2023年7月号
№193
号
通巻877号
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…キリスト教…
社会福祉活動のあゆみ(5)
初代教会の貧しい人々への救済活動(1)
その動機
今回は、「新約聖書と初代教会の歩みの先駆け」を考えて見たいと思います。新約は旧約の成就であって、その破壊ではありません。キリスト教はユダヤ教の伝統の下に築かれています。事実、イエスの教えの中に、十戒はもとより、すべて旧約の律法に矛盾するものは何一つ見当たりません。
イエスは、次のように教えています。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだと思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない」。(マタイ5:17~18)
しかし、貧しい人々への救済については、モーセの律法にある「この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。それゆえ、わたしはあなたがたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい」(申命記15:11)とは、貧しいユダヤ人に対してであるのか、全ての隣人に対してであるのか、その解釈にはいろいろであったと思います。それは、ユダヤ人の生活態度を見れば、ユダヤ民族相互についての掟であるかのように思われるからです。 キリスト教はユダヤ教の民族主義的な狭量さと律法の排他的独占から解放され、特定の土地、民族、国家との繋がりはなくなりました。地域、民族、国家機構から解放され、四方にその光を射し伸べているのです。キリストが「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ22:38)と言う時、その隣人とは、キリスト信者であろうとなかろうと全ての人でした。使徒パウロは言っています。
「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれた神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこにはもはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者はなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です」。(ガラテヤ3:26~29)
キリスト教の教理では、神は私たちの父であり、人間は男も女も、子供も、老人も、障害者も、病人も、僕も、奴隷も、罪人も、悪人も神の子であり、私たちの兄弟であると教えています。父なる神は愛の神であって、「あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせくださるからである」(マタイ5:45)。キリストに従う者は、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)とのキリストの新しい掟に従い、不幸な者、弱い者、貧しい者、正しくない者、敵をも愛さなければならないのでした。
愛し合うとはどういうことでしょうか。神を愛するとか、人を愛するとは、具体的にはどういうことなのでしょうか。聖書には、「世の富みを持ちながら、兄弟が必要なものに事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。子たちよ、言葉や口先だけでなく、行いをもって誠実に愛し合おう」(Ⅰヨハネ3:17から18)と教えていますように、愛は行動をもって示すものです。神を愛するとは、神の掟を守ることであり、人を愛するとは、その人のために何かをすることなのです。
最後の審判の時には、「そこで、王は答える 。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたことは、わたしにしてくれたことなのである』。」(マタイ25:40)の言葉どおり、不幸な兄弟に対して、私たちが不幸な兄弟の姿を借りた現われたキリストに何をしたかを問うています。「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが乾いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」(マタイ25:35~36)かどうかなのです。
一般的に言われることですが、キリスト教は来世の霊魂の救済に重きを置くと言われますが、それは、キリスト教にとって、この世はどうでもよいということにはなりません。そうでないことは、キリスト教の歴史が証明しているところです。この世の不幸を出来る限り軽減させて、地上に神の国を実現しようと努力しているのが、キリスト教の真の姿です。これは初代教会から今に至るまで、代わることのない事実です。
結果的には背教者になったのですが、ユリアヌスが洗礼を受けたのは、司教たちの説教に啓発されてではなかったと言われています。
「彼が洗礼に踏み切ったのは、もっと別の人々、ぼろをまとい、裸足で町々を歩きまわって喜捨を集める人々、教会の前に集まる貧民や病者に対して、温かい汁を作り、パンを分けてやる修道僧たちの姿を、日々、アルガラやカイサリアで眺めていたからである。それは、ただ暗い室内で香をたいて呪術にふけるバビロニアの異神信仰にも、厚い一枚岩の下で牛の血を浴びて身を清めるミトラ教にも、星空をいただいて踊り狂う酒神信仰にも、澄明な蒼ざめた空気の中に鋭く球体が音を立てる教理を奉じる宗派にも、いや、ギリシャ、ローマ古来の太陽神の信仰にも、求めることの出来ない、熱っぽい、献身的な、疲れを知らぬ奉仕であり、街頭での活動だった。ユリアヌスは諸国から集まる穀物や羊毛や宝石の商売で賑わう町の通りを歩くたびに、同じ街に、これほど貧しい人々が放り出されているのに驚くのだった。「こんなに多くの貧民や病者がいるのに、キリスト教会以外には、誰一人として、見向きもしない」。ユリアヌスは修道僧たちの手からパンを与えられる盲人や足なえや、三日も食べていない老人たちが、泣き、笑い、叫ぶのを見ながら、そうつぶやいた」(辻 邦生著「背教者ユリアヌス」中央公論)。
こうした現世の福祉にも、キリスト教が深い関心を寄せる例証として、洗礼者ヨハネの弟子に答えたキリストの言葉を挙げて解説する人もおります。ヨハネは獄中にあって、キリストが真のメシヤであるかどうかを知るために、二人の弟子を遣わして「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」。イエスはお答えになりました。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人が見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」(マタイ11:3~5)。
キリストの語られたものは6つですが、その中の最後の1つだけが、純粋に精神的な問題に関係した言葉であって、その最後の「貧しい人は福音を告げ知らされている」の言葉も、全ての人に述べられるべき福音の真理を、この世の貧しい人に伝えることを怠ることはよくないということは知っているはずの人々に対する非難であったと理解することも出来ます。そして、キリストのあげた他の5つは、全て人間の身体上の苦悩に関したことです。
イギリスの歴史家レッキー(1838-1903)は、その名著「ヨーロッパ道徳史」で以下のように記していますのでご紹介いたします。
「最も卑俗の姿における奴隷、剣闘士、野蛮人または幼児における人間の生命と人間の価値に対する、最新周到なこのような保護は、異教の天才たちには、全く未知の事柄であった。それは個々の不滅の霊魂の無限の価値についてのキリスト教の教義によって生まれたものである。これはキリスト教の精神の伝わった全ての社会に著しく目立った、そして優れた特色であった。」異教の天才たちとは、プラトンやアリストテレスのことで、彼らは生まれた子供のうち、丈夫な子供だけ育てたらいいと言ったり、老齢で治る見込みのない人は、治療する必要はないと言ったりしていたからである。
社会福祉活動のあゆみ(5)
初代教会の貧しい人々への救済活動(1)
その動機
今回は、「新約聖書と初代教会の歩みの先駆け」を考えて見たいと思います。新約は旧約の成就であって、その破壊ではありません。キリスト教はユダヤ教の伝統の下に築かれています。事実、イエスの教えの中に、十戒はもとより、すべて旧約の律法に矛盾するものは何一つ見当たりません。
イエスは、次のように教えています。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだと思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない」。(マタイ5:17~18)
しかし、貧しい人々への救済については、モーセの律法にある「この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。それゆえ、わたしはあなたがたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい」(申命記15:11)とは、貧しいユダヤ人に対してであるのか、全ての隣人に対してであるのか、その解釈にはいろいろであったと思います。それは、ユダヤ人の生活態度を見れば、ユダヤ民族相互についての掟であるかのように思われるからです。 キリスト教はユダヤ教の民族主義的な狭量さと律法の排他的独占から解放され、特定の土地、民族、国家との繋がりはなくなりました。地域、民族、国家機構から解放され、四方にその光を射し伸べているのです。キリストが「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ22:38)と言う時、その隣人とは、キリスト信者であろうとなかろうと全ての人でした。使徒パウロは言っています。
「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれた神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこにはもはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者はなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です」。(ガラテヤ3:26~29)
キリスト教の教理では、神は私たちの父であり、人間は男も女も、子供も、老人も、障害者も、病人も、僕も、奴隷も、罪人も、悪人も神の子であり、私たちの兄弟であると教えています。父なる神は愛の神であって、「あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせくださるからである」(マタイ5:45)。キリストに従う者は、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)とのキリストの新しい掟に従い、不幸な者、弱い者、貧しい者、正しくない者、敵をも愛さなければならないのでした。
愛し合うとはどういうことでしょうか。神を愛するとか、人を愛するとは、具体的にはどういうことなのでしょうか。聖書には、「世の富みを持ちながら、兄弟が必要なものに事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。子たちよ、言葉や口先だけでなく、行いをもって誠実に愛し合おう」(Ⅰヨハネ3:17から18)と教えていますように、愛は行動をもって示すものです。神を愛するとは、神の掟を守ることであり、人を愛するとは、その人のために何かをすることなのです。
最後の審判の時には、「そこで、王は答える 。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたことは、わたしにしてくれたことなのである』。」(マタイ25:40)の言葉どおり、不幸な兄弟に対して、私たちが不幸な兄弟の姿を借りた現われたキリストに何をしたかを問うています。「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが乾いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」(マタイ25:35~36)かどうかなのです。
一般的に言われることですが、キリスト教は来世の霊魂の救済に重きを置くと言われますが、それは、キリスト教にとって、この世はどうでもよいということにはなりません。そうでないことは、キリスト教の歴史が証明しているところです。この世の不幸を出来る限り軽減させて、地上に神の国を実現しようと努力しているのが、キリスト教の真の姿です。これは初代教会から今に至るまで、代わることのない事実です。
結果的には背教者になったのですが、ユリアヌスが洗礼を受けたのは、司教たちの説教に啓発されてではなかったと言われています。
「彼が洗礼に踏み切ったのは、もっと別の人々、ぼろをまとい、裸足で町々を歩きまわって喜捨を集める人々、教会の前に集まる貧民や病者に対して、温かい汁を作り、パンを分けてやる修道僧たちの姿を、日々、アルガラやカイサリアで眺めていたからである。それは、ただ暗い室内で香をたいて呪術にふけるバビロニアの異神信仰にも、厚い一枚岩の下で牛の血を浴びて身を清めるミトラ教にも、星空をいただいて踊り狂う酒神信仰にも、澄明な蒼ざめた空気の中に鋭く球体が音を立てる教理を奉じる宗派にも、いや、ギリシャ、ローマ古来の太陽神の信仰にも、求めることの出来ない、熱っぽい、献身的な、疲れを知らぬ奉仕であり、街頭での活動だった。ユリアヌスは諸国から集まる穀物や羊毛や宝石の商売で賑わう町の通りを歩くたびに、同じ街に、これほど貧しい人々が放り出されているのに驚くのだった。「こんなに多くの貧民や病者がいるのに、キリスト教会以外には、誰一人として、見向きもしない」。ユリアヌスは修道僧たちの手からパンを与えられる盲人や足なえや、三日も食べていない老人たちが、泣き、笑い、叫ぶのを見ながら、そうつぶやいた」(辻 邦生著「背教者ユリアヌス」中央公論)。
こうした現世の福祉にも、キリスト教が深い関心を寄せる例証として、洗礼者ヨハネの弟子に答えたキリストの言葉を挙げて解説する人もおります。ヨハネは獄中にあって、キリストが真のメシヤであるかどうかを知るために、二人の弟子を遣わして「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」。イエスはお答えになりました。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人が見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」(マタイ11:3~5)。
キリストの語られたものは6つですが、その中の最後の1つだけが、純粋に精神的な問題に関係した言葉であって、その最後の「貧しい人は福音を告げ知らされている」の言葉も、全ての人に述べられるべき福音の真理を、この世の貧しい人に伝えることを怠ることはよくないということは知っているはずの人々に対する非難であったと理解することも出来ます。そして、キリストのあげた他の5つは、全て人間の身体上の苦悩に関したことです。
イギリスの歴史家レッキー(1838-1903)は、その名著「ヨーロッパ道徳史」で以下のように記していますのでご紹介いたします。
「最も卑俗の姿における奴隷、剣闘士、野蛮人または幼児における人間の生命と人間の価値に対する、最新周到なこのような保護は、異教の天才たちには、全く未知の事柄であった。それは個々の不滅の霊魂の無限の価値についてのキリスト教の教義によって生まれたものである。これはキリスト教の精神の伝わった全ての社会に著しく目立った、そして優れた特色であった。」異教の天才たちとは、プラトンやアリストテレスのことで、彼らは生まれた子供のうち、丈夫な子供だけ育てたらいいと言ったり、老齢で治る見込みのない人は、治療する必要はないと言ったりしていたからである。
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書籍紹介
エネルギー技術の
社会意思決定
日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授
「本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
共著者・編者
鈴木達治郎
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント
スーザン・ハント
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
鈴木英昭著
「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円