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バラ・マカルピン 日本伝道百年史
水垣 清著
(元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)
25 改革派信仰修養会・・2・・
主食の米持参ではあったが、戦後初めてのこの種の集会とあって、互いに数年振りの会合に手を握り合って喜び、また、一つ信仰にあるものの幸いを感謝して散会したが、マキルエン氏、マカルピン氏、モーア氏の三M(スリーM)によらずしては、こうした交わりの時は得られなかったであろう。この会合を通じて、戦後日本の前途に、改革派信仰の責任と決意を新たにさせられ、一致への歩みを固くしたと言えよう。マカルピン氏などは、この様な修養会を引き続き四国や愛岐地区で、たびたび開催し、教職、信徒の結束を固めて行った。
1948年(昭和23)6月12日、愛岐地区の伝道のためマカルピン氏は神戸から岐阜市九重町の米軍から返還された住居に移った。すでにこの年の2月1日には、岐阜県東濃地区の大井教会(現恵那教会)、中津川教会、土岐津地方、多治見教会と巡回伝道した。
当時岐阜県には、中央線に筆者と大垣教会に杉山豊胤教師、岐阜加納教会に伊達量平教師、岐阜市に浅倉重雄教師と飛騨高山に同盟教会の教職が一両名と言った状況で、戦火のために岐阜加納、大垣地方は会堂を失っていた。従って、集会することはとても不可能で、多く山地の中央沿線に、先ず強力な伝道が集中してなされ、マカルピン氏は毎月、箱型のステーションワゴンで悪路の山坂の険しい峠を越えて伝道を続けた。
一日も休みなく、廃墟の街、岐阜市内の伝道にもマカルピン夫妻は忙しかった。学生のため、児童のため、肺結核に悩む人々のため、病院訪問伝道が行われ、近所の婦人たちもポーリンさんに導かれ、宣教師間に集まって賑やかに楽しい集まりが開かれた。
そこには戦争による国境、人種の意識を少しも感じない主イエス・キリストによる暖かい愛の心と心の触れ合いがあった。聖書を読むことを学び、讃美する歌を共にし、涙をもって祈る信仰の一致と見えざる唯一の神を仰ぎ求める熱心が生まれた。戦争によって傷つき、敵意と憎しみと殺戮の声に駆り立てられた人々の心に、はじめて真の平和と安らぎと希望の光を見出すことができたのである。
マカルピン師夫妻の赴くところ、感謝と歓びがあった。
「外国の人がこんなにまで、日本の私たちを愛して、キリストのために働いてくださるのか」と感謝して、筆者に話しかけた山の中の農婦もあった。「全てが天地をおつくりになった、唯お一人の神の御栄えのため、また私たちを無条件で信ずるものを救ってくださるキリストの御為にです」と答えた。
写真・・・岐阜県神淵地方訪問伝道とマカルピン夫妻・・・右は橋本隆三牧師・・・(1953年)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」