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バラ・マカルピン 日本伝道百年史
水垣 清著
(元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)
21 マカルピン二世の来日・・3・・
マカルピン氏が着任して数日後の9月21日「室戸台風」のため関西地方を中心に死者2500人を出すという事態が生じた。キリスト教界は、「マルクス主義とキリスト教」の論争が盛んになり、「弁証法神学」によるバルト神学の流行が教会を圧倒した。
天皇神格化の国体明微運動と共に、キリスト教の宣教師の行動にも政府官憲の監視が強化され、特にアメリカ、英国の宣教師の行動にはスパイの嫌疑をもって終始する偏見が、その伝道に大きな障害となって来た。このように、若いJ・A・マカルピン夫妻にとって、その前途は決して安易な宣教の道ではなかったのである。
当時、愛岐地区のミッション所属伝道所の統計(1934年(昭和9)末現在)を見ると
岐阜県
伝道所 会員数 現住陪餐 朝礼拝 夕礼拝 祈祷会 受洗者 主任者
加納 44 16 15 12 10 1 伊達量平
関 43 18 6 7 6 0 雨宮正士
多治見 23 18 8 9 5 0 マキルエン
大井 83 60 19 26 15 3 伊藤庄太郎
大田 12 5 7 ― 8 2 雨宮正士
愛知県
蒲郡 16 8 3 2 ― 0 モーア
東山 23 16 16 ― 8 9 スマイス
刈谷 50 16 15 16 16 4 前川敬雄
名古西 48 21 14 9 7 2 中村則秋
津島 18 8 10 10 8 2 幅銀右衛門
さらに岐阜県における宣教師の活動を困難にした問題は、美濃ミッション問題である。
1933年(昭和8)6月、米国宣教師ワイドナー女史の創設した大垣市の美濃ミッション問題の信徒の家庭の樋口繁美、潔美という小学生が、伊勢神宮の参拝を偶像礼拝として拒否した問題から時節柄キリスト教は非国民であるとして、一般および官憲の反感を招いたことであった。
それは信仰上、当然のことながら、当時警察当局がそれを天皇・皇室に対する不敬問題として取り上げ、弾圧した。信仰の道理を認めないほど、わが国はファシズムによる軍国化と国家主義体制へと狂奔していた。キリスト教は危険思想であって共産主義者と同様、国賊であるという見解であった。一歩家を出れば特高刑事の尾行が後を追うという時代である。日本の暗黒時代に宣教師としての活動がどんなに至難であったかは、当時の宣教師と共同して伝道した筆者も経験したところである。
写真は1935年、J・A・マカピン宣教師按手及び日本伝道出張当時の父子。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」