[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
十戒と主の祈り
鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
主の祈り(文語)
天にまします我らの父よ
願わくは
み名をあがめさせたまえ
み国を来たらせたまえ
み心の天に成る如く地にもなさせたまえ
我らの日用の糧を今日も与えたまえ
我らに罪を犯す者を我らが赦す如く我らの罪をも赦したまえ
我らを試みに遭わせず悪より救い出したまえ
国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり
アーメン
=御心=
第三の祈り⑤・御名と御國と御心
詩篇103・20~21
第三の祈りの最後として、第一から第三の祈りまでの関係を整理しておきましょう。主の祈りは「天にましますわれらの父よ」という呼びかけの言葉で始まりました。それには神の子らとして、御父の思いを知って、それを少しでも行いたいという思いがすでに表明されています。そして、主イエスが御父の御子であって、われわれの長兄として、父の御心を行う模範を示してくださいましたから、この「父よ」という呼びかけによって、私たちは神の子らとして、御父の御心を知ろうという強い願いが現わされます。
そうして、「御名を崇めさせたまえ」という第一の祈りをするとき、主の祈りの最も中心となる祈りをしていることになります。御父の子らとされている者として御父に何を願うべきかと言えば、父が崇められることです。言い換えれば、父の栄光が現わされることです。それは、ウエストミンスター大教理、小教理問答のそれぞれの第一問にある通りです。神の子らの歩みはいろいろ違うわけですが、神の「御名が崇められる」ことが神の子らの人生のおもな目的です。
神の御名が神の子らによって崇められるのは、何よりも子らが御父のご支配に服することで現わされます。子らがこの世の父にしたがわないのであれば、父の名が崇められず、恥を受けることになります。子らが父なる神の支配に服するために、第二の祈りで「御国を来たらせたまえ」と祈ります。
主イエスが、「神の国は実にあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17:21)と言われたのは、弟子たちが御子を信じて神のご支配に服するようになったからです。その点でも、御子自身が模範を示され、御父のご支配に服し通されました。このように、第二の祈りの御国の支配に服することに比例して、第一の祈りの神の御名が崇められることが実現します。
次に、神の御国の支配に服することは、神の御心を知ることで可能になります。それで、「御心が天になるごとく、地にもなさせたまえ」という第三の祈りがささげられます。天使たちは常に顔を神に向け、神の御心を行うよう待ち構えています。ヘブライ人への手紙の記者が1章14節で記しているように、神は天使に、信者や信者になろうとしている人々に仕える使命を与えておられます。そういう天使が存在することは、私たちもいっそう神の御心を行うために励ましとなります。
「天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか」(ヘブライ1:14)。
このように、第一の祈りのために、第二の祈りが支えとなり、そして、第二の祈りを次の第三の祈りが支えることになります。それで、「御名が崇められる」ことが祈りの中心であり、信仰生活の中心であることがわかります。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」