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世田谷通信(229)
猫草
崖があればその下からは湧水が出るものだ。台地に溜まった水は低い方に排水される。雨水は地面に浸透する。染みこんだ雨水が地下でどう流れるかはよくわからない。よくわからないけれど、自然の排水システムはおおむね理にかなっている。しかし何らかの余分な力が加わってうまく排水されないとき、水を吸い込んで膨張した地面はその形を維持できない。つまり崩れる。子どもの頃の砂遊びはそんな当たり前のことを感覚的に教えてくれる。昨今の公園からは砂場が減っている。猫の糞に媒介されるトキソプラズマ症が心配とか、泥で手や服が汚れるからなど撤去の理由はあるのだろうが、子どもたちから砂と水が教えてくれる貴重な体験を取り上げてしまうのはいかにも残念だ。
この世田谷、成城で近所の人たちが里山と呼んでいる場所は、国分寺崖線の一角にある。崖下からは何か所か湧水が出る。その場所は一様ではない。谷は少しずつ開析されて奥に移動しているし、大雨が続けば新しい水の道ができる。
人が通る場所だと雨のたびに足元がぬかるんで歩きにくいので何とかしようという話になる。とは言え、緑地内の遊歩道なので舗装はできない。じゃあ簡略な水の道、排水路を作ろう。穴を掘って、竹を半割にして並べ、竹の枝を伐ったのを被せて、雨のあともあんまり泥んこにならない程度に補修する。木杭を何本か打ってみたこともあるがさほど長持ちしなかった。今回もやがて溝や竹に土砂が詰まる。要は応急処置、でも里山保全のベテランさんたちは「そんなもんだ」と言うのだ。
完全にその湧水の流れをコントロールしようとするなら崖をがっちりコンクリートの擁壁で覆い、排水パイプを打ち込むことになる。かくして人間に都合の良いインフラができあがるが、植物やそこに暮らす生き物にとって水の流れは生命線。自然と共存し、人間はあまり不便のない程度に補修するなら、里山的にはその場しのぎがよいということだ。
自然の中にいると、物事は流動的だし、圧倒的な時間と質量でごくゆっくりと動いていることを感じることができる。真っ白なスニーカーや華奢なサンダルで緑地内を散策して足元が泥まみれになっても自己責任。自然の恵みを享受したいならそのルールに従うべきで、お洒落で快適なアウトドアなんて矛盾と幻想だと思う。いささかの不便と不快をおおらかに楽しめばよい。
<いきいき里山・山里ものがたり>
⊛ コロナ禍の制限から解放されて6年振りに帰国しました。飛行機から見る日本
の風景に改めて感動しました。主人の仕事はインドネシアで政府機関で農業技術指導などを専門にしおりまして、資料として山深い農家の写真を見たり、時には車に便乗して直接皆さんとの会話の中に入れていただくことがありました。険しい田畑で、山全体が棚田でした。狭い水田ですから機械より人手の方が能率的ですねと、家族全員、村全員での農作業で、昭和の日本の農家の様子を祖母から聞いていましたので感慨深いものがありました。農薬を使わないので水田には生き物が沢山いて、虫たちも空に舞っています。どの家も開放的で戸締りなどありません。網戸など一つもありません。鶏は放し飼いで動き回って虫を食べるためにあちこち動き回っています。今、東京のマンションで冷房の部屋で過ごしていますが、息が詰まりそうです。私たち夫婦は、母譲りの「つのぶえ・つのぶえジャーナルファン」ですよ。 東京都 T・Tさん
⁑この投稿文はT・Tさんが仕上げてくださいました。感謝です。編集子
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」