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「小閑記」
決して行いによるのではない、だれも誇ることがないためなのである。
=エペソ2:9=
2022年も残る日が日一日と少なくなりました。一年間の出来事を振り返るよい意味では、この11月は大切な時と言えます。
年の初めにはいろいろの計画を立て歩み始めました。思うのですが、結果はどうであれ、何かの目標を立ててそれに向かって歩んできたことに感謝して、2023年を迎える備えの月がこの11月になるなら、それは意味深いのではないでしょうか。
私たちキリスト者は何時も心の中に真剣に、神様との交わりの時が必要であると感じる者であると思う時と、不思議に思う時があります。
また、自分の救いが人生の大問題となる時も多々あります。大袈裟ではなく、日々の生活の中に、それがあるからです。そのような時、心を騒がせるのですが、それが「救い」への再確認、再認識へと導いてくださるのです。良い意味での「疑問、不安」であるとするなら、それは無駄なことではないと思えるのです。
そのために、先ず思うこととして、現在の自分の姿・信仰の心を点検させましょう。順風満帆、自信満々の時よりも、自分の在り方を問い直させる恵みの時が必要ではないでしょうか。今よりもより良き者にならなければならない、という思いが心の内に根を下ろし、改めて、信仰生活を省み、思いや心や性質が少しでも変わりたいと思わされるなら、その「今の時」を大切にしたいと思います。
「心をつくし・・・、全力をつくして」、時には立ち上がらなければならない時があります。それが今だとするなら、幸いな時です。
私たちが救われるということを信じる時、もしも主イエス・キリストを受け入れず、あるがままに救われると信じるとすれば、それは不可能です。また同様に、自分の努力で救いを頂く領域に自分を引き上げたり、変化させるということもまた不可能です。自分の力でその領域にいたるために何かをすることなど、全くないのです。むしろ大切なことは、その思いを捨て、主イエス・キリストの十字架の贖いを信じ、感謝して生きることこそ、求められる道です。
もし、主イエス・キリストを救い主と信じる前のように、自分自身の善行という行為で救いと平安を得るのが救われる道だと思うなら、それは間違った道ですから、逃れなければなりません。不幸にしてそう思ってしまうなら、神の子イエスを否定し、十字架につけ、自分の義に生きたあのパリサイ人の仲間に加わっているのです。
私たちの唯一の救いへの道は、「わたしは命である。罪と滅びから救い出して下さる救い主イエス・キリストを信じる者だけが、神の国に入る」と言われた、この主イエス・キリストに生きることです。これこそ最高の恵みです。
「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるものである。これはあなた方自身から出たものではなく、神の賜物である」という事実を信じて生き続けましょう。
我がなす施しもいさおも、罪の一つだにあがないえじ。
カルバリの丘に、我のがれん。神よ、あわれみたまえ。
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紅葉の時期になりました。知人にアケビや柿をいただき、庭の山ブドウと一緒に玄関に飾りました。秋の恵みをお届けします(写真)。今年は山ブドウがよく育ったのでジャムにしょうと思っています。アケビの皮はアクが強いので、何度もアク抜きしゴボウと一緒にキンピラにしました。素敵な秋の味がしました。 「ジャーナル友」より皆様へ
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」