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バラ・マカルピン 日本伝道百年史
水垣 清著
(元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)
24 再び焦土の日本へ
悪夢のような苛烈な戦争が終わった1945年(昭和20)8月15日、日本は壊滅の焦土と化して、大、中都市は爆破されて見る影もなく、大衆はさまよい歩き、日本のキリスト教会もその機能を失って、互いにその連絡する方法もなかった。旧南長老教会ミッションの伝道地、高知、徳島、神戸、岐阜、名古屋は全て灰となって、ただ農山村の小都市が辛うじて爆撃を免れていた。
マカルピン氏は1946年7月31日、アメリカ海軍軍人への日本語教師の職を退くとともに戦後の日本伝道のため、その状況調査班として、W・A・マキルエン師とともに日本に派遣されることになった。二人とも日本生まれの宣教師で、マキルエン師は高知市で、マカルピン氏は名古屋生まれである。日本語も日本人と変わらないほどなめらかで、マキルエン師は頭脳型の人、マカルピン氏は実行型の人として車の両輪のように打ってつけのコンビネーションであった。
特にマカルピン師の日本語は優れていて、祖父であったバラ先生は、聞く人が理解に苦しむような日本語を一生使われたという。それについての逸話があって、片言交じりの下手な難しい日本語の説教を聞いた老人が、それを英語と取り違えて「あのくらいの英語なら習わんでも話せる」と言ったという。またある日、料理人に「ネコを料理せよ」と言われた。コックは驚いて、よく聞きただしたところ、ネコではなく牛肉のニクとわかって大笑いしたり、礼拝で祝祷を間違えて「父と子と聖霊の御名においてバプテスマを授く」と全会衆に洗礼をほどこしたなどの間違いがあった」と言う(多田 素氏 牧会百話)。
しかし、熱意を以て、人を導くべく悔い改めを迫り、涙を以て祈る愛心の祈りは国語の不自由を補ってあまりあった。その孫のマカルピン氏は日本語とともに、またその愛と熱誠、忠実、実行を日本人にため、主のため、伝道に捧げた宣教師であった。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」