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「今月のことば」
イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらなければ、父のみもとに行くことはできない」。
=ヨハネ14:6=
2021年をお迎えになられた皆様の上に、神様が下さるお守りと祝福多い年になりますように、また、このコロナ禍が収束され平安が与えられますように、お祈りいたします。このために懸命に尽力されている政治・行政にかかわる人々、大病院、専門病院ばかりでなく、多くの個人病院で私たちの健康を支えておられ、医療に献身的に関わっている方々、家族のために心をお砕きのお一人、お一人が「支え人」になられている皆様の心と健康が守られますように、お祈りいたします。
このような先の見通せない時であるからこそ、このみ言葉を通して考えてみたく思いました。
この「彼」とは、弟子のトマスであり、そうして私たちでもあります。その時のトマスは、このみ言葉の道は深くは知りません。あらゆるものがトマスには、縺れた糸であり、事の全てが不明瞭に見えていたのです。彼の生涯はきっと堅実さを追い求め、大切にして生きる人間だったと思います。だからこそ、真面目に迷うのでしょう。
トマスにはイエス様がどこに行かれるのか、自分はどこに行こうとしているのか、分かりません。その思いの乱れ、縺れるのは、トマス一人ではありません。他の弟子たちもかも知れません。私たちはたびたび疑問を持ちますが、それは日常の単なる迷いかもしれませんが、事が人生の歩み、生き方の迷いに立ち向かう時、「真理・真実」に出会いたいと心から願うでしょう。それが救いの道、天国への道に進んでいるか否かは、誰もが探し求めるものです。まことの信仰の道を求める方もおられるでしょう。自分の信仰を振り返る方もおられるでしょう。その問いかけに、はっきりとした道を知り、切り開くことの出来る人は、どんなにか幸福であろうかと思います。
真剣に迷い、自問することは大切です。「求めなさい、探しなさい」とイエス様は言われました。そうして「耳のあるものは聞きなさい」とも言われています。
イエス様はお答えになりました。光と解決をお示しくださいました。「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらなければ、父のみもとに行くことはできない」と。
私たちにとって真に必要なものは、このイエス様のお招きに真摯に応え、受け入れることです。
2021年、この神様の招きのみ言葉に、教会に行くことに、そうして、それを大切にする日々でありたいと思います。
「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ、主はそれをなしとげる」(詩編37:5)。
道にして、真理、命にいます主よ、
その道を知り、真理をはなれず、命を得させたまえ。
そのよろこびを、とこしえにあふれしめたまえ。 アーメン
「小閑記」
「ひとりが蒔き、ひとりが刈る。わたしはあなたがたをつかわして、あなたがたがそのために労苦しなかったものを刈りとらせた。ほかの人々が労苦し、あなたがたは、彼らの労苦の実にあずかっているのである」。
=ヨハネ4:37~38=
今、信仰者とされている私自身を考えてみる時、私の前に生き、働いていた多くのキリスト者たちがありました。神様は、その「先立ち人」のなしたことをも、心に留めておられます。もし、その「先立ち人」の働きがなされなかったなら、私たちキリスト者・信仰者は、神のみ前に集い、集まれてはいないでしょう。私たちの先人の信仰者の仕事は、時に小さく、弱々しく見えたとしても、教会で、先輩信者の方々の素朴な信仰の会話の中に、また、父や母が幼い子供に神様にある恵みを感謝して伝え祈るそのひとときに、子供たちの心に、神様への信仰の芽が蒔かれているとしたら、何と幸いな時でしょう。
ある時、教会の集まりの案内を一人の人に手渡した一枚が、その人に神様に向かう動機になったとすれば、小さな弱々しい働きではなく、「大いなる伝道」という特権に与った喜びの時でもあります。働き人が少ないと言われています。人の目にはそうであるかもしれません。一人のアダムから、一人のアブラハムから空の星、海の砂のように、この歴史の中に数知れない信仰者が産まれ、今、私たちがいるのは誠に奇跡であり、事実です。
一人一人が信仰者として、密やかに祈るひと時の祈りが、神様はお聞き届けくださることを信じて祈る時、一人の「先立ち人」とされるのです。一粒の実、一枚の案内が、神が共におられる集まりの神の国の実なのです。信じて為される働きは、時至れば、芽を出し、成長し、実を結ぶように神様の愛として叶うのです。
「たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる」(ガラテヤ6:9)ことを喜び待つ、「先立ち人」であり続けましょう。
主イエスのみことばなれば
いかなることをも、われなさん。
みことばと、み霊によりて、導きたまわん。
みことばなれば、信仰によりて、
すべての働き、益とならんと、われは知るなり。 アーメン
世田谷通信(208)
猫草
208も書いてきて、何を書いたらいいのかここにきて立ち止まる。楽しいことや嬉しいことをそのまま書いていいのか、誰に対してかわからないが、気が引ける。かといって悲しいことや滅入ったことを拾い上げて書く気持ちにもならない。そんな中で気が付いたことがある。最近友人と連絡を取るとき、文章が短い。日本人は略語が得意だし・・いやそういうレベルではない。「了解しました」は「りょ」。OK自体が略語なのに、親しい仲間内なら「おけ」。オーケーぐらい縮めなくてもいいだろうにと思う。LINEなら文字すら使わずスタンプで済ませてしまう。便利なので自分もつい使う。通じるのでいいだろう、という安易さがある。
昔、作文で一文が長いから二つに分けろと赤で添削された記憶がある。冗長な文章が良くないのは事実。でも今はある程度、長いまとまった文章を書く練習も必要なのではないだろうか。添削はいくらでもできる。短文しか書けないと削りようもない。
近所に世田谷文学館という場所があり、世田谷ゆかりの作家たちの作品などを定期的に紹介している。手書きの原稿も展示してあるのだが、原稿用紙に万年筆で書いてあって、赤で修正されていたりするとガラスケース越しに見入ってしまう。元の文章を入替え、消して、また直して。パソコンだったら残らないその推敲の跡が思考のプロセスとして可視化できる。反故になったのもある。大きく×で原稿の半分ぐらいがカットされているのもある。なぜその言葉ではなくこの言葉に変えたのだろう。そしてまた戻している。きっと後半とつじつまが合わなくなったのだ。その思考の流れ。文豪と言われる人たちの修正だらけの原稿は見飽きない。また原稿用紙がいい。インクの色がいい。特注品を誂えてこだわっている作家あり、市販品で結構の作家もあり。それも興味深い。
書くこと。考えること。文字にすること。自分で書いたものを見ている自分は、一瞬前に考えていた自分よりも確実に少しだけ前に進んでいる。それに救われる。歩くのにも似ている。どこかに向かうには足を動かさなくてはいけない、移動した分、立ち止まっても、戻っても、それは進んだことになる。
文章が短くなっていることに不安を感じたのはそのためか。深く考える前の思考停止。「りょ」では推敲の余地がない。「了解しました」なのか「了解致しました」なのか「了解です」なのか、そもそも「了解」なのか、承知しました、わかりました、分かりました、承りました、もっと的確な表現はないのか。答え一つにもその相手との関係性を含めた、自分のあり方を問われている。それを面倒に感じるコミュニケーション。違和感の隙さえない速度。略語と顔文字の応酬も新しい文化なのか。言葉は生きている。人と同じ速度で。
「美しい朝に」
讃美歌411番(年末 年始)
1 すべしらす神よ ときわにみちびく。
み手のおおみわざ、 われらほめたたう。
2 あたらしき年は 主の愛をしめす、
めぐみはたえせじ 年のおわるまで。
3 いえにもたびにも よるひるいとわず、
みめぐみうけて この年をすごさん。
4 われらのゆくさき さだかに見えねど、
みちびくひかりに 身を委ねまつらん。
5 禍幸(まがさち)よしあし ゆきかうなかにも、
われらのよろこび やすきは主にあり。 アーメン
沙耶香のつぶやき
お母さんとクリスマスツリーを作りましたよ。今年は、今までの造った飾り物に二、三個新しいものを作り、飾りました。クリスマス礼拝には行けませんので、今年も家族でお祝いしました。
今年最後の定期診断に行ってきました。楽しい先生との会話で、お医者さんとは思わず、おねいさん先生と思っての面談です。素直に何でも話すことができるようになっています。クスリも少し軽い物にしましょう、と言ってくださいました。何だかうれしい気持ちになりました。
お母さんはたくさん花のついたシクラメンの鉢植えを買って来て、テーブルの上に置いてあります。花粉症の私は苦手な方ですが、最近、それが感じられなくなっています。コロナではないですよ。
今年も終わりだ~なんて日記に書いていました。何だか無駄に過ごしてしまった感じがして悲しくなります。先を考えると不安ばかりで、嫌になります。いろいろ考えるのは大人になったからですよと病院の先生は言ってくれますが、そんな実感なんか今はありません。ただあるのは不安だけ・・・。もう嫌だよ。
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沙耶香さんはお元気ですか。私は最近薬が変わりイライラしています。先生に相談したら、薬、変えましょうと言ってくださいましたので、次回の診察までは飲まないようにしています。飲まないと不安になるし、嫌になりますが、私にはそのような素直なところはありませんか。「沙耶香のつぶやき」毎月、楽しみにしています。とても身近にいるお友だちのように思えてなりません。神奈川県 S・Gさん
<この掲載の原稿の時にお送りし、全て了解を得ております>編集子
『その愛のゆえに』
=時々の記=
(178)
11月21日
体調が少しずつ戻りつつあるので感謝です。ことしはクリスマスカードを出せないかと心配していましたが、アメリカにおられるゴダート先生にはたどたどしい英語で何とか感謝の気持ちをお伝えすることができました。信仰の先輩にも感謝の気持ちをお伝えすることができました。12月に入ってからでもよいのですが、アメリカはやはり3週間はかかりますから、何とか間に合いそうです。クリスマスには心からの感謝の思いをお伝えしたいのです。救い主イエス様のご誕生を心からお祝いできることは、本当に幸いですね。
過りたる車に踊る落ち葉かな。
山裾哉落ち葉の多き詩仙堂。
山峡に紺碧の空冬日和。
茶の花や祖父の守り̪し畑荒るる。
川浪の勢ひ紅葉促しぬ。 馬場路哉
喘息の発作のような状態になってから家事を少し減らすようにしました。週に二度は台所、玄関先、トイレを掃除していたのですが、週に一度にすることにしました。埃が多いのは見苦しいのですが仕方ありませんね。夜明けに咳が激しくなります。
11月27日
12月号のジャーナルを読ませていただいて、救い主イエス様がご誕生くださったことの意義がよくわかり、心からイエス様を信じる信仰を与えられていますことに感謝いたしました。
教会に頌歌の湧きてクリスマス。(今年はできませんね。)
小春日や木漏れ日の庭草を引く。
山峡や漆紅葉の目立ちもす。
日向ぼこ神より賜ふひと時と。
道々の紅葉を眺めて買い物す。 馬場路哉
朝は冷え込みましたが日中は暖かくなってきています。いつもの散歩コースに出かけてみると、う2軒隣の96歳になられる方が、車いすに乗せていただいて、同じようにでこぼこ道を散歩していました。久しぶりでしたのでご挨拶をすると、“お世話になりましたね。私は今日限りで実家に帰ります”と言われるのです。ご実家はずいぶん離れた榛原だそうです。介護される方は私と同年齢の方だそうです。
12月4日
お日様が午後から照りだしてきました。西の空から台所の窓に向けて光線が明るく入ってきます。窓越しから入る暖かさで今はストーブもエアコンもつけていません。一日でもほんのわずかな時間でも暖房を使わずに過ごせるのは感謝なことです。
小春日や木漏れ日の庭草を引く。
富有柿こそ故郷の風味なれ。
谷戸の灯の減りし在所や冬に入る。
ピアノ曲人偲ばせて身に沁みぬ。
行滝の響き鋭く冬に入る。
天国を思へる小春日和かな。
茶の花やかぎろひ赤し津の辺り。
山の端にあか星光る待降節。
裾の篠広く刈られて山眠る。
病院に展示されたる紅葉の絵。 馬場路哉
朝から主人はリハビリに出かけました。筋肉の弱りを少しでもカバーし、今のままでいられたらという願いを込めて必死です。毎朝聖書の通読をしているようです。その後、カルビニズムについての本を読んでいます。大事だと思ったところはノートに書き留めています。私は、「朝の祈り、夜の祈り」を参加しています。
12月9日
干しものに湯気立つ小春日和かな・
散り紅葉綾を成しては重なりぬ。
つくづくと眺む紅葉の黄落渓。
生垣を蝶高く超ゆ小春かな。 馬場路哉
主人は今日は月ヶ瀬まで車で出かけて、梅渓を散歩してきたようです。眺めは絶景で気持ちがよかったといっていました。月ヶ瀬は山、川のバランスがとれていて、とても見事なのです。
馬場暁美
「上野緑ヶ丘教会会員」
眸(ひとみ)・・117・・・
高齢者施設で働く一人として、面会禁止のご家族、一人お部屋で楽しみに待っている方々を拝見していて思うことは、医療従事者の皆さんも、同じお気持ちだとは思いますが、コロナの感染拡大のニュースは辛いです。私は仕事に出る前に、神様に、笑顔と暖かい気持ちをお与えくださいとお祈りする時間を持つように心がけています。笑顔で皆さんに声をかけ、決まったプログラムであっても、何かを分かち合いたいのです。コロナ禍には負けません。一人の信仰者として、今日も笑顔で頑張っています。そうして、入居されている皆さんも、頑張っています。どうか、お祈りください。 長野県 B・Hさん
私の一番の悩みは、休みのない病院勤務ですから、お正月休みの勤務体制を考えることです。コロナ対応の病院ではありませんが、救急指定の大きな病院ですから、一般の患者さん対応もあり、頭を痛めます。これは看護師だけではありません。治療に当たる医師の先生も同じで、むしろ過酷です。お掃除の方、食事のお世話をしてくださる方、暖房管理の方、事務職員の方々あっての人的総合病院なのです。もう何年も私のお正月休みはありません。同じ市内いる娘も別の病院で看護師として働いています。皆さん、健康に注意なさって、お過ごし下さい。 兵庫県 T・Aさん
在宅勤務生活も、しんどくなってきました。テレワークなどと言われますが、満員電車に揺られる勤務が、何だか懐かしい感じがします。運動不足になり公園の周りを散歩していますが、同じ年代の人が、犬の散歩で運動不足とストレスの解消されているのでしょう。その一人が私ですが・・・。これが続くと、テレワーク仕様の家でない私は、テーブルが仕事机になっていますので、家の中では居心地は良くないですし、食事のたびにあちこち移動で、一家団欒?の食事どころではないです。皆さんはどうされているのでしょうか・・・。神奈川県 B・Hさん
<身近な出来事を「眸」に投稿してください> 編集子
十戒と主の祈り
鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
=偽証=
第九戒②・偽りとなるもの
マタイ26:57~64
信仰者は偽証しまいと努力しても、結果的に偽証したことになることがあるため、気を付ける必要があることが三つあります。
第一は良くない噂話。すなわち、ゴシップです。
このゴシップは必ずしも偽りそのものではありません。なぜなら、ゴシップには真実なことを広めるという面があるからです。しかし、それは同時に真実を語っても噂話がなされる状況には誤解を与える要素がないわけではありません。隣人の失敗、欠点、足りない面などは、話の材料として人の関心を引くものだからです。人の優れている点よりも劣っている点が話題になることの方が、一般には関心を引きつけると言われています。そのため、人の良い評判はすぐに盗まれてしまい、なかなか返へしてもらえない。どういうことかと言いますと、その人の良い噂話は人々の間に行きわたっていって、その人のところへ帰ってこないが、悪い噂と言うものはすぐに帰ってくるほど早く行きわたると言うことです。
第二は、早とちりによる判断は、隣人を誤って理解し、その人を扱うことになる場合に、偽りを生むことがあります。
今回の聖書個所にありますように、主イエスの弟子たちは、エルサレムの神殿の入り口に座って物乞いをしていた一人の盲人を見て、弟子たちは、この生まれつきの盲人は本人の罪のためか、それとも彼の両親の罪のためか、と主に尋ねました。そう思い込んでしまっていたからです。
昔、アブサロムに裏切られて、エルサレムを脱出した時、ダビデは、主人のヨナタンの息子で歩けないメフィポシェトの安否を、従者のツィバに尋ねると、ツィバは「エルサレムに留まっています。『イスラエルの家は今日、父の王座をわたしに返す』と申していました」と答えると、ダビデは彼に、「それではメフィポシェトに属する物はすべてお前のものにしてよろしい」と言いました。ダビデはメフィポシェトが自分に反逆したと早とちりしたのです。しかし事実、彼はエルサレムに留まっていましたが、エルサレムを離れようとした時、妨げられてしまったのです(同19:28)。
第三は中傷することです。これはゴシップと違って、面と向かって、意図的に誹謗することです。そして中傷は偽りの上に真実の上着を着せ、一見偽りでないかのように装います。主イエスが「この男は、神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる(マタイ26:61)と言ったと非難されます。しかし、主が言われたのは、ご自分の体の復活のことでした(ヨハネ2:19)。
こういうわけですから、私たちは極力、中傷しないことです。パウロはこう言います。「ですから、主が来られるまでは、先走ってなにも裁いてはいけません。主は闇の中の隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てを明らかにされます」(Ⅰコリント4:5)。
バラ・マカルピン 日本伝道百年史
水垣 清著
(元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)
16 日本宣教50年・・5・・
4 僧侶に次いで永久に続くならどうすることも出来ないと思われた障害物は、サムライ、即ち、士族の帯刀であった。帯刀するということは、ただに士族が平民に対して優秀なことを現すばかりでなく、社会のすべての下級の人民はこれを見ると常に心配と恐喝とを感じたのである。世襲の特権ともいうべき帯刀が撤廃されることができるかどうかは、実に疑問であったのです。
このことは何の咎もない外国人に一日も忘れることの出来ない恐怖心をひき起す原因となりました。何故かというに、帯刀している人々の大部分は、外国人を切り殺すことが忠義だと考えていたからであります。特に外国との戦争に徳川幕府を関係させて将軍家の力を弱め、それで自分らの利益を増やそうと考えていたからであります。街を歩くのは勿論、夜になって外に出るには、生命が危ういということを常に感ぜずにはおれませんでした。
政府では、居留地以外に居住する外国人が、その住所にいる時も、他所へ出る時も、これを保護するために騎馬の護衛を与えてくれることを怠りませんでした。外国人の官吏に対しては特にそうであったが、居留地以外、条約範囲の中に暫く居住する宣教師に対しても、そういうふうでありました。
こういうことは、無益な恐怖しかなかったが、然し良かったと思われるような注意もしばしばあったのです。今日に至るまで、横浜や東京の墓地に見られる墓碑に「無残にも暗殺せらる」とあるのがその証拠であります。
「キリスト教百話」
問30 「キリスト教を信じたら、どんな良いことがあるのでしょうか」
答・・3・・
人々は、いざという時に、助けを呼び求めますし、人生を生きるのにどういう生き方が最も望ましいかについて思いあぐねますが、まことの権威を持って「わたしを信じなさい」と呼びかけられる方に出会えるくらい良いこと、幸いなことはないのではないでしょうか。イエスをキリストと信じている者は、このことを良いとしているのであります。
「キリスト教を信じたら、どんな良いことがあるのでしょうか」という問いからこの項が始まったのですが、その場合「良いこと」というのはどういうことを言うのか、ということが一つの問題になるように思います。
と言うのは、例えば、江戸幕府時代キリシタンは禁制でありました。クリスチャンであることは国禁を犯すことでしたから、クリスチャンであることだけの理由で死刑に処せられました。国禁とするには様々な理由があったでしょうが、結果としてキリシタンは得体のしれない恐ろしいものであると言う印象が抱かれるようになりました。そういう時代に於いては、キリスト教を信じたら良いことがあるどころか、命まで取られてしまう恐ろしいことでありました。
しかし、明治6年になって切支丹禁制が撤廃されたあとでも、キリスト教が得体のしれない異国の宗教として白眼視され警戒されてきたことに変わりはありませんでした。ただし明治の開国となって異国の文化が入ってきたときに、それに伴って、西欧キリスト教会を継承してきたキリスト教文化と呼ばれる文化は歓迎されました。
教会音楽、女子教育、社会事業などがそうでした。しかし、キリスト教の信仰そのものは、異質的なものとして、受容されるには至りませんでした。昭和の初期から台頭してきた国粋主義により、特に日中戦争から太平洋戦争の時代には、対戦国の宗教であるという理由で白眼視され、弾圧さえ受けました。こういう時代の経過の中で、日本人としてクリスチャンになることの良さなどは先ずは思い浮かばなかったに違いありません。
戦後、キリスト教ブームと言われた時代がありましたが、そういう時でも若い女性がクリスチャンになることは結婚に差し支えるといって、親に反対されたものです。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元中部日本放送「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
第97課 パウロも宣教活動とその計画
=15:14~33=異邦人宣教師としてのパウロの働き・・21・・
・・・15:14~21・・・4・・・
「異邦人を従順にするために、キリストが私を用いて、言葉とわざ、・・・」(18節B)。
「異邦人を従順にする」ということは、「キリストの福音の要求に従順にさせる」ということである。彼らは言葉のみでなく、業によって従順されるのである。すなわち、福音の真理が彼らに宣べ伝えられるだけでなく、その伝道の業が聖霊の内的な働きによって伴われ、彼らの救いに有効に働くようにされるからである。福音の宣教という外的な働きは必要なことは勿論であるが、それだけでは人を救いに至らせるには十分ではない。
それに加えて聖霊の有効な内的な働きがなくてはならないのである。使徒行伝16:14を参照。そこでは主がルデヤの心を開かれたので、彼女はパウロの語ることを理解できたのである。メッセージによる外的な伝道のみでは力がないという事実は、本当の効果を期待するには、聖霊に依存しなくてはならないということを私たちに銘記させるのである。聖霊の力が新しい生命を与えなければ、大衆伝道も宣教活動も一人の魂をも救いに導く者とはならないのだ。従って、私たちは生命を与える聖霊の働きが、神の御言葉の宣教に伴うように、不断に熱心に祈らなければならない。
「しるしと不思議との力、聖霊の力によって、働かせて下さった・・・」(19節a)。直訳すると、「しるしと不思議との力において、聖霊の力により」となる。
これら二つの形の力がパウロの異邦人伝道を有効にしたのであった。
第一には、ここで「しるしと不思議」と言われているものの役割、奇跡の力があった。第二には聞く者の心に働く聖霊の力であった。
奇跡が「しるし」と呼ばれているのは、それが人間の歴史の中に神が直接に働かれることの現れであるからだ。奇跡というのは神の創造的・直接的な働きの例であって、神が自然法則を通じて働かれる通常の形の働きとは区別されるのである。
人間に食物を供給するためには気候と日光と雨と土壌という自然を通じて、種を発芽させ、成長させ、収穫して、その穀物を曳いて粉にしてパンを作る。それはみな神の業であるが、これは奇跡ではない。何故ならば、それは自然の手段を用いているからである。それは摂理の業である。即座に五つのパンと二つの魚を増やして一度に五千人の人々を養うことは奇跡である。自然の法則や力はそれを説明することが出来ない。それは神の直接的な働ききによることである。それは自然の秩序の産物ではないので、自然科学によっては説明できないのである。
J・G・ヴォス著、
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
『ほっとひととき「みんなのコーナー」』
◆ テレワークとかで、最近、見慣れない数名の若者が空き家を借りて仕事を始めています。聞けば、同じ会社ではなく、学生時代の友人たちとか・・・。今までは村では、農業従事者とか、都会から離れた生活から田舎へという高齢者を優遇していましたが、そのような人はいませんでした。今は、仲間と自分に合ったスタイルで仕事ができる時代になったのでしょうか。理由や動機がどうであれ、都会から住所を移して仕事をしています。まだ、地域との接点はありませんが、私たちとしては大歓迎です。見慣れない他県の車のナンバープレートを見るのは良いものですね。 愛媛県 L・Tさん
◆ 今年も、お花屋さんから大きな鉢植えのシクラメンが5鉢届けられました。これで8年目です。匿名でお花屋さんに注文しての贈り物です。「匿名さんからの贈り物です」と書いて、小児病棟と受付のカウンターに置きました。うれしいです。匿名さん、ありがとうございます。 大分県 O・Kさん
◆ 私たちの住んでいる集落では、この時期になりますとどの家の軒下にも黄色い柿すだれが穏やかな陽をうけてとても綺麗です。何もなかった幼い頃の楽しみでした。母が毎晩、食事の時に7人兄弟に一つずつ渡してくれました。誰一人直ぐ食べることなく、ちびりちびり味わっていました。その私も今は、主人と二人で、渋めのお茶で味わっています。もう直ぐ新しい年ですね。主人は、クリスマスカードを書き終えたと安堵しています。私はその隙間に書き添えるのが、私たちのクリスマスカードスタイルです。外は冷たい風が吹いています。徳島県 W・Kさん
❀ ❀ ❀ ❀ ❀ ❀ ❀ ❀
♬ 娘がやっとバイト先が決まって、楽しそうに出かけています。お小遣いも学費も自分で何とか出来ていたのができなくなり、落ち込んでいましたが、前のバイト先から声がかかったようで、わたしも安心です。まだ50歳にはなっていませんが、先のことを考えてしまいます。娘はやがて自立し、離れて行くでしょう。主人を早く亡くし、娘のためにと夢中で頑張ってきましたので、友だちと言っても職場の友だちですから、心細いです。何か見つけなければ、と焦ってしまいます。
♬ もう遠い昔の思い出になりましたが、クリスマスが近づくと賛美歌を一緒に賛美しようと気のあった友たちと賛美歌の練習を始めました。練習した賛美歌はクリスマス礼拝だけでなく、寮生活の私たちでしたので、先生方のお宅を回ってキャロリングをいたしました。そんな懐かしい思い出がやはり12月に入ると思い出されます。今年は、コロナ禍で自粛のクリスマスとなりますが、今出来る最高のクリスマス礼拝を神様に捧げたいと思っています。外は吹雪の毎日です。街路樹の枝に積もった白い雪とイルミネイションできれいなクリスマスツリーだよと孫が教えてくれました。
♬ 体調を悪くして3年目になる85歳の主人ですがNHKTVの「エール」を見るの が楽しみでした。自分の人生を見ているようだと言っては涙していました。終戦直後の子供たちの姿は自分の姿なのかもしれないとか、「鐘の鳴る丘」は明るい希望だったような気がすると言って懐かしんでいました。教会の雰囲気は通っていた教会のようだそうです。あまり話さない青春時代のことを、この「エール」で話すようになりました。その「エール」も終り、何だか淋しそうです。私の家は貧しかったので、「君の名は」は聞いたことはありませんでした。
♬ 今年も終わり、2021年を迎えようとしています。妻を亡くして8年が過ぎました。何もかも妻任せから、高校1年、中2の3人の生活が始まりました。近くにいた母が助けてくれて、子供たちも今は独立してくれました。ふと、妻は幸せだったのだろうか、と思うことが最近よくあります。仕事人間の頑固者の私に、よく耐えてくれたと思います。母は、Y子さんは几帳面な性格で、良いお嫁さんだねと言っていましたが、それが当たり前と思っていた私の中には「感謝・ありがとう」という思いはなかったです。今は感謝と後悔ですが、与えられている教会の役員や町内の役員の役目を頑張ろうと思っています。母も90に近いですから、これからのことを考えています。
♬ 最近、自分が変わったかのように、イライラしたり、無性に腹が立ってしまうのです。いろいろの得体のしれない出来事に振り回されている自分がいます。そうして家族や周りの人に迷惑をかけている自分が嫌になってしまいます。料理や家事の仕事の一つ一つに腹が立って何もしたくないのです。怠けならいいのですが、そうではないので困ってしまいます。とりとめのないメールをまたしてしまいました。ご免なさい。
この文章は、全て投稿者から掲載許可をいただいております。 編集子
『ありがとうございます』
私事ですが12月の中頃に、どうも目の調子が良くないので、初めて眼科を受診し、検査の結果、両目に白内障があるのと、緑内障のあることが分かり、来年の2月中に手術・治療を受けることにしました。一時期、不安になりましたが、多くの経験者から、今の医療技術は進歩しているから大丈夫ですよと励まされています。
週2回、送迎の車で通っている高齢者向けのリハビリ・トレーニング施設の来れている方々は、ほとんど経験されているのに驚きました。今、このように皆様に2021年1月号をお届けすることができましたが、神様のお導きと皆様のお祈りに支えられていたことを覚えさせられました。感謝いたします。
コロナ禍ばかりでなく予期しない出来事で戸惑いながら、困難に立ち向かい歩んでおられる方々の日々が、如何に素晴らしいことかを、また学ぶことができました。
2021年、皆様の日々が守られますようにお祈りいたします。コロナ禍の影響はまだまだ続くでしょうが、希望を持って歩みたいと願っています。
2020年11月16日から12月15日までにお送りくださいました方々です。クリスマスの感謝、退院感謝、主人の傘寿(さんじゅ)感謝、「つのぶえジャー」など、発行のために、誌代はない刊行物ですから、誌代代わりの感謝の気持ちとしてなどと、いろいろの形で、お送りいただきました。本当に感謝です。
渡辺 肇様 渡辺圭子様 馬場暁美様 佐藤のり様 加納さおり様 丸山信一郎様 西口義昭様 梶川実雪様 匿名3名様
*寄付金口座…郵振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社
また、お便り下さる方やお友達への紹介はこのメール アドレスをご利用ください。多くの「ジャーナル友さん」が与えられるように願っています。
*「つのぶえジャーナル」はこれをご利用ください。
http://tunobue.blog.shinobi.jp
(米国南長老教会文書伝道事業)刊行責任者
つのぶえ社代表 長村秀勝
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」