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「小閑記」
もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。また真理を知るであろう。そして、真理は、あなたがたに自由を得させるであろう。
=ヨハネ8:32~32=
キリストを救い主と信じる信仰者の生活は、神のみ言葉の内に留まっていなければ、決して続けることはできません。聖書を捨ててなお、自分はキリスト者であると思う人は、うそ偽りの生活をしていると知らなければなりません。
しはし、神の言葉にとどまるということは、簡単に出来ることではありません。たんに聖書を読むということでもありません。それはまず徹頭徹尾、長続きしなくても、集中できなくても、とにかく、一日の中に、心に、日々の生活に、神の言葉のために時間と場を作り出し、それに基づいて生きることを、喜びとすることです。次に、神のみ言葉にとどまることです。自分の生活や考え方を、み言葉に立って振り返ってみることです。肩ひじを張って生きることではなく、むしろ、心から日々の生活の中に感謝があることに気づくことではないでしょうか。
家族の健康であることに感謝したり、一日の仕事を無事に終えた時に満足感を感じたり、友人と久し振りに会い食事や時には美味しいケーキを食べながら他愛のないのない時を過ごすことも、時を持つことは大切です。
イエス様のある弟子の人々の中には、出来ないことを要求し、裁きを宣告し、道を示す言葉を研究し、考え、自分に当てはめて自己満足したがることを好みますが、恵みと赦しのみ言葉については触れずにおきます。自分の思いのままに過ごしながら、人々からは、慰め、励まし、幸いにする言葉を知りたがります。こういう生き方は、一方的で危険をはらんでいます。
もし真理が私たちに自由を得させるならば、要求や審判や慰めは、全て私たちの心に、生活に場所と時間を見出すはずです。しかし、自分たちの考えが生活の中心に据えられ、それに従って生きるなら、慰めも励ましも、手にすることはないのであります。
キリスト者の生活を支配する根本的な掟は、罪と恵みについてのみ言葉の理解です。罪の認識・意識の欠落・希薄さが支配しているなら、また神の愛や罪の赦し、聖霊の導きや働きとは無縁に状態に陥るなら信仰の重病と言えます。これは知らず知らずに忍び寄るもので、常に目を覚ましていなければならない信仰生活のポイントとも言えます。
これからの日々を、改めてキリスト者として生きようと決心するなら、神のみ言葉のみが私たちを救うという恵みを頂く唯一の目標であると信じる時、私たちは自由にされます。
み言葉は、力ですから・・・。
深くして、栄えあるみ言葉(神)よ、
きよくして、永遠に生きたもう。
罪人を招き、イエスの与えうる、
命の勝利者足らしむる。 イエスこそ、天に行く道なれと。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」