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「小閑記」
そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いた。
=ルカ24:45=
今の時代、幸いにも簡単に聖書は手に入れることが出来ます。しかし、聖書は、哲学や科学の本、文学に関する本とは異なります。
聖書のみ言葉、それが神様のみ言葉であるからというばかりでなく、神ご自身がみ言葉によって、み言葉への扉を開いてくださらなければ、そして、私たちの心に信仰という思いを、新しい光として下さらなければ、誰も、神のみ言葉として受け止めず、その意味する内容に、触れることはできないのが「聖書・神の言葉」なのです。
多くの人は、何らかの機会に聖書を手にする機会はありましたが、聖書をこの世的な眼で読む人は、奇跡やイエスがキリスト(乙女マリヤから生まれた救い主)であるという誕生の過程を知って、ただ馬鹿げたことの記録と一瞥するのです。
しかし、神の恵みによって聖書が開かれるところには、私たちがみ言葉の中に、命の御霊の法則を見出し、死んだ者に命を与えます。罪のあった者が自由にされ、神の側に生きる者に変えるのです。重い重荷は軽くなり、破れた心は癒され、全てが謎であったところに、主イエス・キリストに生きり道を見るのです。もし、神様が聖書の中の命、御霊の法則に通じる扉を閉じるなら、どれほど長い時間をかけて読んでも、光は射さず、解決も、恵みも、慰めも見いだすとは出来ません。
聖書の中には、このようなことが書かれています。エマオへ行った弟子たちと共に、私たちは心重く、謎の中を歩むでしょう。過去のことや、もはや現在でないことを思い悩んで、ただ歩くばかりしかありませんが、ご自身のみ言葉へのカギをお持ちなる神様が、私たちに開いてくださるなら、私たちは光を見出し、イエス・キリストのみ顔の栄光を見るのです。
私たちはみ霊によって聖書のトビラをお開き下さいと、祈らなければならないことを、お互いに何度も何度も指摘し合い、励まし合うことを止めてはなりません。励まし合い、支え合うことに遠慮は無用なのです。これこそ、信仰者の交わりなのです。そこに救いがあり希望があるからです。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」