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「今月のことば」
わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。
=第二 コリント 5:7=
桜の花びら舞う季節から、美しい緑の若葉の季節を迎えることができました。悲惨な戦争は、どうしてこうも繰り返して起こるのでしょう。悲しみからは決して希望は生まれません。国と国との戦争も人と人との諍いも同じであることを体験、経験しているのに繰り返してしまいます。悲しい現実です。
そのような今、この、「今月のことば」が与えられました。祈り、神様のみこころを探しつつ、皆様と共に考えていたいと思います。
この世という荒地、苦難の道を通って生きるのが信仰者と言われる時、恐れ、慄き、たじろいでしまいますが、それでもキリスト者の巡礼の旅は、信仰によって歩むことを、愛と励ましの思いでパウロはしるし、救い主を指し示しておられます。
だれもが天国や再び来られる主イエス様を待ち望んでいます。また、私たちの心、信仰には「見たことのないかたを愛している」者でもあります。
私たちの信仰は、神の御約束の言葉に立つ信仰であり、足であり歩みであります。また、キリストとその十字架をとられて放さない手でもあります。その手と足は、悲しみをもたらす戦いのためのものではなく、悪(サタン)と戦う剣であり、あたかも目の前に立ちはだかる敵に立ち向かう手でもあります。もし、キリスト者が自分の力と知恵に頼り、立ち向かうなら、勝敗は明らかです。しかし、しっかりと見えざる神の力に心を向け、しっかりとそのみ霊の力を頂いて立つなら、勝利以外にありません。
信仰者は、時に思い上がり者であり、自己過信に陥る者でもあります。しっかりと掴まるものもなく、立つ足を失うなら、その人生は目的を失うことであることを、決して忘れてはなりません。私たちは無力であることを認め、信仰に立って歩み、生きることは、「わたしたちは地上の生涯を信仰によって絶えず貫かれなければならいという巡礼の道」でもあります。パウロは心から言いました。「わたしは信仰を守り通した」と。
その告白は、パウロだけのものではありません。私たち一人ひとりのものです。主イエス・キリストとの交わり生きる時、み霊なる神様は、決してその歩みを、お忘れになることはありません。それは神の救いのみわざそのものだからです。
このみわざは主のもの、信仰の賜物は神のみ恵みなのです。 アーメン
「小閑記」
常に主を恐れる人はさいわいである、心をかたくなにする者は災いに陥る。
=箴言28:14=
キリスト者は単に平穏で喜びに満ちているばかりではなく、恐れ、慎んでいなければなりません。聖書に「喜ぶ人のみでなく、不安と悲しみの中におられる人も幸いである」と勇気づけています。私たちの救い主であり、父である神に関する限りは、常に私たちは揺るぎなく、平安であるのは当然です。神がみ言葉によって約束なさったことは、決して私たちを失望させることはありません。
それゆえに、私たちは完全な確かさと、祝福された平安をもって、全てを主のみ手にお任せすることができるのです。しかし、私たちが人間として、キリスト者として考える時、私たちは常に不信と恐れを持つのは当然です。私たちの本来の性質は、天地創造のアダムとイブの時からサタンの誘惑・試みに負けて神様のご命令から離れ、サタンと協力して、私たちを常に惑わせようとする強い、隠れた力の中におります。いわゆる「罪」と言う「魔力」に誘惑されるばかりでなく、罪に罪を重ねて生きる者であることも事実として認めなければなりません。
キリスト者は決して、自分に頼ってはなりません。自分の信仰に頼ってはなりません。自分の祈りを過信してはなりません。むしろ、見いだすべきことは、自分の弱さと醜さではないでしょうか。人はこの事実を何としても隠し通したいと思う者です。
その思いに対する答えが、「常に主を恐れる人はさいわいである、心をかたくなにする者は災いに陥る」なのです。
主の聖徒よ、主を恐れよ、主を恐れる者には乏しいことがないからである、と詩人は告白しています(詩編34:9)。
世田谷通信(224)
猫草
近所にある「食と農の博物館」付近で、卒業論文のための簡単なアンケート調査にご協力くださいと声をかけられ足を止めた。「生態系サービス」という言葉を知っていますかと質問され、「はい」と答えると、おやっという顔をされ、どういうものか説明できますかと聞かれ「はい」と答えると、嫌な顔をされた。そこは「言葉を聞いたことがないか、聞いたことがあっても詳しく知らない」というデータを取りたかったようだ。ごめんなさいね、思ったような回答者でなくて。調査なんてそんなもの。とにかく卒論はがんばってください。
「生態系サービス」という言葉は聞いたことがあるし、説明できる。しかし、納得しているかというとそうではない。違和感がある。生態系の中で人が特にその恩恵に浴しているものをそう呼ぶのだという。当たり前にそこにある自然、環境、生態系に経済的な価値尺度を与え、換算することでその恩恵を明確にする意図だ。それはこれまで人間が自然に対して収奪するだけの行為を繰り返してきて、その結果生態系のバランスを崩すまでに破壊してしまうことへの警鐘だというのも理解できる。環境はタダじゃないし、やりたい放題にすると汚染や枯渇でまわりまわって自分に不利益が起きる。快適な環境というサービスを受け続けたいならそれなりの対価を払おうという考えである。もっともだ。
でもまだ違和感がある。結局人間には何一つ作り出すことはできなくて、すべては地球環境からの借り物で生きている。空気も水も大地もエネルギーも食べ物も、全部。人は生態系のごく一部だろうに。
例えば人類が火星に移住して、地球にいるような環境を創出するために如何ほどのコストをかけなくてはならないのか、という設定で考えるのはどうだろうか。利用できるのは固い地面だけという状態からのスタートで。
まだアンケート調査中の大学生に、あなたの思う生態系サービスとは何か、聞いてみたい気がした。
<いきいき里山・山里ものがたり>
* 八重山は真夏みたいです。NHKTVの朝ドラは沖縄ですが、宮崎から来た私にはなにもかもが勉強と驚きです。お年寄りの方言には今も苦労しています。一度いらしてください。 沖縄県の観光大使? O・Bさん
* 5月号の草花です。 鉄塔広場のナツグミが強剪定されたので、見に行ったら花も咲いて虫も来ていました。よかった! スノーフレーク、控えめに俯いてますが、昆虫目線だとこんな感じですかね。 ニワトコの花は遠目には白いほわほわですが、近寄ると可愛い花束みたいです。 カジイチゴの優雅な花。やがて熟すオレンジ色の実も爽やかな甘さで楽しみです。 サクラを愛でながらです。暑くなりそうです。こまめなしに水分補給をしながら頑張りましょう!! いちめんの土筆です。食べるなら胞子の開き切っていないのを選び、袴をとってから甘辛煮や卵とじにするとおいしいですね。皆さんお一人お一人の味がありますから腕の見せ所でもありますね。 猫草
《写真の説明と投稿です》
「美しい朝に」
⁂ おはようございます。 退院がきまりました。土曜日の予定です。今朝、はじめて日の出が写せました。綺麗ですね。
⁂ こんにちは、今日は、入院で伸ばしていただいた網膜剥離の眼科の検診に行きました。桜がきれいでした。
⁂ 昨日も内科の検診で、退院して初めてでしたが、数値は大丈夫でした。退院してから、誕生日の翌日に入院して免許更新の期日の3月8日も入院していましたので、更新するには門真か光明池の試験場に行かなくてはいけないそうで・・・返納だと、予約もいらないみたいなので返納しました。桜の写真など送りますね。
=沙耶香のつぶやき=
花粉症で外に行かない日々でしたので運動不足になりそうなのでお母さんと料理を作ったり、それぞれの部屋の掃除の手伝いをしています。きれいに整頓されたお部屋、お手伝いで出来上がった料理(本当はお母さんがほとんどですが)を家族で食べています。食器など後片付けもするようにしています。出来た!の自己満足中です。
まだまだ花粉症で、鼻がグスグスで、テッシュケースは放せません。マスクの生活もこうも続くと苦しいですよね。
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*この掲載は原稿の時にお送りし、全て了解を得ております。編集子
『その愛のゆえに』
=時々の記=
(194)
3月13日
朝5時のテレビのニュースで大きな地震が発生したことを知りました。列車は脱線して、道路には亀裂が入っているとのことです。1週間前に11年前のことを思い出していたところですのに、怖かったことでしょう。被害にあわれた方々の上に神様のお守りが与えられますようにお祈りします。
杉花粉龍の域とも吐かれけり。
果樹縁のなぞへひそかに草萌ゆる。
ああうれし、賛美歌歌ふ春の夜
春場所を楽しみとする翁どち。
グラグラと枯れ木の揺るる春嵐。 馬場路哉
主人はラジオを聴きながらリハビリと称して村内を歩いています。
3月18日
こちらは朝から雨です。風が吹いていて、とても肌寒く感じます。ストーブ全開です。冬物も残しておいてよかったと冬の装いです。
習ひごとちょっと上達下萌ゆる。
伊賀街道サイクリストら風光る。
福音を聞きしに似たる暖かさ。
色合ひの淡きを誇るヨモギかな。
隠国の初瀬の奥にハエを釣る。 馬場路哉
今朝、二人で部屋の片づけをいたしました。主人は掃除機係り、私は雑巾係りで、きれいに整えました。1時間余りでしたが久しぶりの掃除でしたので疲れてしまいました。
3月26日
雨ですが、比較的暖かいです。感謝です。庭の梅は雨に濡れてひとひらひとひら散っています。これからは桜の開花を待つばかりです。ツバメたちは去年の巣を覚えていてそのまま再利用です。新しく作る気配はありません。賢いですね。
巣は芸術作品です。あの小さなくちばしで泥と縄を交互に持ち運んで作り上げていくのですから。
荒家に紅白の梅咲き初むる。
初ツバメ全速力で家に入る。
ハハコグサ芽を出し初むる狭庭かな。
天守閣戴く町のうす霞。
白々と雑木の枝や山笑ふ。 馬場路哉
3月29日
薄曇りの花冷えの一日です。朝9時から3か月に一度の定期健診へ行ってきました。車で5分のところにあります。唯一車を運転する日です。5分といえどもやはり車は慎重に運転しなければ大事故につながります。カーブあり、坂道あり、5分が長く感じられました。
予約通りにきちんと診察してくださるので待つことなく快適に過ごせました。年齢のせいでしょうか。虫歯はありませんが歯事態が弱っているようです。それを全面的に治療するか、次までに考えておいてください、と言われました。私としては、痛みがなくただ色がくすんできているという理由では治療に踏み切れません。
キリストは罪をなだめる受難週。
ひたすらに悔ゆることなり受難週。
隠国(こもりく)の初瀬の奥にハエを釣る。
春なれや内田光子のピアノ曲。(シューベルトのピアノソナタです。)
春愁やロダンの像を諾ひぬ。(うべなう) 馬場路哉
最近主人は中性脂肪が高いといわれて減量に励んでいます。坂道を何度も歩いて登ったり下ったり。木の枝にぶら下がってみたり、とあまり効果が出ていないようですが、がんばっている姿は認めます。
4月11日
急に気温が上がって6月の陽気だそうです。春の熱中症に気を付けてくださいとアナウンスされていました。急激な気温の変化に高齢者や子供たちはついていきにくいですね。入学式を終えて今秋から本格的な学習に入るのでしょうか。
バス停で待っている子供たちは緊張しているようにうかがえます。桜は散り終え、今はハナミズキの花が咲き始めています。それにモクレンが例年よりも2週間ほど早く咲きだしています。
今週は受難週ですね。イエス様の十字架上でのお苦しみを思いつつ、過ごしていきます。“十字架の血に清めぬれば,来よとの御声を我は聞けり。”を賛美しながらの受難週の散歩となっています。
馬場暁美
上野緑が丘教会会員
眸(ひとみ)
今朝は、肌寒い朝です。雨のせいでしょうか。桜が満開になりつつあります。雨に濡れてその花びらが舞っています。「ジャーナル友」の皆様はお変わりありませんか。最近思うのですが、聖書の読み方が少し変わりました。今までは、聖書日課を参考にしたり、一日、旧新約聖書を1章ずつ毎日読むスタイルで40年近く聖書に親しませていただき多くのことを知りましたが、今は、急がないで、手元にある引照箇所着きの聖書で丁寧に読んでいます。今朝の聖句は“忍耐は練達を練達は希望をそしてその希望は決して失望に終わることはない。”でした。神さまに愛されている者にとっては多くの試練も苦しみもすべてが希望へと変わるとの励ましでした。そう確信して日々を希望をもって歩んでいきたいと祈っていました。こちらはもう新緑に変わりました。 佐賀県 H・Hさん
人事移動があり新しい方が二人来られましたが、お二人とも経験豊かなベテランで私の上司に当たります。コロナで歓迎会もなくお仕事されていますが、お二人ともご家族とは離れての単身赴任です。私の主人はなにも出来ないタイプで転勤の時も家族一緒で子供たちは転校ばかりで嫌がっていました。教会もそのたびに変わりました。イースターの想い出はその時々の地にあります。その子供たちも今は大学生として大阪と仙台におります。 埼玉県 B・Aさん
暖かくなりました。今咲いている花の中で一番小さい花は何だろうと見渡してみました。オオイヌノフグリ。野のスミレもとてもとても小さなお花ですが、群れて咲いているとその美しさに見とれます。我が家の畑も冬野菜から夏野菜へと衣替えです。とてつもなく大きくなってしまった白菜の葉っぱはもったいないという気持ちが強くて、口にするにはあまりにも堅いのですが工夫して食卓の上にあります。最近、お酢をかけて食べると一味変わることを発見して、何にでもかけて食べています。当分続きそうです。 福島県 U・Mさん
昨日から散歩の折には夏用の帽子をかぶることにしました。日差しがきつくなり帽子なしで散歩をしているとひりひりするように感じたからです。帽子をかぶるととても快適です。目のすぐ上までつばが広がっているので涼しいです。先ほどからガスの点検に農協さんがいらしてくれていました。吉野からきているといっていました。今は桜の中千本がとても美しいですよと教えてくれました。台所に立って夕食の下ごしらえをしているのをみて、山からとってきたタケノコを湯がいているのかと話しかけてきます。まだまだタケノコは早いでしょうと答えると、おいしい竹の子はイノシシが全部食べてしまっているから早く取りに行ったほうが良いと教えてくれました。その話を聞いても我が家の竹の子のある山はとても難所です。主人は山中に入るのは上手ですが、私などは道に迷ってしまいそうです。今はとても野生の動物たちが多くいるので怖く感じます。昨日は我が家の屋根の上を猿がのそりのそりと歩いていましたし、先日少し暗くなった折には大きな鹿が道を横切っているのに出会いました。野生の動物たちの勢いは違いますね。そんな山奥での信仰生活です。 大阪府 T・Tさん
母がお世話になっている高齢者施設でコロナの疑いのある人が出て、今は各人、自分の部屋で隔離の日々になっています。10日目です。一日も早い終息を願っています。「ジャーナル友」の皆さんの中にもご高齢の方と生活をされている方もおられるでしょう。お互いに祈りに覚えあいましょう。皆さんのお力をお貸し下さい。今は連絡が来るのではないかと不安に陥ってしまいます。 神奈川県 T・Tさん
<身近な出来事を「眸」に投稿してください> 編集子
十戒と主の祈り
鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
主の祈り(文語)
天にまします我らの父よ
願わくはみ名をあがめさせたまえ
み国を来たらせたまえ
み心の天に成る如く地にもなさせたまえ
我らの日用の糧を今日も与えたまえ
我らに罪を犯す者を我らが赦す如く我らの罪をも赦したまえ
我らを試みに遭わせず悪より救い出したまえ
国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり
アーメン
=御名=
第一の祈り③・御名が崇められることが中心
マタイ6:5~8
「御名を崇めさせたまえ」という祈りが最初に来るもう一つの理由は、その後に続く第2祷から最後の第6祷までが、この御名を崇めさせたまえという第1祷の具体的な内容の説明だからです。
例えば、第2祷の「御国を来たらせたまえ」と祈ることが、御名が最も崇められる具体的な内容になるからです。御国とは神の国ですから、それは神が支配しておられる国であり、神の支配に服している民からなっています。従って,「御国を来たらせたまえ」という第2祷は、神の民が神の御心に服することを求める祈りです。そのような神の御心に支配されることが実現するなら、そこでは何よりも神の御名が崇められていることは明らかです。つまり、主の祈りは、この第1祷に尽きると言ってもよいのです。しかし、主は理解の鈍い私たちのために、具体的にその内容を第2祷から第6祷までをもって教えてくださいました。
このように最も大事なことは、言わば結論を最初に挙げて、その後は内容の説明をするという順序は、物語を語る時の順番とは逆です。しかし、聖書には教えを語る場合、最も大事なことを最初に挙げて、その内容や説明がその後に続くということは、よく注意して見ると多くあることに気付きます。
旧約と新約から、その実例を挙げてみるとよく分かります。例えば、モーセの十戒を考えてみましょう。確かにこれは十の掟が記されています。しかし、中心は何か言えば、第一戒です。「わたしのほかに何者をも神としてはならない」という戒めが守られれば、具体的には、神の名をみだりに唱えることも、刻んだ像を造ったり、拝むこともないでしょうし、安息日を聖別することも当然です。そして、神を畏れ敬う者であれば、隣人に対しても神の御心を行う者として、第五戒から第十戒を守るよう努めることも当然のことです。
例えば、使徒パウロの場合を見てみましょう。彼は、人間関係の基本的な原則として、エフェソの信徒への手紙5章21節で、「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」と先ず語ります。その上で、この命令の実際的なこととして、「妻たちよ」と22節で、「夫たちよ」と25節で、「子供たち」と6章1節で、「父親たち」と4節で、「奴隷たち」と5節で、「主人たち」と9節でそれぞれ説明を加えています。「キリストに対する畏れ」敬いが薄れ、自意識が強く、自分の思いが中心になるので、パウロはこのように語りました。
同じことは、主がこの主の祈りをお教えになるきっかけも、「偽善者のようであってはならない」と言われて、偽善者の特徴は「御名を崇める」のとは正反対であって、自分の誉れのために行動しているのをご覧になって、弟子たちへの教育のために、この祈りをお教えになりました(マタイ6:5~8)。このように、主の祈りで、最初に来る「御名を崇めさせたまえ」が祈りの中心であるということです。
バラ・マカルピン 日本伝道百年史
水垣 清著
(元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)
20 最後の奉仕・・1・・
1930年(昭和5)頃、豊橋教会(現日本基督教団)の牧師館の北側に二階建て35坪で建築した。マカルピン師の祈りと協力によって出来上がった。マカルピン師はその任地先でこうした記念物を残されて教会自立への道を開かれた。
1929年(昭和4)9月1日、マカルピン師の子息J・A・マカルピン氏は成長して、オランダ系アメリカ リフォームド教会の短期宣教師となり、長崎の東山学院中学部の英語教師と同ミッションの会計助手として来日された。父マカルピン師にとっては、これはたのもしく力強く感じられたことであろう。この東山学院は長崎市東山手町9にあり、明治19年19月9日に創立されたダッジ・リフォームド・ミッションの設立で、校長はW・G・ホキエ氏で、在校生は320名であった。
1930年(昭和5)、68歳の夏のこと、マカルピン師に思い掛けない病気が突発したのである。マカルピン師は避暑地でテニスを楽しまれたが、テニスコートで仲間と祈祷礼拝を守り、その奨励中、頭の中で「カチッ」という音がしたかのような感じがして、倒れるような不安を覚えながら手短に話を終わらせて、友人のボールティンさんに終わりの祈りをするように話してからのち、彼の腕によりかかって家に帰ったのだが、左足はしびれを感じ、数週間ベッドに休んで用心した。
自分自身それほど悪いとは思わなかったのに、その左手も思うように動かすことが出来なかったのである。やがて杖の力を借りて歩けるようになったが、当時は左手でタイプライターを打つことも出来ず、全て右手だけで仕事をしなければならなかった。
この年の終わり近く、後にJ・A・マカルピン氏の良き伴侶となられたミセス・マカルピンこと、ポーリン・H・スミス女史も、11月25日、米国メソジスト教会の宣教師として、長崎活水女学校の教師となるために来日された。同じ長崎の町に、同様なミッションスクールの教師として、将来結ばれるべきお二人が、時を同じくして一つの使命に召されて奉仕されたことも興味あることである。
「いのり」
家で倒れて緊急入院し、手術を受け意識が戻ったのは5日後だったと聞かされました。健康には自信を持ち、仕事に励み、子供たちの成長を楽しみにしていた矢先の出来事でした。あれから3年になりました。今も半身不随は残っていますが、勤め先のご厚意により、障碍者用に改造した車で今までとは違った部署ですが働いています。
祈りました。悲しみました。不安になりました。時には不遜にも神様を恨みました。しかし、そのような私を、家族を見捨てることなく支えてくださいました。
この「いのり」を読んで、また新たな思いで神様の愛を知らされました。本当に感謝です。 神奈川県 T・Tさん
*****************
新しく造られた者よ
御神の新しき御声を
心開き聴いてから
新しき一日を始めよう
新しく造られた者よ
御神の新しき御愛を
心深く受けてから
新しき一日を始めよう
新しく造られた者よ
御神の新しき御旨を
心静めて知ってから
新しき一日を始めよう
遠く遠く遠く
父なる神のみ愛を
遠く 遠く 遠く 忘れて
むなしく生きるあの胸に
み愛を慕う心を起こしたまえ
父なるい神のみ旨に
遠く 遠く 遠く 忘れて
淋しく生きるあの胸に
み旨を思う心を起こしたまえ
父なる神のみもとを
遠く 遠く 遠く 離れて
悲しく生きるあの胸に
みもとに帰る心を起こしたまえ
=水野源三著第四詩集より=
第103課 結びの言葉:個人的挨拶
=16:1~27=
B ローマの多くのキリスト信者への挨拶
=16:3~6=
また、ここの個所で注目しなくてはならないもう一つのことは、女性たちが福音宣教の有力な働き人であったということである。「最初から女性たちは福音宣教において、活動的かつ重要な役割を果たしていた。彼女たちは最も忠実な人々であり、十字架の下に最後まで留まり、また、墓においても最初の復活の発見者であった」(ホッジ)。フイベのほかに数人の女性たちがパウロの友人のリストの中に出ている。プリスカ、マリヤ、ユニアス、ツルナバ、ツルソバ、ペルシス、ルポスの母、ユリヤ、ネレオの姉妹などである。
これら人々の中にある者について、パウロは彼女たちが主にあって働いていたとか、主にあって多くの労したことを述べている。プリスカとその夫アクラとはイエス・キリストにあるパウロを援助者の中の一人であった。
パウロは女性嫌いであったなどと言う人々がいる。パウロが教会政治についてのその教えの中で、女性について語っていることから、このようなことが言われているのである。しかし、パウロは女性嫌いどころか、福音宣教に於いての女性たちの働きを高く評価し、感謝し、歓迎していることは明らかである。
パウロの時代に於いてそうであったように、現代の教会の中にあっても、女性が就くことができない牧師職や長老職のほかに、女性が奉仕できる多くの領域があることを覚えたい。16章に出てくる女性たちが、男性に限定された教会の役職に就こうとしないので、彼女たちに適当であるような形で奉仕に、心から献身していたということは確かなのである。彼女たちは男性に遥かに勝ってなしうるような役務があったと考えられるし、また女性しかできないこともあったと思われるのである。
「きよい接吻をもって、互いにあいさつをかわしなさい。キリストの全ての教会から、あなたがたによろしく」(16節)。
この節にある原則は現今においても生きているが、詳細な形式は私たちを縛るものではない。互いに挨拶を交わすことは大切であるが、接吻する必要はない。あの時代はそれが日常生活の挨拶であったが、今は違うのである。正確な表現は私たちに必要であるが、形式は私たちを縛るものではない(ホッジ)。
友情に満ちた握手、明るく親しい言葉のやり取りなどが求められている。今の世の中は特にそうであるが教会でも挨拶することを避ける人々が増加している。冷たい言葉や態度は避けて、主にある者にふさわしい態度と物腰を持って交わるべきである。もしそうでなければ、この16節で神が与えられた勧告に背く罪を犯すことにもなろう。現代の様な世相の中にあっては、キリスト者交わりは貴重なものというべきである。
J・G・ヴォス著
『ほっとひととき「みんなのコーナー」』
例年にないくらいの大雪の越後にも雪解けが始まりました。雪が解け始めると山からの水は田畑を潤してくれます。越後の山々から川を下る水は生活と心の糧にもなります。そうして海へと注ぎ海を豊かに育てているそうです。春は足早に生活の中に訪れます。昔から越後は薬草、野草の宝庫で、薬の荷を担いで全国各地を歩いていました。今で言うなら薬の訪問販売の地でもあります。ですから、各家々ではそれぞれの工夫された山菜料理がありました。私も畑の庭のフキノトウを甘露味噌にして食べたり、納豆の薬味にして食べましたが、大阪にいる娘たちはいつもこの季節になると、その味を思い出すようです。コンビニ弁当や手作りの日々の生活の中では大切な郷土料理なのでしょう。春の訪れは、本当に楽しみが多いですね。下手な味付けですが主人と山菜をおかずに夕食を楽しみにしています。昔、宣教師の方々が山深い所を訪ねて伝道されたので、今も家庭集会的な集まりが各地にあるのですよ。 富山県 K・Tさん
戦中生まれの私たちには今のウクライナの出来事は悪夢です。戦火で焼けたあの無残な街並み、人気のない瓦礫に佇む姿の中に、私たちの年齢の者は、実体験していますから、本当に辛いです。今の日本は平和です。あちこちの庭や公園にコブシや木蓮が咲き、桜の花の趣とはまた別の楽しみがあります。でも私には、木蓮とコブシの違いが分かりません。分かるのはどちらも上品であること程度です。庭には芝さくらは咲き始めました。平和を祈りつつイースター礼拝を心待ちにしている日々です。 広島県 ジャーナル友夫婦さん
ここ山形も雪が解け始めました。山並みも桜の花が咲き始めたようです。
早咲きの桜でしょうか。あまり背が高くなく細い枝なのですが、小さなピ ンクの桜が咲いています。花の名前や木の名前には疎い私ですが、春を感じながら薬剤師としての仕事に出掛けています。「イースター礼拝には行きたいです」。神さまのみ旨を感じながら、過ごせますようにと祈っております。春の陽気に誘われ、つい周りに気をとられますので、車の運転は気を付けます。皆様の健康にかかわる仕事ですから、一つのミスも許されませんので、集中してやれています。 山形県 L・Tさん
❀ ❀ ❀ ❀ ❀ ❀ ❀ ❀
春の日差しがたっぷり注がれて、小さな畑の野菜が育っています。今日の収穫は水菜と小松菜とブロッコリーです。なかなか大きく成長してくれなくてあきらめていたのですが、食べれるまでになっていました。この暖かさでぐんぐん大きくなってくれました。出来栄えはとても人様にお見せできるようなものではありませんが、やはり苦労して育てたのですから、収穫できて感謝です。野菜の料理は結構手間がかかりますので、とれたては食べずに明日ゆっくり時間をかけて洗い落としたり、葉先を整えたりします。 私は診療所へいつもの定期健診に出かけました。看護師さんが近寄ってきてくださって“お変わりありませんか?”と聞いてくださいましたので、“今のところ変わりはありません“と答えると、“それでは今日はお薬だけを持って帰ってください”ということになりました。待ち時間もなくお薬だけいただいて帰ることができました。良いお天気でしたから散歩を兼ねて行けました。お祈りしています。
コロナで帰れなかった実家に半日ですが里帰りしてきました。冬場は寒さの厳しい場所ですが、訪れた日は春の穏やかな日でした。両親は少しずつこうして歳を重ねて天国に行く準備中なのでしょうけれど、神さまの御守りの内に有ると信じていこうと祈っています。友人の実母ががん治療中です。高松で暮らすご両親を何時も気にかけていらっしゃいます。お母さんのことも気にされながら気丈に育児されている様子です。
両親は厳しいながらもこの地域で暮らせたのと強い信仰心を持つことで強められ苦労の連続の日々も有ったと思いますが、何とか暮らせているのでしょう。二人でジャーナルを読んだり気になる聖書の箇所を丁寧に掘り下げて読んで、今年はここに注意していこうと目当てを決めているところです。教会には行けませんが、毎日二人で家で礼拝しているとのこと、神様に感謝して、帰宅しました。
=この文章は、全て投稿者から掲載許可をいただいております= 編集子
『ありがとうございます』
青森におられる「ジャーナル友さん」から、弘前城の桜、庭にあるハナミズキの季節が来ましたとメールのお便りをいただきました。
「つのぶえジャーナル」をお読みの方の所にも春が訪れ、早い所では田植え機の活躍の所もおありのようです。名古屋も梅雨入り前の雨の日が多くなりました。近くの保育園には可愛い園児が、先生に見守られ、お友だちと手をつないで近くの公園までの遠足を不安そうな顔をしながら歩いています。その速さに私の両手に杖の速さでは追い付きません。
こうして5月号を皆様にお届けできて感謝の気持ちで一杯です。季節の変わり目です。どうぞ健康に注意してお過ごしください。
2022年3月16日から2022年4月15日までにお送りくださいました方々です。
鶴原澄子様 岡田千歳様 小幡伸幸様 小幡美智子様 宇佐神正武様 佐々木一郎様 加納さおり様 佐藤のり様 馬場暁美様
*寄付金口座…郵振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社
また、お便り下さる方やお友達への紹介はこのメール アドレスをご利用ください。多くの「ジャーナル友さん」が与えられるように願っています。
*「つのぶえジャーナル」はこれをご利用ください。
http://tunobue.blog.shinobi.jp
(米国南長老教会文書伝道事業)刊行責任者
つのぶえ社代表 長村秀勝
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」