2023年7月号
№193
号
通巻877号
×
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阪神地区の方々に春を告げるものに、春の選抜高校野球があります。それが終わると神戸や西宮地域は桜一色になり、そうして新緑に移り変わると言われています。私のいる名古屋も同様ですが、最近、個人の庭木に木蓮の多いのに気づきました。花や緑の少ないときに咲く「春つげの木」ですから目立つのかもしれませんが、きれいです。お花屋さんの店先とは違った季節を感じさせてくれます。
今月号の花束は結婚記念日のご主人からの贈物だそうで、このようなお花は一番嬉しいプレゼントですね。
メールをくださる方が多くなり、嬉しいかぎりです。どうぞ、お友達などにこのメールアドレスをご紹介ください。大歓迎です。
電子メール アドレス osamura@kind.ocn.ne.jp をご利用ください。
『つのぶえジャーナル』のための寄付者
岸上とし子様 宇佐神正武様 古屋愛実様 匿名2名様
郵便振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社
『クリスチャン音楽家を支える会』への寄付者
宇佐神正武様 匿名1名様
便振替口座番号 00870-2-92464 クリスチャン音楽家を支える会
2012年3月16日から2012年4月15日‘まで
****************************
アダはヤバルを産んだ。彼は天幕に住んで、家畜を飼う者の先祖となった。その弟の名はユバルといった。彼は琴や笛を執るすべての者の先祖となった(創世記4:20~21)。
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今月のことば
罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお、その中に生きておられるだろうか。
=ローマ6:2=
この世の道徳は、「罪を犯してはならない」と言います。神の聖なる律法も、「罪を犯してはならない」と言います。あらゆる宗教の教条もそのように言います。しかし、甦られた方の証人パウロは、「君たちは罪に対して死んだ」と言います。罪からは命脈が絶たれ、力が奪われ、水路が絶たれたと言うのです。罪の息の根が止まり、その脈拍は途絶えたと言うのです。これがパウロの言う「罪に死んだ」状態なのです。
パウロがそのように言うのは、唯一つの理由があるからです。すなわち、イエスの十字架での死の働きにおいてのみのことです。イエスの十字架は、この世の罪が深く関っています。あそこでは、私たちの罪を背負われた方として、私たちに代わって、全ての憐れな私たち(罪人)に代わって死なれたのです。
イエスは、私たちの罪を、墓の中に携えて行かれました。パウロは言います。「わたしたちはキリストと十字架につけられた」(ガラテヤ2:19)。或いは、「わたしたちは彼と共に埋められた」(ローマ6:4)と。
私たちは真剣に考えなければならないことがあります。それは、イエス・キリストの死は、私たちの永遠の命のための死であることです。古いアダムの死であり、神のみ前に存続できない人間、罪の中に生き続け、神のいのちに死んでいた私たちが、キリストの十字架の死によって、神に生きる者、神と共に生きることが出来る道になられたと言う事実についてです。
罪の中に生きてきた自分、そこが滅びの罪の世であることを考えずに生きてきた今までから、キリストを知り、救いを知り、永遠の命を知る生き方が許されているのですから、大胆に頂こうではありませんか。
罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお、その中に生きておられるだろうか。
この世の道徳は、「罪を犯してはならない」と言います。神の聖なる律法も、「罪を犯してはならない」と言います。あらゆる宗教の教条もそのように言います。しかし、甦られた方の証人パウロは、「君たちは罪に対して死んだ」と言います。罪からは命脈が絶たれ、力が奪われ、水路が絶たれたと言うのです。罪の息の根が止まり、その脈拍は途絶えたと言うのです。これがパウロの言う「罪に死んだ」状態なのです。
パウロがそのように言うのは、唯一つの理由があるからです。すなわち、イエスの十字架での死の働きにおいてのみのことです。イエスの十字架は、この世の罪が深く関っています。あそこでは、私たちの罪を背負われた方として、私たちに代わって、全ての憐れな私たち(罪人)に代わって死なれたのです。
イエスは、私たちの罪を、墓の中に携えて行かれました。パウロは言います。「わたしたちはキリストと十字架につけられた」(ガラテヤ2:19)。或いは、「わたしたちは彼と共に埋められた」(ローマ6:4)と。
私たちは真剣に考えなければならないことがあります。それは、イエス・キリストの死は、私たちの永遠の命のための死であることです。古いアダムの死であり、神のみ前に存続できない人間、罪の中に生き続け、神のいのちに死んでいた私たちが、キリストの十字架の死によって、神に生きる者、神と共に生きることが出来る道になられたと言う事実についてです。
罪の中に生きてきた自分、そこが滅びの罪の世であることを考えずに生きてきた今までから、キリストを知り、救いを知り、永遠の命を知る生き方が許されているのですから、大胆に頂こうではありませんか。
・・。あなたがたが十字架におかかりになったイエスを捜していることは、わたしにわかっているが、もうここにはおられない。かねて言われていたとおりに、よみがえられたのである。さあ、イエスが納められていた場所をごらんなさい。
=マタイ28:5~6=
私たちの周りには、イエスを捜しても、見い出さない人々が沢山います。捜す人々は、真剣に、正直に主に出会うことは人生の最大の喜びであることを知っている人です。でも、お会い出来ないのはなぜでしょうか。
それは、主のおられないところで主を捜しているからです。人は、救われるように神に祈ります。イエスがご自身を啓示してくださるように祈ります。そうして、人は自分の心の中に主を捜します。見い出すことを期待します。そうして、自分の生活が立て直され、救われ、祝福され、幸福であると感じるとき、救われていると信じます。
しかし、このようにして、多くの人が道を見失い、だんだんと闇の中に入り込んでしまうのです。
どうしてなのでしょう。イエスのおられないところを捜しているからです。イエスは、み言葉の中におられるのです。聖書の言葉は神の言葉であります。私たちの救い主は、そこにおられます。だから私たちは、聖書を読むのです。
「イエスを信じる者は永遠の命を得る」と聖書にあります。それを心で感じ、救いの恵みを確認する喜びを得る者が救われるのではありません。
大切なことは、「信じる者」とされることなのです。
上河原立雄
私のまだ知らなかった方が
私のまだ知らなかった方が
私の知らないところで
私の知らない時に
私のために祈っていて下さったから
神のみもとへ帰れました
私のまだ知らなかった方が
私の知らない涙を
私の知らない汗を
私のために流して下さったから
神のみもとへ帰れました
私のまだ知らなかった方が
私の知らない涙を
私の知らない汗を
私のために流して下さったから
神のみもとへ帰れました
私のまだ知らなかった方が
私の知らない言葉を
私の知らない愛を
私のため伝えていて下さったから
神のみもとへ帰れました
水野源三著・第4詩集「み国をめざして」
近くの保育園の卒園式がありました。その次は小学校の入学式が控えていて忙しい思いを数年前に経験しました。子供たちより親の方がわくわくドキドキしながら、迎えたあの時期は、親としての自覚を感じた時でした。その子供も今は小学校の6年生になりました。子供は成長していますが親の私はどうなのかしらと、最近考えているところです。
愛知県 H・Mさん
高等学校を卒業して今年で14年になりました。卒業の時から毎年3月に仲よしグループ6人で今年も旅行することが出来ました。今年は和歌山県の南紀白浜に2泊3日です。和歌山は桜の名所が多いところと言われています通り、ビルばかりの日々とは違った別世界で、感動しました。温泉と食事の楽しみもありましたが、何よりもお互いの近況話が一番の楽しみで、この時ばかりは歳を忘れた女子高生です。健康であればのことを感謝しています。
岐阜県 S・Sさん
ジャーナルの発送は終わりましたか?私アニメを見ていて気が付いたことが、あります。
小・中といじめられていました。中学の時学級会で、話合いの時に先生が、「いじめられる 人が悪い」と言われたことあります。小学校の時、ぼろを着ているし上下の組み合わせの色も考えたことありませんので乞食とか臭いとかといじめられていたのです。性格は暗く臆病で気が小さく、授業中の発表も声が少ししか出ない。遊び時間には大きな声が出るのにと、これもいじめの材料です。中学になってもいじめの船頭は、小学の時からの男の子達です。
高校でも、小学校の時の子がいましたが、3流高校でしたから先輩の方が、悪が多かったです。いつの間にか私は、番長をまかしたと言ううわさが流れていました。何もしてないのにあの時は、おかしかったです。中学の担任の先生が、家庭訪問を兄の時に行ったから行かないよと言われ、家庭訪問とは、家を知るだけのものだったんだとその時思いました。今なら、先生の名前を出して自殺でもしてやったのにと思います。許せないのです。高校3年の時に小学生の時、いじめていた男子生徒が、交通事故で亡なくなりました。告別式には、同級生が大勢来ていたそうですが、私は、香典を友達に頼み 行きませんでした。行きたいなんて思いませんでしたもの。ほかにもわたしを小学の時にいじめていた男子がいました。以前は、いじめていたのに今は、平然としゃべってくることに腹立たしささえ覚えていました。子供のころのことは、時が過ぎればどうでもいいのかもしれませんが、私には、どうでもいいことでは、なかったのです。苦しかったこと、さみしかったことを消去することで、また、それらを知らない人たちの中なので何とか生活できたのでは、と思っています。
それを今になって中学時代にあまり交わりがない人(同級生で300人いました)から 私にいじめられたと聞くと、やはり腹が立ちますし悲しくなります。それも、今、教会に行っている人からだと余計に・・・。神様は許しなさい、と言われるが、許せない。信仰の問題かな・・・・。
奈良県 T・Mさん
春はまだ先です。復興も先、除染も先です。何もかも先・・・。最近、「元気な東北」などという文字を見るのが恐いのです。自分の中では、どうにもならない悪夢、あの叫び声、母を失った悲しみは一層辛くなります。頑張ってきたのにまだ頑張るの・・・・。もう疲れた。祈れない。悲しいです。
宮城県 H・Kさん
=ともしび=・・3・・
・・過去を照らし、今を照らし、未来を照らす・・
身近な者が死ぬと悲しい。死後に思いを寄せる。どんなに愛した人でも、神の審きによって、永遠に逢うことの再び出来ないかも知れないと思うと、猶なお悲しい。そんなことを考えると人生の侘しさが身に凍みる。結局のところ、人間は孤独で寂しいものを感じ、神をしたう思いに馳せる。最愛の人が死んで三年半、なお涙する。
天国への確信がなければ、死は恐怖となる。天国への確信がなければ、苦難は重荷となり、潰れる。信仰は、天国への帰着である。天国への道は、この世での決闘と言えるかもしれない。キリスト者の戦いかも・・・・。
青森県 北岡一夫
自閉症者のひとりごと
(57)
1月16日
今日は歯科に行きました。自転車はバッテリを抜いて持っていました。重い。
母から電話があり、母は何もしたくないとのこと。日本の叙情歌のCDは聴くかと尋ねたら、使い方がわからないとのこと。父に聞けばいいよと言ったら、父は怒ると言いました。やれやれ。主人に訊いてみて、申し込みます。通販限定なので。CD7枚に本まで付いてくるから、今度実家に行くときは、重いだろうなぁ。寝てばかりいるよりは、歌でも聴いていてくれたほうがいいです。
1月18日
よい天気ですね。ここのところ、朝の3時、4時なんて早い時刻に目が覚めていたもので、遂に午前中眠ってしまいました。眼科に行く予定だったのに。とりあえず、昼食を買いに、コンビニまで歩いて行くと、上着が要らないほど暖かい。
わたしは鍵がどちら向きでどちらに回すのか分からない者ですので、鍵にシールを貼っています。携帯の充電器もそうです。自転車は乗るまでにやることが多いので大変です。ひとつめの鍵を外して、バッテリをつけて(向きがあるのでそれを覚えるのに手間取った)、最後にもう一つの鍵を外す。帰ってきたら、その逆をやるのですので、たまらない。アスペって本当に大変です。
1月26日
午前中はしっかり食べた後、眠ってしまいました。ずっと頭の中で音楽が流れていたので、脳が疲れているんだと思い、思い切って寝ました。ひどくなると、音楽で思考が止まってしまうのです。その前に手を打ったわけです。何かじっとしていることができなくて、お茶を飲んだり、スルメをかじったり。今日は精神科の受診日。行くにはまだ時間があるし。
1月28日
日本の叙情歌のCD7枚+歌詞集を持って、実家に行ったら、CDラジカセが壊れていました。早速父が買いに行ってくれました。一緒に聴いています。と言っても、母は早くも眠ってしまいました。叙情歌は、わたしも嫌いではないけれど、母が聴いてくれないと意味がないのです。はぁ。
1月30日
今朝は、4時前に目が覚めて、ずっと眠れずにいます。母が起きてくるまでの長いこと。
薬が変わって、昼間は落ち着くようになりましたが、早く目が覚めるのは困りものです。これはどこにいても同じ。テレビを付けて、音楽を聴きながら、ふとんの中で、過ごしています。そろそろ起きようかなぁ。母はだんだん率直というか身勝手になってきました。シャツの裾もだしっぱなし。服を沢山持っているのに、無いと思っています。一日中食べることばかりを心配しています。一日中寝ています。薬が多すぎるから眠いのに、それもわかっていない。
1月31日
電車でもらったのか、昨日から風邪をひいて、家の中で過ごしています。CDで落語を聞いて、夕食の支度をして、ふとんの中です。風邪薬で頭がぼんやりするけれど、眠れずにいます。退屈です。かといって、落語を何本も聞くと、頭がいっぱいになってしまうし、音楽も聴く気にもならないです。おまけに、母から電話がかかってくるし。イライラします。
2月27日
みんなでご飯を食べるのって、おいしいのかしら。わたしは、独りで黙々と食べた方が、気楽です。何人で食べても、ものの味が変わるわけでなし、だったら、独りで食べたい。みんなで食べるのって、見られているようだし、速度も合わせなきゃいけないし。
実家に行って、そう思いました。
加納さおり
1月16日
今日は歯科に行きました。自転車はバッテリを抜いて持っていました。重い。
母から電話があり、母は何もしたくないとのこと。日本の叙情歌のCDは聴くかと尋ねたら、使い方がわからないとのこと。父に聞けばいいよと言ったら、父は怒ると言いました。やれやれ。主人に訊いてみて、申し込みます。通販限定なので。CD7枚に本まで付いてくるから、今度実家に行くときは、重いだろうなぁ。寝てばかりいるよりは、歌でも聴いていてくれたほうがいいです。
1月18日
よい天気ですね。ここのところ、朝の3時、4時なんて早い時刻に目が覚めていたもので、遂に午前中眠ってしまいました。眼科に行く予定だったのに。とりあえず、昼食を買いに、コンビニまで歩いて行くと、上着が要らないほど暖かい。
わたしは鍵がどちら向きでどちらに回すのか分からない者ですので、鍵にシールを貼っています。携帯の充電器もそうです。自転車は乗るまでにやることが多いので大変です。ひとつめの鍵を外して、バッテリをつけて(向きがあるのでそれを覚えるのに手間取った)、最後にもう一つの鍵を外す。帰ってきたら、その逆をやるのですので、たまらない。アスペって本当に大変です。
1月26日
午前中はしっかり食べた後、眠ってしまいました。ずっと頭の中で音楽が流れていたので、脳が疲れているんだと思い、思い切って寝ました。ひどくなると、音楽で思考が止まってしまうのです。その前に手を打ったわけです。何かじっとしていることができなくて、お茶を飲んだり、スルメをかじったり。今日は精神科の受診日。行くにはまだ時間があるし。
1月28日
日本の叙情歌のCD7枚+歌詞集を持って、実家に行ったら、CDラジカセが壊れていました。早速父が買いに行ってくれました。一緒に聴いています。と言っても、母は早くも眠ってしまいました。叙情歌は、わたしも嫌いではないけれど、母が聴いてくれないと意味がないのです。はぁ。
1月30日
今朝は、4時前に目が覚めて、ずっと眠れずにいます。母が起きてくるまでの長いこと。
薬が変わって、昼間は落ち着くようになりましたが、早く目が覚めるのは困りものです。これはどこにいても同じ。テレビを付けて、音楽を聴きながら、ふとんの中で、過ごしています。そろそろ起きようかなぁ。母はだんだん率直というか身勝手になってきました。シャツの裾もだしっぱなし。服を沢山持っているのに、無いと思っています。一日中食べることばかりを心配しています。一日中寝ています。薬が多すぎるから眠いのに、それもわかっていない。
1月31日
電車でもらったのか、昨日から風邪をひいて、家の中で過ごしています。CDで落語を聞いて、夕食の支度をして、ふとんの中です。風邪薬で頭がぼんやりするけれど、眠れずにいます。退屈です。かといって、落語を何本も聞くと、頭がいっぱいになってしまうし、音楽も聴く気にもならないです。おまけに、母から電話がかかってくるし。イライラします。
2月27日
みんなでご飯を食べるのって、おいしいのかしら。わたしは、独りで黙々と食べた方が、気楽です。何人で食べても、ものの味が変わるわけでなし、だったら、独りで食べたい。みんなで食べるのって、見られているようだし、速度も合わせなきゃいけないし。
実家に行って、そう思いました。
加納さおり
世田谷通信
(101)
猫 草
履歴書に「特技」という欄がある。ご丁寧に「趣味」「資格」「賞罰」などもあり、そんなに書くことないんですけど!と思いつつ、空欄では無味乾燥な人間に思われる気がして、特技欄にはしかたなく「百人一首」と書き込んでいた。子供のころから家で遊んでいるうちに100首覚えていたし、結構得意だったので、まあ書いてもいいだろう・・という程度である。そしてそこに注目する面接官もこれまではいなかった。
ところが。昨今の百人一首「ブーム」と呼びたいほどの盛り上がりである。「ちはやふる」という百人一首を題材としたコミックとアニメ人気で、今までマイナーな存在だった名人・クイーン戦も注目されている。もし今、特技欄に書いたら「おお、さぞかし強いんでしょうな。A級ですか?」などと言われそうである。とんでもない!加えて、中学生の長男。学校の百人一首大会までに「覚えるわ」と3日で100首クリア。それまで読み手をやりつつ片手間でも勝てたのに、百人一首のCDをランダムモードにして本気で対戦したら10枚差で負けた。その後二度と勝てない。自分の反射神経、集中力、記憶力の衰えは目を覆うばかり。
というわけで40代にして特技欄に書けそうな唯一の項目を失ってしまった。まあ履歴書を書く機会自体があまりないだろうが・・。なんだか悔しい。
小学校でももちろん百人一首は覚えるし、多くの学校で大会もあるのではないだろうか。それにしても気になるのが先生方の「読み」である。すべての先生が国語を専門にしているわけではないとは言え「こひすてふ~わがなはまだき~」「先生、こいすちょうだよ」「あ、ごめんね」なんて声が教室から聞こえてくると、「先生、読み手かわります!」と乱入したくなる。中学でも百人一首大会では各教科の先生方が交代で読むので、「リズムも速さもめちゃくちゃなんだよね・・」といつもCDに慣れている長男は嘆いていた。
和歌ゆえに、やはり声に出して詠唱し、言葉の響きの美しさと、掛詞の意味合いの深さを味わってほしいもの。今になって「そういう意味だったのね」と納得や共感することができる句も多いのだが、競技かるたになると「おと・かけ」とか「ながら・うし」のように意味よりもスピード重視な覚え方をするのも、なんだかなあと思うところである。
一時のブームでなく、ゲーム感覚でなく、万葉の昔から平安を経て、21世紀の現在まで読み継がれてきた言葉が、一首でも心に響くといいな、と思う。
(101)
猫 草
履歴書に「特技」という欄がある。ご丁寧に「趣味」「資格」「賞罰」などもあり、そんなに書くことないんですけど!と思いつつ、空欄では無味乾燥な人間に思われる気がして、特技欄にはしかたなく「百人一首」と書き込んでいた。子供のころから家で遊んでいるうちに100首覚えていたし、結構得意だったので、まあ書いてもいいだろう・・という程度である。そしてそこに注目する面接官もこれまではいなかった。
ところが。昨今の百人一首「ブーム」と呼びたいほどの盛り上がりである。「ちはやふる」という百人一首を題材としたコミックとアニメ人気で、今までマイナーな存在だった名人・クイーン戦も注目されている。もし今、特技欄に書いたら「おお、さぞかし強いんでしょうな。A級ですか?」などと言われそうである。とんでもない!加えて、中学生の長男。学校の百人一首大会までに「覚えるわ」と3日で100首クリア。それまで読み手をやりつつ片手間でも勝てたのに、百人一首のCDをランダムモードにして本気で対戦したら10枚差で負けた。その後二度と勝てない。自分の反射神経、集中力、記憶力の衰えは目を覆うばかり。
というわけで40代にして特技欄に書けそうな唯一の項目を失ってしまった。まあ履歴書を書く機会自体があまりないだろうが・・。なんだか悔しい。
小学校でももちろん百人一首は覚えるし、多くの学校で大会もあるのではないだろうか。それにしても気になるのが先生方の「読み」である。すべての先生が国語を専門にしているわけではないとは言え「こひすてふ~わがなはまだき~」「先生、こいすちょうだよ」「あ、ごめんね」なんて声が教室から聞こえてくると、「先生、読み手かわります!」と乱入したくなる。中学でも百人一首大会では各教科の先生方が交代で読むので、「リズムも速さもめちゃくちゃなんだよね・・」といつもCDに慣れている長男は嘆いていた。
和歌ゆえに、やはり声に出して詠唱し、言葉の響きの美しさと、掛詞の意味合いの深さを味わってほしいもの。今になって「そういう意味だったのね」と納得や共感することができる句も多いのだが、競技かるたになると「おと・かけ」とか「ながら・うし」のように意味よりもスピード重視な覚え方をするのも、なんだかなあと思うところである。
一時のブームでなく、ゲーム感覚でなく、万葉の昔から平安を経て、21世紀の現在まで読み継がれてきた言葉が、一首でも心に響くといいな、と思う。
=時々の記=
(72)
1月14日
お祈りに支えられ、私のめまいが取れてきました。
主人の主治医の三重大学病院の先生までが、いつも、同伴の奥さんが今日は来ていませんが、どうされたのですか?と心配してくださったとのこと。100人以上の患者さんを診ておられるのに、私のことまで、覚えてくださっているなんて、とにかく、感謝いたします。入院病棟が新設されましたが、どんなに豪華な病室でも、入院生活は、経験した者でないとわからないもので、我が家ほど、良いところはないと、改めて、住み慣れた家庭の良さを、感じ取っていました。
今朝も、朝から曇り空です。雪が降ってきそうですが、どうぞ雪になりませんようにと、願っています。今日は、大学入試センター試験の第一日目です。
学んできたことの集大成の日です。今は、このセンター試験で、受ける大学が決まりますから、とても重要なテストです。実力が十分に発揮できますようにと、他人のことながら、祈っています。
枯れ芦(あし)や今も青鷺飛び立ちぬ
馬術部の晴れ晴れ走る寒稽古
川よどみ鏡を成しぬ寒の入り
靄(もや)かかるそこ冷えの街過ぎにけり 馬場路哉
1月16日
寒い毎日ですね。この厳しさに耐えてこそ、春を迎えられるのですね。今年は、今の所、こちらは、雪はあまり降っていません。とても、ありがたいです。でも何時、雪が降ってもよいように車は万全対策してあります。
信仰が弱りつつでも支えられ、くすぶりながらも、何とか、天の神様に祈り続けること、そして、神様がよき働きを示してくださること。このことを、信じて、生きていける幸いを感謝いたします。寒さで、かなり、エネルギーが消耗され、とても疲れやすくなっています。この弱さを知って、体調を整えることが大切なのでしょう。
傲慢な者で、つい調子がよいと、がんばりすぎてしまうのでしょうね。
早く、あの暖かいお日様の日差しを浴びたいものです。それまで、じっと耐えなければなりませんね。
1月19日
神谷美恵子の生きがいについての本を読み進めていますが、人は、絶望の境地に陥るような病の告知を受けて、大方の者は、死んでしまいたいと。しかし、しばらくして、信仰が与えられたとき、野の花のように、ただ生きているだけでもよい。神様に生かされているのだと、感謝の気持ちに変わっていくと。信仰とは、このように、絶望から、這いあがらせ、生きる望みを与えてくれるものなのです。
自分では、そんな信仰を持っているなんて、考えられませんが、万物を支配してくださる、全能の神様は、一人ひとりを支え、導いてくださっているのですね。
また、神谷美恵子は、こうも言い伝えています。
目に見えるもの、特に、学歴、この世的な名誉、地位、富。それらは、ひと時の喜びにすぎず、それらは、一つとして、生かされている喜びに通じないものだと。生かされている、そう感じることができる人は、この世にあって、もっとも苦しみ、もっとも悲しむ人の中にありますと。
この一年、野の花のように風に揺られながらもなお、神様に信頼して、生かされていることに、感謝できる日が多くあることを、願っています。
生きがいを説く女史の言(こと)年新た
手を振りて歩ける老いや寒のうち
落ち葉掃き大き袋に詰めをりぬ 馬場路哉
2月6日
こちらは、今朝は冷たい雨でした。今も、降り続いていますが、雪に変わらなければよいのにと思って空を眺めています。日本海側の地方は非常に雪の量が多く、お年寄りには、せいかつしていくのに、とても大変な状況です。
どうぞ、神様、お助けください、と祈らずにはいられません。
病の中にある方にも、神様の恵みと憐みによって、生きる喜びが与えられますようにと、切にお祈りしています。
馬場暁美
(上野緑ヶ丘教会員)
ジャン・カルヴァン著
ヘンリー・J・ヴァンアンデル編
吉岡 繁訳
第4章 来るべき世への希望
3 この世の祝福を軽蔑してはならない
1 それにもかかわらず、この世の評価を低めようとしてなされる間断ない努力が、この世の生活を憎み、神の恩を忘れさせるようであってはならない。この世の生は数え切れない悲惨に満ちているとはいえ、軽蔑されてはならない神の祝福の中に数えられる価値を持っている。
それで、この世の歩みに神の好意を少しも見い出さないなら、われわれはすでに、神に対して少なからぬ忘恩の罪を犯していることになる。しかし、特に信者にとって、この世の歩みは全て信者の救いの前進のためのものであるから、明らかに神の好意の証しである。
2 なぜなら、神は、われわれに永遠の栄光の嗣業を全て明らかに示すのに先だって、それより劣る事柄で、われらの父であることを示そうとされるからである。すなわち、それは日々われわれの上に注がれる賜物の祝福のことである。
したがって、この世の生が神の好意を数える働きをしているのに、その中にひと欠片の良いものもないかのように、あえてこの世の生を軽蔑すべきであろうか。われわれは十分な思慮深さと感謝の思いをもって、この世の生を投げ捨ててはならない神の愛の賜物と考えなければならない。
というのは、数多くあって、しかも明瞭なのに、もし聖書の証言が不足しているかのように言うなら、生命の光を与え、それをさまざまに用いさせ、またそれを保つために必要は手段を与える神に感謝すべきことを、自然そのものさえ、われわれに求めているからである。
3 さらにこの世の生が、天国の栄光を受けるために、われわれの準備に役立つことを考えるなら、さらに大きな感謝をすべきである。なぜなら、天において栄冠を与えられる者は、まず地上で善き戦いをするように定められ、戦いの困難を実際に克服し、勝利を得るのでなければ、天での勝利を祝えないようにされたからである。
もう一つの理由は、われわれは、地上で神の好意の前味を味わい、それによって神の好意が完全に現われる時の素晴らしさに、いっそう大きな望みと憧れを持つのである。
4 この世でなされるわれわれの歩みは、神の恵みの賜物であり、それは神のおかげであるのみで、感謝をもって心に留めておくべきことであるという結論に達したなら、次は、その悲惨なことについて考えるのがよかろう。
そうしないと、すでに見てきたように、われわれは、生まれつきの傾向である、この世の生の過度の享楽から解放されないからである。
(つのぶえ社出版) この文章の掲載は訳者の許可を得ております。
『旧・新約婦人物語』(31)
良妻アビガイル
(サムエル記上 15章以下)
皆さんもご存知かと思いますが、イスラエルの最初の王はサウルです。彼は全国民の間から神に選ばれた王でしたが、後に心驕り、神に背いて善い政治を行なわなかったために、神に見捨てられました。
「・・・あなたが主のことばを捨てたので、主もまたあなたを捨てて、王の位から退けられた」(15:23)とあります。サウルが王位を失いましたので、神はサムエルをベツレヘムの人エッサイのもとに送って、彼の息子ダビデに油を注ぎ、王位を継がせました(16:1)。ところが、サウルは自分が神に捨てられ、王位を失ったのに気付かず、かえって、ダビデを妬み、憎みます。しかも、ダビデが各地の戦いで勝利をはくし、彼の声望が高まるに従って、サウルはついに彼を殺さんと企てました。
アビガイルの話は、ダビデがサウルより逃れ、生死をともにする兵士七百余名を率いて、マオルという荒野に隠れていた時のことです。その近くにナバルという家族が住んでいました。ダビデの兵士たちは、このナバルの羊飼いたちと大変親しく、羊を盗みに来るペリシテ人を防いで、よい羊の番人となり、彼らは荒野の生活の窮乏にも、決して盗んだり、害を加えたりいたしませんでした。
ある日のこと、ダビデはナバルが羊の毛を切るお祝いをすると聞いて、彼は十人の若者を遣わして、丁寧な挨拶をさせて、彼の羊を守った報いとして、何か食べ物を下さるように頼みました。しかし、ナバルの答えは以外でした。
「ダビデとはだれか。エッサイの子とはだれか。このごろは、主人を捨てて逃げるしもべが多い。どうしてわたしのパンと水、またわたしの羊の毛を切る人々のためにほふった肉をとって、どこからきたのかわからない人々に与えることができようか」(25:10~11)と、実に人を無視した失礼な態度を取りました。
これでナバルの人格がうかがわれます。彼は自分に財産に心引かれていましたし、聖書は彼を「剛情で、粗暴であった」(25:3)と言っております。彼は他人を顧みませんでした。ダビデは、この失礼な返事を聞きまして、烈火のように怒り、直ちに兵四百人に命じてナバルの家族を殺そうと決心いたしました。
この危機に当たって登場してくるのが、この話の主人公ナバルの妻アビガイルです。彼女はこの出来事を聞いて驚きましたが、賢明に事の理非曲直を判断し、主人に相談もせず、直ちに多くの食物を贈り、主人に代わって非礼を詫び、すべてを自分の責任に帰して努力したのです。その言葉は25章24節から31節にあります。
彼女は自分の主人の非を詫びるとともに、悪に報いるに悪をもってする復讐の無駄であることを述べて、無意味に血を流すのは、主のみこころではございませんと、丁重に争いを避けるように努めました。
これに対するダビデの答えもまた立派なものです。
「きょう、あなたをつかわして、わたしを迎えさせられたイスラエルの神、主はほむべきかな。あなたの知恵はほむべきかな。あなたは、きょう、わたしがきて血を流し、手ずからあだを報いることをとどめたのです」(25:32~33)と言って、神をたたえ、彼女をほめるあたり、讃美の歌を聞くようです。良妻アビガイルはこのように智恵と勇気をもってダビデの怒りをなだめ、ナバル一家の危機を救いました。
ところで、夫ナバルはどうでしょう。妻が家に帰って来ても、彼は妻が自分の命を救ってくれたのを知らず、いつものように酒に酔い潰れているのです。翌朝、妻からこの様子をつまびらかに聞かされて、驚きのあまり、「彼の心はそのうち死んで、彼は石のようになった」(37)と聖書にある通り、10日の後、ついに死んでしまいました。
その後、ダビデはアビガイルの智恵の勝れていること、慎み深いこと、その美しさに目をとめて、彼女と結婚いたしました。
ところで、この話は私たちに何を物語っているのでしょうか。
第1 アビガイルの夫ナバルは、彼女にとって決してふさわしい夫ではありませんでした。これは当時の習慣で親たちが、本人の意志と幸福を顧みず、自分たちの都合のよい結婚をさせたからだと思います。昔の封建的な日本の社会にも見られることです。このような不釣合いな結婚であったにも関わらず、アビガイルはよく自分の立場を守り、賢く立ち回わって、夫の危機を救い、忠実に妻としての務めを果たしたことは、大いに学ぶべきだと思います。
第2 しかし、神はみ旨によってこの不釣合いな結婚生活に終止符を打ち、この良妻にふさわしい良き夫ダビデを与えたまいました。神はこのように、不幸わせを忍んでいる内に公平にしてくださいます。もしも私たちが、このような境遇にあると知りましたら、アビガイルの態度を学ぶべきです。
ポーリン・マカルピン著
(つのぶえ社出版)この文章の掲載は「つのぶえ社」の許可を得ております。
(サムエル記上 15章以下)
皆さんもご存知かと思いますが、イスラエルの最初の王はサウルです。彼は全国民の間から神に選ばれた王でしたが、後に心驕り、神に背いて善い政治を行なわなかったために、神に見捨てられました。
「・・・あなたが主のことばを捨てたので、主もまたあなたを捨てて、王の位から退けられた」(15:23)とあります。サウルが王位を失いましたので、神はサムエルをベツレヘムの人エッサイのもとに送って、彼の息子ダビデに油を注ぎ、王位を継がせました(16:1)。ところが、サウルは自分が神に捨てられ、王位を失ったのに気付かず、かえって、ダビデを妬み、憎みます。しかも、ダビデが各地の戦いで勝利をはくし、彼の声望が高まるに従って、サウルはついに彼を殺さんと企てました。
アビガイルの話は、ダビデがサウルより逃れ、生死をともにする兵士七百余名を率いて、マオルという荒野に隠れていた時のことです。その近くにナバルという家族が住んでいました。ダビデの兵士たちは、このナバルの羊飼いたちと大変親しく、羊を盗みに来るペリシテ人を防いで、よい羊の番人となり、彼らは荒野の生活の窮乏にも、決して盗んだり、害を加えたりいたしませんでした。
ある日のこと、ダビデはナバルが羊の毛を切るお祝いをすると聞いて、彼は十人の若者を遣わして、丁寧な挨拶をさせて、彼の羊を守った報いとして、何か食べ物を下さるように頼みました。しかし、ナバルの答えは以外でした。
「ダビデとはだれか。エッサイの子とはだれか。このごろは、主人を捨てて逃げるしもべが多い。どうしてわたしのパンと水、またわたしの羊の毛を切る人々のためにほふった肉をとって、どこからきたのかわからない人々に与えることができようか」(25:10~11)と、実に人を無視した失礼な態度を取りました。
これでナバルの人格がうかがわれます。彼は自分に財産に心引かれていましたし、聖書は彼を「剛情で、粗暴であった」(25:3)と言っております。彼は他人を顧みませんでした。ダビデは、この失礼な返事を聞きまして、烈火のように怒り、直ちに兵四百人に命じてナバルの家族を殺そうと決心いたしました。
この危機に当たって登場してくるのが、この話の主人公ナバルの妻アビガイルです。彼女はこの出来事を聞いて驚きましたが、賢明に事の理非曲直を判断し、主人に相談もせず、直ちに多くの食物を贈り、主人に代わって非礼を詫び、すべてを自分の責任に帰して努力したのです。その言葉は25章24節から31節にあります。
彼女は自分の主人の非を詫びるとともに、悪に報いるに悪をもってする復讐の無駄であることを述べて、無意味に血を流すのは、主のみこころではございませんと、丁重に争いを避けるように努めました。
これに対するダビデの答えもまた立派なものです。
「きょう、あなたをつかわして、わたしを迎えさせられたイスラエルの神、主はほむべきかな。あなたの知恵はほむべきかな。あなたは、きょう、わたしがきて血を流し、手ずからあだを報いることをとどめたのです」(25:32~33)と言って、神をたたえ、彼女をほめるあたり、讃美の歌を聞くようです。良妻アビガイルはこのように智恵と勇気をもってダビデの怒りをなだめ、ナバル一家の危機を救いました。
ところで、夫ナバルはどうでしょう。妻が家に帰って来ても、彼は妻が自分の命を救ってくれたのを知らず、いつものように酒に酔い潰れているのです。翌朝、妻からこの様子をつまびらかに聞かされて、驚きのあまり、「彼の心はそのうち死んで、彼は石のようになった」(37)と聖書にある通り、10日の後、ついに死んでしまいました。
その後、ダビデはアビガイルの智恵の勝れていること、慎み深いこと、その美しさに目をとめて、彼女と結婚いたしました。
ところで、この話は私たちに何を物語っているのでしょうか。
第1 アビガイルの夫ナバルは、彼女にとって決してふさわしい夫ではありませんでした。これは当時の習慣で親たちが、本人の意志と幸福を顧みず、自分たちの都合のよい結婚をさせたからだと思います。昔の封建的な日本の社会にも見られることです。このような不釣合いな結婚であったにも関わらず、アビガイルはよく自分の立場を守り、賢く立ち回わって、夫の危機を救い、忠実に妻としての務めを果たしたことは、大いに学ぶべきだと思います。
第2 しかし、神はみ旨によってこの不釣合いな結婚生活に終止符を打ち、この良妻にふさわしい良き夫ダビデを与えたまいました。神はこのように、不幸わせを忍んでいる内に公平にしてくださいます。もしも私たちが、このような境遇にあると知りましたら、アビガイルの態度を学ぶべきです。
ポーリン・マカルピン著
(つのぶえ社出版)この文章の掲載は「つのぶえ社」の許可を得ております。
戦犯者の獄中記 (14) 遠山良作 著
昭和21年
6月15日
-空腹なる3オンス給与-
私たちがこの独房に入った頃より給与は悪くなった。水の中に米粒が浮いているような粥が一日に二杯のみである。私たちはこの食事を3オンス(約米6勺)給与と呼んだ。
毎日朝十時頃と三時頃、この粥とジャングル野菜(草の葉)が二つ三つ塩汁に浮いている汁を運んで来てくれる。食器(缶詰の空き缶)を扉の間から出しておくと、空缶で作った杓子に一杯ずつ注いでくれるのである。
時には注いで行くうちに、その量も少なくなって半分位になる時もある。この薄い粥でも命を支えてくれる。毎日ひもじい日が続く。隣りの小林曹長は「腹一杯飯が食べたい、食べられたら何時死刑になってもよい」と言う。冗談とも本気ともとれる。
日が暮れて暗くなると、一層空腹を覚える。
「オーイ、聞こえるか」
「うん、聞こえるぞ」
「腹が減ったなあ、もう一ぺんあのにぎりずしをたべてみたいなあ」
「そうだな、俺も昨晩すしを食べた夢を見たぞ」
と食べることの会話が続く。
鉄の扉に頬を寄せてしゃべると、隣りの房にいる友と、なんとか話しが出来ることは有り難い。しかし長くしゃべると腹が減るので、いいかげんで話を中止する。空腹のあまり、水ばかりがぶがぶと呑むと腹がグウグウと鳴る。
便所には毎日行くが、便は一週間に一回位しか出ないのである。なんとか出ないかとふんばる。痛いが我慢して力むと血が混じった堅くて黒っぽい、うさぎの糞状に似た小さな固まりが三つ位出る。食べた物が全部消化されてしまうらしい。
誰の顔を見ても、日に日にやつれて行くのがよく分かる。眼ばかりギョロギョロと光る。太陽に当たらないので青白く、皮膚がたるむ、私の視力も減退し、歩行することさえ困難になる。
給与の悪いのは、この独房ばかりではない。一般キャンプ(雑居房)でも栄養失調が原因で患者が続出しだした。このままの給与が続くなら、生命の保証すら困難であると、軍医は刑務所側に給与の改善を申し込んだ。しかし、彼らの答えは「規定だからやむを得ない」との返事である。
水多き おかゆなれども 有難く 幾度も噛みて 吾は味わう
この文章の転載はご子息の許可を得ております。
あなたに聖書を
これを受けて、キリストは、「あなたがたは『目には目を、歯には歯を』ということを聞いているが、悪人に手向かってはならない。誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬も向けなさい」と言われました。マタイによる福音書5章にある言葉です。
ある集会で、何人かの人たちと、このキリストの言葉について話し合った時、共通して出された感想は、「そんなことはとても出来そうでなくて、一つぶん殴られたら、二つ三つすぐぶん殴り返すのではないか。もし一つ殴られても平気でいたら『この野郎』と言っていくらでも殴ってくることになりはしないか」ということでありました。
皆ブッシュ前大統領と同じように「やっつけられたら、やりかえす」考えでいるなあと思ったことであります。かく言うわたしは、老人で力がありませんから、わけもなくぶん殴られたら「何をするんだ」と叫ぶか、逃げるだけの足の速さを持っていませんから、精々持っている杖で相手の急所を打つぐらいのことはするか、と思ったりしています。
しかし、キリストは、十字架に付けられて殺される時に、「神様、彼らを赦してやってください」と祈られました。こういう人ですから「右の頬を打つなら、左の頬も向けなさい」と言うことが出来たのですね。こういうことが言えて、その通りに生きた人がいることが、そうでない人間の中にあっての救いとなっているのではないか、ということと、それに照らしての自分のあり方が問われています。聖書からは、そういうキリストのことが示されています。
篠田 潔
(参照聖句・マタイ5:38~39)
(電話によるメッセージより・日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
4月
1日 小林 光 (日本基督教団熱田教会牧師)
8日 小林 光 (日本基督教団熱田教会牧師)
15日 小林 光 (日本基督教団熱田教会牧師)
22日 田口博之 (日本基督教団名古屋桜山教会牧師)
29日 田口博之 (日本基督教団名古屋桜山教会牧師)
「キリストへの時間」放送予定
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
「ローマ人への手紙」研究 (88)
第53課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
ユダヤ人の拒否は全員ではなく、残される者はやがて救われる。
11章1~10節 (7)
9節、10節は詩篇69:22~23からの引用で、キリストの受難とキリストの敵の上に来るべき審きについての預言です。これはいわゆる呪いの詩であって、極度に復讐的なもので、キリスト者の敬虔な用い方には相応しくないものだと言う人もいます。しかし、これは明らかにイエス・キリストの預言であって、新約におけるこのような言葉に当てはめることが出来ます。詩篇69:9の「あなたの家を思う熱心がわたしを食いつくし、あなたをそしる者のそしりがわたしに及んだのです」とあり、ヨハネ2:13~17と比較しましょう。また、詩篇69:21「わたしのかわいた時に酢を飲ませました」とヨハネ19:28~30を比較しましょう。
パウロは、詩篇69:69:22~23を不信仰なユダヤ国民の上に来る神の審きについて述べているものと見ています。「ここで通告されている審きは象徴的に述べられています。その意味は彼らの祝福が呪いとなり、盲目性と弱さ、心の頑なさと悲惨が彼らの上に臨むということです。この悲惨と言う理念は視力の暗さと老年の虚弱さとして言及することによって強く表現されている。若さの活力と行動力は、神の慈しみの結果を表現する通常の形象である」(ホッジ)。
詩篇69が祈っている事柄は、パウロの時代とそれ以後にユダヤ人たちの上に現実に生起したことでした。こうして、神がユダヤ人を拒否されたことについて、パウロが述べてきたことは、少しも新しいことではなく、既に旧約において述べられていることなのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
この文章の転載は訳者の許可を得ております。
第53課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
ユダヤ人の拒否は全員ではなく、残される者はやがて救われる。
11章1~10節 (7)
9節、10節は詩篇69:22~23からの引用で、キリストの受難とキリストの敵の上に来るべき審きについての預言です。これはいわゆる呪いの詩であって、極度に復讐的なもので、キリスト者の敬虔な用い方には相応しくないものだと言う人もいます。しかし、これは明らかにイエス・キリストの預言であって、新約におけるこのような言葉に当てはめることが出来ます。詩篇69:9の「あなたの家を思う熱心がわたしを食いつくし、あなたをそしる者のそしりがわたしに及んだのです」とあり、ヨハネ2:13~17と比較しましょう。また、詩篇69:21「わたしのかわいた時に酢を飲ませました」とヨハネ19:28~30を比較しましょう。
パウロは、詩篇69:69:22~23を不信仰なユダヤ国民の上に来る神の審きについて述べているものと見ています。「ここで通告されている審きは象徴的に述べられています。その意味は彼らの祝福が呪いとなり、盲目性と弱さ、心の頑なさと悲惨が彼らの上に臨むということです。この悲惨と言う理念は視力の暗さと老年の虚弱さとして言及することによって強く表現されている。若さの活力と行動力は、神の慈しみの結果を表現する通常の形象である」(ホッジ)。
詩篇69が祈っている事柄は、パウロの時代とそれ以後にユダヤ人たちの上に現実に生起したことでした。こうして、神がユダヤ人を拒否されたことについて、パウロが述べてきたことは、少しも新しいことではなく、既に旧約において述べられていることなのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
この文章の転載は訳者の許可を得ております。
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緑を大切に!
書籍紹介
エネルギー技術の
社会意思決定
日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授
「本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
共著者・編者
鈴木達治郎
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント
スーザン・ハント
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
鈴木英昭著
「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円