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すると主の軍勢の将はヨシュアに言った、「あなたの足のくつを脱ぎなさい。あなたが立っている所は聖なる所である。」ヨシュアはそのようにした。
=ヨシュア5:15=
コロナ禍の昨今、自粛疲れとか、気の緩みなどの文字が数多く見聞きする時、先の見えない焦燥感が、無力が心に覆ってきます。そのような時、この聖句が与えられました。
ヨシュアはエリコを前にしてただ一人、心細く立っておりました。堅固な城壁は、彼の行く手に立ちふさがっております。これと同じく、キリスト者もまた、解決しなければならない問題、しかも解決できない問題や困難に直面することがあります。
助けを求めて主なる神に祈るヨシュアのような私たちならば、主の軍勢の将から言われた神の御命令の「あなたの足のくつを脱ぎなさい。」というお言葉を、感謝をもって受け止めたいものです。
このお言葉が、私たちにとり何を意味するものかを語るとすれば、私たちはこのように言わなければなりません。あなたの心と魂を素直に神の前に置きなさい。あなたが見、あなたが知り、あなたの心にあるものを何一つ主に隠してはなりません。何か特に取り組んでいることがあり、打ち勝つことの出来るものがあるならば、それを神に打ち明け、また、妨げるものの名を告げなさい。あなたがどこで打ち負かされようとしているのか、どういう点で自分に対し、他人に対して何もできずにいるのか、主に打ち明けなさい。内なるものも、外なる生活も同じように、主の前に明らかにしなさい。そうすることが「くつを脱ぐ」ことなのですとお命じになっています。
このご命令に従うことをキリスト者には信仰の土台であると言われるのです。そうすることで、今、あなたがたは「聖なる所」に立つと言われるのです。
信仰の道は「自分を捨てる決断と勇気の道」でもあります。それは「細く、狭い道」でもあります。しかしその道は、「光への道、救いの道であり、永遠の命への道」でもあります。このヨシュアへの決断を迫ったお言葉は、一見、厳しく困難なお言葉に思いますが、神の愛に満ちたお言葉でもあります。
エリコの堅固な城壁は、ヨシュアの決断によって崩れ去りました。これは歴史的事実でした。
今、求められていることは、「勇気をもって神に信頼し、自分の計りごとに立たない」勇気なのではないでしょうか。
常に主を恐れる人は幸いである、心を頑なにする者は災いに陥る。
=箴言28:14=
信仰を持つキリスト者の人生や日常の生活は単に平穏で喜びに満ちていることばかりではありません。むしろ、恐れ、謹んでいなければなりません。聖書は喜ぶ人のみでなく、常に恐れる人をも「幸いである」と考えています。そのように神様の愛によって心が時間を用いて変えて下さるのは、信仰の恵みです。
私たちの救い主であり、父である神に関するお働きである限り、人間的は揺らいでも、常に私たちは揺るぎなく、平安であるのは当然です。
神はみ言葉によって約束なさったことは、決して私たちを失望させることはありません。ですからキリスト者は、完全な確かさと、祝福された平安をもって、全てを主のみ手にお任せすることを願い、信仰生活の中で、不思議ですが出来るのです。
とは言え現実には、私たちキリスト者が弱い人間として、罪人として考える時、私たちは常に不信と恐れを持つのは当然です。私たちの本来の性質は、サタン(悪)と協力して、「肉の欲・快楽」へと「常に迷いと滅びの広い道」へと誘われやすいのです。そればかりでなく、神が恵みによって下さった恵みの帳簿に、自ら利益を犠牲にする事柄を、あたかも幸いであるかのように勘違いして記入さえしていることに気づいていないのです。サタンの甘い誘惑の果実は魅力的で甘美なのです。
キリスト者は決して、自分を過信し頼ってはなりません。自分の信仰の覚醒を求め、日々を顧み、悔い改める思いに、そうして神の愛である信仰に支えられている思いを切に願い、追い求めている「信仰の旅人」であることを目標とし、誇りとするなら、何と幸いなことでしょう。
神は自分の信仰と力に頼らない、いと小さき者の力であられます。なぜなら、そこに神の摂理を知ることができるからです。
主の聖徒よ、主を恐れよ、主を恐れる者には乏しいことがないからである。
詩編34:9
われらを救い、力を得んために、
信仰はキリストの内に、すべてを見いださしむ。
主の送りたもう恵みを受け、主の十字架と冠とを、ともにわかたしむ。
猫草
小学校に新しい子どもたちが入学する。在校生の学年も一つあがって、6年生は中学生に。新しい先生が配属になり、みんなが心機一転。そうはいっても環境の変化になじめない人もいる、変わらないこと、ずっとそこにあることの大事さを思う。図書室はそんな場所でありたいと願う、普通の書店のように新刊がずらりと並ぶわけではない、いつもだいたい同じ、でも季節ごとに展示を変えたり、掲示物を新しくしたり、心地よく過ごせるようにしている。
昼休みは忙しい。たくさんの子どもたちが本を借りたり返したり、探したり。返却された本の表面をアルコールスプレーで拭いて除菌してから棚に戻すのは昨年度から続いている。そのお手伝いをしてくれるのが図書委員さんだ。やさしく接するように心がけている。「ゆっくりでだいじょうぶ」と話しかける。大人が早口でいろいろなことを言うとそれだけで緊張してしまうのだ。「こんにちは、来てくれてありがとうね」の気持ちを込めて私が用意するのは『図書委員会お仕事中』のネームプレート。それを首からさげて日誌に名前を書いて仕事スタート。
本を持ってずらっと並んだ来館者に、パソコンを操作し、ミスがないように丁寧に対応していくのは緊張する。自分の役割がわからず、ぼーっとしてしまう子もいる。最初は「何したらいいですか?」と指示待ちだった委員さんが仕事の流れを覚えて、作業を分担してチームになっていく。自分の当番でなくても「忙しそうだから手伝います」と力を貸してくれる。数か月ですっかり「お仕事する人」の顔になっている。
昼休み終了の音楽が流れるとみんなほっとした顔になる。「今日も忙しかったですね」「ありがとうございました」「お疲れ様でした」「来てくれて助かりました」一人一人に声をかけて頭をさげる。最初は「えっ」「あ、いや別に」「当番だから来ただけだし・・」と言っていた子たちが「お疲れ様でした」と返事をしてくれるようになる。
少し仕事が暇なときは他愛のない話もする。塾の宿題が大変、ピアノの発表会がある。「あのね、学校の竹馬って竹じゃないんだよ!知ってた?」「プラスチック製?」「ううん、鉄なの。金属。」「竹馬より金馬の方が強そうね。」「金馬いいね!かっこいいね」そんな会話も和やかな雰囲気になる。
「仕事キツイけど楽しかった、図書委員やってよかった」と言ってくれる子もいる。子どもの成長ってすごいなと頼もしく思う。
<いきいき里山ものがたり>
* 祖父の話の中に今でも記憶にあるのが、桜を「種まき桜」と言っていたことです。村の者が料理を持ち寄り、今年の種蒔きの話や年頃の若者の縁結びの時になっていたそうです。桜にも、そのような趣のあるものだと、桜を見ていると祖父を思いつつ、畑の端にある数本の桜を見ていました。その頃の農作業には何もかもが先人たちの経験と苦労がしのばれます。今は、天気予報と農作業情報が頼りで、時の流れを感じます。孫が農業の専門の大学に進み、後継者になってくれることを楽しみにしています。
* オタマジャクシが田んぼに泳いでいました。無農薬栽培で見かけない虫やメダカを見ることが多くなりました。学校の野外学習の一つに蛍の繁殖が10年近く行われていますが、その成果は、まだまだ先のようで、現れていませんが、ふるさと作りになれば良いなあと思っています。
* 長年、娘の小学校の野外学習は裏山の動植物探しで、生き物に興味を持ち、家ではメダカ用の大きな水槽が2つあります。我が家にはゴキブリ退治の殺虫剤はありません。庭の片すみには、野菜くずで土を作るとかで、娘が管理しています。虫が苦手な私も今はありません。
* ヤマブキの花に小さな昆虫が集まってきます。ハムシの仲間でしょうか?食痕を探すのも面白いです。春の野原をよく観察すると、白・ピンク・紫・青等の色、様々な形、匂い、手触り、音や小さな生き物の存在に気がつきます。子どもたちと一緒に楽しみながら発見したいです。タンポポの綿毛に小さな種がびっしりと規則的に並んでいます。フィボナッチ数列の最適配置です。陽気に誘われて日光浴の中のベニシジミです。可愛いですね。
* 昨年からビニールでトンネルの形を見よう見真似でいろいろの物を作ってみました。出来栄えは度外視してイチゴ、絹サヤ、小松菜、ホウレン草、サニーレタスなどで、それを妻は料理してくれましたので、今年も挑戦中です。ご近所の畑が気になって仕方がありません。そんな私を見て、話しかけてくれますので、それもまた楽しみになりまました。
=写真の説明も兼ねています。皆さんの投稿を歓迎いたします=
沙耶香のつぶやき
先生との楽しいお話タイムを過ごすことができました。少し太ったねと、誉めてもらえました。家に帰ったから体重計に乗ったら2キロも増えていました。家で短い時間でしたが体操をするようになったのが良かったみたいで、嬉しいですね。二か月後にはまた先生に褒められたいと思います。
桜はきれいでもこの季節から当分花粉症に襲われ、鼻がグスグス、マスクを何枚も洗っているよ。お母さんも同じ、お兄ちゃんも、大丈夫なのはお父さんだけで、皆から家族じゃないよ!といびられていますよ。
これから着る洋服を買うためにお母さんと一緒に出掛けてきました。皆さんいろいろのマスクをしていて、マスクもアクセサリーなんだと不思議に思いました。家の中にいると分からないことも外に出るといろいろ発見できるんだよネ。
********
沙耶香さんはお元気ですか。黄砂でかすんだ空になるのが嫌で、あまり好きでないこの季節。もう桜も散りました。通院は何とか行くことができていますよ。沙耶香さんは如何ですか。今は花粉症対策のメガネとお薬とマスクのお世話になっています。ガマン、ガマン!と言い聞かせて生活しています。青空は多くなりましたが、嫌な梅雨がやってきますね。 福岡県 K・Jさん
<この掲載の原稿の時にお送りし、全て了解を得ております>編集子
=時々の記=
(182)
3月15日
朝から気持ちの良い春の一日となりました。明日は中学校の卒業式です。山添村全部合わせて20数名だそうです。我が家の子供たちの時には80名近くいましたから、少なくなったものです。今度入学予定をしている新一年生も20名だそうです。都会では30人学級をと叫ばれているのに田舎では一クラスがやっと成立するくらいの人数です。子供たちにとってはどちらが良いのでしょうか。余り少ないと部活動も一つか二つしか成立せず、やりたいものを選べないということが起きてきます。ある程度多くの友達と出会ってもまれることは、これからの人生では大切なことかもしれませんね。
おきつもの名張の奥の山霞む。
一帯が柔和となりぬ枯れすすき。
見晴るかす伊賀の上野の春灯。
お水取り籠ると頭刈りにけり。(東大寺のお水取りもようやく13日に終わりました。)
落椿今誌のことと訴ふる。 馬塲路哉
庭では八重の大きな椿が花を咲かせ始めました。ピンクと白のグラデーションがとても見事です。雪柳の葉っぱが緑を増してきました。もうすぐ白い小さな花が咲き誇ってくれることでしょう。
待ち遠しいのです。
3月17日
昨日の夕方玄関先を見ると小さな白いものが落ちていました。まさか?ツバメのものだとは思いませんでした。例年よりも一週も早いのですから。今朝天井を見上げると、いるではありませんかツバメたちが去年作った巣の中に・・・。私の方を見てはくれませんでしたが、ぴっぴ、ぴっぴと今年もよろしくと言っている様子です。主人に大きな声で“燕がやってきたよと伝えると、やはりあの白いものがツバメのものだったんやと二人でツバメが来てくれたことを喜び合いました。これからしばらくにぎやかなツバメたちと過ごすことができると思うとうれしいのです。
このような風景は田舎でしか見られないことでしょう。どんなふうにして遠い国から飛び続けてきたのでしょう。考えるだけでゆっくり休んでねと言いたいのです。
賛美歌で打ち勝たむとす春愁。
料峭託つリハビリ翁どち。
小ぬか雨続く里山梅の花。
子魚のちらちらすなり春の水。
足腰の強さ残さむ青き踏む。 馬塲路哉
3月28日
今日は礼拝をお休みしました。またアレルギーで喘息の発作のようなものが毎日起きてしんどいからです。それでも家事をしなければならず、主人にはずいぶん手伝ってもらいました。晴れの日は気持ちがよいのですが雨が降ると気持ち的に落ち込んでしまいます。
北の空紺碧にして春日陰。
常盤木に濃淡ありて風光る。
黄梅を塀にのぞかせ山家かな。
窪にある平安遺跡梅の花。(梅はもぷすっかり散って、今は新芽を出し始めています。)
この曲は春水ながれ行く如し。
里山に農小屋ありて梅の花。
春眠の夢で恩師微笑まれ。
ねんごろに手入れす茶畑風光る。 馬塲路哉
定期の検査に診療所へ出かけました。いつもと変わりないですかねに、“はい”と答えるとじゃお薬を出しておきますね、ひと月分のお薬とシップ薬をいただいて帰りました。帰りは少し遠回りして散歩しました。畑で懸命に草を退治している方、玉ねぎの苗を植えておられる方、あちこちではいつくばっての仕事ぶりです。とても声をかける気にはなれませんでした。
4月12日
ようやく、少しずつぜんそくの発作が収まり、やれやれというところです。すべてに時があるのですね。発作が出始めて2週間が過ぎた頃が一番焦りました。病院へ行こうか、もう少し我慢しようかと、でも発作が少しずつ減ってきているのがわかりましたので、自宅療養で過ごしました。しっかりたべて、しっかり歩いて、しっかり休んでの生活に徹しました。
受難週この苦しみに耐へむとす。
畦塗られ棚田の姿決まりけり。(もう田植えの準備が始まっています。)
玄関を我より早くツバメ出る。
丘の上の墓に風ありイースター。
お苦しみはいかばかりとぞ受難週。 馬塲路哉
馬場暁美
「上野緑ヶ丘教会会員」
私たち夫婦は、3代にわたり漁師で、民宿も経営しています。コロナの影響と大雪で今まで経験したことのない中にあります。何とかコロナも落ち着いて、主人の漁の仕事も民宿の予約もあるようになってほしいと思っています。春から秋にとれる旬の魚料理と農家の方が届けてくれる地元の野菜の手作り料理でおもてなしをしてきました。夫婦ともクリスチャンですが、仕事の関係で隔週おきに時間を作り一人ずつ礼拝に行くようにしてもう30年になりました。本当に小さい牧師のいない教会ですが、支え合って信仰の灯をともし続けていきたいと思っています。 石川県 T・Aさん
暖かい日が続き桜はもう散ってしまいました。これからは葉桜の季節です。近くの山にも広葉樹が山を覆っています。庭では初夏に咲く花々が満開になっています。不思議な気がいたします。東北の地にも春が来ました。イースターの礼拝には息子の運転で孫たちも一緒に行くことができました。 福島県 B・Hさん
コロナの予防注射が始まりました。今はまだ医療従事者関係と高齢者ですが、これで変化が起こることを期待しています。これから本格的になりますので健康に注意してその業務に専念したいと思っています。ご高齢の方の表情に穏やかさがもどっているのを感じつつ、もう一回ありますね!とお声を掛けさせていただきました。 東京都 M・Mさん
「つのぶえジャーナル友」のみなさん、お変わりなくお過ごしでしょうか。桜も散り、今は若葉が近くの公園を覆っています。要支援2になり送迎の車でリハビリ・トレーニング体操に通い始めて1年4カ月になります。お仲間も出来ました。ある95歳のご夫人が車の中で何時もお若い頃の歌を口遊んでいます。その多くは童謡です。その一つに「朝はどこから」(森まさる作詞・橋本国彦作曲・昭和21年)と「鐘の鳴る丘」でした。私も雑音交じりの真空管ラジオで聞いた記憶があります。もう70年以上も前のことですが、その当時の世相を思い出しています。学校の正門には銃剣を持った二人の上級生が立ち、終戦と共に親者に帰る学童疎開列車、引揚者情報、尋ね人の時間、浮浪児狩り、靴磨き、闇市、街頭に立ちアコーデオンを弾きながら募金を訴える何人もの白衣の傷痍軍人の人が立っていました。駐留軍のジープが土ぼこりを立てて走っていました。バラックの家々、煮炊きをする煙、汚れた頭や衣服にはしらみ、その当時の世相を唄った流行歌が流れていました。そのような中で流れていたのが、「朝はどこから」であったような気がします。2021年の今、この歌が当時とダブるのです。
「朝はどこから」
朝はどこから 来るかしら
あの空越えて 雲越えて
光の国から 来るかしら
いえいえ そうではありませぬ
それは 希望の家庭から
朝が来る来る 朝が来る
「おはよう」「おはよう」
昼はどこから 来るかしら
あの山越えて 野を超えて
ねんねの里から くるかしら
いえいえ そうではありませぬ
それは 働く 家庭から
昼が来る来る 昼が来る
「今日は」「今日は」
夜はどこから 来るかしら
あの星越えて 月越えて
お伽(とぎ)の国から 来るかしら
いえいえ そうではありませぬ
それは 楽しい家庭から
夜が来る来る 夜が来る
「今晩は」「今晩は」 愛知県 O・Hさん
<身近な出来事を「眸」に投稿してください> 編集子
鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
=むさぼり=
第十戒②・神は心を見られる
Ⅰサムエル16:7
会社の重役会の会議は、機密事項であり、知られないはずの事柄がいつとはなしに漏れることがよくあります。閉ざされた扉の中のことが外に現れるという意味で、共通性があります。
このことは例外を見るだけで判断することは不十分であるということです。時には誤った判断をしてしまうこともあります。そのために慎重に判断することが重要で、心にあるものが外に何らかの形で漏れ出てくることにも注意する必要があります。他方、神がなさる判断は常に誤ることはありません。神は人の心を見ておられるからです。サムエルがダビデに油を注ぐように命じられたとき、神は彼に次のように言われたことは有名です。
「人はうわべを見るが、主は心を見る」(Ⅰサムエル16:7、新改訳)。
人は外に現れるものを、表面的に判断したり、厳しく判断したり、あるいは横柄な態度で判断したりすることがあります。そのような裁きに対して、今度は相手から裁きを受けることになります。そのため、主は山上の説教で、「裁くな、裁かれないためである。」(マタイ7:1)と軽率な判断について注意なさいます。
それでも、心にあるものは、ある程度は外に現れます。第十戒では、欲してはならないことを具体例として、まず隣人の家とそこにある物のことが挙げられています。戦争のことを考えると分かるように、隣国の領土を得ようとするために戦争が起こり、現在も繰り返されています。かつての日本がそうでしたし、今のパレスチナ問題にしても、アフリカ諸国の部族間による内戦にしてもその典型を見ています。
戦争によって多くの恐怖と緊張が続き、家族が失われ、多くの富が浪費されます。欲望がこうした罪を生み出しています。
第十戒は隣人の妻を欲してはならないことを命じます。このことは離婚と多く関係があるでしょう。そうはならないにしても、罪として裁かれることはないように思われがちですが、必ずしもそうとは限りません。裁判においても、計画性があることや、殺意があったかどうかは、犯罪の軽重に関係することはよく知られています。例えば、何かの陰謀があることが明らかになったとき、実行されなかったとしても、その内容によって重い裁きを受けることになります。
最後に、心の中は目に現れるとよく言われるように、聖書も、「彼の目は富に飽くことがない」(伝道の書4:8)と述べています。また「人の知恵は顔に光を添える」(伝道の書8:1)とあるように、心が大事であることを教えています。
水垣 清著
(元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)
17 バラ先生来庁50年記念会・・・1・・・
1911年(明治44)、この年はバラ先生来朝50年に相当するので、10月3日東京芝教会における日本基督教会第25回大会で「バラ博士への勤務を感謝し、且益々神佑の同博士はこれに対して挨拶を述べられたが、先生来日の日に当たる11月11日(土)午後2時から、その関係の深い横浜海岸教会で、「ゼームス・エイチ・バラ博士着任50年祝賀会」が開かれた。横浜海岸教会はこれを記念して、来朝当時のバラ先生夫妻の肖像と小会堂の図、並びに現今の会堂の講壇に立っているバラ先生の近影を一対の絵葉書にして来会者に贈った。プログラムは、
執 行 順 序 司会者 イ・アル・ミロル師
1 奏 楽
1 祈 祷 熊野雄七君
1 讃美歌 234 牧 師 伊藤藤吉君
1 聖書朗読 支援125,126 牧 師 小川義綏君
1 祈 祷
1 讃美歌 223
1 歓迎の辞 牧 師 笹倉弥吉君
教 師 イ・アル・ミロル君
1 祝 辞 日本基督教会大会より
神学博士 井深梶之助君
1 祝 辞 日本美以教会総会より
監 督 本多庸一君
1 演 説 教 師 稲垣 信君
1 唱 歌 フエリス和英女学校生徒
1 演 説 長老教会伝道会を代表して
神学博士 デ・タムソン君
1 演 説 アメリカンボードを代表して
神学博士 デ・シ・グリーン君
1 演 説 美以伝道会社を代表して
神学博士 ゼ・ソーパ君
1 演 説 バプテスト伝道会社を代表して
神学博士 ゼ・エル・デーリング君
1 讃美歌 226
1 答 辞 神学博士 ゼ・エッチ・バラ君
1 頌 栄
1 祝 祷
以上
問30 「キリスト教を信じたら、どんな良いことがあるのでしょうか」
答・・7・・
しかし、キリストは、世を去るに際して、次のように言われました。
「わたしは、平和(平安)をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」(ヨハネ14:27)。
これによれば、キリストが「平安」と言われたのは、単に常套の挨拶語してではなく、実質的に、呼び掛ける相手に対しての平安を約束し、かつ提供する当事者であったことを意味しています。
事実弟子のひとりペトロは、ローマ皇帝によるクリスチャン迫害の嵐の中で殉教の死を遂げましたし、そのほかの多くの信徒たちも殉教を厭いませんでした。こういう死に方を、心理学的には異常心理のなせる業と見る向きが無くはないとも思いますが、従容として死を受け止めたのは、彼らの内を平安が支配していたからに他ならないと思うのであります。
カール・ヒルティ―という人は、「平安は神から賜わる最大の贈物である」と言っています。人は財産を蓄え、堅固な家に住み、健康であり、あらゆる災害から守られることを願っています。そういう願いが実現するように、神仏への祈りもします。そういう要求に応えることを標榜していている宗教や占いなどにも心を寄せます。ご利益宗教と称せられるものが後を絶たないのもそのせいではないでしょうか。要するに、人間は、自分が手に入れて、それによって幸せが確保されると思うことは何でもするのです。
その幸せが生活の安定の基礎条件であることは言うまでもありませんが、それらの安定が人生の安定保証条件で十全の保証となるわけではありません。むしれ、自分がより頼むことができるとして確保したものが多ければ多いほど、逆にそれを失いはしないかと不安になったりするものです。だからと言って何も持たないほうが平安でおられるというものでありません。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元中部日本放送「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
B スペインへの途次、ローマを訪れたいとするパウロの希望
・・・15:22~33・・・
「こういうわけで、私はあなた方の所に行くことをたびたび妨げられてきた」(15:22)。
パウロがここで言おうとしていることは、キリストがまだ宣べ伝えられていない所に、福音を宣べ伝えるという開拓伝道の業に関わるあめに、ローマを訪れようとする彼の望みの達成が、たびたび延ばされてきたということである。もちろん、ローマにおいては既に教会があり、福音はそこに伝えられていた。パウロにとって、ローマに伝道することは開拓伝道と呼ばれるものではない。何故ならば、そこには、他の人々によって、すでに土台が築かれていたからである。
「しかし今では、この地方にはもはや働く余地がなく、かつてイスパニヤに赴く場合、あなたがたの所にいくことも、多年、熱望していたので・・・」(15:23)。「この地方にはもはや働く余地がない」とはどういう意味であろうか。ある人たちは「この余地」という語を、ヘブル書12:17(悔い改めの機会)のように「機会」という意味であろうと解釈する。そしてパウロはこのロマ書を書いているコリントの町では、もはや福音を語る機会は持っていない、あるいは、この地方では伝道する機会はもはやないと言っているのだと解する。
しかし、もっと筋の通った解釈は、彼の伝道はこの地方では隅々までなされているので、もはや福音の伝えられていない地域はここにはないと言っているのである。もちろんこのことはパウロの伝道があらゆる町や村にまでなされてという意味ではないであろう。使徒行伝からも解るように、パウロは戦略的に伝道の集中地点、例えば、エペソ、テサロニケ、アテネ、コリントアドを選んでいる。これらの町々において周囲の地域から来た人々はパウロの宣教談を聞いたのである。そしてキリストの福音は間もなくこの地方全体に広まったのである。パウロはこれらの町々のどの一つにも、長期間滞在しなかった。教会を建て、役員と会員が出来ると、彼はそれらの人々にその教会の運営を委ねて、新しい地域へと移って行ったのである。
「熱望している」というのは極めて強い表現である。それはパウロの極めて熱心な願いを意味している。彼はローマのキリスト信者たちに、彼らを訪ねたいという願いを何年にもわたって強く持ち続けていたと告げているのである。ここから私たちはローマの教会がその時すでに建てられてから数年を経ていたことを知るのである。
J・G・ヴォス著、
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
ここ山陰にも春が来ました。宍道湖(しんじこ)にも春がやってきました。梅から桜、今は桜は終わり、ユキヤナギがあちこちに咲いていて華やかです。宍道湖の夕日とヤマトシジミは淡水のシジミ類に比べ味も良く大粒だそうです。わたしはこの地に育ちましたのでそれが当たり前と思っていましたが、夕食の時に他県から訪ねてくれた信仰の友に言われ、大発見!嬉しくなった思い出があります。そのようなことを思い出させてくれる4月の春です。 島根県 L・Tさん
◆ 今年も家の前の川岸に春を招くかのように一面芝桜が咲いてくれました。土筆も顔を出してくれました。母はそれを採ってきて醤油で味付けしたものを少ない おかずとして作ってくれました。数年前までは私も作っていたのですが、足腰が弱って採りに行けず諦めてしまいましたが、お隣の奥さんがお皿に入れて持って来てくれました。主人は少しのお酒の御つまみにして味わっています。母の懐かしい味を思い出し、ほっこりしました。 愛媛県 O・Kさん
◆ 厳重なコロナ対策をしての聖火リレーが始まりましたが、見物人が大勢出ていてこれから続けられるのかが心配です。異例続きのオリンピック大会、先が心配です。何かが大きく変わる前兆を感じます。 神奈川県 N・Hさん
❀ ❀ ❀ ❀ ❀ ❀ ❀ ❀
♬ 孫が小学校に入学しました。娘が仕事をしていたので孫の世話を一手に引き受けてきましたので、晴れ姿の入学式に出ることができました。元気に長生きできたことを感謝して見つめていましたら、嬉し涙が出てしまいました。これからも身の回りから健康のことも含めての孫の世話ですが、私たち老夫婦の生甲斐になっています。神様に今少し長生きさせてくださいと身勝手なお祈りをしています。
♬ 岩手のここ数日の寒気の戻りでまだ冬の装いに戻ってしまいました。水芭蕉が咲き春が来たと喜んでいましたが、期待はずれでした。新一年生が、お兄さんやお姉さんたちに囲まれて、嬉しそうに通学している姿はかわいいですね。右を見て、左を見て、また右を見て左を見て横断歩道を渡る姿は真剣そのもの、事故にあわないようにと願っています。
♬ 私は名前を覚えてもらうために、PCで作った名刺を差し出すことにしていまして、相手には、メモ帳に名前を書いてもらうようにしています。そうすると何とか覚えられるからです。これも年寄りの苦肉の策の知恵ですかネ。不思議と会話の糸口になります。
この文章は、全て投稿者から掲載許可をいただいております。 編集子
『ありがとうございます』
高層ビルの都会の中にある古民家風の庭先に鯉のぼりが風に泳いでいます。お花屋さんには藤の花の鉢植えがありました。しっかりとした太い幹から沢山の枝には薄紫の藤の花をつけています。
私の住む名古屋市名東区には大小の公園があり、季節の花の木があります。今は広い公園のあちこちにある藤棚には薄紫の花が咲き乱れています子。近くには、幾つかの椅子があり、幼いお子さんを連れた若いお母さんたちの語らいの場になり、子供たちはのんびりと眠っています。近くにある保育園の園児たちの遠足の場になり、のどかな憩いの空間になっています。あちらこちらにハナミズキが咲いています。お元気なお年寄りは朝早くからゲートボールを楽しんでいます。この空間だけはコロナは近づけないかのようです。
医療従事者や行政の方々、公共交通機関などで、お働きの皆様に感謝いたします。神様の祝福を、心を低くしてお祈りいたします。
2021年3月16日から2021年4月15日までにお送りくださいました方々です。イースター献金、入学感謝献金、退院感謝建機などです。本当に感謝です。
西口義昭様 岡田千歳様 佐々木実様 加納さおり様 佐藤のり様 馬場暁美様 江崎良子様 宮川真澄様
匿名1名様
*寄付金口座…郵振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社
また、お便り下さる方やお友達への紹介はこのメール アドレスをご利用ください。多くの「ジャーナル友さん」が与えられるように願っています。
*「つのぶえジャーナル」はこれをご利用ください。
http://tunobue.blog.shinobi.jp
(米国南長老教会文書伝道事業)刊行責任者
つのぶえ社代表 長村秀勝
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」