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「今月のことば」
たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。
=マタイ16:26=
このみ言葉は、時代や人種を越えて多くの人の目標を示してきました。救い主イエス様は人を心から愛し、その存在を高く評価します。主は一人の人を全世界と比較します。そして全世界を一人の人の魂の価値より低いとします。人が全世界を得ても、魂を失うならば全て失うことであると言い、高く人の魂を評価さるのです。しかし現実は違いすぎます。差別や貧しさ、いじめ、争い、戦争は社会の世界の現実の姿です。そうしてそれは、私たち一人ひとりの心の姿です。人間の歴史そのものです。
このように大切な宝を授けられている人間とは何でありましょう。他人事としてではなく、私たちは魂をどのように考えているのでしょうか。それをイエス様は私たち個々人に問うています。人は神様がお示しになられたみ言葉を、目先のことに遮られほとんど日常の生活で忘れているのではないでしょうか。しかし、キリスト者はこのみ言葉を認めたいと願っています。
このみ言葉を認めようとしないなら、それは自分自身を認めないのと同じなのです。
主イエス・キリストは、この魂の値打ちを知っておられるお方です。滅びを悲しみ、見過ごすことをなさらないのも主イエス・キリストです。その滅びゆく私に道を示し、確かさの証明として、救いの道を、あの十字架の死をもって証しされたのです。イエス・キリストは私を「失われたまま」にされることを、よしとされず、その道となり、導き手となり、み霊をもって救いへと共に歩んでくださるお方です。
私たちには、真実、心の相談相手は必要です。諦めてはなりません。イエス・キリストの身元にまいりましょう。長い年月、信仰生活をされてきた方であろうと、この主イエス・キリストの愛と救いの確かさは、全世界をもうけても代えられない、「宝」です。救いの恵みを失うならば、全てを奪われても失ってはならないものと信じています。
信仰とは、この「救いの宝」を固く守り続けるために日々自分を振り返り、悔い改めて神様のみ元に立ち返る歩みをさせてくださいと願い続けることなのです。この救いと希望に満ちた神様の御業を隣の方に伝えましょう。
そこには、「きらめきの信仰」があるからです。
「小閑記」
過越しの祭の六日まえに、イエスはベタニヤに行かれた。そこは、イエスが死人の中からよみがえらせてラザロのいた所である。
=ヨハネ12:1=
キリスト者にとって、「ベタニヤ」という名には不思議ですが、心を引く力があります。その町ではなく、その町の中の特別な家庭にです。キリスト教の全歴史を通して、そのような家庭を持つことは、この世で最大の「証の場」だと考える人は数多くおられます。私たちも周りにおられるよい家庭(家族)に出会う時、嬉しい思いになりますが、それはその通りですが、聖書の中でのこの家庭は、その「真のべタニヤ」だと言えるでしょう。
この聖書に登場する「家庭」をキリスト者は、その家をそのように呼ぶことに誰一人疑う人はいないでしょう。それはイエス様がおいでになったからです。その家庭では、イエス様は何時でも歓迎されました。ラザロとラザロの姉妹たちにとって、イエス様をお迎えすることは自然であったと同様に、イエス様にとってもそこに行くことは、得難い喜びでした。
そのような家庭は、人がこの世で持ちうる最善の財産であります。成功や、人生の喜びは、富や、名誉や、力の中にあるのではなく、「神との平和を得ている」ことにあり、魂の平和、家庭の平和、そして現在神様から与えられている富を、全ての人と分かち合い、支え合うことに喜びと感謝を、あの「べタニヤ」を日々の生活で示していたのです。
イエス様に今生かされていること、そうして生きていることに感謝し、家庭・家族の中にイエス様の愛を証しすることを喜ぶことは素晴らしいことです。とは言え、私たちは醜い心、自己中心で、本当に罪み深いものでもあります。そこから救い出されるその秘訣は、ただ一つ、「祈り人へと成長させていただくこと」です。日々の歩みの中で、今を感謝の思いにさせられることです。思い出し祈りの時もあるでしょう。忘れていました祈りもあるでしょう。困った時のみの神頼みの時もあるでしょう。今年のはじめに、聖書の通読を決心して始めても、中断、断続もあるでしょう。
そんな不信仰者にもイエス様との出会いがあります。思い出し読みでも良いです。短い時間でも心で読みましょう。
「べタニヤ」の家庭は、そのことをお示し下さいました。キリスト者は、そのことを感謝して知るからこそ、主にある家族、夫婦、兄弟姉妹が与えられることを願ってきましたし、これからも願い続けるでしょう。
(聖書をお持ちの方は、ぜひヨハネによる福音書11章1節から12章25節までをお読みください)。
世田谷通信(222)
猫草
川沿いの遊歩道を自転車で通ると、巨大なレンズを備えたカメラを川面に向けている方がいる。年齢は様々だが男性が多いような気がする。不動の背中に、「何を撮っているんですか?」なんて聞ける雰囲気はない。きっと何時間もシャッターチャンスを待っているのだ。声をかけた瞬間に機を逃したら取り返しがつかない。
知り合いが木の上に向かってカシャカシャカシャカシャと連写している所を通りかかった。エナガのヒナが1本の枝にぎゅうぎゅう並んで団子状態の様子を撮りたいそうな。親切に「ほらその枝」と教えてくださったが、どの枝やら。下から見てゴマ粒ほどのエナガがそこにいるのにどうやって気が付いたのか。例年巣があってこの時期にヒナがいるという経験値か、あるいはさえずりを聞き分ける知識なのか。
写真が上手な方の作品は、ちゃんと「撮りたい」の完成イメージが決まっていて、その瞬間を逃さずとらえるために構図も時間も季節もぜんぶ考えて、丁寧にじっくりと時間をかけている。自然を相手にした撮影である以上、偶然の要素はもちろん多く含まれる。それでも上手な人はやはり美しい写真を撮る。それは必然なのだ。
わあきれいとスマホを向ければ写真は撮れる。でも対象への向き合い方が違うのだと思う。人の見ている世界は違う、たとえ同じ場所にいても、ひとつとして同じものはない。そして二度と同じ瞬間はない。どう感じて切り取るかは、自分次第なのだと川風に吹かれながらそんなふうに思う。
<いきいき里山ものがたり>
* もう畑の土手には土筆が出ていました。寒い冬の間、土の中で逞しく根を伸ばし、暖かい日差しを受けて顔を出してくれたのですね。春を届けてくれてありがとう。 徳島県 寒がりや
* 都会の公園にも春がきました。川沿いの梅や桜、排水溝から植物が育って自然のハイキングバスケットみたいな感じが面白いです。ジュズ玉が美しい天然のジュエリー、アジサイの冬芽と葉痕はミシュラクラ(影、面影、まがいもの)現象と分かっていても、つい微笑んでしまう。ある時期、人面魚が話題になりますね。身近にある公園や広場は、季節、季節に展示物の変わる芸術館のようです。
《写真の説明と投稿です》
「美しい朝に」
⁂ 冬のオリンピックも始まりました。 コロナは、ますます感染が広がります。家から出ないで過ごすことが多くなり、そのような感じの写真になっていますが、お送りします。
⁂ 誕生日に、難病ITPが再発して、今現在入院して病室から、書いています。3年ほど前、意識を失って、集中治療室で、1ヶ月全身挿管で、寝たきりで過ごした時に、決心したー、30年以上依存した眠剤をやめようー床ずれができないように、自力で動けず管で、生かされていたので、薬害を疑って眠剤は、すべてー切られていたのですがなすすべもありませんーと家族に、告知されましたが、医療の皆様と、多くの読者の皆様と祈りによって、リハビリはすすんでいました。私自身は、まだ、祈りを忘れたカナリアのままですがー、しかし、寝たきりで目標にした眠剤を、全く服用なしで、身体から薬を抜くという目標は、家にては、1日3時間は、熟睡できていましたが、今回の緊急入院でも、病室で消灯の後、自然に3時間熟睡出来て、3日目です。
コロナの渦の中、血液内科での入院は、かなりきついものがあります。医療の方々の負担は本当に大変です。入院中も、売店にも降りれず、カーテンの中マスクの生活で、家族にも会えません。
癌治療は、身体にも心にも負担で、家族のある人もない人もー自分だけです。しかし、そこには、思いやりを携えた医療の方々の献身的な支えがありー、現在、夜中まで治療を受けています。下血があったため、夕食がとめられたため、まわりに、また、八つ当たりしてしまいました。
コロナーコロナーコロナー・・・、つらい出来事の中、自分の1歩1歩で、良い方向に進めることを語れることは感謝です。くじけたくないです。
コロナー・・・、何か意味があると感じます。力をあわせて乗り越えた世界ー私は生きて見てみたい。どうぞ、力をかしてください。
=沙耶香のつぶやき=
コロナが怖いので、なかなか外に出る勇気が出てこないよう。何時になったら、このいやなニュースから解放されるのとお母さんに言ったら、もう十分だよね。桜の頃かなあ~とのお母さんの返事。毎日スーパーに買い物に行くお母さんは、帰ってきたらすぐうがいと手洗いしてます。
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この掲載は原稿の時にお送りし、全て了解を得ております。編集子
『その愛のゆえに』
=時々の記=
(192)
1月20日
今日はとても寒い一日でした。雪が舞っていて外に出る気になれませんが、そっと窓から外を覗いていると小さな白い花が木々の間に咲いています。なんだろうと思って外に出て見るとなんとお茶の花です。お茶の葉っぱばかりを見てきた私にとってとても新鮮で、すがすがしい気持ちになりました。こんなに寒いのに、小さな花を咲かせているなんて。愛くるしく感じました。
庭の草引くや手元の日脚伸ぶ。
とき色に明け染むるなり寒の朝。
寒けいこめきて早起き体操ス。
奔放に枝の伸びたる枯れ木かな。 馬場路哉
1月23日
朝から氷点下という寒さでした。でもどんよりとした雲行きで何とか半日雨が降らずに過ぎましたが午後からは冷たい雨です。ホッカイロもあまり効果が感じられません。
荒れ畑草を刈られて霜白し。
藪椿早咲き満ちて鳥通ふ。
玉の風谷に轟き寒波来る。
水平の布引の山初景色。 馬場路哉
大寒が続いています。早く春の訪れが届いてほしいですね。もう少し、の我慢と一日一日生かされていることに感謝して暖かい春を待ち焦がれています。
1月27日
ジャーナルではたくさんの主人の俳句を載せていただき、大喜びしています。できるだけ信仰的なものを作っているというのです。俳句を作る意欲が消えずにいるのも、ジャーナルのおかげです。朝は4時30分から起きて聖書通読、続けて俳句を練っているようです。このように自分を表現して認めていただく場所があるから続けられるのです。読んでいただく方たちには大変申し訳ないのですが。
大寒や不死の願いを祈りける。
蝋梅や窪に日差しの届きける。
風雪の無きをよろこび鳥鳴きぬ。
夜明けなばとびたちにける寒カラス。
けらの音姿見えれ場小さかり。(けらとはキツツキのことだそうです。そういえば古い小屋の戸にはキツツキがつついた跡が残っています。) 馬場路哉
2月号をお届けいただいて、一足早く春を感じさせてくれたようでとてもうれしく感謝して読ませていただいています。
1月31日
今朝の冷たかったこと。久しぶりに朝の散歩に出かけましたが、まつげが凍って歩くとほほに水が伝ってくるのです。氷点下の寒さです。1月が今日で終わりですね。2月になって少しは寒さが和らいでくれるでしょうか。そのような思いを抱いて今月も一歩一歩踏みしめて歩んでまいりたいです。
エフェタとは開けとのこと読み初む。
寒の朝頭を垂れて祈りけり。
重ね着で今日の一日を乗り切らむ。
風花の光の子とて漂ひぬ。
寒風や塀高かりし父の里。(主人の父の里は伊賀の山奥の大山田村猿野というところです。こちらよりももっと寒いところです。) 馬場路哉
馬場暁美
「上野緑ヶ丘教会会員」
眸(ひとみ)
多くの人は新潟の2月、3月のイメージはニュースなどで豪雪地帯だとお思いでしょうが、花の宝庫の角田山など、陽の当たるところでは名前の通り雪割草が満開で、キクザキイチゲ、オウレンなどが春を告げてくれます。雪解けが進むと春の足音が猛スピードでやって来ます。それの来るのを今少し我慢して待っている「ジャーナル友」の一人です。 新潟県 H・Hさん
「ジャーナル友の皆さん」へ、何時も皆さんのメール便を楽しく読ませ頂いています。私の住む鹿児島はこれから春になります。寒い北国にお住まいの方々に一足早い暖かい鹿児島の様子を紹介いたします。指宿(いぶすき)の北東、田良岬より約800メート沖合に浮かぶ周囲約3キロにあるのが無人島の「知林ケ島」というのがあります。昔は松が茂り、夜、この付近を通過する帆船の船乗りは、風に揺れる松林の音を頼りに航行していたとのことから「知林ケ島」の名がついたという言い伝えがあります。これから3月から10月の間、大潮や中潮の干潮時に砂の道(砂州)が出現して、島を渡ることができます。一度お越しになりませんか。素敵な思い出になります。 鹿児島県 B・Aさん
根雪が少しずつ解け始めました。木の根の周りの雪も解けて土が見え始めました。家の裏山の渓流は水かさを増すことでしょう。木々の芽が少しずつ緑を増すのももう直ぐです。本格的な春がやってくる足音が聞こえてきます。 香川県 A・Aさん
私はこの「つのぶえジャーナル」を韓国語に翻訳して釜山にいる学生時代からの友人に送って8年目になります。ニュースではお互いにきらいな国の上位になっています。悲しいことですが、現実です。そうしてその友人は、それを教会の人にコピーして渡していると言います。高齢の方は嫌がりますが、近くて遠き国と言われますが、小さな交流はお互いに大切なこととして、その友人も「つのぶえジャーナル」を用いさせていただいて、「主にある信仰の友の絆を」を、深めさせていただきたいと思っていてくれています。文化や感性の違いはあっても、それを乗り越えていきたいと願っています。 大阪府 T・Tさん
春を教えてくれるユキヤナギが小川の辺に咲き始めました。庭の蝋梅も咲いています。ここ和歌山はもう春になりました。雪国の皆様、もうしばらくの辛抱でしょうが、健康が守られますように、お祈りいたします。 和歌山県 T・Tさん
<身近な出来事を「眸」に投稿してください> 編集子
十戒と主の祈り
鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
主の祈り(文語)
天にまします我らの父よ
願わくは
み名をあがめさせたまえ
み国を来たらせたまえ
み心の天に成る如く地にもなさせたまえ
我らの日用の糧を今日も与えたまえ
我らに罪を犯す者を我らが赦す如く我らの罪をも赦したまえ
我らを試みに遭わせず悪より救い出したまえ
国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり
アーメン
=御名=
第一の祈り①・神を知る
詩編51:17、ヨハネ17:1~8
最近、犬を飼っている人が多くなったそうです。そう言われて見ますと、朝夕、教会の近所も小さな犬を連れて散歩している人々を特に多く見かけるようになりました。またロボットが次第に巧妙になってきて、コンピューターの進歩のお陰で、ある程度の反応を示すように制御される犬のロボットまで登場してきました。人に癒しを与えるようになるということで人気があるようです。
しかし、人はなぜ癒しに欠けているのでしょう。また、本当の癒しはどこから来るのでしょう。それは人が神によって造られたのに、神を無視して、癒しを失ったのです。神は人を、思い付きからではなく、深い配慮をもって造られました(創世記1:26~27)。従って、人は自分を造ってくださった神を知ることで、自分の目的を知りますから、どうしても神との交わりの回復が必要です。その交わりが生まれたとき、本当の癒しが与えられます。芸術や自然や科学も神の作品の一つですから、そこに安らぎがあるのは当然ですが、その安らぎは神を直接知ることから来る安らぎに比べれば、あくまで間接的な安らぎです。
人は神から離れては、本当の癒しや平安はありません。それで、ダビデは、詩編でこのように、神が「唇を開いてくださることで、神を讃美することができます」と言います。なぜなら、人間の性質は罪の影響を受けているため、神を崇めるよりも、むしろ自分自身を崇めることを願うからです。
神を知らずに、崇めることはできません。しかし、大教理問答の190問の答えは、まず私たちが、「神を正しく崇めることのできない無能力と無気力を認める」必要があるという現実について語ります。
そこで、神の御名を崇められるために、この「無力と無気力」を少しでもとり除いて、神を崇める能力と気力が強化されるために、御子イエス・キリストを知ることが必要です。そもそも罪を犯して堕落したアダムとエバに対する救いの約束(創世記3:15)の成就として、イエス・キリストがこの世に来られ、アダム以来の選民の罪の償いのために十字架で死なれ、復活してくださいました。
バラ・マカルピン 日本伝道百年史
水垣 清著
(元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)
19 南長老教会ミッションの最盛期・・・2・・・
1923年(大正12)9月1日午前11時58分、未曽有の東京大地震の発生によって、横浜海岸教会は倒壊しバラ記念会堂も、全て灰儘に帰してしまった。またバラ先生の居住された地も地すべりのため破壊されてしまった。ちょうどその前日の8月31日、マカルピン師は第5女のベントン・マカルピン嬢が軽井沢で同じ南長老教会の宣教師として中国に伝道していたE・H・ハミルトン氏と結婚するので、その式典に出席しておられた。ベントンさんは1か年間、南長老教会の短期間宣教師として父君のマカルピン師の下で須崎地方に伝道奉仕をされ、結婚によって任を解かれたのである。
1924年(大正13)、長い間の宣教師の奉仕と緊張にマカルピン夫人は健康を害し、身体に痛みを感じ、医師もその原因を確かめることができず、これと言う治療法もなかった。しかし夫人は不平も言わず、時々襲う痛みに教会のオルガン演奏や幼稚園への奉仕を休むだけで、家庭で婦人方や少女たちのために、いろいろなクラスを受持って伝道への奉仕を続けられた。
その7月、6女のグレイスさんの家族の招きで中国の上海に旅行されたが、そこで、ひどい発作に襲われて倒れ、同地で9月22日手術し、ようやく10月7日、長崎に戻り、そこで4女のアンナさん一家に歓迎されて留まり、その日はマカルピン師夫妻の結婚37周年のため記念の集いを楽しまれた。しかし、その翌年(1925)も夫人の健康はすぐれず、気候の良い朝鮮に療養のため赴くことになった。
6月、最後の帰米休暇を得て、日本を出発された。翌昭和3年6月に帰任し豊橋に赴任された。また、この年、息子のJ・A・マカルピン氏がデビットソン大学をめでたく卒業された。
「いのり」
私は母の年齢になりました。水野源三さんの詩を読んで、幼い時を思い出しました。母は幼いわたしに歌を唄って寝かせてくれました。このコロナの時、思い出したのが、今はうる覚えの「朝はどこから」でした。母が恋しく涙が出てしまいました。母の愛唱讃美歌は女学生の時から大好きな312番『いつくしみ深き 友なるイエスは』で、私の愛唱歌の一つです。
=注記=
以下の歌詞は、パソコンから転載しました。編集子。
朝はどこから
(一)
朝はどこから 来るかしら
あの空越えて 雲越えて
光の国から 来るかしら
いえいえそうでは ありませぬ
それは希望の 家庭から
朝が来る来る 朝が来る
「お早よう」「お早よう」
(二)
昼はどこから 来るかしら
あの山越えて 野を越えて
ねんねの里から 来るかしら
いえいえそうでは ありませぬ
それは働く 家庭から
昼が来る来る 昼が来る
「今日は」「今日は」
(三)
夜はどこから 来るかしら
あの星越えて 月越えて
おとぎの国から 来るかしら
いえいえそうでは ありませぬ
それは楽しい 家庭から
夜が来る来る 夜が来る
「今晩は」「今晩は」
森まさる作詞・橋本国彦作曲/昭21
第102課 結びの言葉:個人的挨拶
=16:1~27=
A ケンクレヤにある教会の執事フイベを紹介する。16:1、2・・2・・
「ケンクレヤにある教会の執事、わたしたちの姉妹フイベを、あなたがたに紹介する」。(16:1)
ここの個所だけでは、フイベのローマ到着の期待も、どのような用向きで彼女がローマへ行くのかもよくわからない。しかし、ある用向きがあったことは明らかである。というのは、パウロが彼女のローマ訪問につい述べて、ローマの人々に必要に応じて彼女を助けてやってほしい求めているからである。
もしフイベが何の目的でローマに行くのかを知ることが出来れば興味深いと思われる。しかし、ローマを訪れる外国人たちはローマという異国の都であるこの大都市の中で迷ったり困ったりすることがないように、かなりの助けが誰かによって与えられることは必要であったと考えられる。
フイベは恐らく、地方の教会の助けを必要とするある時別な使命を受けて、教会から派遣されたと考えられる。宣教師として働いたことのある人々は、地方の人々の時機に適した助けが如何に必要かを良くい知っているのである。
パウロはフイベが多くの人々を助けた人であると述べている。彼女はコリントの港であるケンクレヤに住んでいたので、恐らくそこで下船してその地を初めて踏む人々を助けることが彼女の使命であったのだろう。このようにして彼女は彼らを彼女の教会の福音宣教に接するように導いたのだろう。フイベによって援助と助けを得た多くのキリスト信者の乗船者や下船の者もあったと思われる。聖書の中にそれらの記録がないので、彼女の働きの性質について、正確に知ることは出来ない。しかし、彼女の働きがそうした価値のある有益なものであったことは確かである。
「また私自身をも助けてくれた人です」(16:2B)。
フイベがどの様にしてパウロを助けたのであろうかと疑問を感じる人もあろう。しかしパウロは丁寧に彼女の助けに感謝を表明しているのである。フイベのような人々は現に今でも宣教師者の働きを円滑に効果的にするものであり、彼らの良き行いは神の御名を現わすのである。キリスト教を古代世界において盛んならしめたのは、パウロの様な使徒やステパノのようか殉教者たちだけではなかった。必要な時に喜んで助力をかってでたフイベの様な謙遜な働き人たちもまた大きな力となったのである。そして現今においてもキリスト教を前進させるものは、宣教師や教師たちのみでなく、必要な時に進んで助けを提供する平信徒の人たちの集団なのである。
J・G・ヴォス著、
『ほっとひととき「みんなのコーナー」』
日の出前の午前5時30分、台所へ向かおうと思いましたが、あまりにも厳しい冷え込みで部屋に戻ってカイロを背中と足先にも貼りました。そのような対策で何とか朝の準備をすることができました。ストーブを2か所でガンガン焚いてエアコンもフル稼働ですが、それでも隙間だらけの田舎の家は冷たい風が吹き込んできます。家の中に置いてあったバケツの水が凍りかけていました。主人は出勤前の準備で車のエンジンを温めていました。 愛媛県 L・Tさん
オミクロン株の猛威でお世話になっている施設も面会は禁止になってしまいましたが、洗濯物を届けに行くとき、職員の方が母の様子を詳しく教えてくださいますので感謝しています。でもやはり母の顔が見たいです。暖かくなったら車椅子で近くの公園まで散歩できるのに、寂しいです。それを楽しみに1日も早いコロナの終息を神様にお祈りしています。別の施設の父も同じでしょうが、幸いなことに健康ですよと教えていただき、ほっとしています。父の希望で老人施設に入って5年になりますが、そこが気に入ってくれているようで、安堵しています。私たち兄妹5人なので、何とかお金をやり繰りして頑張れています。 静岡県 M・Hさん
先日、テレビで看護師さんを目指す方々の学校での様子を拝見しました。いろいろの職業を経験された方や30代のお母さん、若い方々の希望に向かって学ぶ姿に、何時もお世話になっている看護師さんって、知識や経験、お気持ちは、若い方の憧れ仕事としか見ていなかったことが恥ずかしく思いました。大きな病院、小さな個人病院など問題ではなく、その献身の姿は、医療を支えるプロなのですね。ドクターを支える医療の支え人と思わされ、今日も、何時もの薬と点滴をしていただきましたが、お大事になさってください!の言葉に、ありがとうございます、と心からお礼の気持ちを込めて申し上げました。 群馬県 L・Tさん
県内でも最大の河津桜の名所に春が来ました。地元の方々が中心となり植栽してきた河津桜で、約4600本が例年2月中旬頃には見頃を迎え、約1ヶ月間にわたって人々の目を楽しませてくれます。天気のよい日は、青い海にピンクの河津桜が映え、いっそう鮮やかな景観を楽しむことができます。息子が私たちを車で連れて行ってくれました。車椅子の主人には久し振りのドライブとお花見で笑顔が多くなりました。もちろん私も大満足でしたよ。 長崎県 H・Tさん
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暦の上では立春が過ぎても、毎日が余寒、それが寒がりの私の季節感ですが、庭の小枝の先には春を教えてくれる若い花芽、葉の芽が小さな顔が出ていました。虫や草木は春の備えが出来ているのですね。少し厚着をして散歩に出掛けよう・・・。
=この文章は、全て投稿者から掲載許可をいただいております= 編集子
『ありがとうございます』
週二回、送迎の車のお世話で通わせていただいている高齢者(平均年齢83歳)向け(要支援1,2)の身体機能の訓練施設(リハ・トレクリニック)に行き始めて3年目になりました。最近、来られる方々の話題は、コロナのこれからのことと、お孫さんのことなのですが、冬のオリンピックで活躍のカーリング女子の活躍は明るい話題になっています。馴染みのない競技のはずが、選手の皆さんのはじけるような笑顔は、日に日に衰えを感じる運動機能の不安を抱える者にとって、あの笑顔と励まし合う言葉に勇気を貰っていたからです。
施設の庭には梅が咲き始めています。
2022年1月16日から2022年2月15日までにお送りくださいました方々です。本当に感謝です。
3月号を皆様にお届けいたします。ご笑読ください。
和田順一様 和田貴美子様 西島隆弘様 多田野あゆみ様 宇佐神正武様 美田新次郎様 加納さおり様 佐藤のり様 馬場暁美様 匿名1名様
*寄付金口座…郵振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社
また、お便り下さる方やお友達への紹介はこのメール アドレスをご利用ください。多くの「ジャーナル友さん」が与えられるように願っています。
*「つのぶえジャーナル」はこれをご利用ください。
http://tunobue.blog.shinobi.jp
(米国南長老教会文書伝道事業)刊行責任者
つのぶえ社代表 長村秀勝
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」