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「今月のことば」
弟子たちは出て行って、イエスがお命じになったとおりにした。
=マタイ21:6=
今年のイースターは、4月9日と教会カレンダーに記されていますので、その先がけではないですが、このみ言葉から、教会のこれから、信仰の明日を考えてみたいと思いました。
イエス・キリストの誕生をお祝いするクリスマスは、教会やキリスト教世界だけでなく、世界の各地で最大のお祝いの日として祝われています。日本でもクリスマスが近づくと、商戦のタイトルに用いられ、クリスマスケーキの予約の広告が大々的になされています。
しかし、イースターの取り扱いはそうではありません。これは日本の教会の特徴でしょうか、教会内でさえあまり話題になっていません。せいぜい、教会学校でのイースターエッグで、ああそうなんだという程度の関心事です。それでよいのでしょうか。もし、イエス・キリストのよみがえりがなければ、キリスト教信仰には、今も、救い主を待ち望む歩みになってしまいます。
この3月号のみ言葉は、私たちに勇気と希望を「お命じ」という言葉の中に込められています。
私たちキリスト者が、イエス様がするようにとお命じなった通りに従うなら教会の活動も、日々の生活においても、多くのことが神様からの恵み(ご褒美)として与えられることでしょう。私たちが、こんな小さいことと思われることでも、救い主イエス様のためにそれがなされるときは、偉大なものになります。馬屋のロバの綱を解いてイエス様のもとへ連れて行くだけで、主のみ栄と人々への奉仕となりました。キリスト者の生活が、キリスト教信仰のみの教えとこの世的な生活との部分に分けられると考えるなら、それは悲しむべき信仰ではないでしょうか。
神様を信じる人々は、神の教会の中におり、どこで生き、どこで働いていようとも、常にそれは神を礼拝している大切な礼拝行為です。もし、キリスト者が、自分の判断で教会の生活とこの世の生活とに分けてしまうなら、キリスト教を信用いたしません。クリスマスをお祝いし、お正月には神社に行き、節分には豆をまき、幸せを願って恵方巻を食べるキリスト者を見たなら、キリスト教は幅の広い宗教だと信頼されるでしょうか。反対に、世間の流れに背を向けて生きる姿に信仰者の輝きを見るのではないでしょうか。
私は、一人のご婦人の姿を忘れることは出来ません。時代は違いましょうが、小さなお店をされていた方でしたが、仕事着の姿のままで礼拝に来られ、終わるとすぐお帰りになり、子供たちが楽しみに待っている、お菓子屋さんのおばちゃんに戻っていました。多くの悲しみや喜びを知っているおばちゃんのところに子供たちが遊びに来ていました。おばちゃんは、毎年、イースターエッグは高いので、小さなおまけをつけて、イースターおめでとうさんね!と渡していました。神の国の交わりはこのようなものかと、今も心に残っています。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」