「地の塩、世の光」として、何ができるでしょうか。出来ます。与えられている持ち場がその活動の場、働きの時です。家庭や近隣、働きの場そのものが「持ち場」です。キリスト者として生き、神の御心を喜びとし、それを分かち伝える日々が、最も感謝な「時」です。
「あなたのパンを水の上に投げよ、多くの日の後、あなたはそれを得るからである」(伝送の書11:1)。
全能の主、造られしもの、王なる神をたたえよ。
わが魂よ、主をほめよ、主は救いにて 汝を健やかにしたもう。
聞く者らよ、いざ進みゆきて、宮にもうで われとともに、心たのしく神を拝せん。 アーメン
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」