2023年7月号
№193
号
通巻877号
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解説 ウエストミンスター信仰告白 (3)
岡田 稔著
第一章 聖書について・・・3
6 神ご自身の栄光、人間の救いと信仰と生活のために必要なすべての事柄に関する神のご計画全体は、聖書の中に明白に示されているか、正当で必然的な結論として聖書から引き出される。その上には、みたまの新しい啓示によっても、人間の伝承によっても、どのような時にも何ひとつ付加されてはならない(1)。それにもかかわらず、わたしたちは、み言葉の中に啓示されているような事柄の救拯(きゅうじょう)的理解のためには、神のみたまの内的照明が必要であること(2)、また神礼拝と教会統治に関しては、常に守られなければならないみ言葉の通則に従い、自然の光とキリスト教的分別とによって規制されなければならない、人間行動と社会に共通のいくつかの事情があること、を認める(3)。
1 Ⅱテモテ3:15-17、ガラテヤ1:8,9、Ⅱテサロニケ2:2
2 ヨハネ6:45、Ⅰコリント2:9-12
3 Ⅰコリント11:13,14、Ⅰコリント14:26,40
六 ここでは、まず聖書における啓示の客観的な完結性が告白されており、聖霊による新啓示(神秘主義)と人の伝説(ローマ・カトリック教会)による追加や補足のあり得ないことが主張されている。
この点、一項の終わりの「神がその民にみ旨を啓示された昔の方法は、今では停止されている」と対応する。聖書こそ神が罪人に与えられる、信仰と生活の完結した規範であって、聖書の外に聖書を補う教えは、現在も将来も与えられる必要がないということを断言している。しかし、この聖書における啓示の完結ということ(聖書の十分性)は、次の二つの意味で但し書きを必要とする。
1 聖書の内に啓示されている事柄のうち、救いに必要な認識を得るためには、聖霊の内的啓明が必要であること。つまり聖霊の導き無しには自然的理性をもってしては、聖書の啓示の有効な理解は得られないということ。
2 神礼拝や教会の政治のような、人間に共通な形で現われる問題に関しては、本性の光と信仰者としての常識から推理判断すべき点が存在すること。聖書を信仰と生活の無謬の規準として使用する際、一方では聖霊の内的啓明(これは結局信仰ということになる)が必要であり、同時に、原則と内的事柄は直接聖書の言葉から教えられるが、具体的な適用には賢明な知恵を働かさなければならない、ということである。
7 聖書の中にあるすべての事柄は、それ自体で一様に明白でもなく、またすべての人に一様に明らかでもない(1)。しかし、救いのために知り信じ守る必要のある事柄は、聖書のどこかの個所で非常に明らかに提出され、開陳されているので、学識ある者だけでなく、無学な者も、通常の手段を正当に用いるならば、それらについての十分な理解に達することができる(2)。
1 Ⅱペテロ3:16
2 詩119:105,130
七 ここは聖書の明白性の主張である。聖書は学者が専有する書物ではなく、無学な人にも読んでわかる書物である。理解に苦しむ箇所もあるが、他の何処かに必ずとく鍵となる明白な箇所があるから、教理上、また行為上知らなければならないほどのことは、誰でも信仰と常識、祈りと教会出席と聖書を読むこと、牧師や信友との交際、思索と研究と体験とで、(別に無理な要求を言っているのではなく、「普通の手段の適当な使用で」の意味)十分わかるのである。
「改革派教会の教えは難しい。わたしのような無学なものにはとてもわからない」と言う声を聞くけれども、はたして本当にそうなのだろうか、決してそうではないはずである。 カルヴァンは、信仰とは神の恩恵のたしかな知識だと定義した。そして、ローマ・カトリック教会のように、信仰を盲目の服従と考える誤りを鋭く批判した。それは、何も一般信者に神学上の専門的知識を要求するという意味ではない。
ローマ・カトリック教会が「聖書は平信徒にはとても理解し得ない奥義を書いた本だから、宗教家がこれを研究して教えてやろう。お前たちは自分で読んでもわからないから、教えられることを信用せよ」と言うのに対して、改革派教会は誰でも罪人は信仰をもって熱心に読み、教会生活の中でこれを学んでいけば十分にわかる、と主張している。聖書は信者が自分の本として毎日読んでこそ、神の啓示の書なのである。教会とは信徒の群れであって教職階級だけでは成り立たない。
8 (昔の神の民の国語であった)ヘブル語の旧約聖書と、(しるされた当時、最も一般的に諸国民に知られていた)ギリシャ語の新約聖書とは、神によって直接霊感され、神の独特な配慮と摂理によって、あらゆる時代に純粋に保たれたので、確実である(1)。それで、すべての宗教論争において、教会は最終的にはこれらに訴えるべきである(2)。しかしこれらの原語は、聖書に近付く権利と興味をもち、神を恐れつつ聖書を読みまた探究するよう命じられているすべての神の民(3)に知られてはいないから、聖書は、神のみ言葉がすべての者に豊かに内住して、彼らがみ心にかなう方法で神を礼拝し(4)、聖書の忍耐と慰めによって希望をもつために(5)、聖書が接するあらゆる国民の言語に翻訳されなければならない(6)。
1 マタイ5:18
2 イザヤ8:20、行伝15:15、ヨハネ5:39,46
3 ヨハネ5:39
4 コロサイ3:16
5 ロマ15:4
6 Ⅰコリント14:6,9,11,12,24,27,28
八 ここでは、原典の権威と訳本の有効性とを主張している。厳格に言うと原本こそ霊感を受けた唯一の聖書であるが、実際にはそれは一冊も現存していない。新約聖書についても、現在の最古のものは325年頃のものとみられている手写し本であって、写し違いがかなりある。しかし、学者たちは数千の写本の比較研究の結果、今日、大体千分の八位までに疑問の句を減少させている。教義の論争や註訳上の問題を確定するには、どうしてもこのような厳正な校正を経た原典によらなければならない。けれども実際上は、信仰と生活の規準として慰めと導きを得るためには現行のもので十分間にあう。
しかし、聖書の真理は、ある民族やある時代に特有な事柄ではなく、神の罪人へのメッセージであるから、いつの時代、どの国民にも共通な真理を基礎としており、翻訳によって原典の力が歪曲されたり、弱化される危険はほとんどない。厳正な意味で原典のもが霊感された無謬の聖書であるが、どの国語訳を通しても内的証明が働いておられることを主張している(しかし今日は原典の忠実な翻訳とは言えない、意訳が存在することを認めねばならない。
この文章は月刊「つのぶえ」紙に1951年(昭和26)10月号から1954年(昭和29)12月号まで書き綴ったものを単行本にしたものである。「つのぶえジャーナル」掲載には、つのぶえ社から許可を得ています。「ウエストミンスター信仰告白」は日本基督改革派教会出版委員会編を使用。
単行本購入希望者は「つのぶえ社」に、ご注文下さい。¥500
465-0065 名古屋市名東区梅森坂4-101-22-207「つのぶえ社」宛
岡田 稔著
第一章 聖書について・・・3
6 神ご自身の栄光、人間の救いと信仰と生活のために必要なすべての事柄に関する神のご計画全体は、聖書の中に明白に示されているか、正当で必然的な結論として聖書から引き出される。その上には、みたまの新しい啓示によっても、人間の伝承によっても、どのような時にも何ひとつ付加されてはならない(1)。それにもかかわらず、わたしたちは、み言葉の中に啓示されているような事柄の救拯(きゅうじょう)的理解のためには、神のみたまの内的照明が必要であること(2)、また神礼拝と教会統治に関しては、常に守られなければならないみ言葉の通則に従い、自然の光とキリスト教的分別とによって規制されなければならない、人間行動と社会に共通のいくつかの事情があること、を認める(3)。
1 Ⅱテモテ3:15-17、ガラテヤ1:8,9、Ⅱテサロニケ2:2
2 ヨハネ6:45、Ⅰコリント2:9-12
3 Ⅰコリント11:13,14、Ⅰコリント14:26,40
六 ここでは、まず聖書における啓示の客観的な完結性が告白されており、聖霊による新啓示(神秘主義)と人の伝説(ローマ・カトリック教会)による追加や補足のあり得ないことが主張されている。
この点、一項の終わりの「神がその民にみ旨を啓示された昔の方法は、今では停止されている」と対応する。聖書こそ神が罪人に与えられる、信仰と生活の完結した規範であって、聖書の外に聖書を補う教えは、現在も将来も与えられる必要がないということを断言している。しかし、この聖書における啓示の完結ということ(聖書の十分性)は、次の二つの意味で但し書きを必要とする。
1 聖書の内に啓示されている事柄のうち、救いに必要な認識を得るためには、聖霊の内的啓明が必要であること。つまり聖霊の導き無しには自然的理性をもってしては、聖書の啓示の有効な理解は得られないということ。
2 神礼拝や教会の政治のような、人間に共通な形で現われる問題に関しては、本性の光と信仰者としての常識から推理判断すべき点が存在すること。聖書を信仰と生活の無謬の規準として使用する際、一方では聖霊の内的啓明(これは結局信仰ということになる)が必要であり、同時に、原則と内的事柄は直接聖書の言葉から教えられるが、具体的な適用には賢明な知恵を働かさなければならない、ということである。
7 聖書の中にあるすべての事柄は、それ自体で一様に明白でもなく、またすべての人に一様に明らかでもない(1)。しかし、救いのために知り信じ守る必要のある事柄は、聖書のどこかの個所で非常に明らかに提出され、開陳されているので、学識ある者だけでなく、無学な者も、通常の手段を正当に用いるならば、それらについての十分な理解に達することができる(2)。
1 Ⅱペテロ3:16
2 詩119:105,130
七 ここは聖書の明白性の主張である。聖書は学者が専有する書物ではなく、無学な人にも読んでわかる書物である。理解に苦しむ箇所もあるが、他の何処かに必ずとく鍵となる明白な箇所があるから、教理上、また行為上知らなければならないほどのことは、誰でも信仰と常識、祈りと教会出席と聖書を読むこと、牧師や信友との交際、思索と研究と体験とで、(別に無理な要求を言っているのではなく、「普通の手段の適当な使用で」の意味)十分わかるのである。
「改革派教会の教えは難しい。わたしのような無学なものにはとてもわからない」と言う声を聞くけれども、はたして本当にそうなのだろうか、決してそうではないはずである。 カルヴァンは、信仰とは神の恩恵のたしかな知識だと定義した。そして、ローマ・カトリック教会のように、信仰を盲目の服従と考える誤りを鋭く批判した。それは、何も一般信者に神学上の専門的知識を要求するという意味ではない。
ローマ・カトリック教会が「聖書は平信徒にはとても理解し得ない奥義を書いた本だから、宗教家がこれを研究して教えてやろう。お前たちは自分で読んでもわからないから、教えられることを信用せよ」と言うのに対して、改革派教会は誰でも罪人は信仰をもって熱心に読み、教会生活の中でこれを学んでいけば十分にわかる、と主張している。聖書は信者が自分の本として毎日読んでこそ、神の啓示の書なのである。教会とは信徒の群れであって教職階級だけでは成り立たない。
8 (昔の神の民の国語であった)ヘブル語の旧約聖書と、(しるされた当時、最も一般的に諸国民に知られていた)ギリシャ語の新約聖書とは、神によって直接霊感され、神の独特な配慮と摂理によって、あらゆる時代に純粋に保たれたので、確実である(1)。それで、すべての宗教論争において、教会は最終的にはこれらに訴えるべきである(2)。しかしこれらの原語は、聖書に近付く権利と興味をもち、神を恐れつつ聖書を読みまた探究するよう命じられているすべての神の民(3)に知られてはいないから、聖書は、神のみ言葉がすべての者に豊かに内住して、彼らがみ心にかなう方法で神を礼拝し(4)、聖書の忍耐と慰めによって希望をもつために(5)、聖書が接するあらゆる国民の言語に翻訳されなければならない(6)。
1 マタイ5:18
2 イザヤ8:20、行伝15:15、ヨハネ5:39,46
3 ヨハネ5:39
4 コロサイ3:16
5 ロマ15:4
6 Ⅰコリント14:6,9,11,12,24,27,28
八 ここでは、原典の権威と訳本の有効性とを主張している。厳格に言うと原本こそ霊感を受けた唯一の聖書であるが、実際にはそれは一冊も現存していない。新約聖書についても、現在の最古のものは325年頃のものとみられている手写し本であって、写し違いがかなりある。しかし、学者たちは数千の写本の比較研究の結果、今日、大体千分の八位までに疑問の句を減少させている。教義の論争や註訳上の問題を確定するには、どうしてもこのような厳正な校正を経た原典によらなければならない。けれども実際上は、信仰と生活の規準として慰めと導きを得るためには現行のもので十分間にあう。
しかし、聖書の真理は、ある民族やある時代に特有な事柄ではなく、神の罪人へのメッセージであるから、いつの時代、どの国民にも共通な真理を基礎としており、翻訳によって原典の力が歪曲されたり、弱化される危険はほとんどない。厳正な意味で原典のもが霊感された無謬の聖書であるが、どの国語訳を通しても内的証明が働いておられることを主張している(しかし今日は原典の忠実な翻訳とは言えない、意訳が存在することを認めねばならない。
この文章は月刊「つのぶえ」紙に1951年(昭和26)10月号から1954年(昭和29)12月号まで書き綴ったものを単行本にしたものである。「つのぶえジャーナル」掲載には、つのぶえ社から許可を得ています。「ウエストミンスター信仰告白」は日本基督改革派教会出版委員会編を使用。
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書籍紹介
エネルギー技術の
社会意思決定
日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授
「本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
共著者・編者
鈴木達治郎
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント
スーザン・ハント
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
鈴木英昭著
「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円