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バラ・マカルピン 日本伝道百年史
水垣 清著
(元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)
22 軍国主義下の伝道・・2・・
岐阜の地にあったJ・A・マカルピン師は、1937年(昭和12)から1940年(昭和15)まで、ミッションの巡回宣教師として、またミッションの会計として働いた。専ら岐阜県下を中心にした巡回であったが、最も援助を必要とする岐阜加納、関、太田、中央線の大井、多治見の諸教会が中心であった。
1937年10月、日本基督教会第51回大会決議の「非常時特別伝道」は、当時、政府当局の要求であった「国民精神総動員」への追従であったため、外国ミッションの宣教師としての積極的な参加は敬遠され、また、これによって教会はいつしか国家主義思想の大きな濁流に知らず知らず流される方向へと進んで行った。
この年12月12に日、日本の南京攻撃戦で米軍艦パネー号を砲撃して撃沈し、レデイーバード号も砲撃した事件は、日本国民に米国との戦争危機感を一層強めた。後になって知らされた南京大虐殺事件によって、既に日本の前途に希望は失われていったのである。
1938年(昭和13)には、国家総動員法の公布(4月1日)。1,日本軍徐州占領(5月19日)、1,日ソ軍張鼓峰で衝突(7月15日)、1,武漢三鎮占領(10月12日)と戦争は進度を加え、キリスト教界も連盟による皇軍慰問、国民精神総動員講習会、日、独、伊親善協会との協議会などの行事が目につくようになった。
そして、キリスト教会の小崎弘道(3月1日)、神戸中央神学校のS・P・フルトン博士(9月16日)、東北学院校長シュネーダー博士(10月5日)などが逝去されて、時代の急迫を一層重くしていた。そして在日宣教師に日本への認識を深めさせるため、数回外務省や海軍当局との懇談会が催されて、帰国中の英米宣教師への事変説明などが送られ、連盟名誉幹事のアキスリング氏のパンフレットが4万部世界のキリスト教関係者に配布された。
しかし、国内での宣教事業は制約されて、一般国民の動揺に加えて、個人との対話、特に外国人との接触は防諜上厳重な監視と疑惑を招くものとして、宣教師との個人的交際にも後ろめたさを覚えるようになった。ミッションスクールにも10月27日、天皇の「御真影奉載」を強制するようになった。
地方都市の岐阜の地にあって、周囲から常に異様な眼で見られたJ・A・マカルピン宣教師はその苦難に堪えて祈りの生活が続いた。
写真・・・改革派中部中会婦人会上より三人目は岩井修二牧師と講師のマカルピン夫人・1955年)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」