[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
十戒と主の祈り
鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
主の祈り(文語)
天にまします我らの父よ
願わくは
み名をあがめさせたまえ
み国を来たらせたまえ
み心の天に成る如く地にもなさせたまえ
我らの日用の糧を今日も与えたまえ
我らに罪を犯す者を我らが赦す如く我らの罪をも赦したまえ
我らを試みに遭わせず悪より救い出したまえ
国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり
アーメン
=御国=
第二の祈り③・神の支配に服する
マタイ13:18~23
神の支配である神の国は、主イエスが誕生され、公生涯をなさったことで、画期的な新しい姿を現しました。それまでの旧約時代は預言者、祭司、王という人々を通して、神はその御心と御力とを現してこられましたが、御子によるその支配の豊かさは格段の違いとなりました。とりわけ、その十字架の死と復活によって、主の愛は人々の心を開き、大きな支配をもたらすことになりました。それが終末の完成に向かって、さらに拡大されていくことが確実であることは、この「種蒔きの譬え」の通りです。
主はこのように蒔かれた種には4種類の可能性があることをお語りになりました。その中の一つだけが順調に成長しています。このことは、妨害する悪魔の働きが強く、決して侮ることができないということです。現実もそのように見えます。私たちは、日本という異教の土壌に生きていて悪魔の働きを肌で感じています。信じることに妨害を受け、信じてから成長することにも妨げがあります。
しかし、30年余りの牧師の経験から、少し分かって来たことは、プロテスタントの宣教が始まって150年になろうとしている時、私たちキリスト者の成長の難しさを少しでも取り除かないと、人々が信仰に入るのは妨げられるということです。
言い換えると、私たち自身が聖書の教会に成長すること、具体的には私たちが、教会でも、家庭でも、地域でも、親戚にも、職場でも信仰的に羨ましがられるようになって初めて、良い環境が与えられることになります。そのために、改革派教会が目指している教会は確かに聖書の教会ですが、良い伝統がまだまだ受肉していないのが現実です。
この譬えから教えられるように、先ず、主がこのように実を結ばせてくださることを約束していてくださることを知って、励まされます。
そうして、主が言われたように、現実に、悪魔のために、私たちが実を結ぶのを妨げられている自分自身に気付き、先ずそのことを認める必要があります。認めるからこそ、「御国を来たらせたまえ」と祈らなければならないのです。
神の国が自分を支配してくださるように、自分が真実にその支配に従うようにさせてくださいと祈ります。私たちは傍観者ではありません。み言葉を聞こうとしない思い上がりで、この世の力に負けており、さまざまな誘惑に負けていては、御国は来ません。誘惑に対して闘うことができるよう、できれば、「勝たせてください」というのが、このように「御国を」求め、「御国に服すること」を求める祈りです。
それは私たちが、その祈り求める神の支配に服したいという願いが真実になることを願う祈りです。この譬えを聞いて悟る人は「ある者は百倍、ある者の六十倍、ある者は三十倍の実を結ぶのである」と、主御自身から保証されているので、失望しないで、「御国を来たらせたまえ」と祈ります。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」