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「十戒と主の祈り
鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
=日用の糧=
第四の祈り③・失われるもの
詩篇52:7~11
昔と違って、日本の国の全体が経済的に豊かになりました。神を知らない人々の多くは、日々のパンのために祈る必要を感じていません。私たちキリスト者はどうなのでしょうか。あの「愚かな金持ち」という主イエスの譬え話を思い出すまでもなく、蓄えが保証にならないことは分かっています。それで、この祈りの意味を良く理解しておく必要があります。例えば、アーサー・ピンクも幾つかの理由を挙げて、十分な蓄えがあっても、この祈りをする必要があることを教えています。
必要の第一の理由として、私たちの所有は失われる可能性があるからです。創世記の19章に記されているソドムとゴモラの町が、天からの火によって焼き滅ばされた時のことを思い出してください。ロトの家族は神の御使いによって、前もって警告を与えられ、この町から逃れるように命じられましたが、彼らはその警告を信じなかったため、強引に連れ出されました。関西・淡路大地震のように自然の災害が突然襲います。予期しない経済の変動があります。突然の病気や事故に見舞われることがあります。そのように予期しないことが起こりますから、私たちが豊かであっても、それは神の気前の良さのためであることを、この祈りによって教えられる必要があります。
この祈りが必要である第二の理由として言えることは、私たちが持っている蓄えが、神に祝福していただくものでなければ、私たちに益にもならないということです。人は神と富とに兼ね仕えることは出来ませんから(マタイ6:24)、富が悪魔によって利用されて争いの原因や神から離れさせる道具になる可能性があります。キリスト者は誰でも、富のために神から離れた人々の実例を多く経験させられています。
この祈りが必要である第三の理由は、「われらの日用の糧」の「われらの」という言葉から来ています。この祈りが個人で祈られても、個人の祈りではなく、「天にましますわれらの父よ」という言葉で始まっているように、共同の祈りですから、個人的な必要だけで終わってはならない祈りであることを意味しています。他の人々に対しても、同情や思いやりのために所有している心を持てるように求めている祈りです。その点をパウロはガラテヤ教会に宛てた手紙の6章10節で、こう述べています。
「今、時のある間に、特に信仰によって家族になった人々に対して善を行いましょう」。
この祈りが必要である第四の最後の理由として、天地のすべての物の本来の所有者は神だからです。私たちの蓄えは、神から受けていること、あるいは管理を任されていることを自覚するために、この祈りが必要なのです。そうでないと、私たちは思い上がるか、富が神になる危険があります。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」