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バラ・マカルピン 日本伝道百年史
水垣 清著
(元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)
23 ミッションの引揚・・2・・
先の宗教団体法によって、南長老教会ミッション所属の伝道所中、宗教法人に認可されず、宗教結社として扱われたものに津島、名古屋西、安城の諸伝道所がある。こうしてミッションの自主的・信仰的宣教の自由は制限されるとともに、全て英国や米国に関係のある団体、個人はスパイの嫌疑ありと見られるようになり、救世軍、YMCA、宣教師関係集会、ミッションスクールは、疑惑の目で官憲の取り締まりの対象となったのである。
10月17日には、皇紀二千六百年に当たるというので、国内は日本の超国家主義の高調と相まって、キリスト教会連盟主催の「二千六百年奉祝キリスト教信徒大会並びに全教会合同宣言」などが行われるという有様であった。日本軍部の外国人に対する圧迫は、学校、教会などの教育、宗教施設から宣教師を放逐せよと命じた。
日本と米国との国際関係はますます風雲急となって、いつ戦争が起こるかわからない危険な状態となっていた。この10月、米国国務省は米国民の婦人や子供を日本から引き揚げるように勧告し、ミッションも全宣教師の引き揚げを決定した。
11月には名古屋の金城女子専門学校にも、教職として奉仕していた全ての宣教師が帰米して、外国宣教師は一人もいなくなった。J・A・マカルピン氏はこの年が最初の休暇の年であった。12月28日、にった丸(新田丸)で帰米された(この船は翌年12月8日、日本戦争開始とともに撃沈された)。
在日宣教師も1938年(昭和13)には566名、1939年(昭和14)には539名、1940年(昭和15)12月193名に減じていった。特に南長老教会の宣教師として1941年(昭和16)12月8日の日米開戦時に、なお日本に留まっていたのは神戸のW・H・マヤス博士夫妻、W・A・マキルエン博士夫妻と徳島のE・ランプキン女史であった。そして1920年、マヤス博士は警察に拘引監禁され、マキルエン博士も拘留所に半年間拘留され、マヤス夫人、マキルエン夫人、ランプキン女史は自宅に軟禁された。L・W・モーア宣教師は開戦前の12月1日、日本船でアメリカに帰る途中、戦争となり、再び船は日本に引き返して横浜拘留所に同師は収容された。帰米したJ・A・マカルピン氏はオクラホマのスチルウオーターやコロラドのボルダー、バークレーで海軍軍人日本語の教師として奉仕を1941年から1946年7月末まで続けられた。
(写真・・・R・E・マカルピン宣教師が援助されていた金城学院・・・1920年)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」