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「今月のことば」
「どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」
=マルコ14:36=
父よ、あなたがわたしに賜った人々が、わたしのいる所に一緒にいるようにして下さい。天地が造られる前からわたしを愛して下さって、わたしに賜わった栄光を、彼らに見させて下さい。
=ヨハネ17:24=
神様は世の救い主として馬小屋で産まれた幼子を通して、多くの人々罪の許しと癒しと救いの道とをお示し下さいました。そうして、神様に呪われた罪人が受ける十字架の刑を、「神の子・イエスとして」お受けになられ、死を経験されました。この事実は信じ難いですが、真実として受け止めさせるのが、イースター(復活日)です。
神様が、世の救い主としてイエスに要求されたことに、主が直面なさったとき、主は痛ましいほどの魂の戦いの中に入りました。今、受けなければならない杯は、罪が全人類にもたらした恐怖に満ちており、その苦しみは「この杯をわたしから取りのけてください」と叫ばせるものでした。だがしかし、それに続くみ言葉は「わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」は、救い主としての勝利を得られたことを鮮やかに示しています。
イエスが示したことは、あなたのために罪ある者とされたことが、み子なるイエス様にとって計り知れない屈辱です。この屈辱を、ご自身の意志を全く無にして神に委ねることによって勝利を得られました。それによって、人の子は勝利を得られたのでした。
イエスがご自分の思いを神にお委ねされることによって、人の子は栄光を受け、神は主イエスによって救いの業の栄光をお顕わしになられました。
イエスは「父よ」と天に向かって叫ばれました。わたしの命を世の救いのためにささげます。あなたがわたしに賜った人々が、わたしのいる所に一緒にいるようにして下さい。天地が造られる前からわたしを愛して下さって、わたしに賜わった栄光を、彼らに見させて下さい、との執り成しのみ言葉は、私たち一人ひとりに、言い表すことの出来ない幸いと感謝の思いにさせることでしょう。「真の希望とは」、眞にこのことであります。
救い主ななる君、われらは君の宴を祝いまつる。
君の死とみ名とをほめまつる。
やがてまた帰り来まして、われらとともに、
子羊の婚礼の宴に来たりませ。
「小閑記」
シモンは答えて言った、「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」。
=ルカ5:5=
このみ言葉は人間ペテロの心が現れているところです。イエス様への得も言えぬ感情が出ています。それは私たちの思いにも言えます。イエス様が救い主??、死から甦った??、そんなことを信じろというのですか??、クリスチャンは変わり者ですね・・・。このような思いと言葉に心折れることもあります。
あの時のペテロの悲しい不平は、私たちの今のキリスト者の間にはよく分かることです。伝道しても成功は少なく、失敗は多いと思われています。
父と母とは夜通しばかりでなく、生涯かけて子供たちの成長と健康を願い、神様を信じ、救われるために祈り、労苦するのに、子供たちは神様より離れて生きているのです。教会のキリスト者の教師たちは幼い子供たちをイエス様のみもとに連れて行こうとして心を砕き、何とかして連れて行こうと働きますが、その努力は虚しく終わるように思います。教会も多くの人にみ言葉を伝えようと努力しますが、教会の扉を開く人は少ないのです。ささげた労苦の報酬は少なく、心折れることはしばしばです。シモンの心にもそのような思いがあったかも知れません。
イエス様は、そのような落胆する者たち一人ひとりにもう一度、網を下ろさせようとなさいます。
病院の先生や看護師さんがもし治療や看護に疲れて諦めてしまったら・・・と思うことがあります。疲れても疲れても、そのお仕事に励んでいます。シモンの心に投げやりな思いがあったとしても、イエス様の声に従いました。結果は網は破れるほどの収穫を得たのです。
神様はあなたの業に報いよう、と言われます。時が至れば刈りとる時は来ます。多くのキリスト者は「主よ、来たりませ」と祈り、収穫を目指して種を蒔き続けます。永遠の朝が明ける時、神様はそのわざを祝福してくださいます。
「涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る」。 詩編126:5
信仰うすき者にそそがるる
主の恵みと愛と謙遜は
我らの 思いに過ぐるなり。
み足のもとにひれ伏して
罪びとの友なる君を知る。
われ心定めぬ、キリストよ
十字架にかかりし君のほか
われは知るまじ。
世田谷通信(211)
猫草
里山も少し手を入れないと、斜面の土が崩れ、枝が歩行の邪魔になり・・と、見る間に荒れる。数年前に腐葉土を作るために落ち葉を入れる「落ち葉だめ」もボロボロに朽ちてしまった。数年で更新するが、最近はその作り方にも工夫している。電動ドリルを使って長い金属のネジで竹と杭を固定していたが、この方法だと改修するときに錆びた釘を引き抜くのが大変。放置しては危ないし、錆びた釘には破傷風菌の危険もある。途中で折れて木材の中に残ることもある。それなら釘を使わずにできないか、というのがきっかけだ。方法は簡単。竹と杭を井桁に組んで、下からシュロ縄で固定するというもの。竹の幅だけ隙間ができるが、中にぎっしり落ち葉を入れたら重なっているのでこぼれることはない。金属を使っていないので廃材の処理が簡単だ。ドリルを使わないので親子でチャレンジもできる。
ササ刈りも1年半ぶりに少し行うことができた。アズマネザサは固くしっかりと成長して、刈るのは普段より力がいる。キンランなど野草周辺だけでもきれいにしておかないと、光も栄養も届かずササばかり優勢になってしまう。ササが茂ると落ち葉が地面に届かず固い土壌になる。春に植物の花が咲かないと昆虫も来ない。昆虫がいないとそれを捕食する野鳥も来ない。野鳥が来ないと・・ドミノ倒しのように悪循環がはじまる。一度途切れた循環を戻すのは大変な労力が必要になる。目立つ野草や大型の昆虫の陰にはもっとたくさんの土壌細菌や微細な生き物、小さな植物がいる。そのピースが失われたら復元できない。どんなバランスで生態系が構成されているのか、人間にはわかっていないことの方が多いからだ。今できることは鎖がきれてしまう前に、細くてもつないでいくこと。何の役にも立たないような地味な植物がそこにあることで、ほかの生き物の住みかとなり、食草となり、水を吸い、土壌を豊かにして環境を守っている。ササも根は残っている。その根が斜面を網の目のように支えている。
刈ったササは斜面の下部に竹串を打ってその間に据えて土留めにする。持ち出さず、足さない。循環の手助けをする。翌日の筋肉痛はこたえるが、自分もまた自然の一部であると思うために、作業を繰り返す。
<いきいき里山ものがたり>
都会の整った公園は多くなりましたが、小鳥や小さな虫たちの姿が消えていく感じがします。ふるさと札幌の公園にはエゾリスが元気に走り回っていると聞き、ほっとしています。名古屋でも郊外には10~15年前までは、甲高い独特の鳴き声のキジの家族を見ましたが、どこかに消えてしまいました。皆さんの「里山ニュース」をお送りください。お待ちしています。
* 春ですね。明るい斜面でイチリンソウが芽を出しました。これからの成長が楽しみです。土筆も顔を出すころですね。
* 寒風ですが澄んだ空気に早咲きのサクラが映えています。公園の様子も、木々の枝に芽が出て淡い紫に変わりました。もう直ぐ桜、そして緑の新芽と共に虫たちも動き始め、池の底にも小さな魚が動いています。春到来ですね。
* ひと足早く春を告げる河津サクラを見ることができました。オオシマ桜はこれからです。皆さんのところは如何ですか。花をつけない木々の枝先にはふっくらした若葉が暖かい陽気の中にありました。
* 紫色の小さな花ですが、空き地や庭先で見かけるカラスノエンドウはよく見るととてもおもしろい植物です。先端の巻きひげは、三方向から固定する優れものです。探してみては如何ですか。小さな動物やウサギの好物でもありますよ。
* 春になると田圃に小型の耕作機が入り始める。それが棚田になる。これは先人たちの苦労の証し、今は後継者のいないこの地や山は荒れ放題になりそうなので心細いです。それでも谷の鶯が囀り始めた。
* 「薹がたつ」とは旬を過ぎてネガティブなイメージがありますが、葉牡丹もフキノトウもなかなか瑞々しくきれいなものです。
* 池にカルガモが訪れました。水際の植物を食べて行ったそうです。緑地は多様な生き物の拠点になっています。
=写真の説明も兼ねています=
「美しい朝に」
沙耶香のつぶやき
お母さんが昨年始めたプランタに花が咲き始めました。春がわたしの所にも来てくれてうれしい気分になりました。小鳥たちは毎日遊びに来てくれています。自由に飛び回っている鳥たちから元気を貰っています。
卒業とか、進学とかのニュースに動揺しています。病院の先生からは、今は健康になることが第一なんだよ!と言われて分かっているが、不安の方が大きい。勉強は学校だけではないとは言っても、友だちも欲しいし、今、そのような思い出を作りたいと焦ってしまう。
定期の診察に行くときのために、日常生活の不安や希望をあれこれと書き出しています。今の先生とは気が合いうれしいですし相談もできるのが楽しみです。2時間以上の時を何時もお話しする時を作ってくれます。その間、お母さんは近くのスーパーで買い物をして待っていてくれます。もう先生とは2年目になります。
今は花粉症です。目は痒いですし、鼻水が出て困っています。お薬は飲んでいますが、こればかりは、ガマンすね。お母さんも同じです。毎日花粉情報を見てお母さんとため息の日々ですよ。
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娘は年長さんになるはずが保育園には行けずになってしまいました。人見知りが激しいので行けないのです。このままだと小学校に行けるのだろうかと心配です。そう言えば私も子供の頃はあまり学校には行けていなかった気がしています。娘なりに健康で好きなお絵描きをして過ごしています。 佐賀県 K・Jさん
<この掲載の原稿の時にお送りし、全て了解を得ております>編集子
『その愛のゆえに』
=時々の記=
(181)
2月17日
非常に激しい風と小雪が舞っている山添村です。それにとても寒いです。3日ほど前には暖かい日がありましたので、この寒さには小鳥たちも庭の梅の花も椿の花もみな震えあがっています。北海道では数年に一度の猛吹雪になっているようですね、車が横転しているのがテレビ映し出されていました。北国の方たちのご労苦、忍耐強さが伝わってきます。私たちは比べ物にならないほど平穏に過ごしているのですね。にもかかわらず、不平、不満の多いこと。罪の頭であることに深く反省しています。
早く暖かい春が訪れますようにと祈っています。いよいよ今日からワクチン接種が始まりますね。このことを通してコロナが終息してくれたら何よりですね。薬を開発してくれた方々に感謝と敬意を表します。昨夜は慎重に水道が凍結しないようにお水を出していたのにもかかわらず、また水道の凍結です。未だに一滴も出てきません。仕方なくバケツに蓄えてある水を大切に少しずつ使って何とか朝の食事とお弁当ができました。やれやれというところです。
冬の夜静かにバッハ聴きにけり。(バイオリニストの五嶋みどりさんが独奏しているものです。)
お水取り備えに籠る余寒かな。(近くの方がお水取りの籠りに出かけました)
冬麗の真っ青な天へ昇らばや。
聴きなれしイムジチなる春の曲。(ビバルディの四季です)
青き踏む癒えたる足で一歩ずつ。(大きな手術を受けて14年になります。) 馬場路哉
低気圧さん早く日本列島から抜け出てください。と叫んでいます。
3月1日
3月号の発送を心から感謝いたします。先ほどから目を通していますと希望と喜びがあふれています。イエス様が私たちの罪のために十字架上でのお苦しみを思います時にこれほどの大きな愛はないと確信するのです。神様のご栄光を表すために私たちにできることは隣人にキリストを知らない方たちにキリストの愛を伝えていきたいものです。それは言葉ではなくへりくだっての行いであり、思いであると信じています。
数々の草の芽を踏み歩きけり。
水温むまではと鯉の動かざる。
椿咲き増えて来たりぬ鳥の影。
春暁や山の端強く光初む。
主に出会ふ期待のありて青き踏む。 馬塲路哉
3月4日
畑の草引きをしようと、畑に行くともうフキノトウがあちこちに出ているではありませんか。その横には辺り一面春の野の花“オオイヌノフグリが”青色の小さな花を咲かせているのです。毎日そのあたりを散歩で通っているはずなのに、今日初めて気が付きました。やはり3月の声を聞いて一気に地面を押し上げて外に出てきたのでしょうね。空を見ると青い空がなんだか急に黄色を帯びて見えるのです。黄砂ですかね。
昨夜は久しぶりに童心に帰ってアンデルセン童話を読みました。“醜いアヒルの子”です。童話ですが、年老いた今でも読んでいると人間が優越感を抱いて生きている姿を目の当たりに感じ取ることができました。人は他人といつも比べて生きているように感じられます。自分が誰よりも低いものだと聖書では教えられています。牧師の家で育った私はいつもそのようにして生きようとしてきました。でも、こちらが低く出れば狡猾にやられてしまうことが何度もありました。その時は悔しい思いをしましたが、それでよかったのではと今は振り返っているこの頃です。
昨日からこぶしが花を咲かせ始めました。こぶしの花はまるで造花のように見えるのです。というのも葉っぱが全くついていないのに和紙で作った花びらのように美しく整っているからです。不思議な花です。そして花がすべて消えていった後に葉っぱが茂ってくるのです。春の花々の美しさに毎日生かされている喜びを感じています。
3月10日
昨日から朝だけはストーブを付けていますが、日中はつけずに過ごすことができるようになりました。とてもうれしいのです。服装はまだ真冬のままです。午後になると一枚羽織っているものを減らすことができるようにもなりました。春の夜賛美の歌で帰りまつ。(息子の帰りをまだかと心配しつつも賛美して平安を得ています。)
春暁や清少納言も眺めける。
リハビリやヨモギの土手に休みもし。
口閉づる椿ありけり山の寺。
春疾風里山の竹倒すかに。 馬塲路哉
小学校の卒業式は19日、中学校は16日だそうです。本来ならば在校生、卒業生が一緒になって盛り上げるのですが、コロナ禍で卒業式がリモートでする学校もあるとか。小さな村の学校ですからそういうところはよいのかもしれませんね。新しい道へ進もうとしている子供たちのこれからを祈るものです。
馬場暁美
「上野緑ヶ丘教会会員」
眸(ひとみ)
「ジャーナル友」の皆様にはお元気にお過ごしでしょうか。厳しい寒さの中、春を告げる行事に「芝焼き」があります。松明に付けた火がみるみる広がり、冬枯れの芝の色が変わり、白と黒のコントラストが鮮やかです。約二時間で冬枯れの芝は一面黒色に変わり美しい景色に季節は替わります。次の時には若い芝の芽が覆います。各地には春を迎える行事が沢山あることでしょう。 岡山県 B・Hさん
先行接種をいたしました。同じ職場の人は全員受けて異常はなく、ほっと一安心です。今は一般の入院患者さんの病床にシフト替えで、一つの役目を果たした安堵感と満足感の日々を過ごしています。厳しく過酷な職場でしたが、自分の人生観が変わるほどの経験をしました。この経験をこれからの看護師として活かしたいです。 栃木県 T・Aさん
あの悲しい災害から10年、道路には瓦礫はありません。復興住宅も出来ました。街並みも出来、新しい家が建ちました。高い放射線量の所もまだあります。しかし、当り前ですが人と人との絆は戻りません。お年寄りの方は亡くなり、当時活躍していた方は高齢になりました。夫や妻、父や母、兄弟を失った心の淋しさと傷は消えるどころか深まるばかりです。子供たちのために何とかしなければ、という思いで始めた活動の支援活動も資金不足で、閉鎖を考えてしまいます。忘れ去られる不安が日に日に増してきます。10年と言う年月は、希望ではなく、不安に潰されそうな日々です。「ジャーナル友」の皆さん、忘れないでください。コロナ禍は弱い者に、弱い所に襲いかかって来ます。農家の方が野菜物を届けてくださいます。ご近所の方が子供たちの食事を作ってくださいます。ここを育った子供たちも遊び仲間になってくれています。そのような姿に励まされて頑張ります。お祈りください。 福島県 B・Hさん
春の訪れとともに、水芭蕉が顔を出してくれました。例年にない大雪で山からの雪解け水が農場用の水路に勢いよく流れ込んでいます。怖いので近づけません。もう少ししたら桜です。少なくなった新一年生が大きなランドセルを背負って登校する姿を見るのが楽しみです。 滋賀県 B・Aさん
今年、新職員が3人、町の会報に紹介されました。3人とも地元に戻ってきた若者です。久し振りの出来事です。町のあちこちに人の住まない家が多くなり、寂しい感じがしていましたのでうれしいですね。でも診療所のお医者さんはいません。それが不安です。 愛媛県M・Mさん
「北国の春」のように岩手にも春を待つわたしたちに、モクレンやハナミズキが訪れてきました。津波や原発で10年になりましたが、10回も、モクレンやハナミズキは咲いてくれていました。これからの10年、わたしは80歳になりますが、来年も元気に2022年の春を迎えたいと思っています。わたしも「ジャーナル友」として皆様のことをお祈りしています。 岩手県 B・Mさん
<身近な出来事を「眸」に投稿してください> 編集子
十戒と主の祈り
鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
=むさぼり=
第十戒①・むさぼるな
ヨシュア記7:1~26
第十戒について、ローマ教会とルーテル教会は、他の教会と違った区分をしています。彼らは第二戒の「刻んだ像を作ってはならないを第一戒に入れたことにしたために(カトリック要理」第17、18課参照)、第十戒を二つに分けて、第九戒「人の妻を望むなかれ」と第十戒「人の持ち物をみだりに望むなかれ」というように数を合わせています。これを見ても、いかに人為的であるかが分かります。
出エジプト記20章17節のように、隣人の家が先に来ても、申命記5章21節のように、隣人の妻が先に来ても、その節の全体の内容が変わるわけではありませんから、隣人に属するものを欲する、むさぼるという罪のことを禁じられていると考えることは極めて自然です。パウロもローマ7章7節で、「むさぼるな」という言葉によって、第十戒を一言で語っています。
この十戒のむさぼりの禁止命令と、第七戒(姦淫)そして第八戒(盗み)の行為の禁止命令との関係をどのように理解したらよいのでしょうか。
世俗的な考え方からすれば、何かを欲する願いをもって、不正な行動に移らないかぎり、罰せられる罪はない、というように考えられています。しかし、この第十戒では、願いを持つことそれ自体が厳しく問題にされていることが分かります。その理由は手に入れたいという願いをもつこと自体、既にそれを得ようとする計画が生まれていて、都合の良い機会が来るなら、それを実行しようとする用意ができているため、問題にされなければならないと考えられているからです。
エリコが陥落した時、アカンは言っています。「分捕物の中に一枚の美しいシリアルの上着、銀二百シケル、重さ五十シケルの金の延べ板があるのを見て、欲しくなって取りました。今もそれらはわたしの天幕の地下に銀を下に敷いて埋めてあります」(ヨシュア記7:21)。この彼の言葉から、「むさぼる」ということは、その欲したものに手を出すことを停止することができなかったことを意味しています。
言い換えると、この戒めが指摘していることは、隣人の家、妻、雇用されている人、あるいは家畜を欲する人は、それに手をださいではおれなくなることです。むさぼりが生ずるとこのようになるというのが、この戒めが何よりも意味していることです。
ドウマ教授は、この第十戒が禁じている「むさぼり」とは、気持ちと行動との中間的なものであると言えます。姦淫と盗みの行動は、すでに第七戒と第八戒で禁じられているため、この第十戒は、心に抱く計画とその計画を実行するためのステップの背後に存在するものを問題にしています。「今もっているもので満足しなさい」(へブル13:5)ということが積極的な勧めです。
バラ・マカルピン 日本伝道百年史
水垣 清著
(元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)
16 日本宣教50年・・・8・・・
以上のことは真個の記事として一般に許容されることであろうと信じます。もっと他に明らか知られていないことは、ここに述べる価値がないと言うのでは勿論ありません。ヘボン、二人のブラオン即ちR・Sブラオンとナサン・ブラオン。監督ウイリアムス、グリイン、マクレー、等の聖書翻訳者、カクラン、イビイ、ミーチャム、ベンネット、デビス、フーネツト、ゴルドマン、フォールス、ペーム、クレッカー、ベリー、テーラー等の、人々から敬愛を受けた医師と公使、それから、全ての伝道会社に於いて著名な人々、こういう名は銀河の如く輝いています。
「多くの人々に喜びの音信を伝えた婦人」の中には、ブラオン、ピアソン、ツルー、ベントン、ミラーバンベッテン、マコーレ等の夫人がある。独身の女子には、クロスビー、ガスリン、プリテン、ダッドレー、タルコット、スターリング、ウインビシユ、ガードナー、ミリケン、ヤングマン等「生命の言」にその名を記された真理のために働く同労者及び福音伝道者があります。云々・・・」(日本基督教会)。
このバラ先生の講演によって、明治維新の伝道の困難と神に栄光を帰した先生の信仰を窺うことができよう。続いて10月8日(第4日目)午前9時半からの講演で、マカルピン師も7分間奨励された。
先に記した名古屋における各派連合の伝道会は、1910年(明治43)3月16日から6月13日まで第10回関西府県連合共進会場(現鶴舞公園)で90日間に亘って連日の大天幕伝道がなされた。その中心的指導者の一人としてマカルピン師の活躍も大変なものであった。
統計によると説教者述べ327人、度数860回、会衆66,670人、求道者5,624人であった。これは名古屋地方を中心とするキリスト教の伝道成果として、画期的なものであった。
しかし、全てのことが順調に進んだ訳ではなかった。伝道の疲労を癒す間もなく、6月16日、米国のタラネイガに住まわれたマカルピン師のお母さん(90歳2カ月)の最後を知らせる電話があった。お母さんは2,3週間前までお手伝いさんと同じように部屋の片づけもしておられるほど元気でおられたのに、それは眠るように静かな最後であった。
その冬、徳島に旅し、翌1911年(明治44)4月末、母国アメリカに赴いたマカルピン師は、1913年3月7日、日本に帰るまでアメリカに滞在された。
「キリスト教百話」
問30 「キリスト教を信じたら、どんな良いことがあるのでしょうか」
答・・6・・
キリスト教は、もともとユダヤ教の基盤の上に発生しました。それはキリストがユダヤ人社会に生まれ、ユダヤ人を相手に伝道し、ユダヤ人がその弟子になったからです。ユダヤ教の基盤というのは、金曜日の日没から土曜日の日没までを安息日として、シナゴグ(会堂)での礼拝をする共同体であった、ということです。ところが、キリストが復活したのが安息日の翌朝、つまり日曜日でしたから、キリストの弟子たちは、このキリスト復活の日に集まって、集会をするようになりました。
キリスト教がユダヤ人以外の人たちに伝えられるようになりますと、この人たちには安息日と言う伝統がありませんから、日曜日に集まって礼拝をするようになりました。キリスト復活の日が日曜日でなかったら、日曜日を礼拝の日として休むということは、始まらなかったはずです。今日、日曜日が休みの日となっているのは、キリストの復活が日曜日であったことに由来しているわけです。
ところで、復活されて弟子たちに現れて語られた言葉は「シャローム」という言葉でありました。これは「平安」という意味の言葉です。日本人の場合は、さしずめ朝なら「おはようございます」とか、「こんにちは」とかが常用語でありまして、特に挨拶する側からのメッセージが伝えられているというものではありません。ところが、キリストの場合は「平安があるように」とか「平安あれ」とかいうように、語る側の意図と内容が込められていたわけです。
これはユダヤ人の挨拶の常套語であったことから言えば、特に取り立てて言うほどのことではなかったと言えますし、またキリストが十字架の処刑を受けたことから、自分たちにもその咎めが及ぶのではないかと心穏やかでなかった弟子たちに対する「心穏やかであるように」という挨拶であったかもしれません。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元中部日本放送「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
第98課 パウロも宣教活動とその計画
=15:14~33=
・・・15:14~21・・・2・・・
A 「異邦人宣教師としてのパウロの働き・・2・・
・・・15:14~21・・・2・・・
しかし、他人の土台の上に建てることにより、真に悪質で軽蔑すべき形のものもある。すなわち、すでにキリスト信者である人々と接触して、彼らを説いて、彼らの教会から離れさせて、自分の教会に加入させようとする伝道者たちがある。不幸なことながら、このような羊を盗むことがよく行われる。そしてこのような行動の犠牲となるのは、比較的小さいが熱心で信仰深い教派なのである。
もちろん真摯な信仰の確信に基づいて、教籍を変えようとするキリスト信者については反対すべきではない。聖書の立場、あるいは聖書に示されている教会の形態に最も近いと自分が確信する教会に加入することが信者の義務である。もし教役者が他の教会に働きかける場合、上述のような高いレベルの確信からするのであれば、誰も不義を述べる者はいないであろう。
そのような意味での競争は、むしろ真摯で正当であると言えよう。しかし、現今においては、他教会の会員を転籍させる働きは、このような高度の指向に基づいてなされていることは稀であり、もっと低級で世俗的な動機から行われることが多い。例えば、厳格で信仰深い小さな教会から、より大きくて世俗的なタイプの教会へ誘うことがよくなされる。このような形態の教会員の横取りは大いに非難されるべきである。聖書的な基準を厳守し、正統的な信仰と生活を維持しようと努める教派は不断にこのような非倫理的な企てに反対するのである。
「すなわち、彼のことが宣べ伝えられていなかった人々が見、聞いていなかった人々が悟るであろう」(15:21)。
この言葉はイザヤ書52:15からの引用であり、そこではキリストが異邦人に宣べ伝えられることが預言されている。このようにパウロの異邦人への宣教の働きは旧約の預言の成就なのである。パウロはここで自分の教えと旧約聖書とが調和していることを示しているのである。
J・G・ヴォス著、
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
『ほっとひととき「みんなのコーナー」』
◆ 年末から2月は大雪に見舞われ山の積雪も多く、雪解けと共に、山からの雪解け水が心配です。排水溝の水の勢いが凄まじく恐ろしいくらいです。それが過ぎると緑の季節に早変わりです。越後の春です。 新潟県 L・Tさん
◆ コロナも少し落ち着いてきました。4月には村の小さな保育園にも園児が入るとか。久し振りのうれしいニュースです。地元の企業に数年前に就職してくれた家族が有って、お子さんが3人も増えました。農家の跡を継いでくれる人が増えると良いのですが、なかなか担い手は出てきません。 愛媛県 O・Kさん
◆ 「つのぶえジャーナル」が届くのを毎月楽しみにしています。心療施設の生活も20年になりました。歩行器で院内の移動の日々です。外に出ることは殆どありません。窓越しに見る外の景色を楽しむ気持ちも薄れてきますが、イースターの恵みは本当に感謝です。もう叶わない願いですが、母教会で礼拝を皆さんと守り、心から賛美の歌を唄いたいです。 神奈川県 N・Hさん
❀ ❀ ❀ ❀ ❀ ❀ ❀ ❀
♬ 二月に咲き始めた庭の梅がもう散り始めました。山の方から鶯はとても勢いよく滑らかに声を立てています。4月になりました。カレンダーはどれも桜の花やチューリップの花、つつじの花の写真ばかりで部屋の中が明るくなりました。真冬に買ってきたミニシクラメンは健気にもまだ花を咲かせてくれています。お隣の方が今、たくさんお野菜をくださいました。本当に見事なほうれん草です。専門家は違いますね。我が家の畑の白菜、水菜はともにしょぼくれたままです。お野菜作りの難しさを感じさせられているこの頃です。「ジャーナル友」さんの中にもお庭で野菜をお作りの方がたくさんおられることでしょう。
♬ 奈良の東大寺のお水取りが明日で終わりを告げます。この行事が終わると関西地方にも本格的な春がやってくるといわれています。今日はそのようないわれの通り、とても春らしい穏やかな日和でした。ヨモギがあちこちにみられるようになりました。このヨモギを摘み取って冷凍するといつでもヨモギの入ったお餅が食べられるのだと義母から教えられたものでした。鶯はすっかり滑らかに谷から谷へとよい声を響かせています。私は“春はどこから来るかしら”が今の時期には好きでよく口ずさんでいます。
この文章は、全て投稿者から掲載許可をいただいております。 編集子
『ありがとうございます』
青森におられる「ジャーナル友さん」からのメールのお便りでは、春を教えてくれるモクレンはまだまだ先のように思われますが、雪解けが進みこぶしが花の咲かせてくれるのを待っています。この季節になると土筆や黄色いタンポポやラッパ水田が花を咲かせてくれます。東北の春もすぐどこに来ていますよと、送ってくださいました。
コロナ禍でも、土の中の虫たちも、顔を出し、動き回り、公園の枝には若葉の蕾が、次は私の出番よとでも言いたげに日に日に大きくなってきました。遠くの山には雪があっても、4月は何もかもが動き始める季節なのですね。
神様のお導きと皆様のお祈りと励ましを頂き、4月号もお届けできることを心より感謝いたします。ここに、小さな伝動事業のための協力金・献金を頂きましたので報告させていただきます。
2021年2月16日から2021年3月15日までにお送りくださいました方々に感謝して、報告させていただきます。
野上八千代様 羽野 環様 加納さおり様 佐藤のり様 馬場暁美様 豊島 望様
高橋順二様 匿名1名様
*寄付金口座…郵振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社
また、お便り下さる方やお友達への紹介はこのメール アドレスをご利用ください。多くの「ジャーナル友さん」が与えられるように願っています。
*「つのぶえジャーナル」はこれをご利用ください。
http://tunobue.blog.shinobi.jp
(米国南長老教会文書伝道事業)刊行責任者
つのぶえ社代表 長村秀勝
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」