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「小閑記」
あなたの神、主が賜わる地で、もしあなたの兄弟で貧しい者がひとりでも、町の内におるならば、その貧しい兄弟にむかって、心をかたくなにしてはならない。また手を閉じてはならない。
=申命記15:7=
このみ言葉は、キリスト教社会福祉事業やその仕事を志す人の原点を示すみ言葉の一つと言われています。
世の中には働かないので貧しい者が沢山いるのは事実です。人は言います。そのような人々の中には、貧困と怠惰の中にいることを生甲斐とし誇りとさえ思っている人たちだという声です。貧しい今の社会だからこそ、社会は責任を担い、富める者は支えることは義務だと言います。また、多くの人は「働こうともしない者は、食べることもしてはならない。怠ける者を助けることは、怠惰を認めることである」と主張する人もおります。
しかし、現実に貧しい人々の中の多くは、一生懸命に働いても、労してもそれに見合う賃金が得られない方は全世界には沢山おられます。もしそのような人に向かって、心と手を閉じているなら、私たちは重い神の裁きの下にあることを、このみ言葉は示しています。
この世界に貧しい人が今に生きていることを神様はご存知です。それは放置ではありません。ある目的があってのことです。神様は格差や差別を認めているのか、と言われる方がおられますが、そうではありません。富める者と貧しい者とは共におることを黙認しているのでもありません。すべては、神が造られたのです。
「貧しい者をあわれむ者は主に貸すのだ。その施しに主が償われる」ということを知ることは、とても大切なことではないでしょうか。この言葉を信じましょう。
そうすれば私たちは貧しい者を助けることによって、ますます主に対して貸すことになるのです。それこそ信じ難いことではないでしょうか。
神様は私たちに、大切なことをお教え下さいました。日々、私たちの心の中に謙遜な憐みの心を、恵みに恵みを加えてくださる主に貸しを作るとするなら、感謝して、私たちは隣人に仕えることを喜びとする者へと育み成長させて下さっていることを確信し感謝しましょう。
キリスト教福祉の本の中に、このような言葉のあったことを思い出しました。また、「つのぶえジャーナル」のカテゴリーで「キリスト教=社会福祉のあゆみ」を検索し、ご笑読ください。
主をほめよ、主は汝の子の手のわざを栄えしめ、汝を守りたもう。
主の恵みと憐みとは日ごとに伴う。
思え、全能の主、その愛をもて、汝を助けたまわば、
何をかなさざらん。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」