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2023年7月号  №193 号 通巻877号
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 「今月のことば」

 

種まきが種をまきに出て行った。まいているうちに、ある種は道ばたに落ち、踏みつけられ、そして空の鳥に食べられてしまった。

          =ルカ8:5=

 

私たちの信仰生活は、幸いにも、種まき人の業によって(伝道・宣教)によって、み言葉に接し、心に信じるという思いが芽生え、育ち、信仰者という名誉ある呼び名を頂く幸いを手にしています。しかし、私たちの全存在の底の底までご存知であられるお方、そのお方は言われました。

私たちは人々が踏み歩く道端のようで、種を全て鳥が食べてしまうか、または、わずかにある岩の上の土壌の種のようで、すべての種は枯れてしまうか、あるいは、いばらの茂った畑地のような暗闇の中でもがくか、あるいは、よき地にあって種は芽を出して育ち、実を結ぶかと言われるのです。そのようなある種の緊張感の中で歩める幸いを、心の中でかみしめたいとも思います。

 

多くの人はいろいろの形で、直接、間接、み言葉に聞き、接することは可能です。しかし、私たちの周りには、キリスト者はわずかです。種をまく者(伝道者、信者)が少ないためか、きちんと整えられた畑のままにしておいて、種をまいても、手入れを忘れてれしまっていないだろうか、また、まく種に力があっても、何らかの要因で、実を結ぶ神のみ言葉が実を結んでいないとするなら、これは、種まき人の方の責任というべきかもしれません。

 

しかし、私たちが負うべき責任は、種をまき続けなければならないのです。大海の中の一粒かもしれません。砂漠のような生き物のいないかのような、育たない地であるかもしれません。しかし、大海にも生きものがいますし、砂漠にも生き物はいます。私たち自身もどうでしたが、神様の救いの恵み、十字架の意味を知るまでは、欲望と快楽を生甲斐とし、信仰など無用という人もおられましょうし、私でもありました。でも、諦めて、伝えることを中止してはいけないのです。

 

私たち自身が、大海にまかれた種、砂漠の種、不信仰と欲望の日々の生活にまかれた渇いた地、心の砂漠だったのです。しかし誰かが語り、伝えていた言葉が心の片すみにあり、長い時間の中で育ち、信仰者・キリスト者という尊い名前を頂いているとするなら、何と幸いなことでしょう。人の目には見えない恵みの川のほとりに植えられた一本の柳の木であり、「・・・疲れ、夜ごと涙は床に溢れ、寝床は漂うほどであり・・・、老いてしまった」者であっても、救いのみ手を求める方がいる限り、その手に希望の種をまきましょう。

 

私たちキリスト者の目の前には、日本に、世界に、そして家族に、種がまかれる時を待っている人々・大地があるのです。勇気をもって、希望をもって、「一人の種まき人」になろうではありませんか。

「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ12:24)。

 

われらの救いの岩なる 君のみ名をたたえん、地の果てまで、

  キリストこそ、隅のかしら石、教会はこの上に建てられぬ。

 岩の上なるシオンを、風も雨も、火も、あわれにも打ちてむなし。

  キリストはシオンにいませば、罪も滅びも勝つを得じ。
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「小閑記」

  

あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。

         =マタイ6:19=

 

地上に宝をたくわえるということは、ものをただ単に倹約するということと同じではありません。貧しいということが、神に対して富み、かつ天に宝を持つように言うことと同じでないように、ものを所有することが、神がお持ちの富から引き離されるということと同じはありません。全ての農夫が農地を所有し、全ての漁師が船を、そしてすべての街の住民が富める通帳を持っていることは、払いきれない負債を持っているよりは、確かに喜びであり幸いであると言えましょう。でもそれで幸福でしょうか。

イエス様もお金を残しておられます。人々が荒れ野で十分食事をした時に、主は弟子たちに、無駄がないように残りの物を集めなさいとお命じになりました。

 

私たちも今、コロナ禍で、職を失い、大きな不安の中にあります。GO TOなになにという政策で、経済の活性化のためにいろいろの形で消費を促そうとしていますが、それは一時的なことで、何も残すことはないでしょう。無駄使いとは言いませんが、あくまでも一時的です。

 

しかし、地上に宝を蓄えるとなると、イエス様が本当に言われることはどのような意味があるかを、イエス様のなさったみ業を正しく理解するならば、「宝」と「たくわえる」という言葉に深い意味のあることが分かります。「宝」というのは、人が特に愛するものの一つではないでしょうか。それは、その人にとって人生を捕らえ、虜にしてしまうほどのものではないでしょうか。人を虜にする名誉、富は魅力的なものです。「宝」と「心」とは分けることが出来ません。地上の財産と心とは別々にすることの出来ない魔力を持っています。しかしもし、神様が私を愛し、慈しみの救いの恵みの中に招いてくださった感謝の思いを、人々への「宝」としてお返しできるとしたら、神の前に、人々の前に差し出せるのではないでしょうか。

 

この世で多くの財産を持っている少数の人々が、天に宝を持つために、その富を活用するなら、飢えと貧しさの生活から多くの人は解放されるでしょう。私たちにとって、大切なことは、分け合い、支え合う心と行動ではないでしょうか。神に対して富み、この世のものに心奪われることなく、物に執着しない信仰の心を「富」と見て、「宝」として持つことを知ることが出来たら、何と幸いなことでしょう。それをイエス様が私たちに求めていることであり、それを日常の生活の中で覚えさせようとしていることではないでしょうか。

秋に咲くきれいな小菊を見つけました。名古屋もう初冬です。

 

 われらの希望は イエスのみ力によりて堅く、

   神なき者は自らの貪欲と戦う。

 苦しめるは彼ら、彼らの運命は恥とあざけりなり。

   神、われらとともに、われら神とともにして、

 神の祝福はわれらのものなり。

 

 

世田谷通信(206

猫草

 

前々から被害拡大の話は聞いていたが、ついに来た。カシノナガキクイムシという5mmほどの害虫である。林野庁によると「平成30年度の全国のナラ枯れ被害量は、前年度より減少し、約45千立方メートルとなりました。」ってさっぱり広さの実感がない。東京ドーム何個分か。神宮球場なら実感がわくのに。それはさておき、グラフをみると平成12年から被害が拡大し、ピークは平成22年の32.5万立方メートル。いまは減少傾向にあるので、対策は有効ということだろう。

さてこの通称カシナガ。全国で猛威をふるってナラやカシの森をまるごと枯らす。大径木が好みで、幹に無数の穴をあけて中に侵入する。木の中にアリの巣のように大量の卵を産み付け、幼虫が木の内部を食い荒らす。水を吸えない木は枯れ、夏だというのに真っ赤な葉となりやがて枯れる。やっかいなのは単に食い荒らすだけではなく、ナラ菌というカビの仲間を運ぶ。つまり伝染病を媒介している点だ。わざわざ雌の背中には菌を運ぶ穴が開いている。確信犯だ。この菌のせいで木質部がスカスカになる。森ごと立ち枯れ多発、やがて倒木となると被害は甚大だ。

成城の里山でも、数本の木に沢山の穴、そしてフラスとよばれる大量の木くずを発見。カシナガが内部に侵入した証拠だ。狙われたのは80年以上の古木、弱っている木で遊歩道近くなので心配である。

カシナガが本領を発揮するのは翌年の梅雨前だ。木の中ですくすく育った何万という幼虫が成虫になり次のターゲットを求めて一斉に飛び立つ。特に被害にあうのは近くの特定の古木に集中するらしい。これをマスアタックと呼ぶ。

ここまでわかっているのだから対策もある。薬、伐倒、フェロモンのおとりなどの方法が試されている。殺虫剤は木へのダメージがあるし他の希少種も死んでしまう。伐るにしても伐った後の木は食い荒らされ材として使えない。

というわけでトラップだ!ということになった。今回は簡単にクリアファイルを使った。品定め中のカシナガが幹の周囲を旋回する習性を利用し、幹にクリアファイルを貼ってその下に洗剤入りの水を貯め、衝突させて水に落として駆除、というシンプルな作戦だ。毎週トラップの回収をする手間もあるが、毎回数百もかかっているとちょっと嬉しい。しかしたとえカシナガをやり過ごしても、クビアカツヤカミキリや新種の菌や伝染病は発生するだろう。ヒトだけではなく、植物も、動物や昆虫も新たな脅威と戦っている。目に見えない菌の世界でも新旧の戦いがある

 

                                                                                                                                                                                                   「美しい朝に」

 

   「虫の声」

 ちぎれちぎれに鳴く

  虫の声を

   ひとり聞く

    夜ふけ

 一人ではない

  一人ではない  

     主が共にきいておられる

             水野源三 第三詩集

 

 沙耶香のつぶやき

 

♡  お母さんに、お父さんとは恋愛結婚だったのと聞いたら、笑いながら、職場の先輩で、2年ほどお付き合いして結婚したのよ、と教えてくれました。何だか私も大人になった気持ちになれました。

♡  近くの公園に彼岸花が咲いているよというので、お母さんと久し振りに夕方散歩しましたよ。久し振りにお母さんと手をつないで、夕焼けを眺めながら少し遠回りの散歩でした。お母さんも夏の疲れがなくなったようで、嬉しいです。お兄ちゃんも大学の授業が始まり出掛けて行きました。お父さんはまだ家でお仕事をしているようです。

♡  お母さんがお花屋さんでトルコ桔梗を買って来て、食卓に飾ってくれました。今までテーブルの上は、私の薬のお母さんの薬の置くところくらいにか思っていませんでしたが、お花のあるテーブルっていいなあと思いました。わたしの薬がなくなればもっといいのになあ~ 

♡  少し夏の疲れが出てきて、あまり元気ではありません。そんな時、余計なことを考えて不安になってしまいます。日記を読み返してみたら、去年もその前も同じ事が書いてありました。なあんだ、去年と同じなんだと思ったら、少し落ち着きました。その内に、知らないうちに元気になっていたから良いなあ。

♡  お母さんは、何時も一人で食卓で聖書を読んでしますが、昨晩、お祈りしているのかと思ったら、聖書を枕に寝ていました。疲れているんだ・・・。起こそうかと思いましたが、まだ寒くはないのでそっと自分の部屋に戻りました。わたしは、体調を乱していたので、聖書もだいぶ読んでいないし、お祈りもしていない・・・。

♡  新聞の折り込み広告にクリスマスケーキの予約承ります、と出ていましたよ。もうそんな季節か、とビックリ!部屋の中にばかりいるので曜日を間違えてしまい、何だか心配ダヨ。ノートの予定表は何カ月も白紙。定期診察もお母さん任せ。

 

       ********

 

  沙耶香さん、夏バテしませんでしたか。私はダメでした。私も日記を書こうと思って始めたのですが、長続きしませんでした。何時もそうなのです。本も読みたいと思って買うのですが、最後まで読めません。根気がなく、飽きっぽい性格は、なかなか治りませんね。沙耶香さんはそうではなさそうで、羨ましいなあ~。 徳島県 SGさん

  沙耶香さん、毎月読んでいますよ。お母さんへのことを最近書いていますが、ふと私の娘はいったい何を考えているのだろうと、不安になってしまいますが、沙耶香さんの「つぶやき」で、娘もきっと心の中では、いろいろ考えてくれているんだろうなあ、と安心させられています。 宮城県 OSさん

    <この掲載の原稿の時にお送りし、全て了解を得ております>編集子

 

 

 

 『その愛のゆえに』

   =時々の記= 

   (176)

 

9月22

沢山のジャーナルの信仰の友に支えられて今、生かされていることに改めて心から感謝いたします。もう70歳を超えていて、いつ召されてもの覚悟はできていたはずなのですが、今回の出来事で、信仰弱い私はパニックになってしまいました。精神科の先生からたくさんのお薬をいただいて帰り、しばらくはお薬なしでは眠りにつくことができませんでした。今ようやく落ち着きを取り戻しています。こうして皆さんに支えられ、祈っていただいていることにとても心強さを覚えています。一度もお会いしていない方たちから心からのお励まし、お支えをいただいて信仰の友のありがたさを心から感謝しています。

永遠をふと思ひけり星月夜。

道の上や鳶の背見ゆる秋初め。

木犀や枝に頼り近く寄る。(金木犀もいつもなら甘い香りを放ってくれる頃なのですが。)

昼はセミ夜は虫との配慮なる。

白浪の立ち続けをる秋の川。    

墓石の倒れてをりぬ秋彼岸。

気が付けば家の周りに草の花

爽やかや初めに言葉神有りと   馬場路哉

 

今日は雨の予報でしたのに今のところ雨が降らずに一日持ちました。主人は今リハビリとかの散歩運動から帰ってきました。秋の涼しさの中でのリハビリは頑張れるようになったのか、帰ってくる時刻が遅くなってきました。

 

10月2日 

 今朝も朝はとても冷え込みましたが、日中はよく晴れて心地よい秋晴れでした。診療所で悪玉コレステロールを下げるお薬を2か月分、肩の痛み腰の痛みに貼るシップ薬もいただいて帰りました。

そろそろ夏物を片付け、冬物へと衣類の整頓です。大切にしていたものがありますが思い切って処分することにしました。全く普段は着ないようなものをしかも20年も前のものなどは少しずつ手放すことにしました。なかなか思い切ることができなくてほんの一部だけにとどまっています。

コスモスの田園に溢れ大柳生。(地名です)

朝焼けやほどなく来る秋時雨。

山峡を丸く覆ひて星月夜。

穭田に白鷺一羽づつ立てり。

明星に近き弦月皿をなす。   馬場路哉

 

郵便受けを覗くともう年賀状の申し込み受付のはがきが入っていました。もうそんな時期なのですね。

 

10月14日

 今朝のラジオから流れるニュースを聞いていると、どんぐりの実がなくなってきているというのです。ナラの木が害虫によって枯れてしまっているというのです。山添村ではまだその現象が見られませんが、各地で深刻な状態だというのです。どんぐりの実を餌にしている動物たちにとって、生き延びるために必死で探し回ることでしょうから。

山添村ではイノシシが昼間でも出てきて土手を壊したり、畑を荒らしたり、と散々だといって皆さん嘆いておられます。先日のこと、主人が山に向かって散歩をしているとガサガサと音がするので誰がいるのだろうと辺りを見回したらイノシシが現れたので、じっとその場で突っ立っていたら、静かに逃げてくれたのでほっとしたといって帰ってきました。

私もよく散歩で行く裏山の道でしたから。その話を聞いて以来、裏山方面には、行かないように気を付けています。山に餌がなくなってきているのですから仕方がないのでしょうが、何とかならないものかと考え込んでしまうのです。

 

馬場暁美

「上野緑ヶ丘教会会員」 

 

  

 

 

   眸(ひとみ)・・115・・・

 

  私は契約社員として16年働いてきましたが、上司から突然、来月末で解雇の通を受けました。信じられませんでした。この会社が好きで、この仕事が好きで、責任も与えられていましたから、たとえ契約社員でも・・・という安心感がありましたので、まさか私が・・・という思いで、気持ちの整理がつかず、1カ月が経ちました。もう60に近い年齢ですから、再就職を考えることもできません。幸い子供たちは独立していますので、残りのローンの返済のために今少し頑張ろうと思い直しています。老後の蓄えなどよりも、主人の健康を第一に考えます。 埼玉県 B・Hさん

  台風14号の被害もなく、秋晴れをむかえています。近くの柿農家さんと立ち話をしていたのですが、稔りの心配と共に、秋の蓄えを求めてか季節の渡り鳥の被害に悩まされているそうです。その被害額の多さに組合でいろいろ対策は考えているのですが有効な方策がないそうです。美味しい柿がたわわに実り食する私たちも、農家さんのご苦労に感謝しなければならないと思いました。食卓には毎日、美味しい柿が彩を添えています。 岐阜県 T・Aさん

  朝露が輝いています。寒くなりましたが、今朝の散歩で薄紫の優しい野菊を見つけて感動いたしました。土手の下の目立たないところにですが、お店に出回っているような立派なものではありませんが、心ときめかせてくれる美しさでした。空を見上げると鳥たちの群れが飛び立っていきました。何所に行くのだろう・・・。名前ははっきりしませんが急いでいる様子でした。真冬に咲く山茶花が白い花を咲かせ始めました。季節を間違えているようです。 大阪府 B・Hさん

  ここ秋田は日中も寒くなりました。暖房も入れました。これからまた長い雪との戦いです。秋田のお米が美味しいのは、この雪の恵みだそうですが、外回りの仕事の私には受け入れられません。「ジャーナル友さん」の中にも豪雪地帯の方もおられるでしょう。雪道の運転は怖いですよね。ああ~今日も雪だ~のため息の出るのも間近です。インフルエンザには注意しましょう。 秋田県 BAさん

 

<身近な出来事を「眸」に投稿してください> 編集子 

 

十戒と主の祈り      

鈴木英昭著

        (元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)

 

=盗み=

 

  第八戒⑤・所有する

      ヨブ31:13~2、マルコ14:7~9

 

 生産技術の発達、資源の有無、また市場競争などのために、富める国と貧しい国の格差が広がります。それはその国民にも影響を与えます。幸いなことに、敗戦後の日本の復興のためになされた努力の結果はめざましいもので、私たちはそれを享受しています。

 しかし、そうでない国々が多くありますし、私たちの周囲にも、働く意思を持ちながら、生活の手段を失った人々もいます。そういう中で、私たちが働くことによって得ている収入を貯え、生活を楽しむために、使うことに後ろめたさを感じることはないでしょうか。

 

 旧約聖書で神は、収穫の十分の一を神にささげることによって、神に感謝し、生産の手段を持たないレビ人もその恵みに与り、家族や奴隷をも含めて祭りを共に楽しむことを命じられた(申命記12章)ことは重要です。多く与えられた者は、それだけ気前よく用いることができます。ヨブは神から豊かに祝福を受けた人でした。彼は31章で語っていますように、助けを求める人々の求めに背を向けたことなく、7人の息子たちが順に家族を招いて宴会をすることを喜んでいました。 

 主イエスも、宴会に招かれたとき、招かれない貧しい人々がいるという理由で、その招きを断ることはありませんでした。カナの婚礼にも出席なさり、水をぶどう酒に変える奇跡をもって、その婚礼を祝福なさいました。

 こうしたことから、貧しい人々を助けることは必要であり、それと同時に、神は人が楽しむことを良しとされました。

 

 浪費はある種の盗みであることをすでに学びましたが、べタニアで、主イエスが食事の時に、一人の女性が高価なナルドの香油をイエスに注ぎました。人々は憤慨して、無駄使いだと言い、売って貧しい人々に施すことができたのにと言いました。その時、主は彼女を弁護して(マルコ14:7~9)、貧しい人々への同情はいつでもできるが、彼女が御自分にしてくれたことは、御自分の「埋葬の準備」あったと言われ、彼女が主の先のことについて理解をもっていることをお誉めになりました。

 

 主は貧しい人々への援助を軽視なさったのではないことが分かりますが、喜びを現わすときは、自分に与えられていることを感謝するようお教えになられます。

 ドウマ教授は、さらにもう一つの視点からこう指摘します。われわれは節約して、収入のある一定の割合を援助のために用いなければならないが、節約することで消費を抑えると、それだけ経済成長がマイナスとなり、結果的に失業者が増えるということになるというのです。そのことは最近のわが国にも当てはまります。

 教会やNGOなどの援助活動に協力すると共に、一部を神への感謝をもって後ろめたい思いを持たず消費することも、また必要なことです。

 

バラ・マカルピン 日本伝道百年史   

     水垣 清著

 (元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)

 

16 日本宣教50年・・3・・

 3 日本以外に存した、こういう障害物が取り去られたと同時に、日本のものに在った障害物も取り去られたと言うことは更に驚くべきことであります。私は48年前の11月11日に日本に到着しましたが、到着した際すでにこういうことが私の心に現れてきたと言うことだけは言えると思う。

 

 第一の障害物は多数の仏教の宗派と仏教僧侶の能く整った階級であった。神道や儒教はもとより看過されていなかったが、日本国民の大多数を占めたその勢力は、仏教に比すればすこぶる僅少の様におもわれました。私の最初の教師は寺の先生であった。勿論私は、いろんな仏教の宗派や、教養や、礼式や服装などに興味をもつようになった。上手な裁縫師は巧みに彩色をした一組の僧衣を私に造ってくれました。

特に初めて、私の聴いた僧侶の説教が如何にも熱心であったのと、その聴衆からうけた印象とで、私は非常に感動した。

聴衆と言うのは、大部分は年のいった婦人で、多くは頭を剃っていた。その他のものは頭の上に小さな三角形の青い布をのせていたので、頭のてっぺんを剃った古い風俗をまねているようであった。つまり婦人は罪が深いものであったから極楽へ行くのには男となるか、或いは尼となるしかなかったのであります。

説教者の話が高調に達すると、聴衆は皆熱心に合掌するのに、私は非常に心を動かされました。ただに仏前の前にある賽銭箱にお金を投げるばかりでなく、皆一斉に南無阿弥陀仏を称えるのです。私は「神には栄光あれ」と叫んだ昔の幕屋の集会を思い出さずにはいられなかったのです。

で、私はひとり心の中でおもった、「仏教に向かってばかり熱心な信仰をもっている人民が、どうしてキリスト教を受け入れることが出来るか」と。この無数の勢力のある仏教徒の一階級をどうして取り除きうるのであろうか、彼等は一向宗、門徒宗及び現在の真宗を除けば、公然たる独身主義者、菜食主義者である。門徒宗のものは結婚すれば肉も食う。そして一人の仏神を拝む、祈りよりも説教を信ずる。行いよりも信仰で救われると信じている。

 

「キリスト教百話」

  

問30 「キリスト教を信じたら、どんな良いことがあるのでしょうか」

答・・1・・

 こういう質問を受けることがよくありますが、その場合知っていただきたいことは、クリスチャンは「キリスト教」と言う宗教、または「キリストの教え」を信じているのではないと言うことです。もちろんキリストの教えを無視しているわけではありません。と言うより、むしろキリストの教えに聞き従うことを最も大切にしているのです。

 それは「教えそのもの」についてのことではなく、それがキリストが告げられた教えであるからです。キリストという言葉は名前ではなく、「救い主」と言う意味の言葉です。その救い主は「イエス・キリスト」というように、イエスという歴史上に現れた人物を「救い主」と信じる「信仰」によって言い表されている言葉であるのです。

 ということから明らかなように、イエスと言う方を「救い主」として信じているからこそ、この方によって語られた教えを大切にしているのでありまして、当然、それがキリストに聞き従うということになるわけです。

 ということは、信じて聞き従うことが、自分の救い主の言葉であるからこそのことでありまして、よく掲げてある格言警句集に記されている言葉を人生訓として重んじるというのとは違うのであります。その場合には「良いことが言われているなあ」と受け止めたり、それを実行に移すのは、自分が主体となってのことであります。その言葉を誰かがいっているとしても、その人に対面して、その人の人格的な触れ合いがあってのことではないのです。つまり、「あなたがおっしゃっておられるのですから、お言葉に従います」というような仕方で受け止めているわけではないのです。

 

 しかし、キリストの教え、つまりキリストが語られた言葉に聞き従うということは「この方は私の救い主である」と信じてのことでありまして、言葉だけが単独に重んじられているのではないのです。クリスチャンという言葉を「キリスト教徒」と訳す人もいますが、前述したことからも明らかなように、これはむしろ「キリスト信徒」という方が正しいのです。

 もともと「クリスチャン」という言葉は、「イエスのことをキリストと信じ、それを人々に宣べ伝えているやつらだ」という意味で使った言葉でありまして、キリストの名を呼ぶ者への呼称とされたことに発しています(使徒11:26)。新共同訳聖書ではこれを「キリスト者」と訳していますが、これがクリスチャンと言う者の内容をよく言い表しています。

 つまりクリスチャンと言う者は「キリスト教」という言葉の総称される何かを信じているわけではなく、ナザレの人イエスをキリストと信じている者のことをいうのであります。そして、このキリストを信じて生きているということ自体が、良いことであるのです。

    篠田 潔

(日本基督教団隠退教師・元中部日本放送「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)

 

 

第96課 パウロも宣教活動とその計画

=15:14~33=

A. 異邦人宣教師としてのパウロの働き・・2・・

・・・15:14~21・・・3・・・

 

 「このように恵みを受けたのは、わたしが異邦人のためにキリスト・イエスに仕えのる

者となり、神の福音のために祭司の役を勧め、こうして異邦人を、聖霊によってきよめ

られた、御旨にかなうささげ物とするためである」(15:16)。

 

 ここで「仕える者」(ministere)と訳されている原語は「公務員」を表わす語である。しかし、この同じギリシャ語が「祭司」の職を表わすのによく用いられている(申命記1:8、へブル10:11)。もちろん、パウロの文字通りの祭司では決してない。彼の職務は祭司ではなく使徒職であった。全てのキリスト者が祭司であるという万人祭司の意味における場合を除いては、キリスト教教役者も祭司ではない(Ⅰペテロ2:9、黙示5:10)。しかし、ここの聖句は比喩的な表現なのである。 

 ここでは使徒パウロを祭司として述べている。全ての祭司たちは神に捧げるべき供え物を持たねばならない。そして次の聖句において、異邦人キリスト者がパウロの神に捧げる供え物であると言われている。文字通りでは、もちろん、異邦人たちが供え物でないのは、パウロが祭司でないのと同じである。供え物としての異邦人を語ることによって、中心的な真理が示されている。すなわち、罪の中に深く沈んでいた異邦人たちが聖なる捧げものとして、すなわち、聖霊によって清められた聖なる供え物として神に捧げられたのである。

 「供え物が祭壇に供えられたとき、水やその他の方法で清められるように、私たちも聖霊の力によって、神への奉仕に相応しく、聖なるものとされたのである。これが、パウロが自分の働きの成功について語る時、常に省くことをしない大切な思想なのである。彼の宣教の業における成功を、器に過ぎない自分の力に帰することを決してしないで、常に真の創始者である神に帰しているのである。

 この美しい聖句において私たちはキリスト教宣教者に帰せられる唯一の祭司性を見出すのである。罪のための供え物を捧げることが、彼らの職務ではなく、宗教教育によって、聖霊の働きにより、人々をして自分を生きた供え物として神に捧げるようにさせることこそが宣教者の任務なのである」(ホッジ)

 

 すべてのキリスト者が祭司であるという万人祭司性以外の意味において、福音の宣教者を祭司と呼ぶことは正しくない。聖書は信仰者が万人祭司であることを教えている。しかし、祭司の役をする特別は階層というのは信者の間にはない。ローマ・カトリック教会においては、宣教者は供え物を捧げる祭司となり、主の晩餐はミサの供え物となっているが、これは腐敗の一つであると言える。プロテスタントの中にも宣教者のことを祭司と呼ぼうとする傾向があるが、ローマ・カトリック教会と同じ誤りをしないように警戒しなくてはならない。

 

   JG・ヴォス著

   玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)

 

   『ほっとひととき「みんなのコーナー」』

 

◆  台風12号の進路先で心配でしたが、逸れてくれました。今のところ雨と少し強い風で済みそうです。気になっていた定期的な血液検査も異常はありませんでした。血液検査の結果が今の健康のバロメーターですから、数値が気になっていたので感謝です。最近は朝と日中の温度差が激しく服装も半袖から長袖へと変わっています。「ジャーナル友さん」のことは毎日お祈りしています。リンドウが咲いています。 千葉県 LTさん

◆  何時ものように今朝も散歩に主人と出掛けることが出来ました。都心の散歩コースですから、出勤前の方や犬の散歩の方、健康維持のために手押し車でお歩きの方等で、健康に気を使われているご様子に私たちも励まされています。暫くお目にかかっていなかった方のお姿を拝見して、嬉しい気持ちにさせられています。公園のあちこちに一斉に彼岸花が群れを成して咲いているのを見つけました。秋だなと感じながらの散歩でした。 福井県 OKさん  

   山形は朝晩は肌寒く、もう冬がまじかで、近くの山は紅葉です。10月号、ありがとうございました。教会ではいつもお元気でしたお友だちがお部屋の中で転倒し骨折、まだ60になったばかりなので、お若いのに車いす生活になってしまわれました。家族の中で信仰者はお一人で、教会に来ることもできませんので、数回、「つのぶえジャーナル」をお貸ししてきましたが、今度は自分が読みたいときには手元になく、不便をしています。長い間「贈呈者」としてお送りいただきながらで、まことに身勝手で、恐縮なのですが、もう1セット、贈呈していただくことは可能でしょうか。厚かましいお願いで申し訳けありません。・・・。 山形県 WKさん

<編集子>そのようなご希望は大歓迎です。「ジャーナル友さん」の中に、そのようなご希望をお持ちの方は、お申し出ください。対応させていただきます>

        

      ❀ ❀ ❀ ❀ ❀ ❀ ❀ ❀

 

♪  10月になりました。暑い、暑いと言っていたのがウソのように、今日は急に涼しくなり、長そでの出番になりました。最近、塗り絵をしていますが、結構、肩が凝ります。ミニチュアのドールハウスも出てきましたので作ってみました。孫娘が喜んでいます。笑顔が可愛いです。外はもうすっかり秋ですね。写真を送ります。「ジャーナル」に使っていただけたらうれしいです。

♪  心配していました台風14号でしたが、途中で進路が変わり、ほっとしています。今日は、数日続いていた雨と風、寒さでしたが暖かい陽気になりました。それで今まで溜まっていたたくさんの洗濯物が何とか乾いてほっとしています。テレビで名古屋も大雨で大変でしたね。雨はとても大切なのですが、晴れ間が出るとやはりうれしくて仕方ありません。コスモス、彼岸花ももう終わりです。これからは琵琶湖を抜けて吹く冷たい風でいよいよ紅葉が美しくなってきます。「ジャーナル友さん」の健康をお祈りいたします。

 

この文章は、全て投稿者から掲載許可をいただいております。 編集子

    

 

   『ありがとうございます』

 要支援1から2に変更になり、週一回から2回になりました。身体機能が衰えているので、回復のためのリハビリ・トレーニング施設行き2回に増えました。何時もトレーニング痛?になるのですが、2回になってから、今のところ出ていません。自分で運動してカバーを考えましたが、飽きっぽいタイプなので苦手な私にとってある種、強制的な方が体も気持ちも馴染まます。ヨガの先生の信友が、筋肉痛は筋肉強化の現れですから、頑張りましょうと励まされ、その言葉に乗せられて送迎の車で出かけています。

 街路樹や公園の木々は彩づき始めました。高齢者優先のインフルエンザの予防接種は終えました。改めて、皆様のご健康が神様から賜りますように、お祈りいたします。

 

 2020年9月16日から10月15日までにいただいた、寄付金、献金、感謝して報告させていただきます。

 

長谷川一郎様 加納さおり様 金田好美様 武知  隆様 佐藤のり様 馬場暁美様     匿名2名様

 

*寄付金口座…郵振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社 

また、お便り下さる方やお友達への紹介はこのメール アドレスをご利用ください。多くの「ジャーナル友さん」が与えられるように願っています。

    osamura@kind.ocn.ne.jp 

*「つのぶえジャーナル」はこれをご利用ください。

http://tunobue.blog.shinobi.jp      

(米国南長老教会文書伝道事業)刊行責任者

   つのぶえ社代表   長村秀勝

 

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書籍紹介
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エネルギー技術の
 社会意思決定

日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
 定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本

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教会における女性のリーダーシップ
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント 
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
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「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
定価 2000円 

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「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
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「十戒と主の祈り」
鈴木英昭著
 「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
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われらの教会と伝道
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本

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さんびか物語
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円

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