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聖霊とその働き
エドウィン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
第1章 聖霊と三位一体
Ⅳ 聖霊は父と子から出る***3***
ペンテコステの日に、教会に吹きかけられたのは聖霊であって、父や子ではなかった。そのことは三位一体において、聖霊が父と子から出ていることから理解されよう。この点は次の事実とも符合する。すなわち、三位一体の第二人格は子であるため、彼は地上で肉体をとった御子でなければならなかったし、同じように三位一体の第一位格は父であるため、信者の父であるという点である。
以上の点は三位一体の他の二つの位格に対する聖霊の関係においてみられる側面である。この関係について、私たちは非常によく理解しているわけではないが、聖霊が明らかにしていることを無視すべきではなく、明らかにされている点に限界はあっても、彼が教会を導いて、ご自分につき、また他の二つの位格との関係について明らかにしてくれたことを喜ばねばならない。彼の啓示にはすべて目的があり、軽視されてよいようなものではないからである。
この神の御霊が父と子から出るという教理の実際的な効果について言うと、その与えた影響は非常に大きなものであった。1054年に、キリスト教世界はローマ・カトリック教会と東方正教会に分裂した。そのようになった背景には多くの要素があったが、つまずきの石は、東方教会が聖霊は父からのみ出ると信じ、西方教会のトレドの会議(589年)で、聖霊は父「と子」、(filioqueすなわち、子からもという意味で、その相違を象徴する用語となった)から出ると告白した。
この相違の結果、東方教会は西方教会と分裂し今日では、この東方教会は1億6千万人以上の会員を有している。したがって、この教理は実際的には大きな影響力があって、今から千五百年前に、教会教父たちによって明文化されていなかったら、今日の私たちの教会に大変な問題をもたらしていたかもしれない。それで私たちは、聖霊がこの点に関して私たちに与えてくれた知識に感謝しなければならない。
このほか、アブラハム・カイパーが鋭く指摘しているように、このfilioqueの否定は不健全な神秘主義を生み出すことになる。私たちの生活における聖霊の働きと、イエスの働きを分離する傾向を生むからである。キリストによる贖いは背後に押しやられ、聖霊の聖化の働きが前面に押し出される。私たちの歩みの中で聖霊の働きがますます強調され、それがキリストと教会と聖書から独立したものになる傾向がある。聖化が義認よりも大きくのしかかってき、御霊との主観的な交わりが、客観的な教会生活より大きく見え、御霊による啓明が御言葉による啓明より大きくなる。アブラハム・カイパーは、御霊が父とともに子から出るのを否定した結果として、この事が東方教会において、ある程度見られると信じている。
このように、教会会議でなされる長い神学的論議が、ときには多大な影響を及ぼすことがあるのがわかった。会議の決定は、論争があいまいな表現になる責任を問われる危険に陥ることはあるにしても、上から下まで広く浸透する。私たちは聖霊が三位一体においてその立場を明らかにしてくれることに、感謝しなければならないが、単なる知的な知識だけで満足してはならない。むしろ、その知識に基づいて御霊とその働きを経験的に知らなければならない。そのために、この章および次から続く章が書かれたのである。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」