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2023年7月号  №193 号 通巻877号
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「今月のことば」

 

「山は移り、丘は動いても、わがいつくしみはあなたから移ることなく、平安を与えるわが契約は動くことはない」とあなたをあわれまれる主は言われる。

            =イザヤ書54:10=

 

この御約束は信仰者一人ひとりにとって、何と心強く、慈しみと憐れみ深く、そうして力強いことでしょう。このみ言葉の契約は永遠の神のように変わることなく、動くことなど微塵も存在いたしません。

このみ言葉は、弱く貧しいキリスト者の信仰に希望を与え、重く圧し掛かっている心の重荷を取り去って余りあるものであります。山が移り、丘が動くのを見ることなどあるものではありません。しかし、もしこういうことが起こったとしても、私たちは山よりも確かな拠り所を持っているのであります。神の約束は、山々よりも安全であります。

 

この御約束を真実であると信じましょう。私たちには、何よりもそれが必要なのです。人生には、若い人も歳を重ねた人も、その人に応じた力は満ちていますが、しかし時に、不安や疑念や恐怖、あるいは耐えられない迫害(差別や偏見やセクハラ)を経験いたします。また、父や母は手に負えない子供のことで嘆くでしょう。自分の義務やこころ至らなかったことに責任を抱くでしょう。

苦難に合う時、この世には神も望みもないかのように、絶望し悲嘆にくれる時もあるでしょう。

しかし、本当に悲しいことは、信仰者として神に招かれて生き、み言葉に教えられ、祈り心を以って歩んできたキリスト者が、この約束への信仰を失うことです。自らを存在に値しない、無力な無価値な者と思い込み、暗闇の中に閉じ籠る信仰の者の姿です。

しかし、自分がどうであれ、神のみ言葉には、イエス・キリストが、その救いのために十字架にお架かり下さった事実の上に今、自分が今生き、あることを思い、再び知らされる時、自由にされ、勝利者として生かされ、生きていることを主にあって誇れる気がいたします。

 

主イエス・キリストは、立ちなさい!と失望したキリスト者一人ひとりに、このみ言葉の上にあることを確かめなさい!とはげましてくださっています。ただ主イエス・キリストのみを仰ぎ見て生きましょう。

 

 生ける石にて築かれ、み霊の一致によって合わせられ、

   預言者と使徒たちの伝承にもといをおき、信仰堅く、主に頼らん。

 

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  「小閑記」

 

 すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。

  義を行う者はいない。ひとりもいない。

            =ローマ3:12=

 そして御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。

            =第一ヨハネ1:7=

 

 信仰への入り口は、この事実を認めるところから始まると、先見者は言います。それほど、この事実を認めることは私たちには難しいことなのです。そうして、それを公に告白することを、聖書は求めています。

 私たちは、自らをこれほど徹底して悪いことを承認するのは困難でありますが、しかし、それにもかかわらず、真実なのです。神の光に照らしてみれば、私たちの命はくすぶっている焼け跡、煙れる残り火、傷ついた柱の様なものであります。私たちは罪と咎に死んで、悪は私たちの思いの奥深く浸みとおっております。悪はその汚れた心と手で私たちが考え、語り、為すべきところにおいて、巧みに繕い事をなすのです。

 嫉妬、憎悪、利己心を生甲斐として追い求め、そのために努力する人は果たしているでしょうか。しかし個人であれ、国家であれ、民族であれ、「正義と平和と愛」の旗のもとにことを為してきたのもまた歴史であり、事実であります。しかし、多くの善意もありました。人々のために自らをささげ尽くしてこられた人々は数限りなくおられました。これもまた事実です。

科学は病を克服し、社会に幸いをもたらし、福祉に貢献し、文化は心豊かにしてきました.しかし、その科学が、人の手によって時に兵器に用いられ、多くの殺戮の悲惨を招いたのも歴史が物語っています。力と富は、悪を生み、人を倒します。

 神の裁きは私たちの上にあります。神の真理を美しい言葉で悪用するとき、私たちは迷い出で、永遠の滅びと死に至るとみ言葉は語ります。

 

 しかし、私たちの骨を組み立て、用いてことを為される方が、私たちが真に必要なものは何かをご存知なのです。それは「救い」です。「滅びからの救いです」。「絶望からの救いです」。それをもたらしてくださるお方は、ただお一人、「主イエス・キリストです」。この御方以外に歴史の中に、誰一人存在いたしません。認められない人もおられるでしょう。そう考えるのは、キリスト教そのものの傲慢と言う人もおられるでしょう。そう思われて当然です。

 人の叡知に、そのようなものはありません。キリスト者の信仰の姿にもありません。しかし、神の子・イエス・キリストにはおありなのです。キリストの歩まれたその一足、ひと足を、その語られたみ言葉の一つ、ひとつをお確かめいただきたいと思います。

 

  み恵みは、われに罪ありと感ぜしめ、

   信ずることを、われに教えぬ。

  信じてわれは、平和を得て、

   今や、われ生く。今や、われ生く。

 

 

世田谷通信(214

猫草

 

 斜面、崖をみて、これまでと少し違う気持ちになる。これまでは断層がきれいだなあとか、あれは何という名前の石だろう、判別出来たらきっと面白いんだろうな、と眺めているだけだった。しかし本を読んで調べると素人にも見えてくるものがある。

 白くてぽろぽろ、さらさらした粒、時々黒い欠片が混じっている花崗岩。これは空気や雨にさらされると崩れやすい。表面を触ってみると細かい砂が手につく。でもすぐ隣には硬くてツルツルした岩があったりする。高温のマグマで溶けてまた固まったようなのは簡単に崩れない。マグマは地球の奥深くにあって、噴火で地表面に出てくる。その噴出の仕方や量、冷えて固まるまでの時間、さらにもっと前の地殻変動の痕跡、地球の成り立ち。言葉が足らず、全体を説明できる知識もないが、何か大きな力が働いたんだろうな・・と想像する。

 いま、その想像もできない大きな力のほんの端っこ、刹那の中で暮らしているんだなとも思う。ともすれば自分の経験や常識、知識、しがらみが世界のすべてのように思ってしまう。いつもそういうものに振り回され、その中で答えを見つけた気になって安心し。日常の繰り返しは絶えず、小さな同じを積み重ねてできているので、それで構わないようにも思うが、ふと岩石や崖をみると何もわかっていない自分も同時にいる。見ても目に入っていないこと、知らないこと、知ろうとしないこと。

 「勉強とか、マジで意味が分からないんだけど!」道ですれ違った中学生が大きな声で友達と話していた。そうでしょうね。うん、「マジで意味が分からない」ことだらけ。それでも進まないといけない。ここではないどこかへ。だから勉強するんだよ、きっと。

 

<いきいき里山ものがたり>

*わが家のアジサイもサツキも競うように咲いています。お隣りも、そのお隣りの庭にも彩鮮やかに花をつけています。桜は見事ですが瞬く間に若葉に変身しますが、アジサイやサツキは鬱陶しい梅雨の季節に彩を添えてくれます。

*近くの草原に、アカバナユウゲショウが咲いていました。可愛い花です。散歩のときに、草むらに咲いていたのです。探してみると、散歩にも楽しみが増えますよ。私は写真して帰宅してから、花図鑑で調べて楽しんでいます。

*家の近くの広場にナツグミが真っ赤に色づいています。こんなに実がつくのは珍しく、今年は当たり年とか、そのようなこともあるのですね。

 

=写真の説明も兼ねています。皆さんの投稿を歓迎いたします=

「美しい朝に」

 沙耶香のつぶやき

 

  梅雨でしたが、予約していましたので、定期診察を受けてきました。好き嫌いなく食べているのね。血色がいいよ!うん・・・、でも先生に最近少し太り気味で悩んでいます、といったら、前はやせ過ぎで気になっていたのよ、良かったじゃない!と言われ、安心しました。

  夏に着る物をいろいろ自分で選んでいたらいろいろの思い出が浮かんできて、結局のところ、自分では決められずお母さんに助けてもらいました。結構むずかしいんだよね。

  お母さんは、日除けのために大きめの帽子、首には冷たいタオルスタイルで庭の草取りや枯れた花を、何かとても綺麗だったとよ、ありがとう!とでもいうかのように丁寧に摘んでいます。食卓には何時も庭の花が飾られています。

  暑さと直射日光に反応するので、帽子と日傘は欠かせません。定期検診は、お医者さんの勧めで、人混みに出て少しでも慣れるようにと言われていますので、公共の交通機関を利用しています。これも必要ですが、手の消毒、マスクは苦しいですが欠かせませんね。それと水分補給・・・。

 

       ********

 

  新一年生の息子は、やっと学校に行くのにも慣れてきて、登校しています。お兄ちゃんたちが迎えに来てくれるのです。一緒にサッカー遊びをしてくれているお兄ちゃんのお迎えは効果テキメン、助かっています。これからもお願いしますと、見送っています。  滋賀県 K・Jさん 

 

 <この掲載の原稿の時にお送りし、全て了解を得ております>編集子

 

 『その愛のゆえに』

   =時々の記= 

    (184)

 

5月25日

 朝から青空です。気持ちの良い一日となりそうです。

それに今朝、息子は少し興奮した様子で次のように宣言しました。

世界中のワクチン開発のために長年にわたって開発してきた地道な努力が実を結び、コロナに打ち勝つことができる日がやってきたというのです。ワクチンを接種することによって病原菌に対する抗体を体の中で作ることができるようになるのだそうです。そのようなワクチン、薬を開発するために多くのマウスは犠牲になり、また研究員もあまりにも果てしない厳しい研究の道に疲れ、病で倒れていってしまうことが現実です。息子もそのうちの一人ですが。今、こうして各製薬会社が大量に全世界へ向けて送り出しているのです。今こそ、多くの研究者が勝利の喜びを分かち合っていることだろうと言って、郵便の配達の仕事に出かけました。その一言を聞いて、私たちまでもがうれしくなりました。多くの犠牲を払ってようやくたどり着いてワクチンなのですから。

古屋敷涼しくもあり、雪の下。

長雨もどこ吹く風の朝ツバメ。

夕去りて都忘れの端正に。(主人の母が大切にしていたものです。)

夕空を眺むる散歩聖五月。

良き色のありて高原藤掛かる。  馬塲路哉

上野市民病院で定期健診を受けてきた主人は神様の憐れみによって異常なしといっていただきました。14年目になります。心から感謝して今生きています。

 

5月27日

 ケンケンとキジの出で立ち目立ちけり。

けしの花混じる草原刈りにけり。

とある町血のいろなして夕焼けす。

薄曇りしみじみと沁む若葉なる。  馬塲路哉

朝から非常に激しい雨に見舞われましたが、今は小雨になりほっとしているところです。あちこちのお花畑のお花が夏の花に入れ替わっています。洋花のようで名前でわかりませんがとてもかわいらしい花で、白とピンクが入り混じっています。野生の花では卯の花が滴るかのように路にまではみ出て白い小さな花をたくさんつけています。ミカンの花や、八朔の花も白い小さな花をつけてよい香りを放っています。

 

6月4日

 小雨になった時もありましたが、また降り出しています。前線を低気圧が刺激しているようです。ツバメたちはさすがにこの雨には困ったようで、家の玄関先で朝からピーピーとにぎやかにしています。二番目の雛たちが戻り、我が家の庭は何匹ものツバメたちの遊び場になっています。遠いフィリピンからきてくれているのですから、この時ぐらいは玄関を夜も少し開け放ってツバメが出入りしやすいように配慮しています。生き物たちと一緒にいるだけで心和むのです。不思議ですね。猫がいなくなってからはどうも夜中にネズミが出入りしているようです。ネズミと蛇は苦手な私です。

雪の下すがすがし刈り古屋敷。

子ツバメの餌に喜ぶ声揃ふ。

三重奏安らかにして五月の夜。

ワクチンの接種会場つつじ咲く。  馬塲路哉

 

6月11日

 くもり空の朝でした。雨が降るかと思っていたら晴れてきました。風がすがすがしく吹き続けています。体感的には気持ちの良い気候です。新聞のコラムに載っていたことですが、人間は大自然の中に入ると心が癒されて安定してくると。

まさにここ山添村は自然の中にあります。朝早くからツバメが声を響かせ、午後にはホトトギスや時季外れの鶯が声を響かせてくれるのです。

入りたる女性の訃報梅雨寒し。(金城高校での信友です。)

竹落ち葉利休白茶と眺めけり。

天国を約巣説教聖五月。

山峡に光のさして明け易し。

今年また強さを見せて夏アザミ。  馬塲路哉。

アザミの凛とした姿には強さがあります。私もアザミのように一日頑張ろうと思わされています。

馬場暁美

「上野緑ケ丘教会会員」

眸(ひとみ)

 

  新入社員の訓練なのでしょうか、チラシをもって家々のポストに投函するスーツ姿を見て、十数年前の自分を思い出しました。今の職場に出会うまで何度も転職して、不安な日々を過ごしたものです。今ではよい経験だよなどと先輩顔で言っていますが、諦めずによくも職探しをしたものだと思いながら、職場に向かっています。ああ私も中年社員になったんだと、通勤電車の中でウトウトしながら職場に向かいます。在宅勤務は体に良くないです。妻も仕事、子供たちは学校で、一人でお昼を食べての生活は最初の頃は自由と思っていましたが、こうも続くと精神的には不健康で、コロナに怒りをぶっつけています。…大丈夫かなあ?と不安になっている昨今。 埼玉県 T・Aさん

  高齢者優先の予防接種が進み、そのような話題が教会の中の会話にも多くなりました。次の接種は感染者の多い年代が対象になることで、様子も変わるでしょう。医療従事者の日々はまだまだ厳しいですが、私の中に何だか頑張る力が湧いてきた感じです。現役復帰された方の中に、もう一度、働いてみようという方も身近に増えてきました。それは本当にうれしいです。 兵庫県 B・Hさん

  今日、ホトトギスがとても甲高いきれいな声を響かせ始めています。青い空、緑の山、ピンクの皐月の間をどこからか声を響かせてくれるのです。燕のように一日中さえずっているのではありませんので、こちらは聞き逃すまいと耳を澄ましているのです。朝に一度お昼に一度くらいしか私の耳には届きません。ホトトギスが鳴き始めると並行して卯の花が真っ白い花をあちこちで滴らせています。よほど近づかないと香りはわかりませんがその群れて咲く姿はとても優雅ですし、ほれぼれ致します。緑が濃いしずかな山里です。 石川県 BAさん

  あまり気にしていなかったのですが、市バスの運転手さんが半袖になっていて、改めて、夏到来が間近なんだと感じました。これからの日々、「ジャーナル友さん」の皆さん、どうぞ健康対策を怠らず、過ごしましょう。わたしは暑さは苦手で気が重いです。 岐阜県 ASさん

 

<身近な出来事を「眸」に投稿してください> 編集子 

十戒と主の祈り      

鈴木英昭著

        (元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)

 

=むさぼり=

 

第十戒④・宣伝や宝くじ

       エペソ5:1~5

 

 今回は第十戒の「むさぼり」に対する戒めとして、宣伝とか宝くじのような具体的なことを、ドウマ教授の指摘を参考にして考えることにします。

 宣伝は、古くからあって、中世教会のステンドグラスの中には、教会は支援者たちから資金を出させるために、彼らの信仰の告白を残すために作らせたものもあったようです。

 現代の宣伝では、多様化するとともに、今ではテレビのコマーシャルのように、技術的にも高度なものが製作されるようになりました。心理的に研究され、効果のある技法が用いられ、消費者の購買意欲をそそるのにしのぎを削っています。しかし、宣伝にはその業界の倫理規制があって、誇大広告であったり、誤解を与えることや、浪費をもたらすようになるものに対しては、自粛されています。

 良い製品を作り出した人がその製品を宣伝するのを、だれも妨げてはなりません。その反対に、自分の欲に負けて、必要でもない物を買わせるような宣伝には、自分の誘惑を治める努力が必要です。

 

 他方、国がスポンサーになって販売する宝くじ、スポーツくじ、東京都が計画しているカジノというようなものを、どのように考えるべきでしょう。運が良ければ大金が手に入るという性質のものです。それらは、自分がする将棋やチェスのようなゲームにかけるようなこととは違って、自分と関係のないゲームを利用して、高額な金額を儲けるというようなものは、この第十戒に反する貪欲の罪と言えます。

 オランダでは、スポンサーが出す賞金を目当てにクイズに参加し、失格者が増えることで、賞金も増え最後に優勝者がいないと、そのお金は義援金として施設に寄付されるという番組があるようです。

 しかし、反対に挑戦者が最高額の賞金を獲得すると、最終的にはスポンサーの手元には一銭も残らないことも起こるそうです。こういうものも一種のギャンブルです。また、商店のお客を獲得するためにくじをだすことがあります。程度の問題でしょうが商品を売るのが目的でなく、明らかにお客の欲望をそそるためのものは、王道ではありません。長い目で見れば、商店は出来る限り良品を、合理的な価格で継続的に販売することで、顧客の信頼を得ることを目指すべきです。

 所有は罪ではありませんが、所有欲は罪です。このエペソ5章5節に、使徒は「貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神の国を受け継ぐことはできない」と言います。偶像礼拝者の礼拝が「貪欲」であるのは、神の国、すなわち、神の御支配を信じ、満足することがないというところから来ています。「偶像礼拝の原因は、神の支配に満足しない欲望」から生じることを、使徒パウロは指摘しています。

バラ・マカルピン 日本伝道百年史  

     水垣 清著

 (元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)

 

17 バラ先生来庁50年記念会・・・3・・・

 

 また自分が伝道しただけでなく、青年の信者にも伝道することを鼓吹されました。日本基督教教会またその他で伝道する先輩の中には、バラ先生に感化された者は少なくない。初めて教会の出来たのは明治5年3月で、今から約150年前である。

当時11しかなかった教会は、本年10月の大会に報告されたところによると、独立教会67、伝道協会123、申し合わせミッション伝道教会及び講義所42、中会7、会員21,219人、按手礼を受けた教師132人、伝道者90人、献金118,500円、受洗者1947人で、北は北海道から南は台湾及び満州、朝鮮等にも伝道しているのであります。

明治5年3月、11人の青年が集まって、バラ博士のもとで日本基督公会なるものを組織したが、このように進歩したのであります。天国は実に芥子種のように、また、パン種のようであります。そして50年間、神の国の発展する有様をも目撃することは、バラ博士にとって愉快なことでありましょう。自ら蒔いた種の成長する様を見るのは嬉しいものであります。

私は日本基督教会大会を代表して、また明治5、6年頃、この裏の石の会堂で聖書の講義を聴き、教えを受けた弟子の一人として、神の祝福のバラ博士の上に豊かならんことを祈り、長く神のため、教会のため、日本のために尽くされますよう祈るものであります」。(前月号の続き・井深梶之介挨拶)  

「キリスト教百話」

  

問31 聖書には奇跡というしか言いようのない話が沢山出てきますが、クリスチャンはみなああいう話を信じているのですか。また、ああいう話を信じないなら、クリスチャンと言えないのでしょうか。

答・・1・・

 確かに聖書には奇跡の話が沢山あります。特にキリスト教は奇跡から始まっていると言えるくらいです。それはキリストの誕生が乙女マリアによる処女降誕であるからです。最近では人工授精ということが可能ですから、いわゆる男女の性交がなされなくても出産ということはあり得ますが、二千年の昔にそんなことはあり得ませんから、処女降誕は信じられない、とされるわけです。

 科学による知識では、こういうことは証明も説明も出来ませんから、誰にも納得されません。

 夫となったヨセフは、まだ夫婦の交わりがなされていない婚約中にマリアが妊娠したらことを知って、密かに離縁しようとしたのを、夢の中で天使によってそれを禁じられたといいますから(マタイ1:18以下)、ヨセフにしてもマリアによる妊娠・出産は全く不可解なことであったに違いありません。

 こういう不可解な信じられないことを何とか合理化しようとして、様々な説明がなされましたが、これはもともと説明しても埒(らち)があかないことなのです。何故かというと、マリアが身ごもったのは「聖霊によってであった」というのが、聖書記者の伝えているところであるからです。

 「聖霊による受胎」などきいたこともなければ理解のしようもないことですから、まずは誰もが「そう言われたって、わたしには分かりません」とか「信じられません」とかいうのは当然です。

 それと奇跡の中で一番理解できないとされているのは、キリストが5つのパンと2匹の魚でもって5千人以上もの人たちに食べさせ、しかもなお調べたら、12の籠に一杯あったという話です。「そんな話、信じられるか」というのが先ずは誰しもの発する声であろうと思います。そのほかにも、キリストが湖の上を歩かれたとか、生まれつき失明していた人を見えるようにされたとか、さらにはキリスト自身が死んで三日目に復活されたなど、数え上げれば旧新訳聖書全体に示されている奇跡物語は沢山あります。

 

    篠田 潔

(日本基督教団隠退教師・元中部日本放送「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)

第99課 パウロも宣教活動とその計画

 

B スペインへの途次、ローマを訪れたいとするパウロの希望

・・・15:22~33・・・

 

「しかし今の場合、聖徒たちに仕えるために、わたしはエルサレムに行こうとしている」。

 ここでの「仕える」という言葉は「聖徒たちの必要を満たす」という意味である。このギリシャ語はあらゆる種類の奉仕を意味する語である。エルサレムへの旅はそこにいる聖徒たちへの奉仕の一部である。

 

 「なぜなら、マケドニヤとアカヤの人々は、エルサレムにおる聖徒の中の貧しい人々を援助することに賛成したからである」(15:26)。マケドニヤとアカヤ、すなわち、異邦人地域にいるキリスト信者たちは、エルサレムにいるキリスト信者たちに比べて、その生活水準は遥かに上であった。ここで「援助する」と訳されている語は、本来は「交わり」を意味する「コイノニヤ」である。パレスチナにいるキリスト信者たちは迫害の犠牲者であって、経済的にも窮迫した状態にあった。

 

 使徒行伝15章の使徒会議では、異邦人の間に伝道しているパウロにパレスチナで困窮しているキリスト信者たちの救援のための資金を集めることを要請している(ガラテヤ2:9,10参照)。パウロは直ちにこの仕事に着手し、きわめて忠実にそれを実行したのであった。経済的な救援はユダヤ人と異邦人との間の、友好を増進する最も良い方法の一つであった。ユダヤ人キリスト信者が持つ異邦人キリスト信者に対する偏見を除くのに大いに力があった。

      J・G・ヴォス著、

   玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)

 『ほっとひととき「みんなのコーナー」』

 

◆  梅雨入りと共に、アジサイの花が一日、一日大きくなり、蕾の数も増えていくのを朝の通勤の車から眺めています。通学路の途中にあるのに、花などには無関心と思っていた息子が、ある時、アジサイは沢山の小さい花の塊が大きな塊なんだねと、何かを発見したように教えてくれました。学校の先生が教えてくれたのだそうです。こうしていろいろの事を学んでいくアジサイの花の小さな花の一つの出来事を息子は見つめ、育ってくれたら・・・と思っています。  和歌山 LTさん

  6月号の「今月のことば」の聖句は、わたしにとっても心に残る聖句の一つです。自分が、自分がと思い込むタイプのわたしへの神様がお示し下さった戒めの聖句でもあります。最近、忘れていましたので、感謝いたします。  山口県 OKさん  

◆  高校生の時からの親友から、私、おばあちゃんになっちゃった!とメールとお孫さんの写真が送られてきました。何だか羨ましい気持ちになりました。私たち二人の子供たちは家庭は持っていますが、そのような話は全くありません。子供は与えられるものですから、孫も同じですよね。子供たちは今青春?しています。教会の子供の騒ぐ声や動き回る姿がだんだんなくなりました。何だか淋しい感じがしています。  千葉県 NHさん

◆  最近、気になることですが、コロナ禍で先行きが見えず、日々の生活が不安です・・・という言葉がテレビなどから聞こえてくるたびに、ではコロナがなければ先が見え、不安がないとでも言うのでしょうか。むしろ、先が見えないことで、足元を見つめ、無関心であったこれから日々の在り方をと問われる機会になったのなら、言い伝えのように「災い転じて福となす」になったのなら、幸いではないかと・・・、ふと思う昨今です。  島根県 NHさん

◆  内臓を悪くして入院、そして手術と今もお世話になっている病院の庭に今年も菖蒲が咲いています。七年目を迎えました。これからもお世話になる病院ですが、今は若い先生に代わりました。前の先生は他の病院に行かれましたが、きちんと経過は伝えてあるから安心しないさいと言って下さいました。その心遣いがとてもうれしく、この季節になり、菖蒲を見ると今までのことを思い出すのです。  滋賀県 KJさん

 

         ❀ ❀ ❀ ❀ ❀ ❀ ❀ ❀

 

 ♬  高齢者優先のコロナの予防接種を受けることができました。するまでの不安と緊張した固い表情から、無事に終わって家路に向かう表情の明るさから、コロナ禍の深刻さ感じました。私も、ああこれで一安心できると思った一人です。

 

この文章は、全て投稿者から掲載許可をいただいております。 編集子

   『ありがとうございます』

 

もう7月になります。遅い梅雨入りですが、梅雨のない北海道を除いて、作物や森やそこに棲きる命には恵みの雨になりました。ふと、もし梅雨のない季節になったら・・・と考えたら、空恐ろしいことになるでしょう。

コロナ禍では日常生活の在り方が問い直される事態になりました。3密、テレワーク、ステイホーム、自粛、子供たちの学校生活から、授業の進め方や内容も変わりましたが、何かもが内向き、閉鎖的になり、重苦しい社会に陥ってほしくないと思っています。ですが、自然相手の農業や漁業に従事されている方には無縁かもしれません。もし、医療従事者の方が3密、ステイホーム、自粛されたら、電気やガスや水道、交通機関に関わっておられる方々が、献身的にお働き下さっています。それにトラブルが起きたとしたら、大混乱です。

近くの小さな公園に、お子さんの元気が姿をやっと見るようになりました。お母さんの穏やかな表情、これが日常なんだと思えて微笑ましくなれました。小さな幸せと言う表現は詩的ですが、すべて大きな幸せなのだと、思いました。

 2021年5月16日から2021年6月15日までにお送りくださいました方々です。心から感謝し、ご報告させていただきます。     

 

山本和夫様 宇佐神正武様 稲田喜水様 伊賀伸江様 岡田恵子様 加納さおり様 佐藤のり様 長津 栄様 馬場暁美様 

匿名4名様

 

*寄付金口座…郵振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社 

また、お便り下さる方やお友達への紹介はこのメール アドレスをご利用ください。多くの「ジャーナル友さん」が与えられるように願っています。

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(米国南長老教会文書伝道事業)刊行責任者

   つのぶえ社代表   長村秀勝

 

 

 

 

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書籍紹介
    8858e3b6.jpg
エネルギー技術の
 社会意思決定

日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
 定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本

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教会における女性のリーダーシップ
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント 
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
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「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
定価 2000円 

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「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
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「十戒と主の祈り」
鈴木英昭著
 「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
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われらの教会と伝道
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本

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さんびか物語
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円

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