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「小閑記」
そこで天の召しにあずかっている聖なる兄弟たちよ。あなたがたは、わたしたちが告白する信仰の使者また大祭司なるイエスを、思いみるべきである。
=へブル3:1=
「聖なる兄弟たちよ」と言うこの呼びかけは、私たちにとって思いもよらない名称であり、招きの言葉と言えます。これほどの美しい名は他にありません。清さに欠けることの多い私たちにとっては、むしろ、相応しくない呼び名です。しかし、私たちを救い、清いものとして召して下さる方が、この「聖なる兄弟」という名をもって呼び、感謝の召しをもって私たちを取り扱ってくださるというのです。この名によってもたらされる恵みは数知れません。
わたしたちが大切にしなければならないことは、自分の心を支配している罪を素直に認めることです。これは、決して恥ではありません。神を喜び、敬い、従って生きる者とされたことは、ただ神の愛とイエスの十字架の死と苦しみと甦りの救いの御業です。この一つ一つを蔑ろにしたり、日々の生活の外の出来事として忘れる罪に気付くことです。この神の招き、信仰へのお導きのみ言葉から、御霊の導きを信じることです。
これらの言葉を用いた目的は何でしょうか。また、「そこで、・・・聖なる兄弟たちよ」。と呼びかけていますが、どうしてでしょうか。
ユダヤ人のキリスト者たちは、キリストから離れ去って、旧約の律法へ帰ろうとしておりました。「真実なものの影」が彼らの目をくらませたので、イエス・キリストのみ顔の栄光が見えなくなったのです。そこで彼らを親が子を教えるように熱心に、罪の惑わしに陥らないように勧めているのです。「聖なる兄弟たちよ、イエスを見て最初の確信を、最後までしっかりと持ちつづけなさい」と言われました。私たちの信仰と生活を惑わす様々な誘いに対抗し、最後までしっかりと持ち続けることを、信仰への励ましとしてお示しくださいました。
私たち信仰に生きようとする者のまわりには、巧妙な罠が仕掛けられています。その悪の誘いは強力です。不可能ですが、それに自分の力と意志で抗して生きることよりも、むしろ、イエス・キリストへの愛を探り、頂くことに熱心な人でありましょう。キリストを失うことは、永遠の栄光と命を失うことにほかなりません。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」