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「十戒と主の祈り
鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
主の祈り(文語)
天にまします我らの父よ
願わくは
み名をあがめさせたまえ
み国を来たらせたまえ
み心の天に成る如く地にもなさせたまえ
我らの日用の糧を今日も与えたまえ
我らに罪を犯す者を我らが赦す如く我らの罪をも赦したまえ
我らを試みに遭わせず悪より救い出したまえ
国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり
アーメン
=日用の糧=
第四の祈り①・霊的な必要のために
ルカ12:13~21
後半の三つの祈りに移ります。「日用の糧を今日も与えたまえ」という第4の祈りに始まるこの後半の祈りは、私たちにとってより身近な事柄の祈りになります。それでもそれらの個々の求めはそれ自体が最終的な目的ではなく、これらの祈りを聞いていただける目的は、やはり第一の祈りである神の御名が崇められることのためにあります。ですから、これからの後半の祈りにおいても、私たちのそれぞれの求めることの目的が第一の祈りにあることを理解することが必要です。
アーサー・ピンクは、これらの後半の祈りに関連してこう述べています。「われわれはこれらの祈りにおいて、三位一体の各位格に言及していることははっきりと識別できる。私たちのこの世での必要なものは父なる神の厚意によって与えられる。また、私たちの罪の赦しは御子の執り成しによって与えられる。そして、試みから守られ、悪から救われることは、聖霊の恵み深い働きによる」。そういうわけですから、三位一体の神が、文字通り一体となって、この後半の祈りを聞いてくださることを思い、それだけに「御名が崇められる」ことに関心を持たなければなりません。
それにしても、私たちの肉体的な必要が、「罪の赦し」と「悪よりの救い」という霊的な必要よりも先に求めるように言われています。それは霊的な必要のために体の支えが必要だからです。言い換えれば、霊的な必要の方が重要であって、そのために体が必要を満たされるということです。それはまた物質的なことで満足してしまってはならないということでもあります。
従って、日毎の糧を与えられていることは、霊的な働きをするように備えられていて、次の「われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく・・・」「われらを試みに合わせず・・・」という霊的な歩みに食物があるということです。
ルカによる福音書12章13節から21節を読んでいただきました。遺産の分配のために助けを求めた人に対して、主イエスは愚かな金持ちの譬え話をなさいました。
金持ちであること自体は少しも愚かではありません。彼の愚かさは、自分の命を主なる神が定めておられることを知らず、自分の蓄えの量によって保障されていると思っていたことにありました。そのような思いであれば、このように、「日用の糧を今日も与えたまえ」と祈ることが、無意味であるだけでなく、偽りの祈りでさえあります。
原文ではこの金持ちが「わたし」という言葉を6回も繰り返しているのを日本語ではなぜか訳されていません。17節の「わたしの作物」、18節の「わたしの倉」、「わたしの穀物」、「私の財産」、19節の「わたしは」、「わたしの魂」(新改訳ではここだけ「自分の」魂)です。蓄えは確かにこの金持ちの所有ですが、神から与えられたことがわかっていなければ、その人生は不幸で愚かなものになります。あ
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」