[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
「今月のことば」
神さま、罪びとのわたしをおゆるしください。
=ルカ18:13=
ある初めて教会に行かれた人のお話です。心の重荷を負い、苦しみ、悲しんでいた時に、友人から教会に行きましょうと誘われて行ってきましたが、その時の印象は、牧師さんのお話は、罪とか、罪人のお話ばかりで、暗い気持ちで帰宅したそうです。その後、数カ月過ぎても、あの「罪、罪人」という言葉が気になって、再び教会に行き、3年後に洗礼を受けられたと言うのです。
わたしたちを神より離し、すべてのものの上に災いをもたらすものは何でしょうか。それは罪であります。罪の見出されないところには、神とわたしたちの間を隔てる壁はありません。神はそのみことばを通して、わたしたちが罪より離れ、命に至る道をお示しくださいました。それはカルバリの道を通り、墓を通ります。キリストは、わたしたちの罪とその代価の借用証書を十字架につけ、わたしたちを「義」とするために、よみがえられました。この命への道筋・軌跡によって、わたしたちすべてに、救いという恵みが与えられたのです。
しかし、実に完全に、これはわたしたちが関与することなく整えられたと同様に、わたしたちはどうしても「罪人」としてキリストのみもとに来なければなりません。神の前にキリストをあたかも罪ある者としたのは、わたしたちの負債であったことを認めなければなりません。
罪から離れる道は、告白を通ります。わたしたちは何者であり、何をしたかを告白します。冒頭のみことばですが、神殿の中のこの取税人とともに、神の前に出て、「神さま、罪びとのわたしをおゆるしください」という人、その人は救われるのです。神はこの罪びとの告白した心が、「義」としたもう神の恵みに対して開いているので、そのように告白する者を「義として」宣言されるのです。
イエスはわたしたちの罪のために、ご自身をお与えになったのですから、わたしたちもすべての罪を主に取っていただかねばなりません。そうすればキリストの血は、神の前にわたしたちの罪・咎の支払いをしてくださるばかりでなく、命の書の中には領収書となり、聖霊のお働きと信仰によって心がきよめられるのです。そうしてこの二つの命の歌は、力強い和声となります。「ご自身でわたしたちの罪をきよめられ」、そして「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しい方であるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめてくださる」と言われるのです。
このようにして、罪より遠ざかり、神へと導くのです。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」