[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
バラ・マカルピン 日本伝道百年史
水垣 清著
(元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)
22 軍国主義下の伝道・・1・・
1936年(昭和11)2月26日、日本の軍人によるクーデターが行われ、バラ塾で指導を受けた大蔵大臣の高橋是清氏も殺害された(2・26事件)。これを契機に日本の右翼化は進行して、8月7日五相会議で「国策の基準」が決められた。(大陸、南方への進出と対ソ、対米軍備の拡充など)。
1936年6月21日、マカルピン師に長女アンさんが、大阪の聖バルバナ病院で生まれた。
1937年(昭和12)10月7日は、R・E・マカルピン師の結婚50年で、ちょうどアメリカに旅行中であったマカルピン師の信仰の弟子で、金城学院長の市村與市氏がウイントンセーラムにマカルピン師を訪問して、その金婚の喜びを分ち与えられた。市村氏は信州伊那谷の飯田出身で、ここは幕末には平田篤胤の復古神道を奉ずる門人が飯田、座光寺、伴野地方を中心に222人の多きを数える土地柄であった。
ここにバラ先生は伝道して飯田基督教会(現日本基督教団)の基礎をつくられたところ、そのバラ先生の娘婿マカルピン師に信仰を導かれて、キリスト教主義女学校の校長となった市村氏とマカルピン師との間には、深い関係があった。
さらに市村夫人の秀野さんは、東濃苗木藩並松(現中津川氏)の出身で、同藩は伊那谷のように平田学の復古神道によって藩内ことごとく廃仏毀釈を行ない、徹底した平田神道による変革を断行したところ、そしてR・E・マカルピン師の伝道した中津川教会の会員として母娘共々入信されたのである。
神の不思議な御摂理の糸は、選びの民を一致せしめ御業のために用いたもう。また秀野さんの娘、佐々木据野(すえの)さん(当時中津川教会員)も、中津川にあった松本顕二氏と明治26年3月、中津川で初代信徒太田清十郎夫妻の媒酌で結婚式を挙げ、その年の9月14日、松本顕二氏は中津川から長崎の東山学院神学部に入学、のち明治34年4月、名古屋の金城教会牧師になられた。こうした訳で東濃伝道につながるマカルピン師との関係は、いろいろな実となって結ばれたのである。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」