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あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。
近くおられるうちに呼び求めよ。
=イザヤ55:6=
このイザヤ書を通しての神様のお招きの言葉は、なんと勇気づけられることでしょう。同時に、この招きのお声を聞き過ごし、この世の富や名誉の誘惑や楽しみに心を奪われ閉ざすことの多いことを、思い知らされます。
同時に、神様の愛と忍耐の恵みの時の続く限り、私たちは主にお会いすることは出来ます。キリストによって、神がお開き下さった扉は、すべての者に開かれております。また、誰も神以外、他の者が扉を開けることは出来ませんし、誰もその扉を閉じることも出来ません。主が死と、黄泉の国の扉の鍵を持ち、主のなる神のみが、開き、そして閉じられることを、ここに、すべての者に宣言なさっています。
また、主は扉を閉じる時が来るとも語られました。この警告と招きは何にも勝って大切な事実であると、聖書を通して語っています。
「主にお会いすることのできるうちに」お会いし、お会いいたしましょう。その場所は、地上では教会です。私たちには意思があり、時があり、自由があり、それを持っていることを誇りに思って生きてきました。しかし、神の御招きに与らない限り、誰も自分の罪を認め、悔い改め、告白することは出来ません。反省ではなく、「悔い改め」とは、神様が下さるお導きの実だからです。
人が、天国へ行きたいと願う者は、神様がお招きくださっている時を逃すことなく、受け入れなければなりません。それが、何時、何処であるかは分かりませんが、その機会を提供しているのは、教会の礼拝の時です。教会の扉は何時も開かれています。自由に入り、出ることは出来ます。しかし、そこにとどまり、信仰を頂くために、時を待たなければなりません。それは今であるか、先の先であるかは、私たちには隠されています。その時をお決めになるのは神様です。
ですから希望を持って待つことが出来るのです。
*********
「キリストの香り」 水野源三
朝の霧に包まれて
ひそかに香る野バラのごとく キリストの香りを 香をいつまでも香らせてください
誰もが足を止める 淡紅色の野バラのごとく キリストの香りを 香をいつまでも香らせてください
いと高き者よ、主に感謝し、み名をほめたたえるのは、よいことです。
=詩編92:1=
あなたは、自分の心の内を明け渡し、人に語ることは出来ますか。人の一番悲しく耐えられない時は、「孤独」と言えるでしょう。身の周りに大勢の人はいます。今は情報の時代と言われ、世界の出来事は瞬時に、リアルに手にすることは出来ます。国を離れ、家族に会えなくてもスマホで語り合うことは可能です。しかし、家があり、家族がいても言葉のない家は数多くあると言われています。また、親類縁者との関わりが消え、独りで生活されている方もおられます。言葉を交わすことの無い日々、それは耐えられません。
もし、私たちが神様のみ元に行って、寂しさ、苦しみ、心の悩みを、嘆きを訴えることが出来るとすれば、その上、何時でも歓迎されることを知るというのは、大変喜ばしいことと言えるのではないでしょうか。
人は不平を言う方が感謝するよりも易しいというのは真実です。多くの人は自分の人生を感謝するよりも、むしろ不平と不満の多い日々であると思うのもまた事実です。
それは、キリスト者であっても、多くの中にそれが見られます。暗い心の谷間を徘徊し、感謝の祈りを忘れ、不平と落胆の中に歩む、悲しい信仰者のおられることも事実です。教会に行き、み言葉の解き明かしを聞き、皆さんと讃美の歌声を上げている時でも、心の霧の中にいることを私は認めます。だからこそ、もう一度、このみ言葉に立ち返る機会としたいのです。一度,感謝する事を学び、知った者を神様はお見捨てになりません。必ず、神の恵みと愛を再びいただくために、心の中にある不信仰や不満から救い出し、連れ戻してくださいます。
孤独や孤立はキリスト者を弱くしますが、神の憐みが、あの十字架の死と黄泉の中からの復活の恵みへと導き返して下さったことを、聖霊のお働きの導きを頂いて主に道に立ち返りましょう。
詩人は告白いたしました。
わが命の音もたてずに進みゆき、新しき場面に出会う時、われは見る。
いかに主はわれをとらえて導きたもうかを。
すべて悩ましく、見知らず、暗く、思わるる時も、わずらい迫り、望みの失せる時も、主の光は、わが心を照らしたまいぬ。
猫草
エゴノキという植物がある。公園、庭木、山でも見かける。初夏には白い花を釣鐘のようにたくさんつけ、その花びらが散ると地面は白い絨毯のようにみえる。花の後には少し先端のとがった球状の実がつく。石鹸の成分と同じサポニンが含まれているので、人間には毒で食べられない。えぐいからエゴという名の通り、苦いのであまり鳥も食べない。
でもそれを好んで集まる昆虫もいる。葉を丸めて卵を産むエゴツルクビオトシブミ、まるでバナナのような虫こぶをつくるエゴノネコアシアブラムシ、実に穴をあけて産卵するエゴヒゲナガゾウムシ。このヒゲナガという正式名称よりも、ウシヅラゾウムシという昔の呼び名のほうがわかりやすい。5mmほどの小さな昆虫だが、オスを正面からみると牛のような白い顔をしている。目が横に張り出しているのでそんな顔になる。7月下旬のエゴノキをよく観察すると見つけられるかもしれない。
いつも不思議に思うのだが、あの昆虫たち、ひと時の産卵シーズン以外はどこで過ごしているのだろう。ちゃんとその季節になると現れて、終わるとひっそり暮らし、やがて命尽きるのだろう。昆虫の生活史は謎が多い。
謎と言えば、そもそも植物もあんなにたくさんの花を咲かせ、実をつける必要はあるのだろうか。実生で苗木になる確率はとても低いのに。実の大半が虫に食われ、地に落ちて朽ちても、それでも代替わりに備えて、そのプログラムは毎年、律儀に繰り返される。
きっと植物も昆虫も知っているのだ。この環境は一定ではなく、ある日大きく変わる可能性があることを。生き物は長い年月の間に幾度もその試練を受け、それを超えられた種がいま存在している。経験や記憶は遺伝しない。でも生き残り戦略として、それぞれの生態に受け継がれていくのも事実。その「ある日」はいつ訪れるかわからない。何が起きるのかも予測できない。だから毎年備える。
<いきいき里山ものがたり>
* コロナ禍になって鉢植えや庭に花を植えるためにいろいろの花を買い求める人が多くなりましたと、お馴染みの花屋さんのご主人が言っておられました。今までは切り花を購入されていた方が、自分の家の庭に、好みの花を植えて楽しんでいる人が増えたのは、コロナは困りますが、嬉しい変化ですと笑顔で話してくださいました。花と向き合う時間が増えたのですね。
* わが家の小さな庭に咲いているアジサイの葉の裏に小さなカタツムリの子供がいるのを見つけました。時間を忘れ見惚れていました。ゆっくりゆっくり、時間をかけて滑るように動いています。何だか自分の姿のように思いました(わたしは滑るようではなく躓くようにですが・・・)。近くの郵便局まで行くのに、カメさん歩きと思っていましたが、子供のカタツムリのように動いていても、目的のところに行けるんだ、と何ともありがたい勇気をもらいました。
=写真の説明も兼ねています。皆さんの投稿を歓迎いたします=
沙耶香のつぶやき
梅雨入りのニュースが引き金かは分かりませんが、毎年、心が沈みがちになり、外に出る気分には成れません。ベッドの上での生活?になっちゃいました。焦っても仕方がないので、部屋で音楽を聴いています。お母さんには申しわけない気持ちになると涙が出てきます。
庭のアジサイが雨の恵みを貰って20個近くの3色の花の塊が咲いています。お母さんは嬉しそうに、皆にきれいよ、見て、見て!!とはしゃいでいます。花って心を穏やかにする魔法の力を持っているのですね。ふと我を忘れて見つめていました。
今までは自分の部屋の掃除もしたことがないわたしでしたが、何となく部屋の中を片付けたり、時には掃除機を使うようになりました。部屋の中って、意外にもホコリがあるのに驚きました。長続きはしないと思いますが、気まぐれ掃除でもいいや…と思えるようになりましたよ。病院に行った時、先生に報告しようと思っています。
今年もお母さんはプランター2つに朝顔を植えていまして、何本も茎が出てきて忙しそうに支えの縦棒と横棒を組み合わせて、器用に?準備しています。鉢植え用のヒマワリも2鉢いつもの場所に置いてあります。夢中になっている母は大好きです。
最近、またCDで英会話の勉強を始めました。以前は長く続けることが出来たのに、今はすぐ飽きたり、怠けてしまうのでなかなか上達しません。でも、きらいではないので続けるつもりです。
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休みがちな小1の娘も、今は元気に登校しています。担任の若い先生がお気に入りで、声をかけてくれるよ・・・と話をしてくれるようになり、先生にお礼の気持ちを伝えました。今はTさんはクラスのみんなと遊んでいますから、心配はいりませんよとのお返事もメモ・・・・。うれしいです。 三重県 K・Jさん
<この掲載の原稿の時にお送りし、全て了解を得ております>編集子
=時々の記=
(185)
6月19日
雨が降っていたので朝の散歩はやめました。坂道が多いので危ないからです。
庭のくちなしが小さな蕾をつけ始めました。去年は一つも咲かなかったのですが、今年は冬の寒い時期から虫が来ないように手入れをしたり、薬を掛けたりと世話をし続けてきました。するとそれにこたえるかのように蕾が顔を出してきました。雨の中傘をさして数えてみると5個蕾がありました。真っ白いビロードのような花びら。それに甘い香り。私の大好きな花の一つです。この梅雨のうっとおしさを吹き飛ばしてくれるのです。首を長くして待っていた朝顔は蔓をグングン伸ばして杖に巻き付き始めました。そんなささやかな楽しみを見つけながら雨の時期を少しでも気持ちを明るくしたいと考えています。
美しく伸びて漆の若葉かな。
朝顔に不揃ひなれど竹の杖。
しもつけの咲き初ムるかと揚羽来る。
国道の脇に笹ユリ開くとは。
黒揚羽舞いまいをする暑さかな。 馬場路哉
6月28日
午後になると真っ黒な雲に覆われ、今もまた雨です。元気なのは玄関先でさえずっているツバメたちです。もう3度目のひなが戻っています。上を見上げると10個ほどのツバメの巣が芸術作品のようにさえ見えるのです。緻密に確実に泥をぬりあげてあります。自然界の生き物たちの生命力のすごさに感心しています。
そのツバメの子供を狙って今日も蛇が庭先でニョロニョロ様子をうかがっていました。
過疎の村勢ひのある柿若葉。
山峡の静寂を破るホトトギス。
耳元ではばたきすなり朝ツバメ
棕櫚の葉の扇と動く青嵐。 馬場路哉
主人の目の検査の一回目が終わりました。老人性のものだといわれていますが、ほおっておくと網膜剥離になる恐れがあるといわれて静かにしています。高齢になってくるとどこからに弱りが出てきますね。
7月8日
激しい雨が3日間も降り続くと気持ちまでが落ち込んでしまいます。でもこの蒸し暑さでは雨が続きそうな変な予感がいたします。梅雨ですから仕方ありませんね。
虎杖を刈って右近の碑を守る。
緑陰や微風あればなおのこと。
合羽着て草刈りをする出会いかな。
朝顔の蔓しっかりと杖囲む。
山田より高きにスズラン群生す。 馬場路哉
今日もこの雨の中、合羽を着て草刈りの「出会い」です。中止になるかと期待していましたが行われたようです。でもいつもの「出会い」よりは短くて済んだようでほっとしています。雨で、足を滑らせたりしたら大変ですからやれやれというところです。
7月14日
まもなく夕立がやってきそうです。昨日は晴れ間が広がって、ワクチン接種2度目を無事に終えることができました。その後の痛みはほとんどなく熱も出ずに一日普段通りに過ごすことができました。なんだかほっとしています。
父の日や専業主夫と申されぬ。
さすらいの旅なる生や時鳥。
拾ひもす利久白茶の竹落ち葉。
谷戸の灯のしばらくともる夏夕べ
城下町囲み広ごる青田かな 馬場路哉
馬場暁美
私の日課は、毎日孫と一緒に保育園に行くことです。おばあちゃんとなら行くというので、4月からそのようにしています。私は朝の目覚めが早いのでそれまで毎日困っていたのですが、大助かりです。運動にもなりますし、若いお母さんたちから声をかけてもらえますので、とてもうれしいです。娘は仕事に出掛ける忙しさで助かると言ってくれていますので、健康維持、運動不足解消にもなるので、張り合いがあります。細やかな社会活動の参加だねと言いながら盆栽の手入れをしている元気な主人にも感謝しています。 山梨県 T・Aさん
主人が召されてもう10年になりました。若いころから主人の夢は自然に近い感じの庭作りで、気ままに種を蒔いては最低限の手入れをするのが趣味でした。出勤前に畑を回り、お隣りの休耕田を買い、拡げていました。そのような生活を40年近く健康に続けていましたが、突然の病気であっという間に召されました。何もかも主人任せの私でしたから、生きる気力を失い、誰とも会わない日々でしたが、そのような私のために、庭の手入れや日々の生活のことを、愛情いっぱいの心遣いで残しておいてくれたのに気づいて、もう下を向くことは辞めよう。梅雨のアジサイのように、太陽を見上げるヒマワリのように生きようと決心しました。息子夫婦も、「お陽さまの庭」と言って孫を連れて、気ままに手入れをしてくれています。これが主人の希望していた庭作りなんだと70歳の私の生甲斐になっています。アジサイを見るとふと思い出しています。もう涙なんか流しませんよ。下を向いていませんよ。 徳島県 B・Hさん
要支援の方が、送迎の車で運動機能や歩行訓練のために集まってこられる方々も、マスクの使用、会話は控えめにですが、施設の庭に咲くアジサイに感動して会話がはずみます。職員の方々も日々の生活の様子を知っておりますので、その輪に入ってくださいます。身体の訓練も大切ですが、心明るく、笑顔になるのは一番のリハビリですね。私も週2回が楽しみです。「ジャーナル友さん」の中にも、リハビリに励んでおられる方もおられることでしょう。またベットの上での生活の方もおられることでしょうが、焦らず、短い時間でも、身体を動かせるようになられますように、お祈りいたします。 広島県 B・Aさん
コロナ禍でも、長梅雨でも、季節が巡って朝顔の鉢植えが店頭にたくさんならんでいました。風鈴、すだれ、浴衣、団扇といろいろの物が目につき、頭に浮かんできます。「ジャーナル友さん」は梅雨明けをどのようにお楽しみですか・・・。9月半ばには、オリ・パラの余韻と共に、秋の落ち着いた日常が戻るのでしょうか。それを期待するこの頃です。 愛知県 K・Kさん
<身近な出来事を「眸」に投稿してください> 編集子
鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
=むさぼり=
第十戒⑤・恵みによって
ローマ7:13~25
一応これで「十戒」の学びを終りにします。しかし、これまでの55回の学びを、キリスト教倫理に関係する学びの指針にしていただければ幸いです。
第十戒は行動だけでなく、欲望という心を問題にしている戒めであることを学びました。旧約聖書には心を問題にした箇所は幾つもあり、この第十戒だけが特別ではありません。例えば、ノアの洪水の前後、神は人についてこう見ておられます。「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思いは計っているのを御覧になった」(創世記6:5)。洪水後に、「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人は心に思うことは、幼い時から悪いのだ」(同8:21)。神は洪水後の人の思いは変わらないのを見ておられます。
ダビデも隠れた罪の存在を問題にしています。「知らずに犯す過ち、かくれた罪から、どうかわたしを清めてください」(詩編19:13)。また神だけが私たちを罪から守ることができるので、「神よ、わたしを究め、わたしのこころを知ってください。わたしを試し、悩みを知ってください」(同139:23)と求めています。
ローマ教会は、罪を三つに分けます。無意識の罪、意識した罪、実行した罪の三つです。このうち無意識の罪は罪ではないとします。従って幼児には罪がないと主張します。しかし、聖書が人は全的に堕落していると教えていることから見て、これは誤りです。
十戒の要約として主イエスが、「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」という旧約聖書の申命記6章5節の言葉と、レビ記19章18節の「自分自身を愛するように、隣人を愛しなさい」を引用されました。(マタイ27:37~39)。
この規準を満足できる人はいません。ローマ教会の説明は、この世の人々の受けは良いでしょうが、意識しようがしまいが、神のこの求めに応えることができる人は、主イエスを除いて一人もいませんから、この点でも正しくありません。
私たち信仰者は、パウロと共にこう正直に告白します。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰がわたしたちを救ってくれるでしょうか」(ローマ7:24)。しかし、主イエス・キリストが救ってくださいましたから、「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」(同7:25)と告白することができます。
それはちょうど、十戒の前書きに記されていますように、十戒を完全に守ることができないとしても、守ろうとする熱心と力が、奴隷の国から導き出してくださった主なる神に対して生まれます。同じように、永遠の滅びから救い出してくださった主イエス・キリストがおられ、約束の地を受け継ぐことができるようにして下さったので、いっそう私たちは励むことができます!
バラ・マカルピン 日本伝道百年史
水垣 清著
(元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)
17 バラ先生来庁50年記念会・・・4・・・
次に日本メソジスト教会総会を代表して監督本多中庸一氏の挨拶
私は日本メソジスト教会総会を代表して居る者でありますが、バラ先生と私との関係があまりに親しいから、外交的の言葉を述べて満足することは出来ません。先生の弟子の一人としてお話しする。
私が初めて横浜に来たのは明治三年であった。その年の末か翌年の初めにバラ先生の御世話になった。しかしヤソ教を聞くためではなかった。当時の日本の青年は、無学文盲なものが多かった。侍の子弟が僅かに学問をしたのであるが、明治の初年には、戦争しか知らなかった。余りに早くおさまったので不平があった。
その不平が妙な方に廻って、これは外国人が来たからであると、攘夷の精神が盛んになった。今でこそぺルリの来朝を徳とするが、当時は誰もそんなことは思わなかった。それで英語を学ぶというのも攘夷の精神から来たものである。学んでしまえば彼等に用はないという意気込みであった。
バラ先生の弟子のうちには戦争に負けた方の青年が多かった。鬱憤が満ちている。聖書などもいやいや読んだものである。そんな有様であったからバラ先生の心配は一通りではなかったであろう。お手伝いの小川義綏氏にも随分困られたことであろう。押川方義、植村正久など共に思い思いなことを言って随分扱いにくかったであろう。私はこの立派な会堂よりもあの小さな石の会堂の方が懐かしい。ここでバラ先生を困らせたこともあり、また、誉められたこともある。その当時、今日の様な盛大な祝会が催されようとは誰も想像しなかったことである。
バラ先生には伝道の精神が満ちていた。私はその言葉に感動しなかったことはなかった。その精神には感服した。その熱涙に感服した。我々を武士として待遇せられた。明治5年頃、弾正台からバラ先生の弟子を召捕りに来たが、時の県令陸奥宗光氏に説得されて帰ったようなこともある。
その時、バラ先生は「君達には危険がある。しかし捕らえてもこのために国に不満の心を抱いてはいけない。キリストの弟子は国に服従せねばならぬ。米国に逃げることもできるが、それはキリストの精神ではない。国法に従って何処へも流刑に処せられる覚悟をせよ」と言われた。これを聞いた私は、バラ博士が真にこの国のために来たことを知って、攘夷の念はなくなってしまった。むしろ居てもらわなければならぬように感じた。・・・・」(続く)
問31 聖書には奇跡というしか言いようのない話が沢山出てきますが、クリスチャンはみなああいう話を信じているのですか。また、ああいう話を信じないなら、クリスチャンと言えないのでしょうか。
答・・2・・
こういう奇跡について、それを今日の人が納得できるように、合理的に説明する努力をした人は少なくありません。しかし、科学的知識にも矛盾しないような説明をした場合は「なーんだ、そういうことだったのか、それなら分かる」とはなるでしょうが、そういう解釈で、聖書記者が奇跡として書いた真意を正しく受け止めたことになるのか、という疑問は残ります。
一方、聖書に書いてあることはすべてその通りであって、疑い得ない事実である、と主張する人たちもいます。そう言う人たちによれば、人間は最初、土のちりでもって神様に造られたものであって、アダムとエバがそうであった、ということになります。
聖書にしるされたことはすべて事実であると主張する人たちにとっては、人間の「進化論」などは承認できないでしょう。
アメリカのある州では、進化論を教えることを禁じているくらいですから、聖書が伝えていることと違うことにはアレルギー反応を呈する人は少なくありません。「進化論」というのは実証を重んじる科学的検根拠に立っての思惟による理論ですから、それを覆す根拠のある理論が展開されればよい、と言う性質のものでもあります。
聖書を重んじるということが、科学的知識による類推や理論を一切否定して、奇跡物語をそのまま歴史的事実であるかのように言う人たちは、非科学的な時代遅れの人たちと言うそしりを免れ得ないでしょう。合理的が近代化であるとすれば、聖書の記事、特に奇跡物語などは、合理的であることを良しとする現代人には、前時代的な話として、何ら興味を引かないか一笑に付されて終わるでしょう。
もし、このことについての事実報道をするなら、「聖書に記されている奇跡を事実として信じた人たちに対し、今でも事実として信じている人たちがいます」というところまでであって、奇跡そのもののを事実としては報道しないでしょう。そんなことをしたら報道の客観性を疑われてしまうからです。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元中部日本放送「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
B スペインへの途次、ローマを訪れたいとするパウロの希望
・・・15:22~33・・・
「確かに、彼らは賛成した。しかし同時に、彼らはかの人々に負債がある。というのは、もし異邦人が彼らの霊の物にあずかったとすれば、肉の物をもって彼らに仕えるのは、当然だからである」。(15:27)
パウロは困っているパレスチナのキリスト信者たちの救済のために異邦人からの贈物を提供することに当たって、それらを単に自発的な献げ物としてのみでなく、道徳的な義務でもあると指摘しているのである。救いはイスラエル人と言うチャンネルを通して異邦人にもたらした。
従って、このような霊的で道徳的な義務は忘れてはならないのである。異邦人キリスト信者たちは、野生のオリーブの枝であり、良いオリーブの木に接ぎ木されたものであることを覚えておかねばならないのである。このような霊的なユダヤ人キリスト信者たちに、物質的恵みを覚える時、異邦人キリスト信者に対して、パレスチナのユダヤ人キリスト信者たちのためにお金を寄付することを求めるに当たって善意を求めて乞うことをしていない。それどころか、善いことをする、すなわち、感謝を示してキリスト信者の愛の行動に移してほしいと異邦人キリスト信者に求めているのである。
パウロが他の多くの書簡の中で、この問題に言及しているところを見ると、異邦人キリスト信者たちが真心よりこの企てに賛同して協力をしていたことが分かるのである。
J・G・ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
◆ 梅雨入りと同時に、棚田の田んぼにお米の苗を植えて1週間になりました。山からの水を利用して、太陽の光を、空の青空を写して、とても幻想的な風景に変貌しました。私たちの地域は無農薬を始めてもう20年以上になります。オタマジャクシやカエルが元気よく泳いでいます。蛍を楽しむことができます。美味しいお米と評判を頂いておりますので、われわれ50代の農家さんも増えています。農作放棄地などなくなりましたし、30代の若い農家さんも兼業から専業になり、廃校寸前の学校も今は生徒が増えています。安定した収入が約束され、農機具も共同使用、高齢者の畑には、われわれ世代が出向いて、和気あいあいに、棚田を守っています。何よりも無駄な出費が減りました。合言葉は「魅力あるコメ作り。夢のある村作り」です。「ジャーナル友さん」の中にも大勢、そのような活動をされている人はおられることでしょう。 宮崎県 L・Tさん
◆ あっという間に毎日が過ぎ、コロナ禍2年目の夏がやってきてしまいますね。何時も頂いたメールに頑張って過ごしていらっしゃる姿が目に浮かび嬉しさと懐かしさがいっぱいになりました。コロナの予防接種の一回目が無事に終わり良かったです。95歳の祖母が17日に接種で高齢なので心配も不安もありでしたが、こちらも一回目を無事に終えられました。梅雨に入り私の持病の痛みも暴れる日も多くあります。鬱々とする日々ですが、それでも出来る事がたくさんあるので感謝を忘れずに一歩一歩と思って過ごします。孫や子供たちがこのような世の中ですがスクスクと成長してくれる事が何よりの希望です。
痛みも不安もたくさんある中でしょうが、「ジャーナル」のお仕事に御励み下さり、感謝です。長村さんは私の大切な「痛みの同志」であり、大切な人です。無理は分かっているのですが、コロナ禍が終わったら、お会いしてお話もしたいです。名古屋と山口とでは無理ですね。まだまだ元気でいて下さい!私も心からお祈りします。 山口県 O・Kさん
◆ 梅雨の時期は台風の始まり。私の住むところは、山間部で国道、県道と言っても谷間を縫うような道で、大雨警報時にはご近所さんを誘って村の公民館に早目に出かけるようにしています。何時も行きますので簡単な日常生活に必要なものは皆で持ち寄り、村の役員さんが管理してくれていますので、大助かりです。今は、このようにスマホで「ジャーナル」を読み、多くの方のことを知ることができて感謝ですね。2カ月に一回、牧師先生が家に来てくださり、聖餐式をしてくださいます。ありがたいことです。不便と言えば高齢者向けのワクチン接種でしたが、役場の車で診療所に行き2回接種ができました。 山口県 N・Hさん
◆ わが家は裏山のそばにありますので、この梅雨入りから台風になる季節は雨の後でも気になります。土砂災害や洪水の被害は他人事ではありません。今の家を手放して安全な所へ・・・と考えますが、見ず知らずの所へは行く気になれません。田畑は若い方にお譲りしましたので、身軽なのですが、愛着のある野山の自然、時々侵入してくる蛇やヤモリの居ない所での生活は馴染まないと主人も言います。役場の警報を聞きながらひっそりと信仰生活を二人で守って生きて行きます。「ジャーナル友さん」のお仲間として、よろしくお願いいたします。 鹿児島県 N・Hさん
◆ コロナ禍の影響で早期定年退職制度を申し出て、夫婦で何かがしたいという希望で探していたところ、手頃な値段の空き家を見付けて引っ越して2年目になります。子供たちが孫を連れて時間を作って草刈りや畑を作りに来ています。家の方は勤めていた会社の方が来てはあれこれ手助けして、今は前の農家の古民家風のままを残して見違えるようになりました。主人は、自分の今までのコンピューターの仕事をするために仕事場兼書斎を作り過ごしています。地域の集まりにも積極的に参加し、無料で近所の子供たちにミニパソコン教室を開いて教えています。地域の新しい風を・・・と思っています。健康なので本当に嬉しいです。 兵庫県 S・Sさん
❀ ❀ ❀ ❀ ❀ ❀ ❀ ❀
♬ コロナの予防接種を家内と一緒に2回目も無事に打つことができました。これで、一応、対策は出来ましたが日々の注意は欠かせませんね。自分の健康管理は自分でするのが一番ですから、マスクと手洗い、ウガイと人との接触を避けるようにしています。神奈川は東京に次いで感染者が多いので、日常の買い物は家内がスーパーに行っていますから、人混みです。教会もコロナ対策ですが、改めて、「主にある交わり」の大切さを実感している昨今です。
この文章は、全て投稿者から掲載許可をいただいております。編集子
各地におられる「ジャーナル友さん」から梅雨明けのお便りや、朝起きて庭を見たら朝顔が5つも咲いていました。ああ~夏なんだと実感しましたとか、村の古い一軒のコンビニに、かき氷を始めましたののぼりが出ていました。本格的な真夏の到来ですね。我が家は縁側のある家ですから、蚊取り線香がこれからの主役です。エアコンはありません。昔から虫たちとの共同生活です、と香川におられるN・kさんから早々の「暑中お見舞いのメール」を頂きました。
「ジャーナル友」の皆様のご健康が神様から与えられますようにお祈りいたします。
2021年6月16日から2021年7月15日までに、寄付金・献金をお送りくださいました方々です。心より感謝いたします。
西口義昭様 水島弥太郎様 斎藤一郎様 森谷千文様 菊池すみ子様 加納さおり様 佐藤のり様 土田美恵子様 馬場暁美様 匿名4名様
*寄付金口座…郵振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社
また、お便り下さる方やお友達への紹介はこのメール アドレスをご利用ください。多くの「ジャーナル友さん」が与えられるように願っています。
*「つのぶえジャーナル」はこれをご利用ください。
http://tunobue.blog.shinobi.jp
(米国南長老教会文書伝道事業)刊行責任者
つのぶえ社代表 長村秀勝
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」