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十戒と主の祈り
鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
主の祈り(文語)
天にまします我らの父よ
願わくは
み名をあがめさせたまえ
み国を来たらせたまえ
み心の天に成る如く地にもなさせたまえ
我らの日用の糧を今日も与えたまえ
我らに罪を犯す者を我らが赦す如く我らの罪をも赦したまえ
我らを試みに遭わせず悪より救い出したまえ
国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり
アーメン
=御国=
第二の祈り④・再臨
ルカ18・1~8
「御国を来たらせたまえ」と祈る神の国は、「すでに」到来しているという面と、「まだ」到来しない面の 両面があることが教えられています。すでに学びましたように、主イエス・キリストが来られ、特にその十字架と復活により、悪魔の支配に決定的な打撃をお加えになりました。しかし、神の国は目に見えるように完成していないことも事実です。悪魔はなお抵抗し続けていますし、この世の悪は幅を利かせています。神の国も完成はなお将来にその実現を待たなければならないことを聖書は教えています。御国がすでに完全に来ているのであれば、主イエスは弟子たちに、「御国を来たらせたまえ」と祈るように教えることはなさらなかったはずです。
ですから逆に言えば、主がこのように祈ることをお命じになったのは、御国が完全に到来することを約束してくださった証拠でもあります。読んでいただきました「不正な裁判官の譬え」から、神の国の性質を学んでおきましょう。
この譬えは、「気を落とさずにたえず祈らなければならないことを教えるために」(1)、主イエスが弟子たちにお教えになったのですから、神の国の完成を願う譬えとして、「裁判官は、暫くの間は取り合おうとしなかった」(同4)ということは、実現に時間がかかるという意味です。私たちの目から見れば、「しばらくの間」はごく短い期間のように思えますが、神の目から見れば、「一日は千年」のように短いとしても、それは私たちには非常に長い期間にわたって待つことを暗示しています。
他方、主は、最後の8節で、「人の子がくるとき」と言われて、裁判官が裁判をする時は、世の終わりの時、すなわち、主イエスの再臨による最後の審判のことであり、しかも、この裁きは、主御自身の目から見れば、「神は速やかに裁いてくださる」(8)ことなのです。わたしたちには「しばらくの間」と言う時間を要することでありながら、主イエスご自身の視野の中では、この「しばらくの間」と「速やかに」という二つが同時に事実であるということです。
私たちには、「しばらくの間」を要するということは、遠い先のように受け取られます。そうなると、再臨に対して無関心になります。その反対に「速やかに」再臨があるとなると、今にも実現するかのような期待をもって、再臨運動をしたりすれば、今の生活に身が入らなくなります。Ⅱテサロニケの信徒への手紙2章2節のように、既に再臨はあったものとしてみたり、3章11節のように、「怠惰な生活をし、少しも働かない」という誤りにも陥る可能性があります。
これらのいずれでもなく、神の国がすでに到来し、主によって、その支配が明らかになっていることに励まされ、現在の使命に生き、そして同時に、やがて確実に到来する再臨によって、神の国は完成することを大事にして、「御国を来たらせたまえ」と祈り続けます。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」