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この度、長年、皆様のお祈りとご支援をいただいてまいりました「つのぶえジャーナル」を、一身上の都合により2023年6月号をもって刊行を終了することを決断いたしました。「つのぶえ」時代からの長い間のご支援を心より感謝いたします。ありがとうございました。
「つのぶえジャーナル」編集・発行人
長村秀勝
「今月のことば」
神さま、罪びとのわたしをおゆるしください。
=ルカ18:13=
ある初めて教会に行かれた人のお話です。心の重荷を負い、苦しみ、悲しんでいた時に、友人から教会に行きましょうと誘われて行ってきましたが、その時の印象は、牧師さんのお話は、罪とか、罪人のお話ばかりで、暗い気持ちで帰宅したそうです。その後、数カ月過ぎても、あの「罪、罪人」という言葉が気になって、再び教会に行き、3年後に洗礼を受けられたと言うのです。
わたしたちを神より離し、すべてのものの上に災いをもたらすものは何でしょうか。それは罪であります。罪の見出されないところには、神とわたしたちの間を隔てる壁はありません。神はそのみことばを通して、わたしたちが罪より離れ、命に至る道をお示しくださいました。それはカルバリの道を通り、墓を通ります。キリストは、わたしたちの罪とその代価の借用証書を十字架につけ、わたしたちを「義」とするために、よみがえられました。この命への道筋・軌跡によって、わたしたちすべてに、救いという恵みが与えられたのです。
しかし、実に完全に、これはわたしたちが関与することなく整えられたと同様に、わたしたちはどうしても「罪人」としてキリストのみもとに来なければなりません。神の前にキリストをあたかも罪ある者としたのは、わたしたちの負債であったことを認めなければなりません。
罪から離れる道は、告白を通ります。わたしたちは何者であり、何をしたかを告白します。冒頭のみことばですが、神殿の中のこの取税人とともに、神の前に出て、「神さま、罪びとのわたしをおゆるしください」という人、その人は救われるのです。神はこの罪びとの告白した心が、「義」としたもう神の恵みに対して開いているので、そのように告白する者を「義として」宣言されるのです。
イエスはわたしたちの罪のために、ご自身をお与えになったのですから、わたしたちもすべての罪を主に取っていただかねばなりません。そうすればキリストの血は、神の前にわたしたちの罪・咎の支払いをしてくださるばかりでなく、命の書の中には領収書となり、聖霊のお働きと信仰によって心がきよめられるのです。そうしてこの二つの命の歌は、力強い和声となります。「ご自身でわたしたちの罪をきよめられ」、そして「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しい方であるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめてくださる」と言われるのです。
このようにして、罪より遠ざかり、神へと導くのです。
「小閑記」
こころおののく者に言え、「強くあれ、恐れてはならない。見よ、あなたがたの神は報復をもって臨み、神の報いをもってこられる。神は来て、あなたがたを救われる」と。
=イザヤ35:4=
キリスト者は、心が恐れ憂いにおののくとはどのような事であるかを知っております。人生の困難な道は、たびたびキリスト者を迷わせ、恐れしめ、多くのことが日常の生活に有形無形の激しい力で襲い掛かります。しかもそれが予期せぬ具合の悪い時に訪れ、心を不安と恐れに陥れるのです。しかし、真面目なキリスト者の心を最も不安にするものは、魂に罪を負わせる傷であり、霊の熱心をしばしば消そうとするかのような、死の力であります。
そのような時、自分の功徳的な精神に入ることはある面では容易かもしれません。それを修行と言い、人は、その時、過去の一つ一つの出来事を過過少評価し、安心立命の中に自分を置くのです。しかし、それは自己中心な思いです。しかし、シナイの山がカルバリよりもわたしたちに近い時、心は常に恐れおののき、審判はわたしたちの上にかかっています。なぜなら、人を自由ならしめるものは、ただ恵みのみですから。
しかし、冒頭のみことばにおける神の心は、すべての弱いおののく魂に、怯えおののくわが子に、逃れさせたいと願うよりも、もっともっと強く、慰めてやりたいという神の願う思いであります。それが胸躍らせることと知るなら、何と幸いなことでしょう。
「強くあれ、恐れてはならない。見よ、あなたがたの神は報復をもって臨み、神の報いをもってこられる。」
神様に信頼する者には、人間的にはこころ騒がせることはあっても、あるいは、不安の中にさまよっていたとしても、それは人間の弱さであって、神の約束の不確かさではないことに立ち返ります。御子以外に頼り、信頼するもののないことを知らされているのもキリスト者なのです。「神への信頼」「神の約束の確かさ」、ここに立たせてくださる神様には、ただただ感謝の思いしかありません。
すべてあなたを攻めるために造られる武器は、その目的を達しない。
すべてあなたに逆らい立って、訴える舌は、あなたに説き破られる。
これが、主のしもべらの受ける嗣業であり、
また彼らがわたしから受ける義である、と主は言われる。
・・・イザヤ54:17・・・
<讃美歌405>
1 かみともにまして ゆく道をまもり、 あめの御糧(みかて)もて
ちからを あたえませ。
2 荒野(あれの)をゆくときも、 あらし吹くときも、 ゆくてをしめして、
たえずみちびみませ。
3 御門(みかど)に入る日まで、 いつくしみひろき みつばさのかげに、
たえずはぐくみませ。
(おりかえし)
また会う日まで、 また会う日まで、
かみのまもり、汝(な)が身を離れざれ。 アーメン
「美しい朝に」
10年前に白内障の手術をして今になりますが、最近視野が狭くなり診察を受けたところ、緑内障です、と言われジョックでした。少しでも進まないようにと薬をもらい定期的に診察を受けることになりました。注意はしていても目は日常、使いますから先生にお任せして、点眼薬と目の疲労に注意にしながらに日々の生活を切り替えました。聖書も読めなくなるのかなあ~と不安です。出来るだけ礼拝は守るように心掛けて日々を送ります。 佐賀県 M・Kさんから
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⁂ 急に暑くなりました。真夏日かと思う?27度になるとか。家中の窓を開けても、花粉と黄砂対策にカーテンをしています。膝は、こんな天気のいい日は楽なので、扇風機もクーラーの送風もかけて空気を入れ替えて昼からの雨に備えています。昨日は、自転車を押して散歩に行きました。昨日も暑くて汗ばむくらいでした。少しでも動かないと血糖値が上がりますからね。もう、紫陽花の花が色づく前・・・写真をお送りしますね。
⁂ 夜中は、押し入れの整理をしました。1番大変なのが「アルバム」の整理。写真が好きなので・・・写真が多いのです。昔は大きなアルバムでしたから・・・子供も育ち、思い出はアルバムからはがし、思い出を振り返りながら・・・大切な写真だけ箱にいれています。動けるうちに、いらないものは「売る」「捨てる」「残す」を分けています。何年も探していた「フェルト入れ」が、3階の押し入れの奥から出てきたと主人が持ってきてくれました。中にはため込んだ「フェルト」と作りかけのマスコットがありました。孫が喜びそうです。
=沙耶香のつぶやき=
⁑ 学校が始まったらと思ったら、長いお休みが続き、元に戻るのに時間がかかって何とか、頑張れそうです。お母さんが買い物や散歩に誘ってくれるので一緒に行くようにしていましたので、よかったです。
*この掲載は原稿の時にお送りし、全て了解を得ております。編集子
『その愛のゆえに』
=時々の記=
(207)
4月14日
昨夜は、急なお客さんがいらして、疲れ果ててしまいました。娘は、私のことを心配してくれるのはありがたいのですが、やせ過ぎだとか、無理し過ぎだとか、厳しく励ましてくれるのです。こちらは別にそれなりのペースでやっているので、そんなに心配してもらわなくても元気で動き回っているから、スリムになってきているのでしょう。いつまでも、今までのようにとは行かないのが心配なのでしょうかね。今から一人で朝の散歩に出かけようと準備しています。マイペースでの散歩は寂しいように思われますが、私にとってはとても楽しいひと時です。自然の生き物たちとお話しできますから。
連名でイースターカード来たりけり。
(執事さんたちがお心を込めて送ってくださいます。)
春の蝶一気にダムを渡りけり。
宮杉の年輪数ふ春日和。(大きな杉の木が今伐採されています。)
ヴァイオリン聴きて白寿や聖五月。
同志社の牧師を忍ぶイースター。(女性の牧師さんから導かれました。)
馬場路哉
主人は診療所へ定期健診です。5月は市民病院で精密検査です。今まで神様のお導きによって生かされていることに感謝しかありません。
4月16日
雨は上がりましたが、まだ不安定な気候です。礼拝にいかれたのでしょうか。私は静かに一人で礼拝を捧げています。主人は山添村の産直市場まで、野菜を買い求めに出かけました。
全体にリラックスして柳の芽。
夕暮れやツインツインとさえずりぬ。(燕のことです)
樫の木の狭間はざまに藪椿。
奥伊賀の山大いなり山桜。
固く立つ岩屋の在や山桜。
一山を圧倒しては木々芽吹く。
山吹や昼には日差し届きける。
白椿ピンクを呈して散にけり。
春愁のロダンの作は神求む。
新芽出て重なる程の樫落ち葉。 馬場路哉
主人は山添村では散歩がしにくい季節になってきたと、上野公園まで散歩に出かけました。どこの田んぼでも田植えの準備がされています。そこを散歩するのは私たちだけ気が引けます。荒れてしまった田んぼが多い山添村ですが、それでもまだ頑張って田植えをされようとしている方たちが何人かおられるのです。今日一日神様のお守りがありますようにお祈りいたします。
4月26日
先日、食後の歯磨きをしている折に、かぶせてあったものが取れてしまいました。それで先ほどから歯科医院まで出かけて仮の治療をしていただきました。本格的な治療は5月に入ってからです。次々と不具合が出てきますね。すべてを受け止めて日々精いっぱい生きていくことしか考えられません。お隣の方との散歩は、自然の景色を眺めることが少なくて、お話が多くなってしまいます。いろんな話が飛び出してくるので、あっという間に時間が過ぎていきます。昨日は服装が話題でした。お隣さんはリメイクの先生です。古い着物からベストへとリメイクされたり、とても器用な方です。私はそれを眺めてほめるだけのものです。でもそれでうまくいっているのかもしれませんね。
神と我信ずべきとや聖五月。
つちふるや今日は望めぬ伊賀の山。
鹿の角落ちているなり春野原(わがやの裏山に落ちていました)
通ひ路に藤の早くも垂れ初むる。(今年の藤の勢いはすさまじいです。)
猫そばに文芸好み聖五月。 馬場路哉
朝から激しい雨です。野の生き物たちは喜んで恵みの雨をいっぱい吸い込んでいるように見受けられます。散歩は危険ですから中止です。家でできる体操をしたり、掃除機を使って久しぶりに埃を片づけたりして過ごしています。
5月3日
大型連休の後半がスタートしましたね。息子は一日だけのお休みでした。リフレッシュできたようで、今日は元気に出かけました。こちらは一面田植えが始まりました。早いですね。機械で植えていかれるので,一日で一枚およそ一反をサラッと植えてしまいます。私がここ山添村に来た頃は人の手で植えていましたから、何人もの人が来てくださって田植えをしていました。私はその方たちのお昼と夕ご飯の食事係です。何をどうしたのかははっきり覚えていませんが、10人ほどの方たちのごちそうづくりも大変だったのを思い出します。今ではどこのお家ちでも作られていないおやつ作りも致しました。ふき俵というおやつです。大きなフキの葉っぱの中に大豆の入った塩ご飯をおにぎりのようにして包み込みます。それを3時のおやつに田んぼまでもっていくのです。懐かしい思い出として記憶に残っています。
談笑す若葉明かりのただなかで。
村はずれ一木豪華な八重桜。
山吹きや媼の歩く鄙の村。
さえづりの真っただ中へ起き上がる。
(朝五時には燕たちが元気にさえづっています。)
草刈りの始め苦の無く足疲れ。 馬場路哉
最近は足が疲れやすくなったと主人は言っています。30分も歩くと足のだるさが出てきて立ち止まってしまうというのです。やはり年齢ですから、無理は効かなくなってきていますね。
5月5日
昨日も今日も暑いぐらいのお天気です。ここ山添村では新緑が増してきています。道を歩くにも車で走るにも大きな緑の葉っぱの下を潜り抜けていきます。緑豊かな自然があふれる山添村です。でも高齢化が進み、この連休の間でも何処のお家も静かなものです。ただ、残っている高齢者がまだ頑張っているのが頼もしい限りです。
少しだけ破れて芭蕉若葉かな。
裏山の山桜なり庭に散る。
雑草を引くや小さき花をめで。
ろう鶯の美声を競ふ夕べかな。 馬場路哉
今朝は裏山からタケノコを掘ってきてくれました。タケノコは掘ってすぐ調理しないと固くておいしくないので忙しい朝でした。ふきも家の近くで成長し始めましたので、こちらも早速調理して今夜の夕食の一品となりそうです。山菜がおいしい季節です。この自然の恵みに感謝して今日も頑張ります。
5月15日
空からは清々しい空気とともに、鴬とは違った小鳥がさえずっています。なんとホトトギスです。やはりホトトギスは一美しい鳴き声で心を和ませてくれますね。気持ちの良い一日となりそうです。若葉から青葉へと移り変わっています。太陽に当たった青葉はまぶしいぐらいの勢いで目にその美しさを見せてくれます。主人が定期健診でした。なかなか帰宅しなかったので心配いたしましたが、神様の憐れみをいただいて、この度の検診の結果も異状なしと言われました。感謝。一つ訴えたいのは私は主人だけでなく息子にも野菜の大切さを言い続けています。野菜は料理するのに面倒ですが、野菜の力によって病をいやす力が与えられているように感じるのです。例えば大根の葉っぱもすべていただきます。またホウレンソウの根っこも赤いところまでいただきます。野菜を購入したら廃棄するところなくいただくようにしています。それが少しは役に立っているかな。
ホスピスに安きあれかし聖五月。
説教と讃美歌ありて聖五月。
暁の静寂に祈る立夏かな。 馬場路哉
馬場暁美
上野緑ケ丘教会会員
眸(ひとみ)
⁂ この不安定な温度差に翻弄されて過ごしてしまいましたが、今日は朝から青空になり、散歩に出かけました。ハナミズキや菜の花が咲いていて、春真っ盛りです。何もすることもなく部屋の中を歩き回っていた時は、やはり一人は寂しいものです。買い物に出かける気にもなれませんでした。そのような時に、「つのぶえジャーナル」が届きました。言葉の一つ一つが痛いほど突き刺さり、励ましを受けました。教会では、この様な厳しさの中にも温かみのある言葉をかけてくれる人はおりません。多くの投稿文にも無感覚、無関心に陥っていましたが、今は、皆さんのお気持ちが痛いほど感じられるようになれました。「今月のことば」を読んで、信仰生活に若いとか、高齢など無関係なのですね。 福井県 K・Kさんから
⁂ 近くにある県営の公園に藤棚が2つありまして、薄紫の花が咲き始め、近くの高齢者施設におられる方々は、ボランティアの方の協力で来られていましたが、皆さんの笑顔がとても印象的でした。私はいつもこの公園には子供と遊びに来ています。おばあさんが優しく声を掛けてくれたり、子育て大変ねと、小さな声で頑張ってね!と言ってくださるのでうれしいです。 佐賀県 T・Mさんから
⁂ 高齢者施設で働いていますが今回の地震で、GWでご家族が来られるのを楽しみにしていた人の落胆ぶりを見ていて、心が痛みます。それは楽しみにしていたご家族の方も同じです。コロナ禍での長い間、面会できない日々は、沈みがちになり、表情も乏しく、口数も少なくなり、心配していました。このGWの訪問は本当に楽しみにしていましたので、お声を掛ける言葉を探す私も無口になりそうです。地震の被害は全てに及びますが、ご高齢の方々の不安は深いものがあると同僚やヘルパーさんたちは心配しています。どうぞ、お祈りに覚えていただければ、と思い投稿させていただきました。 石川県 S・Sさんから
⁂ 東京の下町に住んでいた地域が、大手不動産会社のマンション建設に伴い、土地と持ち家の処分の代わりに提供された高層マンションに住んでいますが、最近、老朽化とか、地震対策とかの話し合いがもたれまして、参加したのですが、その対策費の話になり、利用者の多くは「終の棲家」と考えておられていて、話し合いになりませんでしたが、最近の地震のニュースが多くなりはじめてから、子供たちは本気で、田舎の広い土地の空き家利用を考えているようです。狭い下町育ちの私たちのあこがれは、高層マンションより、庭で畑を作って・・・でしたら、今でもできるならすぐにでも処分して代わりたいよね、と話し合っています。昔の話相手の友だちもいなくなり、寂しく過ごすのは辛いことです。子供たち家族も本気なようで、頼もしい感じがしています。私たちの希望は、教会のあるところです。教会での皆さんとの交わりの大切さを痛感しての実感です。 東京都 Y・Tさんから
<身近な出来事を「眸」に投稿してください> 編集子
「十戒と主の祈り
鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
=日用の糧=
第四の祈り③・失われるもの
詩篇52:7~11
昔と違って、日本の国の全体が経済的に豊かになりました。神を知らない人々の多くは、日々のパンのために祈る必要を感じていません。私たちキリスト者はどうなのでしょうか。あの「愚かな金持ち」という主イエスの譬え話を思い出すまでもなく、蓄えが保証にならないことは分かっています。それで、この祈りの意味を良く理解しておく必要があります。例えば、アーサー・ピンクも幾つかの理由を挙げて、十分な蓄えがあっても、この祈りをする必要があることを教えています。
必要の第一の理由として、私たちの所有は失われる可能性があるからです。創世記の19章に記されているソドムとゴモラの町が、天からの火によって焼き滅ばされた時のことを思い出してください。ロトの家族は神の御使いによって、前もって警告を与えられ、この町から逃れるように命じられましたが、彼らはその警告を信じなかったため、強引に連れ出されました。関西・淡路大地震のように自然の災害が突然襲います。予期しない経済の変動があります。突然の病気や事故に見舞われることがあります。そのように予期しないことが起こりますから、私たちが豊かであっても、それは神の気前の良さのためであることを、この祈りによって教えられる必要があります。
この祈りが必要である第二の理由として言えることは、私たちが持っている蓄えが、神に祝福していただくものでなければ、私たちに益にもならないということです。人は神と富とに兼ね仕えることは出来ませんから(マタイ6:24)、富が悪魔によって利用されて争いの原因や神から離れさせる道具になる可能性があります。キリスト者は誰でも、富のために神から離れた人々の実例を多く経験させられています。
この祈りが必要である第三の理由は、「われらの日用の糧」の「われらの」という言葉から来ています。この祈りが個人で祈られても、個人の祈りではなく、「天にましますわれらの父よ」という言葉で始まっているように、共同の祈りですから、個人的な必要だけで終わってはならない祈りであることを意味しています。他の人々に対しても、同情や思いやりのために所有している心を持てるように求めている祈りです。その点をパウロはガラテヤ教会に宛てた手紙の6章10節で、こう述べています。
「今、時のある間に、特に信仰によって家族になった人々に対して善を行いましょう」。
この祈りが必要である第四の最後の理由として、天地のすべての物の本来の所有者は神だからです。私たちの蓄えは、神から受けていること、あるいは管理を任されていることを自覚するために、この祈りが必要なのです。そうでないと、私たちは思い上がるか、富が神になる危険があります。
バラ・マカルピン 日本伝道百年史
水垣 清著
(元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)
25 改革派信仰修養会・・3・・
戦後、日本への宣教の仕事は山のようにあった。建物、会堂の再建、教育伝道、直接伝道と物心ともに多大な費用と時間と人手と物を要した。
1948年、(昭和23)3月11日、金城学院の理事として南長老教会ミッション側よりマキルエン氏、マカルピン氏、スマイス夫人、アーチボルド女史が参加(日本人理事富田満、戸苅近太郎、赤石義明、番匠鉄雄、近藤武一の諸氏)して、ミッションとの提携問題が議せられ、原則が定められた。
1 日本基督教会大会決議の信仰告白を明記すること。
2 金城学院の院長、理事たるものは、この信仰告白を誠実に受容れること。
3 施行細則に次項を含むこと。
A 己むを得ざる場合を除き、本学院の職員は基督信者たること。
B 将来如何なる場合と雖も、神社参拝は之を行わないこと。
右のように南長老教会ミッションの教育方針がここに示され、旧日本基督教会の信仰告白の継承と神社参拝拒否による偶像崇拝への排除が明記された。
ミッションは金城学院に戦災見舞金として33,000ドルを寄附することになった。父マカルピン師の金城学院創立に続いて、子のマカルピン氏も本学院に奉仕、これをもりたてて育てる熱心を以て、夫妻で協力を惜しまなかったのである。
この年、8月29日、犬山市の丸の内公会堂を会場にJ・A・マカルピン氏と岐阜教会の浅倉重雄牧師(現日本基督教会)で、特別伝道集会が開かれた。出席者は560名で、これが契機となって犬山伝道は次第に定着して、同年10月8日、松原造宅(東丸の内96)に伝道所を開設して、毎週金曜日に定期集会を持つようになり、11月19日、岐阜加納教会の伊達量平教師が担当し、集会を毎水曜日に開いた。
=写真= R・E・マカルピン宣教師が援助された金城学院(1920年)
「いのり」
私は地方公務員で、主に外での仕事なので、地域の方々と関わることが多く、古い言い方でのお上の仕事意識は通用しません。むしろ公僕でなければ事は運びません。ヘルメットに作業着姿
です。ニュースに官僚とか、霞が関云々と言われますが、私たちは行政職であれ、現場職であれ、公務員で、法律に従って地域社会の活動に直接かかわっていますから、仕え人だと思っています。
もう少しで定年退職を迎え、改めて、自分がそうであったかを見詰めなおしています。 島根県 MOさんからのお便りの一部分です。
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「改革者の祈り」・・・・マンシュレック編・・・・
=感謝と讃美の祈り=
永遠の聖霊への感謝
全能にして永遠なる真理の神、わたしたちの主イエス・キリストの父、天地と人間その他のすべての造られたものの創造主、万物の維持者にしてすべての生命、秩序、知恵の与え主、助けの不動の源なる主よ、わたしたちはあなたに感謝いたします。あなたの御子、わたしたちの主イエス・キリスト、あなたのみことばにして永遠の御姿よ、わたしたちはあなたに感謝いたします。ペンテコステにあなたが使徒たちに与えられた聖霊よ、わたしたちはあなたに感謝いたします。
聖、真理、知恵、善、正義、あわれみ、純潔、親切の神よ、あなたに感謝します。それは、あなたが比べるものなき善と知恵とをもって、わたしたちに御自身を示され、人性をとってわたしたちの犠牲となるように定められた御子を、世につかわされたからであります。
神よ、永遠の教会を集められたことに対し、あなたのみことばの働きを守られたことに対し、聖霊をたもうたことに対し、永遠の生命を与えられたことに対し、感謝いたします。すべての善き物を与えられ、わたしたちが当然受くべきこらしめを遠ざけ、また取り去られましたから、また、心を体のすべての祝福をお与え下さったので、神よ、わたしたちはあなたに感謝いたします。すべての栄光と栄誉と讃美と感謝とが、とこしえにあなたにありますように。
アーメン
メランヒトン
永遠の御子への感謝
全能なる神の子、主イエス・キリスト、永遠の父の言葉にして御姿、われらのインマヌエルよ、わたしたちはあなたに感謝いたします。あなたはおとめより生まれ、十字架につけられて死人の中から甦り、力の中に父の右に座して、福音のみことばによって、あなたの永遠の教会を集めてこれを守られます。あなたは、永遠の父のあわれみと全世界に対する救いの御計画とを、わたしたちに現わして下さいました。あなたは、わたしたちの救い主となるために、人性を取って下さいました。それゆえ、わたしたちは感謝いたします。
主イエス・キリストよ、あなたは大祭司でいまし、常にわたしたちのために執り成しの祈りをささげられ、あなたの聖いみことばによって私たちの中に信仰を与え、これを働かせておられます。それゆえ、わたしたちはあなたに感謝いたします。そればかりでなく、あなたは、わたしたちの罪をゆるし、王として治め、あなたに立ちかえって福音のみことばによって自らを支えていく者たちに聖霊を与えられます。それに対し、わたしたちはあなたに感謝いたします。あなたは、わたしたちの中に正義と永遠の生命を挽回されます。また、あなたの勧めによってすべての人を啓発されます。これに対し、わたしたちはあなたに感謝いたします。あなたは、すべての悪魔を追い出し、霊の幸福を与えられます。それゆえ、わたしたちは感謝いたします。すべての栄光と誉れと讃美とが、とこしえにあなたにありますように。
アーメン
メランヒトン
聖霊とその働き
エドウィン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
第2章 聖霊と創造
Ⅰ 創造における三位一体の働き・・1・・
この世界では、三位一体のそれぞれの位格には、他と区別して行われる特別の機能と働きがある。例えば、創造のことを考える時、子や聖霊ではなく、父のことがおもに考えられる。しかし、十字架の上で死んだのは、父や聖霊ではなく、キリストであった。イエスは、十字架の上で自分を父と区別して、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」とも、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」とも叫んだ。また、私たちの生涯における聖化と救いの達成のことを考える時、おもに考えるのは、父のことでも、子のことでもなく、聖霊のことである。彼はキリスト者の心のうちに住んでくださる方である。事実、この区別を怠っているため、不安や悩みの時、聖なる慰め主である聖霊の所に行くべきなのに、父やキリストのもとに行く人々がいる。
しかし同時に、ある意味では、私たちは三つの位格を分けるべきではない。創造者としては、父のことを考えるが、三位一体における基本的、本質的統一性のゆえに、子と聖霊が創造の働きをしたと言うこともできるからである。十字架の上で死んだのは、子であったことは自明の事実であるが、ある意味では父もそこにいたのである。なぜなら、「わたしと父とは一つである」とイエスは言うことができるからである。私たちの心に住んでいるのは聖霊であるということは、まったく聖書的であるが、キリストはキリスト者について、「・・・わたしの父はその人を愛し、またわたしたちはその人の所へ行って、その人と一緒に住むであろう」(ヨハネ14:23)と言うことができた。また、パウロは「キリストが、わたしのうちに生きておられるからのである」(ガラテヤ2:20)と強調することができた。こうした事柄が真理であるのは、三位一体の間には、区別される位格はありながらも、基本的な統一性があるからである。
この問題を考える時、そして特に創造という問題に言及するとき、常にこのバランスをたもたなければならない。すなわち、一方における三位一体とその働きの多様性と、他方における三位一体の間の基本的統一性との間のバランスである。彼らのうちの一つだけが他と関係なく、まったく独自に行為するかのように分離してはならない。それとともに、聖書にしたがって、ある特徴と働きは他の二つと区別しつつも、一つに帰することもできるからである。
『ほっとひととき「みんなのコーナー」』
昨日、定期診断の結果を聞きに行ってきました。前回には言われていなかった、血糖値が高いですよ。散歩や運動などをすることと、お好きでしょうが甘い物は控えて下さい、と言われました。ケーキなどは控えていたのですが、和菓子につい手が出ていました。お茶飲み仲間が持ち寄るものは、甘い物ばかりで、話が弾むとついつい手が出てしまいます。くわばらくわばら!花よりお団子でなく、おしゃべりに甘いおせんべいでした。反省しています。 愛媛県 T・Mさんから
GW明けの孫たちの休み癖も何とか通過したと娘から連絡があり、ほっとしているところです。やはり学校で友達と過ごすのが一番楽しいようで、部活で疲れたあ~と言って、ゲームもしていないようだよとのことで、元気に学校に行って、疲れて宿題できなくても、健康第一だよね・・・、の声に同感し、ひと安心しているこの頃です。 滋賀県 T・Mさんから
昨日は、久し振りに父の車で、デイケアに行き、そこで、話しやすい利用者さんたちとお話し、気分転換になり、良かったです!その後、「おかげ庵」にいきました。そこで、私は、カレーきしめんと、季節のケーキを頼みました。その時のイチゴのどら焼きが、見た目が、華やかだったので、写真を撮ることにしました。その時に長村さんに、送ろうと思って、今メールしてます!!その後、教会のミサに参加し、帰りました!礼拝に出られて、とても良かったです!興奮と緊張、疲れすぎ?で夜寝れませんでした。今年は、高校2年生で、学校が始まっていて、4月末から授業がスタートします!不安と期待があります!このように、すらすらと、メールを打ち、送れることに感謝です。うれしいです! 愛知県 M・Hさんから
サッポロも桜の季節も終わりましたが、GWには大勢の人が大通公園を散策していました。緑の都になりました。これからはライラック(別名リラ)の初夏が訪れてくれます。北海道大学の構内は新緑で、学生さんはマスクなしで新学期を迎えて楽しそうです。日本ハムファイターズも新しい球場、若いお嬢さんたちの新しい応援(ジンギスカンなんとか??)です。私の若い頃の憧れの球場は円山球場でした。 北海道 M・Lさんから
=この文章は、全て投稿者から掲載許可をいただいております。= 編集子
『ありがとうございます』
季節の変わり目です。梅雨どきの薄暗い庭で白い十字形の花が群れているのを見かけます。十薬(ドクダミ)です。アジサイとはまた違った趣がします。「ジャーナル友」さんからのお便りの中に、これから雨が多い季節になります。晴耕雨読ですね。田植えが終わった田んぼは昨日からの雨で恵みの水が美しく張られています。こんなに小さい苗が、お米になって私たちの食事には欠かせないものへと成長してくれるのですね。我が家のスナップエンドウは毎日少しずつですが収穫できます。主人が片手一杯にエンドウを入れてきて朝の食事に間に合わせることができます。プリンプリンの食感です。初めての挑戦でしたが、予想以上に収穫できていることに感謝です。一日が神様のお守りの中にありますように。お祈りしています、と送られてきました。
皆様の一層の健康が神様から頂けますようにお祈りいたします。
2023年4月16日から5月15日までにお送りくださった方々です。
飯島かのこ様 加納さおり様 坪井愛子様 山田春美様 岡田千歳様 小島ルミ様 佐藤のり様 馬場暁美様 匿名1名様
*寄付金口座…郵振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社
また、お便り下さる方やお友達への紹介はこのメール アドレスをご利用ください。多くの「ジャーナル友さん」が与えられるように願っています。
*「つのぶえジャーナル」はこれをご利用ください。
http://tunobue.blog.shinobi.jp
(米国南長老教会文書伝道事業)刊行責任者
つのぶえ社代表 長村秀勝
「つのぶえジャーナル」の文書伝道事業は、キリスト教の名の下に行う霊感商法など旧統一教会・歴史的キリスト教の聖書を軽視するエホバの証人(ものみの塔)とは、一切関係はありません。どうぞ一人で抱え囲まずに公的機関か伝統的キリスト教会か、「つのぶえジャーナル」宛にご相談ください。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」