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2023年7月号  №193 号 通巻877号
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「今月のことば」

涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。

     =詩編126:5=

この聖句に出会って60余年になりました。その時々の光になり、挫けそうになった時に希望を下さった大切な聖句になり、今はお便りの最初の言葉「つのぶえジャーナル」のタイトル聖句として、今までと同様に、これからも、私の心の支えとして用いることでしょう。

コロナ禍の今ばかりでなく、古の時代から世の終わりの希望の終末の時まで、神様が私たち一人ひとりをそのみ恵みのうちに受け入れ下さった愛に、今も後も、神様の「証し人として」「この救いの恵み」を伝える責任とキリストの十字架の下へ導きたいという望みを、私たちの心の内にかたち作りました。

そこでキリスト者が、このことの不成功を見ると、その心はしばしば病み、疑いで満たされます。特に、熱心で生真面目な信仰者や親たちは、自分の子供が気ままな生活をしているのを見ると、辛く感じてしまいがちです。

 

しかし、忘れてならないことがあります。それは、全ての権能をお持ちになる方を信ずる信仰を告白し、祈りをお聞きくださると約束下さった方を真実と告白し続ける大切さです。同時に、私たちは自分の不成功の有様を見ることは、最も強い責任感を持つ者を疑い慄かせる迷いへと誘うことです。

この無用な重荷の下で自分を過度に問い詰めているなら、この、「今月のことば」のみ言葉を心に思い浮かべてみませんか。

「涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。」(詩編126:5)というこの短いみ言葉を心の中に入れましょう。このみ言葉には、種と涙について語っていますが、神は何時かは良い収穫が、この涙から生じると言われています。

それでは、私たちは、日々、何事においても、涙を注ぎなさいとの言われる神様の涙とは、何でしょうか。怠惰や気まぐれでないことは確かです。そうです。実直な生活と姿勢、苦手であるかもしれない勤勉、細やかな気配り、そうして大胆な神様に生きる信仰の歩みです。「たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる」のですから・・・。

 主のために涙をもて種まきに出で行き、

  損失はわが心を悲しませども、

   われらの涙の日の終わる時、

    主はよろこび迎えたまわん。

     さればわれら、たのしみて、束を取り入るべし。

 

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 「小閑記」

 神さま、罪びとのわたしをおゆるしください。

           =ルカ18:13=

 日本人の感覚で一番理解されにくいのが「罪、罪人(つみびと)と言われています。「生活・文化・倫理観」の相違と言われていますが、聖書はこの「罪」を問い続ける宗教と言えましょう。

 聖書は、私たちを神様から引き離し、全てのものの上に災いをもたらすものは、「罪」であると言います。罪の見出されない所には、神様と私たちの間を隔てる壁はありません。神様はそのみ言葉を通して、私たちが罪より離れ、命に至る道をお示し下さいました。それは、救い主であられるイエス様の十字架の上での罪人としての死、死をお破りになった甦り、永遠に生きたもう神の子イエス様を「救い主」と信じる信仰に招かれている道を歩み続ける道です。

 この命への奇跡の恵みによって、私たち信じる者すべてに、救いと恵みが与えられるのです。

 

 しかし、実に完全に、これは私たちが関与することなく、整えられ、備えられていても、私たちはどうしても、罪人としてキリストの身元に行かなければなりませんし、神様の前に、罪ある者、負債あることを告白しなければなりませんでした。これを認めることが、罪人から離れる唯一の道であります。それは、私たちは何者であり、何をなしてきたかの告白でもあります。「神さま、罪びとのわたしをおゆるしください」との告白へと導くのです。それは、この告白の心(信仰の心)が、救いの神殿、神の御国への保障としての「義と認められた者」(信仰義認)という恵みを頂き、神様から義なる者(身分)として宣言されるのです。

 

 イエス様は私たちの罪のために、全くご自身をお与えになったのですから、私たちの全ての罪を取り去っていただけねばなりません。この宣言は「罪の残滓の中に生きていても、罪を犯す者であっても」命の書にイエス・キリストの代価のゆえにという、但し書きを頂いて、罪なき者と認めるというものであります。この恵みこそ、罪より遠ざかり、神へと導くのであります。キリストの救いのみ業に、愛に、誉れありではないでしょうか。

   主は道にいませば、罪と死とより

    みもとへ、逃るるほかなし。

   天の父を見んとする者は、主よ、君によらでは、見るを得じ。

 

 

世田谷通信(213

猫草

 外来種がはびこって駆除とか、池の水を全部抜くとか聞くと、なんとなく違和感でむずむずする。そういう場合、外来種イコール悪者のように語られるが、そもそも人間の都合で拡大してしまったものが多い。それを再度、人間の都合で撲滅させるのも勝手な話だなあと思うのだ。もちろん周辺環境への被害や影響が大きく、やむを得ない駆除もあるとは思う。単一の種類で占領されるよりは、多様な複数の色々な環境と生態系があったほうがいいのはわかる。

 でも絶対的な悪物はいないはずで、何かが何かの役に立っていて、生き物の世界は食べたり食べられたりしながら、緩やかにつながっているように思う。外来種といっても、その線引きはあいまいで困難だ。明治以降に日本にきたと言っても、もうすでに交雑して帰化しているものだって多い。外国から来たものが対象なのか、日本古来の在来種と言っても、何かのきっかけでそれまで生息していなかったほかの地域に移植したら外来種になってしまうのだし、判断は難しい。

 クマゼミの鳴き声を世田谷でも耳にすることが増え、温暖化のせいで北上してきたという説と、街路樹の土の中に幼虫がいてそれが孵化したという説もある。ほかにも栽培品種の種が飛んだ、ペットとして飼っていたのが逃げた、大きくなったから捨てた、あるいは食用で導入したけどうまくいかなかった、ほかの動物の駆除で移入したけど意図しない方向に拡大した、輸入品のコンテナ荷物や船底と一緒にくっついてきた等々・・。外来種が拡大するきっかけは様々だが、やはり人間の都合である場合が多いように思う。

 シロツメクサというのがある。春の野原のグランドカバーとして目に優しく、みかけると四葉のクローバーをつい探してしまう、あれだ。あれはその名の通り「詰め草」、かつて外国からガラス製品の輸入の時に詰め物に使われていた草だ。身近な草にもそんな名残がある。

 池の底に泥がたまって対流せずヘドロ化したのは、悪臭のもとだし生物が住めなくなる、だからなんとかしなくてはいけない。でもできれば池の水も全部は抜かないで、外来種も全部はやっつけないでほどほどに。池の浚渫は環境をリセットする機会ではあるが、巻き添えで小さな生き物たちが住みかを追われてしまうことにもなる。その場所は外来種込みですでに生態系が成立していたのかもしれない。人間の都合と自然の都合、共生なんて簡単に言えない。

 

<いきいき里山ものがたり>

*  家族5人それぞれリュックを背負い連休に、近場の川や山歩きをするのが我が家の連休の過ごし方です。準備は行く場所を選ぶことからはじめ、小さい子供の楽しめる程度を基準にしてきました。それに見合った物を各人がリュックに詰めること、主人は天候を調べる係、それぞれマイスコップを持参します。それは、排せつ物の始末のためです。もう一つは、木や花を傷めないことと虫たちは観察するだけです。行きよりも帰りの荷物は軽くすることもあります。もう続いていることなので、心得ていて、それぞれ課題をもって出かけます。一番楽しいことは、家に帰ってからのミニ報告会の時です。私の楽しみはそれを聞くことです。コロナの中でも、楽しみはありますよ。

*  漁師をしていますので、海の上から里山の風景を何時も見て育ってきた者です。漁師にとって森や里山は恵みそのものです。谷川から流れ出る川には、山の恵みが海に注がれ、海藻や海そのものを守り育ててくれるのです。海の豊かさは山の豊かさ、恵みそのものです。災害で土砂は流れ込みますが、それも時がたてば豊かな磯部を作ってくれます。漁協では毎年、農林組合との親睦会を行い交流を深め、感謝のしるしとして寄付する仕来りがあり、これからも続くでしょう。

*  私の住むところは「千枚田」で知られているところで、例年、連休を利用して県外からのオーナーさんや家族で帰省し手入れや田植えを手伝ってくれたのが、このコロナの影響でそれが出来なくなりました。子供たちの「体験農業教室」も中止になり、数アールほどの階段状の棚田の作業は私たち年寄りの作業になってしまいました。見かねた農協の職員さんたちが田植えを手伝ってくれました。ありがたいことです。

*  ナツグミが色づきはじめました。甘い香りのスイカズラは香ばかりでなく、花の形は艶やかで魅惑的で、アジサイとはまた違った趣がります。公園で見つけました。

=写真の説明も兼ねています。皆さんの投稿を歓迎いたします=

 

 

「美しい朝に」

 沙耶香のつぶやき

  お母さんが、ツリガネ水仙の鉢植えを2つ買って来て、陽当りの良いベランダに置いてくれました。餌場には毎日、小鳥たちが遊びに?来てくれます。部屋の中からバードウオッチしています。

  玄関のところにハンドジェルが置いてあります。毎日の犬の散歩がありますので、消毒が欠かせないからです。犬は花粉症の原因を体に付けているのですからコロナ菌も・・・と思ってしまいました。早く落ち着てくれないと、定期検診に行けないよう。心の中でわめいています。

  今年も庭の紫陽花の小さな花の蕾の塊が幾つもつけてくれたよ・・・とお母さんはうれしそうです。わたしはやはり紫陽花の花より、お母さんの笑顔が大好きです。紫陽花さんも好きだよ!

  ツバメが飛び交っていますが、どこかの軒先に巣があるのでしょう。あまり外に出ないので確かめられません。悔しいよう~。お母さんは、探しに行ったら・・・と言うのですが、それが出来るようになれるといいなあ、と思って、外を見つめています。

       ********

  私は子供の頃から難病で、専門病院で生活しています。今まで何回か家に戻って母やヘルパーさんの協力を得ながら生活してきました。そんなことを繰り返すうちに、病院生活に慣れてしまい、家に戻る勇気がなくなりましたが、「沙耶香のつぶやき」を知って、このままではだめだと思い始め、病院の先生に相談したら、私たちも協力しますから、頑張りましょう!と言ってもらいました。勉強が好きで、一応、高卒の資格は持っていますので、今は通信で大卒資格に挑戦はしていますが、どうなるか分かりません。焦らずにやります。沙耶香さんのコーナー、楽しみに読んでいますよ。  和歌山県 K・Jさん 

 <この掲載の原稿の時にお送りし、全て了解を得ております>編集子

 

 『その愛のゆえに』

   =時々の記= 

    (183)

4月29日

 こちらは雨の連休の初日となりました。雨はここ数日降っていませんでしたから、木々にとっては恵みの雨となっていることでしょう。昨日は診療所へ定期健診で行ってきました。連休前とあってとても多くの高齢者たちが来ていました。ソーシャルディスタンスが取れないほど密になってしまいました。男の方は黙ってじっと待っているのですが、女性はとても賑やかにしゃべり続けています。私は本を持っていったのですが、集中できずにじっと順番を待ちました。待つこと2時間。私は5番目でしたが。結構待ち時間が長くて、疲れてしまいました。今は朝からの雨で村中が静かに感じられます。

雑木山絵画となりぬ木の芽かな。

芽に染むや池に一本若柳。

白椿天使降りくる気配とも。

高原の桜に若きペダル踏む。

木々の芽や朱色も混じり急ぎける。   馬塲路哉

野良猫のレオが姿を見せなくなって20日過ぎました。すると今朝、全く知らない猫が我が家の庭に居座っているのです。動物たちの世界も厳しいものがありますね。

5月4日

 大型連休も明日一日だけとなりました。山添村の田んぼはもうすっかり田植えが終わり、水が張られています。早いですね。この連休を活用して田植えをこなしてしまったのです。また今年は春先に暖かい日が続いたので、お茶の芽がぐんぐん伸びているようです。田植えと同時進行で茶の葉っぱを刈り取っています。

今はお茶を刈り取るのも大きな機械が動いています。人手は最低限でよくなっているようです。今までのように急須でお茶の葉っぱを入れて飲むことが非常に少なくなったものですから、最近はお茶の葉っぱを刈り取った後は粉茶にするそうです。それらがペットボトルのお茶として売られているのです。山添村でもほとんどのお茶農家さんが粉茶に切り替えています。遠いところでは鹿児島からお茶の葉っぱを送ってもらっているようです。そういえば我が家でもめったに緑茶を飲まなくなりました。番茶を冷やしてペットボトルに入れて一人が1本ずつ飲み干しているのです。

ジェット機の雲の生まれて春の空。

矢先めき出そろ費にけるギボシの芽。

その昔忍ばす老樹桜かな。

山の上の茶畑にも霜ふれり。   馬塲路哉

 4月に撒いた朝顔の芽が双葉になりました。また今年もきれいな花をたくさん咲かせてね、と声を掛けました。燕は一度目の雛がピーピーといってお母さんから餌をもらっています。親鳥はせっせとどこからか虫の幼虫のようなものを素早いスピードで運んできます。目の前を横切る時など、ぶつかりそうになります。でも決してそのようなことにはなりません。ツバメたちの感度の鋭さに驚かされています。昨日はモンシロチョウがひらひら舞っていました。なんとものどかな山添村です。

5月7日

 雲行きが怪しくなってきました。まもなく雨が降り出しそうです。五月晴れは一回だけでしたね。主人は、季節の移り変わりが早すぎて俳句を作るのが難しいと言っています。若葉が美しいころだと思いきや、はや、梅雨前線の停滞ですから。

地味なれど色合ひ好むグミ若葉。

巻舌のツバメ鳴くとて早起きす。

春雨の止まず辛苦の郵便夫。(郵便配達するものにとって雨はとても大変なようです。)

初蝶の黄が消え失せて白が舞ふ。

床しさよ貧しき庭のシャガの花。   馬塲路哉

リハビリから帰ってきた主人は雨がもう降りだしてきたといっています。予報では午後3時からと伝えていましたのに。洗濯物を慌ててしまいこんで何とか雨にぬらさずに済みました。来週は雨の日が多くなりそうです。

馬場暁美

「上野緑ヶ丘教会会員」 

 

眸(ひとみ)

  高齢者優先の一回目の予防注射も終わりました。不安でしたが心配な事もなく終わることができました。お年寄りの安堵の表情と通常の医療業務ができることがこんなにうれしいことかと再確認しながら看護の仕事にあたっています。看護師になりたいと思ってもう14年目になりました。3児の母親看護師です。  群馬県 T・Aさん

  一雨ごとにアジサイが成長していきます。庭のカキツバタや花々は天からもらい水で勢いを増しています。元気を貰って伸びた草の手入れをしなければなりません。カラスノエンドウは私の好きな花の一つです。農家の皆さんにも恵みの梅雨は水田の様子を変えていきます。御霊の恵みを頂いて、信仰の成長を、と祈っていますが・・・。  大分県 B・Hさん

  連休が終り園児たちが元気に、おはようございます!と小走りに園に来てくれて嬉しくなりました。この子たちのために職員一人ひとり気を付けて園児を迎えることができました。お母さんたちの疲れた顔が気になります。私の顔の表情は大丈夫だろうかと心配になり、鏡を見てああ~また皴と白髪がと、ため息のわたしです。同じようにお仕事に出掛けているお母さんたちをふと思い、気持ちを新たにしています。自分の子供たちは二の次になりがちで、いつもご免なさいと思いながら、家事のことは子供たちにお願いしています。  千葉県 BAさん

  息子は3月に大学を卒業し、念願の専業農家さんの仲間入りを始めました。大学生の頃からあちこちの農家さんのお手伝いをしながら考えていたようで、先輩たちのように自分も、と考えていたようです。今はそのスタートを切ったようで頼もしく見えます。私にはよくわかりませんが誇りに思いつつ、子離れしました。私はまだ出来ていません。4月とはそのような月なのですね。  神奈川県 BAさん

  昨日、お隣の方が、“さやえんどうが採れたのでおすそ分けですよ”と届けて下さいました。獲れたてのプリンプリンのさやえんどうを手のひらいっぱいにして持ってきて下さいました。もうそんな時期なんだと毎日ほうれん草ばかりを食している我が家では初物で、さっそく塩ゆでしてスープに浮かべると初夏の香りと味が体全体に広がりました。田舎ではまだまだこうした習慣が残っています。美味しいものが取れた時にはお隣りにおすそ分けをするのですが、我が家では菜園を作っていないのでそれができないのですが、目新しいものが送られてきたときにはおすそ分けをしています。お互いに無理はしていません。お元気ですか?とお伺いするときに持っていく小さな手土産程度のものです。このような習慣は私たち世代で終わりです。ちょっと寂しい気もしますが。これも時代の流れですね。  岐阜県 ASさん

<身近な出来事を「眸」に投稿してください> 編集子 

 

 

十戒と主の祈り      

鈴木英昭著

        (元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)

=むさぼり=

第十戒③・妬みからの解放

       Ⅰテモテ6;6~10

 すでに見てきましたように、貪欲や人への妬みは、アダムとエバが堕落して以来、人間の性質として私たちにあります。それは自分の現在に満足しないという形で現れます。カインは自分の献げ物が神に受け入れられなかったことで、弟アベルを妬み、それが弟を殺す罪に至りました。預言者ナタンはダビデの罪を責めた時、多くの羊を持ちながら、隣人の一匹羊を奪う貪欲さに、ダビデは自分には関係がないことと思っていましたが、そうではなく、ダビデ自身の貪欲の罪でした。

 聖書は、人が所有することそのものを禁じていません。問題は、使徒パウロが警告していますように、妬みや所有への欲望に危険な性質があるということです。特に所有のための手段となる金銭欲が悪の根(Ⅰテモテ6:10)ですから、注意しなければなりません。

 

 また一見、関係が無いように見えますが、偽預言者や偽教師がその教えを伝えようとするのも、貪欲のために偽りの教えを語っていることを、使徒ペテロは指摘しています。ペテロの第二の手紙2章1節から3節で、彼は「彼らは欲が深く、うそ偽りであなたがたを食い物にする」言います。

 イスラエルの民もこの貪欲から完全に逃れることはできませんでした。昔、彼らは奴隷であった国エジプトから主なる神の力によって逃れることができ、荒れ野でマナを食べ、岩から湧き出る水を与えられました。しかし、彼らはエジプトの肉鍋を食べたいと不平を言いました。世と世の欲は強力です。「すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごり、御父から出ないで、世から出るからです」(Ⅰヨハネ2:16)とある通りです。アダムとエバの時とは欲望の形は違っていても、悪魔は実質的には同じ方法で、信仰者に不満を抱かせ、罪に陥れます。

 この貪欲と妬みに勝つためには、まず十戒の前書きの言葉にあるように、主なる神が罪の奴隷から救い出してくださったことへの感謝、そして、十戒の柵の中にいることが安全であり、かえって自由であることを忘れないことです。

 その柵は、他の神々を拝まず(第一戒から第三戒)、安息日に神を礼拝し(第四戒)、権威、命、結婚、所有、真実を重んじる(第五戒)ことが、真の神を信じる信仰者に自由を与え、その反対の道を選ぶとき、再び罪の奴隷となるということを決して忘れないことです。

 

 ですから、神が与えて下さっているものを大事にして生きることが必要です。改善を求めること、進歩を願うこと自体は問題ではありませんが、必要以上に豊かさを求めることは信仰者として警戒する必要があります。この第十戒は自分の家が今の自分にとって最善であり、配偶者が最も適しており、今の仕事が自分の能力を発揮するのに最善なのです。他の人々が持っているものが自分のものよりもよく見えても、神様がいておられる見方は、このように教える見方です。

バラ・マカルピン 日本伝道百年史  

 

     水垣 清著

 (元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)

 

17 バラ先生来庁50年記念会・・・2・・・

 

 当日の演説者中、バラ先生によって教導された井深梶之介と本多庸一両氏の祝辞を記すと、

日本基督教会大会を代表して 井深梶之助

「本年10月、東京に開かれた日本基督教会大会は、満場一致を以って一つの決議をした。即ち本年本月はバラ博士が宣教師として我が国に来られた満50年に相当するに就いて、同博士と密接な関係にある日本基督教会は、暫く永い年月の間、神の恩寵の下に健全にして伝道のため、教会のために尽くされ功労を認め、神の恩寵を感謝し、博士のために祝意を表し、之がために一人の使者を遣わして今日の祝会に出席させることとしました。私は議長に選ばれていたので、その使者となって、この決議の趣意を申し上げることとなったのは一身にとって大きな光栄であります。

 

私共、日本基督教会に属するものは、日本に渡来した最初の宣教師、先頃90歳の高齢でこの世を去られたヘボン博士を始め、フルベッキ―、ブラオン両博士、また、今日着任50年を祝するバラ博士のごとき人物と直接、間接に関係のあることを感謝します。過去50年の教会の変化は甚だしいものがありますが、その間、50年一日の如く伝道のため、教会の発達のために尽くされた功績は述べ尽くせないことです。

 

キリストの弟子の内にも様々の賜物を持っていたペテロ、ヨハネ、ヤコブなどは、いずれも特色があります。日本の伝道の歴史を見てもそうであります。ヘボン、フルベッキ、ブラオン諸氏は各々それに相応しい仕事をし、バラ博士はバラ博士の仕事をせられた。そして、その主な仕事は直接伝道であります。

創業の時代に先ずこのことに着手せられた。第一に日本人に授洗せられ、第二に教会を建設せられた。即ちこの海岸教会は11人ばかりの青年が初週祈祷会の結果、大いに霊的覚醒を為し、日本人の教会を建設したのであります。主としてこれに力を尽くされたのはバラ博士であります。

「キリスト教百話」

  

問30 「キリスト教を信じたら、どんな良いことがあるのでしょうか」

答・・8・・

 問題は、持つと持たざるとに関わりなく、また、そういうことに支配されないでいることができる揺るぎない平安、または絶対的な平安をどのようにして得ることが出来るか、という点にあります。多くの先哲と呼ばれた人たちが問題として考えたことの一つはこのことでありました。「揺るぎない平安」は何によって得られ、保証されるか、という問題であります。

 言うまでもなく、それは人間の中から生み出せるものではありません。人間は絶対者ではありませんし、多くの限界を抱えている存在であるからです。

 この点については、パウロは「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、ものが有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています」と言っています。

 これを聞くと、この人は様々な境遇に鍛えられた生活の達人であるかのように思えますが、そうではありません。それに続けて彼は「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしはすべてが可能です」と言っています(ピリピ4;11以下)。

 この文面から受け止められることは、第一に、この人は極めて自由に生きておられる人である、ということです。そしてそれは、いわゆる百戦錬磨によって自分が獲得した境地という性質のものではなく、授かった秘訣であるということと、その秘訣とは「わたしを強めて下さるお方」がおられることによって得られているものである、ということであります。

 そのお方とは言うまでもなくイエス・キリストのことであります。平安というのは、人間をこの自由に生かす根拠でもあります。ご利益という言葉を敢えて使うならば、キリストを信じることによって得られるものは、この平安とそれに根差した自由であるということが出来ます。

    篠田 潔

(日本基督教団隠退教師・元中部日本放送「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)

 

第99課 パウロも宣教活動とその計画

 

B スペインへの途次、ローマを訪れたいとするパウロの希望

・・・15:22~33・・・

 

「イスパニヤに赴く場合、あなたがたの所に行くことを」(15:22~33)。

「パウロがスペインを訪れるという目的を達成したかどうかはよくわからない。新約の中にも初代教父文書の中にも、歴史的な記録は何もない。しかし、これらの教父たちがパウロのスペイン訪問を当然のこととしていると思われる節が多分にある。カイザリヤでの長期にわたる投獄と捕らえられてローマに送られることになったエルサレムでの出来事によって、恐らく彼の宣教計画全体が狂わされたと考えられる(ホッジ)。

 ローマのクレメントは92年頃イタリヤから手紙を書いて、パウロが西の果てまで到達したと述べている。スペインはローマ世界の西の果てであった。旧約に語られているタルシシと言うのは多分スペインの南部の一部であったと思われる。

 ローマは紀元前200年頃から、スペインを支配していた。そしてパウロの時代には、南スペインの文明文化は徹底的にローマ化され、ほとんど1世紀の間そうであった。

 

 「その途中あなたがたに会い、まず幾分でもわたしの願いがあなたがたによって満たされたら、あなたがたに送られてそこへ行くことを、望んでいるのである」(15:24)。

 パウロの意図は、第一にローマ帝国の首都であったローマを訪ね、ローマの教会との交わりを喜ぶことであり、第二にはローマの教会の人々の助けを受けて、そこでスペインへの旅の最終的な準備をすることであった。「送られて」と言う表現は単なる見送りのみを意味するのではなく、ある程度の旅の準備を整えることを意味している。(参照:15:3、Ⅰコリント16:6、Ⅱコリント1:16)。

   J・G・ヴォス著、

   玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)

   『ほっとひととき「みんなのコーナー」』

◆  5月号に「宍道湖」の様子の投稿があり、懐かしく思いました。松江を離れて26年になりますか。つい忙しさにふる里を忘れていました。大阪は第二のふる里にはまだまだと言えます。コロナのニュースで気持ちが塞ぎます。大阪にも心に残る自然などたくさんあるのでしょうが、まだ出会っていません。  大阪府 LTさん

  小さなバケツを持った園児が保育園の先生に見守られて川岸から元気な大声で、元気でね!と口々に叫びながら稚魚を放流していました。川岸には西洋タンポポが沢山咲いています。ミカン畑の多い小さなのどかな田舎町です。都会のような3密のない自然に恵まれたところです。関西に出た若者が最近地元に戻っているそうです。  愛媛県 OKさん  

◆  わたしは、ヤクルトさんのように街の中をバイクで郵便配達の仕事をして7年目になりました。雨の日も風の日も暑くても、「雨にも負けず、風にも負けず、夏の日照りにも負けずに」の仕事でした。人手不足は深刻です。特に、山あいの険しいところには誰も来てくれません。皆さん、椅子に座ってのテレワークのような仕事を希望しているようですね。ありがとう!との一言で皆さんに喜んでいただいている仕事なんだと誇りに思え、これからも頑張ります。みなさんのところにお届けする配達員にひと声かけていただけると励みになります。  神奈川県 NHさん

◆  コロナ禍で営業時間の短縮、夫婦二人のラーメン店を営んで50年になりますが、もう疲れました。家内と、もうそろそろ店を閉じる時かも・・・と話し合っています。何とか子供たちもそれぞれ独立し、一安心。潮時なのかもしれません。これからの生きる張り合いを・・・と考えますが、幸いにも、教会生活がありますから、老夫婦?で礼拝を守ることを第一にしたいと思っています。  石川県 NHさん

      ❀ ❀ ❀ ❀ ❀ ❀ ❀ ❀

 ♬  ここ数日、良いお天気に恵まれて感謝でした。こちらの山々には藤と並んで桐の花が見事に紫色で垂れ桜のように咲き誇っています。藤はとてもしとやかに咲いていますが。桐は王者のように空に向かって咲いています。高貴な色、紫で気持ちまでがシャキッとしてきます。これからはボタンやシャクヤクが楽しませてくれそうです。静かな連休です。明日の主の日の礼拝にはできたら出席したいです。聖餐式が執り行われる予定ですから。

♬  雨続きでしたので待ちに待った貴重な青空の中、思い切り大物の洗濯に追われました。お世話になった毛布、カーペットなどもう使わないでしょうから感謝してきれいにして仕舞うことができました。とてもよく晴れ上がったので気持ちよく乾ききりました。

<この文章は、全て投稿者から掲載許可をいただいております> 編集子

    

 

   『ありがとうございます』

梅雨入り宣言と共に、5月の花便りが多くなり、各地の観光公園では嗜好を凝らした花壇には、雨の日には傘を差し、晴れた日には家族や親しい人が、重苦しいコロナ禍から逃れるかのような人出の様子がテレビの画面に映し出されています。その顔には笑顔がありました。6月には、オリンピックの開催か否かが決断されるのでしょう。

 2021年4月16日から2021年5月15日までに「つのぶえジャーナル」の活動にお使いくださいとお祈りと寄付金が送られてきました。毎日、メールでお便りくださる方々への対応、お便りのお返事に、健康が与えられ、貧しい者ですが責任を果たさせていただいております。

感謝なことですが、「ジャーナル友さん」からのメールは、平均15~20名、お手紙は6通はあります。お会いできませんが、お人柄や日々の生活はお会いしてお話しする以上に、お気持ちが伝わり、「祈りの時、交わりの広場」に、神様は導いてくださいます。

 

藤澤深根子様 鶴原澄子様 宮向井明様 青木さくら様 白石 肇様 加納さおり様 佐藤のり様 馬場暁美様 匿名1名様

 

 

*寄付金口座…郵振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社 

また、お便り下さる方やお友達への紹介はこのメール アドレスをご利用ください。多くの「ジャーナル友さん」が与えられるように願っています。

    osamura@kind.ocn.ne.jp 

*「つのぶえジャーナル」はこれをご利用ください。

http://tunobue.blog.shinobi.jp      

(米国南長老教会文書伝道事業)刊行責任者

   つのぶえ社代表   長村秀勝

 

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書籍紹介
    8858e3b6.jpg
エネルギー技術の
 社会意思決定

日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
 定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本

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教会における女性のリーダーシップ
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント 
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
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「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
定価 2000円 

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「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
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「十戒と主の祈り」
鈴木英昭著
 「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
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われらの教会と伝道
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本

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さんびか物語
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円

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