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「今月のことば」
聖徒のうちで最も小さい者であるわたしにこの恵みが与えられたが、それは、キリストの無尽蔵の富を異邦人に宣べつたえるためである。
=エペソ3:8=
神の国における私たちの仕事が、重苦しい義務となった時は、何かが間違っているのです。神の国で、私たちが生活の資を作るため、あるいは名誉や権力を得るために働くとすれば、事は一層悪くなります。
パウロが当時、あるキリスト者たちに対して、「彼らはすべて自分の欲を求める」という悲しむべき事実を非難したことは、今日でも何と多くの人に当てはまることでしょう。私たちの生涯の仕事が審判の火を通る時、私たちが純粋な物であると信じていたものの多くは、藁のように燃えることもありうると言うことです。
しかし、この冒頭の「聖徒のうちで最も小さい者であるわたしにこの恵みが与えられたが、それは、キリストの無尽蔵の富を異邦人に宣べつたえるためである。」と言う聖書のみ言葉は、何と心に突き刺さり、印象に残るでしょうか。
宗教が平和と安寧を乱し、家庭や家族を泥沼に引き込んでしまった出来事を、ニュースは伝えています。健全な宗教、信仰でないことをまた警鐘として示されました。苦しみや悩みの解決を金銭で手にすることができるかの様な誘いは、イエス様も悪魔の誘いで経験され、み言葉に立つことをお教えになりました。
自分について最も小さい者というこの人は、神が今まで得られたこともない最も偉大で、最も立派な働き手でありました。パウロは、神様から賜わった任務を果たしさえしたら、この命は自分にとって少しも惜しいとは思いませんでした。
主イエスの僕のうち、最も小さい者と目にうつり、主の福音を人々に伝えることを許されるのを恵みと考える。これこそ、私たちが仕事をする時に持つべき信仰・精神ではないでしょうか。
私たちが、当然見るべきありのままの自分の姿を見ることができ、自分を神様が如何に造り変えられたかを知れば、自分の目に、如何に小さく映り神の恵みは言い表せない程に大きいことかが分かります。そのような心の視力とそのような信仰を神様に祈り求めましょう。
救いは、金銭で得るものではなく、「主イエス・キリストの十字架の贖いの愛にあること」を、改めて知らされます。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」