[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
「今月のことば」
ところが、わたしたち信じる者は、安息に入ることができる。それは・・・と言われているとおりである。こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。
=へブル4:3、9=
2020年も残りわずかになりました。コロナ禍の中で多くの人は先の見えない中にあっても日々を過ごし、2021年を迎えようとしています。人は先が見えない中にある時、不安の中に決して留まってはいません。何かを探し、見いだそうとします。人は意外とたくましい存在ではないでしょうか。
ここに一つの希望の道があります。それはキリスト(救い主)に行く道を見出すチャンスの道であります。そこに光があり、希望があると気づくとき、あえて避けるでしょうか。今年もクリスマスがすべての人に訪れます。イエスの誕生は、希望であり、光の訪れを照らす喜びの時です。
イエスという一人の幼子は、単なる幼子ではありません。救い主としての役割を背負ってお生まれになった幼子なのです。人の心を絶望に追いやる不安、罪と良心の呵責、荒海の中を彷徨う人生という小船に、真の私たちの希望の灯台なのです。
この幼子に出会い、キリストとして知る時、そこに魂の安らぎと、神のみ子なる幼子に信頼する時、永遠の信頼へと導かれるのです。全世界のキリスト者が、この幼子の誕生を心からお祝いするのは、そこに永遠の安らぎ・安息があることを信じているからです。
幼子を救いの約束のしるしとして信じ、受け入れた者にとって、信仰によって神から頂いた安らぎは、信じる者のみが持ち得るものなのです。その恵みは、神の愛によって示されています。何時も、今も招かれています。
お近くの教会のクリスマス礼拝にお出かけください。心から、賛美歌を歌いましょう。2021年をこの2020年の今年のクリスマス礼拝から始めようではありませんか!
「しかり、彼らはその労苦から解かれて休み、そのわざは彼らに付いていく」(黙示録14:13)。
み座の前に、夜の星のごとく、現れたつのはだれか。
こがねの冠をいただき 栄えに輝く群はだれぞ。
天の王を声高くほむる 歌声を聞けや、ハレルヤ!
「小閑記」
それだから、神の安息に入るべき約束が、まだ存続しているにもかかわらず、万一にも、入りそこなう者が、あなた方の中から出ることがないように、注意しようではないか。
=へブル4:1=
信仰生活は、月単位や年単位のものではなく、日々の生活の中にあります。そのために私たちの信仰生活には、浮き沈みや思いがけない出来事の遭遇で動揺し、時に信仰心が小さくなる経験もあります。誰もが何度となく経験しつつ、強められ、深められていくことに、出会ってきたことでしょう。ですから、決して無駄な歩みはありません。
さて、神のみ言葉の中には、二つの強い対象の上に築かれているかのように見えていながら、不思議な調和があります。
一方において、数々の心を励ます言葉、完全な救いと、開かれた扉、そして神が私たちを守ってくださるという、確かな約束があります。「誰も私たちを救い主のみ手から奪い取ることはできず、何物も、主イエス・キリストにある神の愛からわたしたちを離すことはできない」、とも記されています。
しかし、聖書の他の個所では、私たちの危険は大きいとも教えています。もし私たちが目的に達したいと願うならば、絶えず気を配り、祈り、戦い、魂をきよめ、恐れおののいて救いのために労し、神を敬わなければなりません。
この二つの似ても似つかない記述がどうして真実であり得るのでしょうか。前の部分は神様に関することであり、後の部分は私たち一人一人に関わることです。
動かせぬもの、確実なもの、決して失敗せぬものは、私たちの救い主であり、父であられる神の内にあります。神と共にあれば、私たちは常に安全でありますが、自分たちは、常に自分の傲慢と弱さを恐れつつ、謙虚でなければならないことを痛切に覚えなければならないのです。忘恩と傲慢こそ私たちの不信仰の原因です。すなわち、我が心に、内にあるからです。
この2020年を振り返り、神の恵みと己が弱さを顧みつつ、2021年を迎えたいものです。
主の御霊、われらの夜を破り、
真理の光もて、雲を払い給うまで、
われらの知識、知恵、視力をすべて
深き闇に包まれて横たわるなり。
み霊のみぞ、われらを神にかえり、われらの内によき働きを為したまえ。
世田谷通信(207)
猫草
かつて運動会は秋の行事で、体育の日は10月10日だった。それは東京オリンピックにちなんでいたはず。だが連休を取りやすくするため月曜に移動し。なるほど、と納得しかけたところで、名称が変わって「スポーツの日」、7月に移動して終わっていた。10月に休みがなかったのはそのせいか。来年はまた10月に戻ると。もう変更が多すぎて把握できない。
しかし最近の10月は雨が多い。ひとたび台風が発生すれば大型、長期化して悪天候が続く。といって9月までは運動するのが危険な猛暑。学校も1学期に行事があったほうがクラスをまとめやすい等々から5月に運動会を実施する学校が増えたのだ。それが休校で、やっと再開した1学期は学校も手探り。一つ一つできることを積み重ね、試行錯誤を続けた。夏休みを経て2学期がスタートし、世田谷を含め秋の運動会を決めた学校が多かった。今年は感染拡大防止のため、様々な工夫が凝らされている。まずプログラムが短縮され午前のみ。競技も組み体操など児童がくっついて行うものはなし。となるとできるのは徒競走、あとは距離を空けたダンス。保護者の参観も児童1人に1人限定。もちろんマスクに消毒に検温。声援は控えめ、静かに見守り、自分の子どもの学年が終わったら速やかに帰る。学年別に曜日や時間を分けた学校もあるようだ。こうなると体育の授業参観に近い。従来に比べるとあっさりしたものだが、お弁当づくりの手間がなく母親には好評のようだ。
運動会を1日かけた大イベントと張り切る人もいる。朝から場所取りのレジャーシートを敷いて、ビデオで必死にいい位置から子どもの姿を撮影し、昼は家族でお弁当を食べて過ごす、そういう運動会を期待した人は寂しいと感じるだろう。でもプログラムの準備や長時間の練習は負担が大きかったのも事実。運動や団体行動が苦手、いつもと違うことを苦痛と思っていた人もたくさんいるはずだ。どちらが良いとか悪いでもない。来年はどうなるのか誰にもわからない。とにかくできることを慎重にやる。
手作業がしたくなって久しぶりに編み物を始めた。編み棒を黙々と動かす時間も良い。網目はガタガタだが、やり方は手が覚えていた。古くなったタオルを雑巾にして、サッシにたまった汚れを掃除してみた。気が付くと昔から母や祖母がやっていたことをなぞっていた。庭の雑草が気になって抜いたら、思いがけない場所にシソとミツバが増えていた。なんだかご褒美のようにうれしくなった。来年もそんな小さい「嬉しい」を重ねていこう。
「美しい朝に」
み心のなのですか
父なる神様 私たちを罪より 救うため
ユダヤのベツレヘムに
今宵お生まれになった み子イエス様を
十字架にけるのが み心なのですか
避けられないのですか ちがう方法はなかったのですか
水野源三 第三詩集
沙耶香のつぶやき
♡ お母さんの運転で海を見に行ってきました。秋の青空と海の色がきらきら光っていて眩しいくらいでした。波を見ていると時間も何もかも忘れるよね、とお母さんがぽつんと言っていました。帰りにお魚を買いました。家族みんなで食べました。お母さんが今度また行こうねと言ってくれました。夜、ぐっすり眠れました。久し振りでした。母さんもよく眠れたよと言っていました。
♡ また体調を悪くしてしまいました。10月、11月は嫌いです。身体と脳がバラバラになってしまう感じがして、不安です。そんな時は何時もお母さんの布団の横にわたしの布団も運んで寝ています。母さんもその方が安心と言ってくれます。わたしもお母さんを見ながら眠れるので、落ち着くまでそうしようと思いますます。でも一つだけ約束事があります。それは、毎朝、布団は自分の部屋のベッドまで運ぶことです。これだけは、守ることです。
♡ 良い天気が続いてくれたのが良かったのか、少し落ち着いた気分になれていますよ。天候に左右されてしまいますが、こればかりはどうにもならないですよね。お母さんもほっとしてくれていて、私の親孝行は心配かけないことなのだ、と思いました。食欲はまだあまりありません。栄養を取った体で太りたいなあ!
♡ 家の近くにある公園には誰もいませんでした。足元に枯葉が風に吹かれて引っ掛かりましたので払いのけようと何枚か手にしたら、同じ色のものは一枚もありませんでした。それぞれが個性的で、傷んでいて欠けているものがあったり、紅葉のしかたも半分のがあったり、いろいろでした。何枚か手にして、今、日記のノートの横にあります。よくわかりませんがとても落ち着いた気分です。
********
沙耶香さん、「沙耶香のつぶやき」の11月号を読みました。息子は難病で病院生活なのですよ。私も病院中心になっています。もう16年近くになるかなあ。そのような生活が当たり前になってしまっていましたが、「沙耶香のつぶやき」で、私にもまだ子供が二人いたんだと気づかされました。我慢していたんだと思い、今は家にいる時は出来るだけ、家では二人だけの母親として過ごすように変わりました。これから寒さに向かいます。お体に気を付けてくださいね。お祈りしています。 神奈川県 S・Gさん
私はコロナよりインフルエンザが怖いタイプです。毎年風邪にかかり寝込んでしまうのです。喉も痛くなります。それで勤めていた会社も長続きしませんので、家の近くのコンビニで働いています。店長の奥さんとはわたしが子供の頃からの顔馴染み?なので、そうさせてもらっています。お客さんも顔馴染みでとても気が楽です。もう2年は過ぎましたよ。 徳島県 O・Sさん
<この掲載の原稿の時にお送りし、全て了解を得ております>編集子
『その愛のゆえに』
=時々の記=
(177)
10月17日
朝から冷たい雨です。気温は11月下旬の寒さということです。台所での朝食の準備は冷え込みますのでストーブを付けました。ほっこりと部屋全体が暖かく、気持ちよく朝の準備ができました。散歩には長靴を履いて出かけました。葉っぱたちは雨で流されて道幅が広く感じられました。この雨で一層秋が深まっていくのでしょう。
秋の夜やチェンバロ曲は神秘的。
虫の音に雨加はりて奏づなり。
早々と山の隙間に月昇る。(中秋の名月の日のことです。)
冬瓜を味はひをれば薄日差す。
一枚の絵画と思ふ柿紅葉。 馬場路哉
10月19日
山添村の朝は12月の半ばの寒さでした。震えあがりました。秋があっという間に過ぎてしまうようで悲しくなりました。そして午後3時ごろまで激しく雨が降り続きました。食料を買い求めに上野まで出かけました。今日は5パーセント引いてくれる日だからです。スーパーの中は沢山の人で混雑していました。家に戻って手洗い、うがいをしっかり致しました。
10月23日
秋の雲写真撮りたき朝かな。
草刈って千草の中に憩ひけり。
台風の終日雨に配達す。
秋高し吉野の山を越えにけり。
長雨にめげることなし朝の虫。 馬場路哉
例年なら今頃はどこからとなく聞こえる笛の音色に秋祭りの近づいているのが感じられるのですが、今年はとても静かな秋の夜です。主人は草を刈る時に一番大切にしているのは野の花が一輪でも咲いていたら、野の花を刈り取らないように気を付けているといっています。野の花の美しさに心惹かれるというのです。また雨が降りしきっています。
11月1日
11月に入りました。日の暮れるのが短くなってきて気ぜわしさを感じます。のどの痛みは取れましたが、非常に激しくせき込みます。以前、このようなことが起きていても、ほっていたら“肺炎”になってしまいましたので、昨日は土曜日で午後から診察をしている医院は限られていますが、でもこのままじっとしていては悪くなるだけと上野に向かって主人に車を走らせてもらいました。すると最近開業されたような耳鼻咽喉科が見つかりました。そこで今までの経緯をお伝えすると、それは抗生物質を飲んだほうがよい、ということになって激しい咳を和らげるお薬と抗生剤などを処方していただいて帰りました。今朝の食後に服用すると、今日は今までとは違って少し体が動きました。今日からは主人がのどの激しい痛みにうなっています。でもやはり男性ですから食事の準備をしなくてもよいので安静にしていたらよくなることでしょう。
点点と土手のツユクサ目を受くる。
灯火親しアンデルセンの物語。
伊賀の霧大和山峡まで溢れ。
キリシタン悲話をつたへて奈良の秋。
夕筒と並びて眩し後の月。 馬場路哉
馬場暁美
「上野緑ヶ丘教会会員」
眸(ひとみ)・・116・・・
「ジャーナル友」の皆さんはお変わりありませんか。ここ新潟は真冬です。我が家は、薪ストーブで暖房と煮物の料理はその上でします。薪は9月ごろから主人が準備し、軒下と納屋に一冬分蓄えておきます。私たちばかりではなくこの集落は皆さん同じです。納屋には自家製の保存食の漬物の樽があり、お風呂は今も薪で沸かします。長湯になる分、温かく気持ちがいいです。私の自慢料理は、越後地方に代々伝わる名物の「にしんの山椒漬け」です。香がよく美味しいですよ。それぞれの家に伝わる家の味は香りがよく食卓に欠かせないものです。静かな田舎もまた良いものですよ。 新潟県 B・Hさん
田圃にはもう稲はありません。鳥たちが群れを成して餌をついばんでいます。ここにはコロナもインフルエンザも無縁の感じがします。各地でクマの出没がニュースになっていますが、私のところは野生のイノシシで警告が町内放送や新聞の折り込みが入っていました。お互いを呼び合う声の大きさで目が覚めます。いくら明かりをつけてもびくともしないのです。昼間は静かな村なのに夜になるとイノシシたちが大暴れです。イノシシとの共存など考えられません。猫、犬たち、ヤギなどもかまれているようです。3軒隣のお一人暮らしの方が雨のあとの自宅の庭で転倒されて首の部分を切ってしまい、緊急搬送されましたが、近くの病院では対応できず、離れた大学病院に転送されました。退院されたらお見舞いに行こうと思っています。 兵庫県 T・Aさん
刈り取られた田圃にサギが舞い降りていて、何かを食べている穏やかな風景は良いものですね。沢山の管と装置のおかげで息子はもう20歳になりました。今はとにかくコロナとインフルエンザ予防と訪問医療の先生や看護師さんたちの協力を得て、日々を過ごしています。唯一、自分の時間は、この「つのぶえジャーナル」を読むことです。オンライン礼拝もありますが、私は、「ジャーナル」を通して病気の親たちとのかかわりとは違った関わりとなり、祈ってください!の言葉で、祈りの輪の中に参加出来ることは、社会との繋がりを感じる貴重で大切な時になっています。 神奈川県 B・Hさん
私は冬限定の季節労働者です。もう20年になりますか・・・。コメ農家をしながら冬の期間だけ国道の除雪の仕事をしています。豪雪地帯ですから、日に何度も出動です。危険と隣り合わせですが、仲間とのチームワークでこの冬も乗り切りたいです。一番の大敵は風邪と寝不足です。そうして一番の願いは事故のないことです。健康に注意して仲間たちと頑張ります。 秋田県 B・Aさん
散歩の途中、歩道の枯葉の中に同じ色をしたカマキリが初冬の陽を浴びて、次の子孫を残すという大切な役割を終えた安堵感を漂わせる姿に、生きることの素晴らしさを感じ、見つめていました。ものの哀れではなく、達成感を見ることができました。やがて終える命ではなく、未来を何処かの安全な所に生まれ来る命を託していることに素晴らしさを感じながら帰ってきました。 愛知県 M・Mさん
<身近な出来事を「眸」に投稿してください> 編集子
十戒と主の祈り
鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
=偽証=
第九戒① 裁きにおける不正
ルツ4:1~10
主は殺人、姦淫、盗みを禁じられました。なぜなら、この三つが関係する生命と、家庭と、所有が守られることが、人間の社会にとっては基本的な必要事項だからです。そして、この三つの戒めと関係しているのがこの「偽証してはならない」の戒めです。
なぜなら、殺人、姦淫、盗みがなされるのは、正義が守られていないからで、反対に不正が起こるのは、偽証がまかり通るからです。特に、裁きにおいて不正がまかり通るからです。町の長老たちの裁きの典型的な実例が、このボアズがルツを妻とするために、なされた裁定に見られます。長老たちや証人たちが賄賂をもって事実を曲げるということで、不正な裁きをすることがこの第九戒の中心的な関心事です。
アハブの妻イゼベルが、偽証人たちを用いてナボトについて偽りの証言をさせて、彼の命を奪い、そのぶどう畑を夫のために奪ったことに見られますように(Ⅰ列王記21章)、それは第六戒、第八戒、第九戒、第十戒の違反です。これは社会を破壊させることになります。
裁くためには、いろいろの方法が採られました。預言者サムエルは巡回することによって、地方を裁きます(Ⅰサムエル7:16~17)。ユダの王ヨシュヤファトは町々に裁判官を任命して、主のために正しい裁きをするように命じています(Ⅱ歴代誌19:5~7)。また、エズラは捕囚の地で人々に主の律法を教え、主の知恵によって裁きをするものを任命するように命じています(エズラ:25)。
偽証しないようにするためには、二つのことが重要になります。
その第一は、証言する人々が真実を証言しても、不正な圧力がかけられる心配がないという保証があることです。内部告発が可能な社会であることが望ましいことです。
第二に、真実を訴える制度があっても、それが実質的に機能しない場合、それはさらに困難になります。コへレトの言葉3章16節にこういう言葉があります。「太陽の下、さらにわたしは見た。裁きの座に悪が、正義の座に悪があることを」。
江戸時代の五人組制度の時代、ソ連の粛正の時代、中国の文化大革命の時代、イラクのフセインの時代、北朝鮮について聞かされている現状など、真実を話すことができなくなれば、この戒めを守ることは困難です。
したがって、この戒めは単なる「うそ」の問題にとどまらないで、このように、人の名誉、生命、財産、結婚などに関係してきます。この十年から二十年くらいの間に、世界も日本もこの点で下降線をたどってきたように感じられます 。主流の教会と言われる教会自身が、中央集権的な政治力学に支配される時、その与える影響は教会だけに留まることはありません。
バラ・マカルピン 日本伝道百年史
水垣 清著
(元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)
16 日本宣教50年・・4・・
3・・2・・
こういう風であるから私は一向宗が非常に懐かしかった。そしてこの宗派が最近起こったもので、最も広がっているのであるから、これはキリスト教の肉食妻帯を禁ずる一派にも反対する他山の石であると感ぜずにはいられなかった。
神の霊をうけた使徒が言うように肉食妻帯はいわゆる「神の造りし物はみなよし、感謝して受ける時は棄つべき物なし」の類であります。
しかしながら、綺麗に頭を剃った僧侶の道徳を遠くから見て、美しいと思っていた私の幻は私の到着後、間もなく破壊されました。神奈川の成仏寺というヘボン博士の借りていた寺院に私の荷物が着いたのでそれを開けてみると、すぐ老年の坊さんがいろいろな品物を調べて見ていたが、特に米国から持ってきた料理用のストーブを面白がった。
私は非常にこの坊さんに心を引き付けられて、もし出来ることなら将来この人を改宗させようと思った。しかし驚いたことには、翌朝になって、この坊さんが自殺したということであった。それは井戸に入って溺死したのである。どういう訳かというと、この坊さんが自分の妻に金を盗まれたので非常に妻を叱り散らして、大喧嘩となったというのである。坊さんが刃か包丁で妻に迫ってひどい傷を負わせた。妻はそれを警察に訴え出たので、坊さんは自分の罰をのがれるために井戸へ身を投げたのである。
今
タムソン博士と一緒に私は初めて田舎へ旅行した時、大山の麓で人里の遠い宮ケ瀬の一寺院に泊まったことがあります。私の会った坊さんは妻帯していたので、私はその坊さんを褒めたのであるが、坊さんは何も答えずにただ有難うと言ったばかりであった。翌日、タムソン君はその村の年老いた婦人から、坊さんは大抵妾をもっているという恥ずべき話を聞かされた。しかし普通の檀家である男子はこれよりももっと放逸であるということがわかった。「良い坊さんが来た時、手放さないようにするにはこれが一番である」と言っているのでもわかります。その後、いろいろな宗派の僧侶と接近するにしたがって、私の知った限りでは、この常習は偽りでないということを発見した。
「キリスト教百話」
問30 「キリスト教を信じたら、どんな良いことがあるのでしょうか」
答・・2・・
釈迦は「生老病死」という人間が抱えている四苦からの解脱を求めて出家したといわれていますが、その解脱とは解放であり、救いであるといってよろしいでしょう。この四苦を苦とも思わない人には、解脱も救いも無縁のことでありましょう。しかし、全ての人間が、四苦という言葉に代表されるような人間そのものの問題を抱えていることは事実でしょう。
しかも、それを自力では克服解決することが出来ないために、そういう問題に直面した時には「助けて~っ」と、助けを求めずにはおれない存在ではないでしょうか。自分自身の限界にぶつかってどうにもならない時、死に直面した時には、自ずから助けを求めるものです。
そういう時の「助け主」は同時に「救い主」でもありますが、自分にとってのこの助け主が存在する人は、その窮地から脱却できて、幸いであります。反対に助けを求めるにも誰を呼べばよいかわかっていない人、つまり自分にとっての助け主がいない人は、助けを求める声は宙には発せられはしますが、虚しく消えて行くしかありません。
「悩んでいる時にはわたしを呼びなさい」と言って助けてくれる「わたし」という呼ぶ相手を持っている人は幸いですが、そうでない人は幸いとは言えません。
以上のことから言って、自分にとっての助け主、または救い主があり、またそういう方を知っていることは、知っていないことより幸いであると言えます。キリストというのは、先述しましたような人名ではなく、役割を担う存在を言うのでありますから、何もイエスだけがキリストであると限定することはできなくて、「自分にとってはこの方が救い主だ」という人がいてもそれはそれで良いことと思います。
要するに一人一人が自分にとっての救い主が誰であるかがはっきりしておればよろしいわけです。その点で、イエスだけがキリストであると言って、他と競合するわけではありませんし、第一、誰が正真正銘のキリストの名に値するかを決められる判断基準があるわけではありません。ただ、イエスに出会った人は、「この方こそわたしの救い主である」と言わずにおれないものを覚えることによって、「イエス様、あなたは私の救い主です」と告白するに至っているのです。
「キリスト教を信じて良いこと」というより、「キリストと信じることが出来る方に出会って、イエス様をキリストとして信じることが出来ている」ということが何よりも良いことであるわけです。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元中部日本放送「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
第97課 パウロも宣教活動とその計画
=15:14~33=
A. 異邦人宣教師としてのパウロの働き・・1・・
・・・15:14~21・・・3・・・
「だから、わたしは神への奉仕については、キリスト・イエスにあって誇りうるのである」(15:17)。
パウロは神によって使徒とされ、また異邦人への伝道者とされ、さらに異邦人の回心のために努めたパウロの努力を、神が有効に用いてくださったので、パウロは本書に見られるような権威と確信とをもってローマにいるキリスト者を教える。「誇り」(glorying)は有罪的な人間的誇りを指すのではない。
それどころかパウロが誇りうる根拠を持つのは、ひとえにキリスト・イエスによるのである。結局パウロの信用はキリストに基づいている。キリストの僕であるから、信用があるのである。彼の誇りは神に奉仕することにあるのであって、彼自身の中にいかなるものに在るのではない。彼は自分の世的な業績や教育水準などについて誇っているのでなく、神への奉仕、すなわち、福音の宣教とそれに伴う聖霊の働きについて、彼は誇るのである。パウロの誇りは威張ることでも尊大であることでなく、謙虚な誇りなのである。それはパウロ自身の中にあるいかなるものにも基づく誇りではなく、すべて主に基づく誇りなのである。
「わたしは異邦人を従順にするために、キリストがわたしを用いて、ことばとわざ、しるしと不思議との力、聖霊に力によって、働かせて下さったことの他には、あえて何も語ろうとは思わない。こうして、わたしはエルサレムから始まり、巡りめぐってイルニコに至るまで、キリストの福音を満たしてきた」(15:18~19)。パウロは18節で注意深く自分を誇るつもりは全くないことを説明した。彼はキリストが彼を通してなさったことの他はあえて何事も語ろうと述べてはいない。「彼は肉において、すなわち、彼自身に属する者については誇ろうとしない。だから、パウロは自分を誇らないで、キリストの御業を誇るのである。
パウロがここで人々を回心させるために神の中の単なる器に過ぎないものとして、自分を戒めしている点を注目したい。真の有効原因は贖い主に帰せられるべきだとしているのである。従ってこの聖句はパウロがキリストを今も人々の魂の上に働いておられるのであり、また今も忠実なキリストの福音の役者(えきしゃ)の伝道の業を有効にしておられる方であるとみている証拠である。そのような力を聖書著者たちは神以外の何者にも帰することはできないのである」(ボッジ)。
J・G・ヴォス著、
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
『ほっとひととき「みんなのコーナー」』
◆ 小さなクリスマスツリーを我が家でも飾りました。周りはもう雪です。私の教会は、「日本伝道百年史」にあるように、宣教師が山間僻地に伝道して建てられた、小さな教会ですが、そこで何十年も礼拝を守っていたのですが、教会維持が難しくなり、10年ほど前に閉鎖し、現在は、残った数名の者の家々での持ち回りの家庭集会で礼拝している無牧の集まりです。小さな村ですから、お昼からの集まりですが、集まる数名の方は午前中から来て、世間話をして、お昼ご飯を食べてから聖書を読み讃美し、礼拝をしています。「つのぶえジャーナル」は、多く方の声が乗せられていますので、私の役目はそれを印刷してお配りすることです。人気がありますよ。私も80を超えていますが、何とかお役に立てるのはうれしいですし、持ち回りの集まりも皆さん、楽しみにしています。お互いに支えられています。高知県 L・Tさん
◆ コロナ対策で礼拝時間の短縮やオンライン礼拝が広がっていますが、会員の内には、75歳上の人は私たち夫婦を含めて12人ですが、オンラインの出来る人はいませんので、だんだん礼拝から足が遠のいている感じがします。ですから礼拝者も少なくなりました。友人の教会では、礼拝献金は減少し、教会会計に大きなマイナスが出てきていて来年度はもっと厳しくなりそうだとのことです。このまま高齢者層が減少する傾向は急加速しそうな感じがします。真剣に取り組まなければならない課題をコロナ禍によって、今、教会は試されているのでしょう。 埼玉県 O・Kさん
◆ 主人が長年行ってみたいと言っていた岡山県の秋の紅葉の旅を、定年までのご苦労様を兼ねて、夫婦での旅を旅行会社さんにお願いして出掛けてきました。温泉あり、美味しい食べ物あり、人との出会いありの、10日間の旅をさせてもらいました。私の印象に残ったところは、白賀川沿いの約5㎞に渡って続く白賀渓谷で、西日本有数の渓流釣りが楽しめるスポットとして知られているそうですが、高い透明度の清流と木々の紅葉が流れる川のように移り変わる美しい風景は、心に残っています。山菜と川魚の食事と美作の温泉は格別でした。広島とは少し違った方言、田園の風景、紅葉が街中で見慣れているものとは違って印象に残っています。楽しい旅でした。 広島県 W・Kさん
❀ ❀ ❀ ❀ ❀ ❀ ❀ ❀
♪ 主人の実家の岩手で、母のお世話で今までの教師の仕事を止めて3度目の冬を迎えます。幸いにも教師の主人は、地元の学校で働くことが出来ています。冬は積雪が多く寒いですが、春はその分日差しが暖かく感じられ、夏は過ごしやすく、秋は稲穂と紅葉が色付き、四季折々の行事を楽しむことが出来ます。食べ物、お酒が美味しく、自然に囲まれながら、のんびり過ごすことが出来ます。わたしは、秋田で暮らしてはじめて感じたことですが、本当に皆さん親切です。この漬物食べてと持ってきてくださりながら、母に声をかけてくださいます。わたしは、最初は不便なところと思っていましたが、そのようなことは一つもありません。人のぬくもりなど忘れてしまっていた長い年月を取り戻せています。この体験を若い方々に知ってほしいと思っています。
♪ 今年も病院(特殊な専門病院)のロビーにはクリスマスツリーが飾られましたが、家族でも面会制限があります。今までは近くの教会の信者さんたちがロビーで讃美歌を唄うことは恒例でしたが、今年はありません。それでなくても家族が来るのは年々減り始めて、人との接触はありません。先日、数カ月ぶりに病院(施設)の外での散歩を許可され、外の風を感じることができました。わたしには、このように、毎月「ジャーナル」が届けられ、手紙には返事を頂くことができていますが、そのような人は稀で、Nさん!手紙が来ていますよと看護師さんが声をかけてくれます。そのような取葉本当にうれしいです。どうぞ来年もよろしくお願いいたします。
この文章は、全て投稿者から掲載許可をいただいております。 編集子
『ありがとうございます』
神様のお導きを頂いて、2020年の12月号をお届けできますことは、感謝以外にありません。また、多くの方々のお祈りと寄付金、献金で支えられました。年の初めには想像できなかったコロナの出来事で、多くの方々のお気持ちが、お手紙やメールでいただきました。コロナ禍は先の見えないまま、2021年を迎えますが、改めて「つのぶえジャーナル」の役割を痛感させられました。その使命を励みとして、新しい年を迎えさせてくださいと神様にお祈りしています。
個人的には足腰の衰えは日々顕著になり、先月も書きましたが10月からは週一回のリハ・トレクリニックに行く日も、週二回になりました。同時に、同じ施設におられる方々との会話や交わりから、多くの事を学ぶ機会が与えられました。平均年齢90歳(私た84歳で一番若いです)で、皆さんにとって、今日の大切さを切実に、しかし、前向きにとらえておられるお姿は、それまで歩まれた人生そのもので、素晴らしいと思います。それぞれの身体的ハンデーに合った運動メニユーに、額に汗して取り組んでいます。出来た時、拍手で喜びを共有できています。帰る時にはまた次回、お会いしましょう!お元気で!の挨拶には暗さはありません。
当然、召される方もおられます。でも、『生きている、生かされていた』という事実は、素晴らしいことと思います。老人施設は暗いイメージをわたしは持っていましたが、そうではありません。
そのような皆様に神様の福音を証ししたいと切に願っています。最初にリハ・トレクリニックに行った時、私はクリスチャンですと自己紹介の時に言わせていただきました。今はそのように見られている喜びでおります。
どうぞ、弱い者です。お祈りにお加え下さい。 長村秀勝
2020年10月16日から11月15日までの寄付金・献金を報告させていただきます。
長津 榮様 堀 瑛子様 宇佐神正武様 佐々木二郎様 佐藤のり様 馬場暁美様 宮本 隆様 匿名3名様
*寄付金口座…郵振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社
また、お便り下さる方やお友達への紹介はこのメール アドレスをご利用ください。多くの「ジャーナル友さん」が与えられるように願っています。
*「つのぶえジャーナル」はこれをご利用ください。
http://tunobue.blog.shinobi.jp
(米国南長老教会文書伝道事業)刊行責任者
つのぶえ社代表 長村秀勝
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」