2023年7月号
№193
号
通巻877号
×
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解説 ウエストミンスター信仰告白 (5)
岡田 稔著
第二章 神について、また聖三位一体について
1 ただひとりの(1)、生ける、まことの神(2)がおられるだけである。彼は、存在と完全さにおいて無限であり(3)、最も純粋な霊であり(4)、見ることができず(5)、からだも部分(6)も欲情もなく(7)、不変(8)、遍在(9)、永遠(10)で、とらえつくすことができず(11)、全能であって(12)、最も賢く(13)、最もきよく(14)、最も自由(15)、最も絶対的で(16)、ご自身の不変な最も正しいみ旨の計画に従い(17)、ご自身の栄光のために(18)、すべての物事を営み、最も愛(19)とあわれみと寛容に満ち、善・真実・不義や違反や罪をゆるすことにおいて豊かで(20)、熱心に彼を求める者たちに報いるかたであり(21)、そのさばきにおいては最も公正で恐ろしく(22)、すべての罪を憎み(23)、咎ある者を決してゆるさないおかたである(24)。
1 申命6:4、Ⅰコリント8:4,6
2 Ⅰテサロニケ1:9、エレミヤ10:10
3 ヨブ11:7-9、ヨブ26:14
4 ヨハネ4:24
5 Ⅰテモテ1:17
6 申命4:15(*)、ヨハネ4:24、ルカ24:39(**)
*申命4:15,16が正しい。 **ヨハネ4:24をルカ24:39と比較
7 行伝14:11,15
8 ヤコブ1:17、マラキ3:6
9 列王上8:27、エレミヤ23:23,24
10 詩90:2、Ⅰテモテ1:17
11 詩145:3
12 創世17:1、黙示4:8
13 ロマ16:27
14 イザヤ6:3、黙示4:8
15 詩115:3
16 出エジプト3:14
17 エペソ1:11
18 箴16:4、ロマ11:36
19 Ⅰヨハネ4:8,16
20 出エジプト34:6,7
21 ヘブル11:6
22 ネヘミヤ9:32,33
23 詩5:6,7(5,6)
24 ネヘミヤ1:2,3(*)、出エジプト34:7
*ナホム1:2,3が正しい。NahをNehと読み間違えたため生じた誤り。
一 これは神の定義である。その前半を注意深く読むと「なく」とか「できず」と言う文字が出ている。つまり「神とは何か」という問いに対して、わたしたちは、神とはこのようなものではない、と答えざるを得ない。いわゆる否定の道である。神は限りがない方、少しもまじりけのない霊、目には見えず、部分がなく、変化がなく、結局、人間の心では「こうだ」ととらえきれない方である。これをひと言で「有限は無限をとらえず」と、表現することが出来る。
「存在」と訳したのは、英語のビーイングである。「完全」の持ち主で「完全さ」は、その存在の属性である。すなわち、そのものに固有ないろいろの性質、特質を言う。神は本体(存在)そのものからみても、その本体(存在)の固有の性質からみても、無限の霊でいます。
霊とは、不可見で部分から成り立たない単一性を特質とする存在者であって、物質と異なるとともに人間性とも異なるものである。人間の魂は一種の霊であるが、それが身体と結合している時、純粋・至純の霊ではない。この純粋性・至純性は、罪に汚れた霊に対する聖を保持しているという意味で、「まじり気のない霊」という意味である。
改革派教会は、神の不可把握性を強調する。これは一方、合理主義に対する否定的主張であるとともに、不可知論、すなわち、神秘主義のいう神知識の否定とは異なる主張である。わたしたちは、神は知ることの出来る神、いな、知らなければならない神であると主張する。もちろんそれは、神が自己をわたしたちに啓示されることによってのみ、知ることが出来るのである。とにかく神は自啓者であって、人間に自己を知らさしめる神である。
同時に、わたしたちは神の全貌を、一時にすっかり知ることの出来る立場には置かれていない。わたしたちの神知識は常に部分的で、また、不徹底である。神が知らせてくださる程度においてのみ知ることが出来るのである。この神知識の不完全性は、実に神の自己認識の完全性と表裏をなしている。神は神を常に完全に知っておられる。
そのために、わたしたちは神を常にとらええない。神も人間も同様に、神を知りえない、というのは不可知論であり、神のように人間も神を知りえるというのが合理主義である。前者は神の存在の無限性を認めつつ、その知識の無限性を否定する。後者は神の知識の無限性を認めつつ、その存在の無限性を否定する結果に陥っている。わたしたちは、神の存在と知識の無限性を認め、そして、人間の知識の無限性を否定するのである。
さて、本項の後半は、積極的に神とはいかなる方であるかを記しているが、それは、いわゆる形而上学的属性と道徳的属性とを包含した行き届いた敘述であって、前者は絶対者、後者は人格としてこれを要約することが出来よう。すなわち、神は絶対的人格、人格的絶対者であられる。絶対という点は、神の自由、自己の意志決定のみによって行為し、他のどのような指図も強制も感化も援助も受けられないこと、人格という点では、厳正公平な審判者ということにおいて代表されている。
2 神は、ご自身のうちに、おんみずからすべての命(1)、栄光(2)、善(3)、祝福(4)をもっておられ、ご自身だけで、またご自身にとって全く充足しておられ、彼が造られたどの被造物をも必要とせず(5)、それらから何の栄光を得てくることもなく(6)、ただご自身の栄光を、それらの中に、それらによって、それらに対して、またそれらの上に表わされる。彼は、すべての存在の唯一の源であって、万物は彼から出、彼によって成り、彼に帰する(7)。彼は、ご自身よしとされることを何事でも、万物によって、万物のために、万物の上に行なうために、万物を最も主権的に支配される(8)。彼の目には万物も歴然とあらわであり(9)、彼の知識は無限無謬(むびゅう)で、被造物に依存しないので(10)、何ひとつとして、彼には偶然や不確かなものがない(11)。彼は、そのすべての計画、すべてのみわざ、すべての命令において最もきよい(12)。彼には、み使、人間、その他あらゆる被造物に彼が要求することをよしとされるどのような礼拝・奉仕・服従も、当然払われなければならない(13)。
1 ヨハネ5:26
2 行伝7:2
3 詩119:68
4 Ⅰテモテ6:15、ロマ9:5
5 行伝17:24,25
6 ヨブ22:2,3
7 ロマ11:36
8 黙示4:11、Ⅰテモテ6:15、ダニエル4:25,35(22,32)
9 ヘブル4:13
10 ロマ11:33,34、詩147:5。
11 行伝15:18、エゼキエル11:5
12 詩145:17、ロマ7:12
13 黙示5:12-14
二 この項は一見、一項と重複し、並列している感がなくはないが、一方、重点的に聖書の神が、哲学や諸宗教の人間的神観念と異なる点について詳述し、明瞭に主張するとともに、他方、被造物との対他関係という側面から規定している。この点で一項は主として神を神自身に即して対自的に規定しているという相違がわかる。
ここで数え上げている点を列記すると、
1 神は善きものに満ち足りる方であること。
2 そのために、充足者であって他の何ものをも必要とはなさらないこと。
3 のみならず、他の一切のものの根源であられるから、他のものはすべて神なくしては 存在しえず、神によってのみ、すべては存在しえること。
4 従って、神は万物への支配権、統治権、所有権を持たれる主権者であること。
5 神は全知全能であるから、一切の事柄を予知し、予定し、偶然も不確かさもなく、万事を一つも誤ることなく計画し命令されること。
6 神はこのような至上者であるから、天使も人間もこの神に対して、あらゆる崇拝と奉仕と服従とを捧げるべきであること。
3 神の統一性の中に、ひとつの本質、力、永遠性をもつ三つの人格がある。すなわち、父なる神、子なる神、聖霊なる神である(1)。み父は何からでもなく、生まれもせず、出もしない。み子は永遠にみ父から生まれる(2)。聖霊は永遠にみ父とみ子とから出る(3)。
1 Ⅰヨハネ5:7、マタイ3:16,17、マタイ28:19、Ⅱコリント13:13(*)
*欽定訳はⅡコリント13:14
2 ヨハネ1:14,18
3 ヨハネ15:26、ガラテヤ4:6
三 これは神の聖三一性について告白されている全部である。あの有名な大真理は実にこの数行に言いあらわされている。
三一性の教理は、まさに神秘中の神秘であって、神ただ一人のみの事実であり、他のいかなる被造物にも全くその片りんさえもないと言うのが正しい。いわば、これは唯一の神の内部構造である。神は唯一であるということを少しも修正することなく、神は三一であると言わなければならない。三一性は唯一性と何ら矛盾するものではない。すなわち、一つの本質にある三人格である。父と子とみ霊とは唯一の神でいます。しかも、父には父の、子には子の、み霊にはみ霊と、それぞれの人格的特質があって、父を子及びみ霊と区別し、み霊を父及び子と区別している。
この人格的区別をなす各人格の特質が「み父は何からでもなく、生まれもせず、出もしない。み子は永遠にみ父から生まれる。聖霊は永遠にみ父とみ子とから出る」と、言われている。
それは、すべて永遠的区別である。子を生まない父、父と子より霊が出ない時代と言うようなことはありえない。従ってこの用語は、三人格の本質やとからや栄光についての順位、等差を示すものではなく、どこまでも三者は、平等・等位である。ただ、それは一つの永遠的秩序であり、その順位は主として、働き職務に関して表された順位である。
この意味で、わたしたちは単なるエコノミカル(経倫的)な三一論を排除すると共に、職務的等位論をも否定する。三位一体は本質における三位一体であり、従属は職域における差別であり順列である。
<結び>
聖書の神は、神ご自身において、わたしたちの把握を超越する絶対人格であられ、世界との関係についても、絶対主権者であり、自らの内に、神秘な三一性を持つ無比な唯一神である。ここから、この神を他にして神はなく、この神のみが礼拝と祈祷と讃美の対象ででなければならないのである。
・・・・・・・・・・・・
この文章は月刊「つのぶえ」紙に1951年(昭和26)10月号から1954年(昭和29)12月号まで書き綴ったものを単行本にしたものである。「つのぶえジャーナル」掲載には、つのぶえ社から許可を得ています。「ウエストミンスター信仰告白」は日本基督改革派教会出版委員会編を使用。
単行本購入希望者は「つのぶえ社」に、ご注文下さい。¥500
465-0065 名古屋市名東区梅森坂4-101-22-207「つのぶえ社」宛
岡田 稔著
第二章 神について、また聖三位一体について
1 ただひとりの(1)、生ける、まことの神(2)がおられるだけである。彼は、存在と完全さにおいて無限であり(3)、最も純粋な霊であり(4)、見ることができず(5)、からだも部分(6)も欲情もなく(7)、不変(8)、遍在(9)、永遠(10)で、とらえつくすことができず(11)、全能であって(12)、最も賢く(13)、最もきよく(14)、最も自由(15)、最も絶対的で(16)、ご自身の不変な最も正しいみ旨の計画に従い(17)、ご自身の栄光のために(18)、すべての物事を営み、最も愛(19)とあわれみと寛容に満ち、善・真実・不義や違反や罪をゆるすことにおいて豊かで(20)、熱心に彼を求める者たちに報いるかたであり(21)、そのさばきにおいては最も公正で恐ろしく(22)、すべての罪を憎み(23)、咎ある者を決してゆるさないおかたである(24)。
1 申命6:4、Ⅰコリント8:4,6
2 Ⅰテサロニケ1:9、エレミヤ10:10
3 ヨブ11:7-9、ヨブ26:14
4 ヨハネ4:24
5 Ⅰテモテ1:17
6 申命4:15(*)、ヨハネ4:24、ルカ24:39(**)
*申命4:15,16が正しい。 **ヨハネ4:24をルカ24:39と比較
7 行伝14:11,15
8 ヤコブ1:17、マラキ3:6
9 列王上8:27、エレミヤ23:23,24
10 詩90:2、Ⅰテモテ1:17
11 詩145:3
12 創世17:1、黙示4:8
13 ロマ16:27
14 イザヤ6:3、黙示4:8
15 詩115:3
16 出エジプト3:14
17 エペソ1:11
18 箴16:4、ロマ11:36
19 Ⅰヨハネ4:8,16
20 出エジプト34:6,7
21 ヘブル11:6
22 ネヘミヤ9:32,33
23 詩5:6,7(5,6)
24 ネヘミヤ1:2,3(*)、出エジプト34:7
*ナホム1:2,3が正しい。NahをNehと読み間違えたため生じた誤り。
一 これは神の定義である。その前半を注意深く読むと「なく」とか「できず」と言う文字が出ている。つまり「神とは何か」という問いに対して、わたしたちは、神とはこのようなものではない、と答えざるを得ない。いわゆる否定の道である。神は限りがない方、少しもまじりけのない霊、目には見えず、部分がなく、変化がなく、結局、人間の心では「こうだ」ととらえきれない方である。これをひと言で「有限は無限をとらえず」と、表現することが出来る。
「存在」と訳したのは、英語のビーイングである。「完全」の持ち主で「完全さ」は、その存在の属性である。すなわち、そのものに固有ないろいろの性質、特質を言う。神は本体(存在)そのものからみても、その本体(存在)の固有の性質からみても、無限の霊でいます。
霊とは、不可見で部分から成り立たない単一性を特質とする存在者であって、物質と異なるとともに人間性とも異なるものである。人間の魂は一種の霊であるが、それが身体と結合している時、純粋・至純の霊ではない。この純粋性・至純性は、罪に汚れた霊に対する聖を保持しているという意味で、「まじり気のない霊」という意味である。
改革派教会は、神の不可把握性を強調する。これは一方、合理主義に対する否定的主張であるとともに、不可知論、すなわち、神秘主義のいう神知識の否定とは異なる主張である。わたしたちは、神は知ることの出来る神、いな、知らなければならない神であると主張する。もちろんそれは、神が自己をわたしたちに啓示されることによってのみ、知ることが出来るのである。とにかく神は自啓者であって、人間に自己を知らさしめる神である。
同時に、わたしたちは神の全貌を、一時にすっかり知ることの出来る立場には置かれていない。わたしたちの神知識は常に部分的で、また、不徹底である。神が知らせてくださる程度においてのみ知ることが出来るのである。この神知識の不完全性は、実に神の自己認識の完全性と表裏をなしている。神は神を常に完全に知っておられる。
そのために、わたしたちは神を常にとらええない。神も人間も同様に、神を知りえない、というのは不可知論であり、神のように人間も神を知りえるというのが合理主義である。前者は神の存在の無限性を認めつつ、その知識の無限性を否定する。後者は神の知識の無限性を認めつつ、その存在の無限性を否定する結果に陥っている。わたしたちは、神の存在と知識の無限性を認め、そして、人間の知識の無限性を否定するのである。
さて、本項の後半は、積極的に神とはいかなる方であるかを記しているが、それは、いわゆる形而上学的属性と道徳的属性とを包含した行き届いた敘述であって、前者は絶対者、後者は人格としてこれを要約することが出来よう。すなわち、神は絶対的人格、人格的絶対者であられる。絶対という点は、神の自由、自己の意志決定のみによって行為し、他のどのような指図も強制も感化も援助も受けられないこと、人格という点では、厳正公平な審判者ということにおいて代表されている。
2 神は、ご自身のうちに、おんみずからすべての命(1)、栄光(2)、善(3)、祝福(4)をもっておられ、ご自身だけで、またご自身にとって全く充足しておられ、彼が造られたどの被造物をも必要とせず(5)、それらから何の栄光を得てくることもなく(6)、ただご自身の栄光を、それらの中に、それらによって、それらに対して、またそれらの上に表わされる。彼は、すべての存在の唯一の源であって、万物は彼から出、彼によって成り、彼に帰する(7)。彼は、ご自身よしとされることを何事でも、万物によって、万物のために、万物の上に行なうために、万物を最も主権的に支配される(8)。彼の目には万物も歴然とあらわであり(9)、彼の知識は無限無謬(むびゅう)で、被造物に依存しないので(10)、何ひとつとして、彼には偶然や不確かなものがない(11)。彼は、そのすべての計画、すべてのみわざ、すべての命令において最もきよい(12)。彼には、み使、人間、その他あらゆる被造物に彼が要求することをよしとされるどのような礼拝・奉仕・服従も、当然払われなければならない(13)。
1 ヨハネ5:26
2 行伝7:2
3 詩119:68
4 Ⅰテモテ6:15、ロマ9:5
5 行伝17:24,25
6 ヨブ22:2,3
7 ロマ11:36
8 黙示4:11、Ⅰテモテ6:15、ダニエル4:25,35(22,32)
9 ヘブル4:13
10 ロマ11:33,34、詩147:5。
11 行伝15:18、エゼキエル11:5
12 詩145:17、ロマ7:12
13 黙示5:12-14
二 この項は一見、一項と重複し、並列している感がなくはないが、一方、重点的に聖書の神が、哲学や諸宗教の人間的神観念と異なる点について詳述し、明瞭に主張するとともに、他方、被造物との対他関係という側面から規定している。この点で一項は主として神を神自身に即して対自的に規定しているという相違がわかる。
ここで数え上げている点を列記すると、
1 神は善きものに満ち足りる方であること。
2 そのために、充足者であって他の何ものをも必要とはなさらないこと。
3 のみならず、他の一切のものの根源であられるから、他のものはすべて神なくしては 存在しえず、神によってのみ、すべては存在しえること。
4 従って、神は万物への支配権、統治権、所有権を持たれる主権者であること。
5 神は全知全能であるから、一切の事柄を予知し、予定し、偶然も不確かさもなく、万事を一つも誤ることなく計画し命令されること。
6 神はこのような至上者であるから、天使も人間もこの神に対して、あらゆる崇拝と奉仕と服従とを捧げるべきであること。
3 神の統一性の中に、ひとつの本質、力、永遠性をもつ三つの人格がある。すなわち、父なる神、子なる神、聖霊なる神である(1)。み父は何からでもなく、生まれもせず、出もしない。み子は永遠にみ父から生まれる(2)。聖霊は永遠にみ父とみ子とから出る(3)。
1 Ⅰヨハネ5:7、マタイ3:16,17、マタイ28:19、Ⅱコリント13:13(*)
*欽定訳はⅡコリント13:14
2 ヨハネ1:14,18
3 ヨハネ15:26、ガラテヤ4:6
三 これは神の聖三一性について告白されている全部である。あの有名な大真理は実にこの数行に言いあらわされている。
三一性の教理は、まさに神秘中の神秘であって、神ただ一人のみの事実であり、他のいかなる被造物にも全くその片りんさえもないと言うのが正しい。いわば、これは唯一の神の内部構造である。神は唯一であるということを少しも修正することなく、神は三一であると言わなければならない。三一性は唯一性と何ら矛盾するものではない。すなわち、一つの本質にある三人格である。父と子とみ霊とは唯一の神でいます。しかも、父には父の、子には子の、み霊にはみ霊と、それぞれの人格的特質があって、父を子及びみ霊と区別し、み霊を父及び子と区別している。
この人格的区別をなす各人格の特質が「み父は何からでもなく、生まれもせず、出もしない。み子は永遠にみ父から生まれる。聖霊は永遠にみ父とみ子とから出る」と、言われている。
それは、すべて永遠的区別である。子を生まない父、父と子より霊が出ない時代と言うようなことはありえない。従ってこの用語は、三人格の本質やとからや栄光についての順位、等差を示すものではなく、どこまでも三者は、平等・等位である。ただ、それは一つの永遠的秩序であり、その順位は主として、働き職務に関して表された順位である。
この意味で、わたしたちは単なるエコノミカル(経倫的)な三一論を排除すると共に、職務的等位論をも否定する。三位一体は本質における三位一体であり、従属は職域における差別であり順列である。
<結び>
聖書の神は、神ご自身において、わたしたちの把握を超越する絶対人格であられ、世界との関係についても、絶対主権者であり、自らの内に、神秘な三一性を持つ無比な唯一神である。ここから、この神を他にして神はなく、この神のみが礼拝と祈祷と讃美の対象ででなければならないのである。
・・・・・・・・・・・・
この文章は月刊「つのぶえ」紙に1951年(昭和26)10月号から1954年(昭和29)12月号まで書き綴ったものを単行本にしたものである。「つのぶえジャーナル」掲載には、つのぶえ社から許可を得ています。「ウエストミンスター信仰告白」は日本基督改革派教会出版委員会編を使用。
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書籍紹介
エネルギー技術の
社会意思決定
日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授
「本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
共著者・編者
鈴木達治郎
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント
スーザン・ハント
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
鈴木英昭著
「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円