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十戒と主の祈り
鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
主の祈り(文語)
天にまします我らの父よ
願わくは
み名をあがめさせたまえ
み国を来たらせたまえ
み心の天に成る如く地にもなさせたまえ
我らの日用の糧を今日も与えたまえ
我らに罪を犯す者を我らが赦す如く我らの罪をも赦したまえ
我らを試みに遭わせず悪より救い出したまえ
国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり
アーメン
=御心=
第三の祈り①・明らかにされた御心
使徒言行録21・10~14
「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」という第三の祈りに移ります。この祈りが聞かれるまで、「御国を来たらせたまえ」という第二の祈りがかなえられます。さらに「御国が来ること」が、「御名を崇めさせたまえ」という第一の祈りがかなえられたことになりまます。
では、神の「御心」について考えてみましょう。神の御心は何かということについて、まだ明らかにされていない御心と、すなわち、隠されている御心と、すでに明らかにされている御心の二つがあります。
そうなると、このように言う人がいるかも知れません。「私たちが第三の祈りをしても、あるいはしなくても、神の御心は常に行われているのであれば、祈る必要がないのではないのではないでしょうか」と。この疑問はもっともな疑問です。なぜなら、神は私たちがどのように求めても、あるいは求めなくても、御心を行なってくださる面があるからです。
それは隠されている神の御心と呼ばれるものなのです。それは神御自身の行動に関するものであって、預言の言葉として前もって語られた時になって初めて分かるか、出来事として起こった時に分かるからです。
例えば、「主よ、わたしたちの神よ・・・御心によって、万物は存在し、また創造されたからです」(黙示録4:11)とありますように、人は神の創造の御心を結果的に見ることが出来るだけです。また神の摂理的な支配の業についても同じことが言えます。ネブカドネツッアルは自分の苦しみに会ったことを神の摂理的な業であり、よいことであったと語って、神を讃美しています(ダニエル4:34):が、結果的に分かるだけです。また、神が誰を憐れまれるかは分かりませんが、後になってみると、結果的に恵みであったことが分かることが多くあります(ローマ9:15)。これらは神の隠れた意志と言えます。
パウロがエルサレムで迫害されるという予測(ローマ21:14)も隠された御心です。しかし、神が明らかにしてくださった御心があります。神は御自分の御心を聖書によって明らかにしてくださいました。十戒のように明らかにされた神の御心があります。隠された御心とは違って、私たちはそれを無視したり、従わなかったりすることができるため、御心が行われないことが数限りなくあります。
例えば、安息日、父母への敬い、憎しみ、色情、偽証、貪りなど、私たちの心の中まで厳密に調べるなら、信仰者であっても、私たち自身が守っているよりも守っていないことの方が多いことを知っています。
そのため、私たちはそれだけ神の御国が人々に見えないようにし、来ないようにしていることになります。それで主は、私たち信仰者に、「御心の・・・地でも行われますように」と祈り、明らかにされた神の御心を少しでも行うことを求めるように励まされました。これは傍観者の祈りではなく参加者の祈りです。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」