[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
「今月のことば」
主はとこしえの神、地の果ての創造者であって、弱ることなく、また疲れることなく、その知恵ははかりがたい。弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる。
=イザヤ40:28~29=
2020年の1月1日、私たちは、新型コロナウイルス禍を予見し得たでしょうか。想像を超えた出来事に遭遇し、ある種の大変革など、考えられないことが日々の生活に起こっています。
世界は2020年の東京オリンピック・パラリンピックを心待ちにして迎えていたはずでした。しかし、今、「先の見えない明日」に向かって努力し、支え合い、進んでいます。このような時であればこそ、「今月のことば」のこの聖句は私たちに、勇気と希望の与えるみ言葉と言えるのではないでしょうか。
神にとっては、「日が西に傾いて暮れる」ことはなく、夕闇が夜の近づくことをしらせることもありません。疲れることなく、休む必要もありません。すべての人の眠る時にも目覚めておられ、すべてが闇の中に沈んでも見ておられます。
ダビデは自分自身のことを語ります。
「闇はわたしをおおい、わたしを囲む光は夜となれ」とわたしは言っても、しかし、神についてはこう申しています。
「あなたには、闇も暗くはなく、夜も昼のように輝きます。あなたには闇も光もことなることはありません。あなたはわが内臓をつくり、わが母は胎内でわたしを組み立てられました」。
神とはこのようなお方です。だれも神の力がどこから来るか知る者はなく、神の年月には終わりはありません。神は高く清い所にのみ住みたまわず、その霊において、悔い改め、ひれふす罪人と共にいてくださるお方です。「弱った者には力を与え、勢いのない者には、強さを増し加えられる」お方です。
神は、わたしたちの兄弟と呼ばれることを恥とせず、苦難によって、わたしたちの救いの長となられたのです。神は、その愛の中に支配なさるすべてを、失った者を全て神の家に招き返すために用いられるのです。
「罪人がひとりでも悔い改めるなら、天に喜びがある」。
このような神が、永遠に、そしていつも、わたしたちの神でおられます。すべて重荷を負う者、苦労している者は、神(主イエス・キリスト)の御もとに行きましょう。そこには確かな魂の憩いがあります。
「小閑記」
イスラエルよ、あなたはしあわせである。だれがあなたのように、主に救われた民があったであろうか。
主はあなたを助ける盾、あなたの威光のつるぎ。
=申命記33:29=
人がもし自分の生涯を、神を知り、信じ、正しい角度から見るならば、人は常に悩みなく、幸福で、感謝に満たされることでしょう。その存在は世の人々が恐れて震える神はなく、キリスト者の最良の友であります。他の人は審判の下に、その悲しみと傷とに絶え、来るべきことを恐れる時、神の子供(信仰者)は、救い主であり、父としての神のもとに行きます。そこでは人の傷は癒され、罪は赦され、裁きは取り去られ、そして痛みは鎮められます。
戦いにおいて、キリスト者には鋼鉄よりも強い神の守りの約束があり、神の言葉を鋭い剣のようにして敵に立ち向かうことができます。神はわたしたちを助ける盾、わたしたちの威光の剣であります。
わたしたちはすべての重荷を主に負っていただくことができます。なぜなら、主は「すべての思い煩いはわたしに負わせなさい。わたしが引き受けよう」と言われました。わたしたちを煩わせることは、どんなに小さくても、主にとって引き受ける値打ちがないほど、小さくはありません。
主にある者は、神の全能と、永久の知恵は、死よりも強い愛によって支えられているのです。そして主は、この愛をすべてわたしたちのための犠牲(贖いの代価)としてお与えになりました。このことを考えれば、「主を救い主として持つ者は幸いである」と言えないでしょうか。そのお方こそ強き盾、鋭い剣でいらっしゃいます。
わたしたちは、すべての事を主のみ手にお任せいたしましょう。主は、今までも、そしてこれからも同じくお守りくださいます。
わが希望のもとなる、恵みの主、
憐み深き、贖いのみ力に より頼みまつれば、救いを賜え。
み守りあれば、われはうごかじ。
み言葉は堅固にして、み誓いは確かなれば、
われなんじにより頼む。
世田谷通信(202)
猫草
この原稿を作っているノートPCは6,7年は経過している古いものだ。当然劣化はしていて、動画の再生はスムーズにできない、なので別のノートPCも使っている。こちらは画面が綺麗で軽い。しかしキーボードが薄っぺらでどうにも気持ちが悪い。ミスタッチが増えるので、作業スピードが落ち、結局古いPCに頼っている。
毎日便利に使っているパソコンだが、寿命はある。もう使えなくなったが処理が面倒・・と放置していたノートPC数台をこのほどリサイクル業者にだした。個人情報の漏洩防止には、初期化だけでは不十分で、専用のソフトによるハードディスクの完全削除が必要。1台結構な時間がかかり、そもそも動作に問題があるので、途中でエラーが起きるし、面倒ではあるが、ここまですれば心置きなく回収業者に出せる。
コンピュータなどを動かす基盤の中には地球上でほんの少ししか採取できないレアメタルが含まれているそうだ。大量に廃棄されるPCや携帯電話、これらの基盤から純度の高い希少金属だけを取り出すことができれば、一つ一つのパーツは微量でも、何万台と集めれば大きな資源となる。いわゆる「都市鉱山」と呼ばれるものだ。地球のどこかで新たな鉱山を発掘するより、手間をかけても適切に分別処理するのはどう考えても環境に良い。一度山を削ってしまったら、もう人の力では元に戻せない。わずかな金属の採取のために大量の土砂は捨てられる。残土は谷を埋める。削ったところから浸食は進む。埋まった谷は災害のきっかけになる。環境破壊としか言いようがない。
しかし、大変な作業なのだ、機械の分解は。もう10年以上前、カラープリンターが壊れて捨てることになり、小学生だった息子と一緒に興味本位で「分解してみよう!」とドライバー片手にやってみたことがある。外装は簡単にネジで外せる。しかし内部は複雑な構造でがっちり接着。溶接、配線されていて全然とれない。モノづくりをなめてはいけない。簡単に取れないように作ってあるのだ。当然だ。途中で嫌になってきたけれど、プラスチックと金属は分けないと捨てられない。ここまで分解したら回収業者さんにもだせない。要するに引くに引けない。コンパクトに収まっていたのを分解したら嵩が増している。かえってゴミ、増えてない?元にも戻せない。結局力任せに何かを捻じ曲げたら、残っていたインクがタコ墨のように噴き出して顔と服に浴びた。子どもと笑ったいい話・・ではない、一瞬で部屋に赤インクが飛び散って事件現場さながら。自業自得の悲しい話である。インクはあちこちを汚し、なかなか取れなかった。この一件で大変反省したので、あれ以来、もう機械の分解はやっていない。
きちんと処理した古いPCは、自治体推奨の信頼できる回収業者さんに渡す。その他の家電も同じ。多少の処理料は当然かかる。分解は大変なのは身をもって知った。そして爪の先ほどのレアメタルを回収するのは重要だけれどすごく根気のいる仕事。専門の方に任せたい。そして願わくば新しい鉱山の発掘が少しでも減りますように。地球からの際限のない収奪が止まりますように。
「美しい朝に」
沙耶香のつぶやき-
♡ やはり無理が精神的に負担になり、学校は当分のあいだ休むことにしました。前の病院の先生は男の人でしたが今は違う病院に通院することになりました。また自信を無くしてしまいそうです。こんなことを繰り返していたら駄目なので、負担を軽くするために、新しい病院の先生は長期休学も方法だと思うよ・・・と言ってくださったので、そうしました。
♡ 新しい病院の先生とは相性がいいのか、お母さんは少し食欲出てきたねと言ってくれてうれしかった。このようにメール日記を送ることもうれしいです。一人ぽっちはとても不安なのです。
♡ 病院は予約制ですが、先生との面談に時間に余裕があり、楽しく過ごせるようになりました。話を聞いてくれる先生なので、今のところ、先生とお話しする時間は楽しいです。日常生活の話が多いです。とにかく思っていることを話すようにしています。
♡ 「ジャーナルさんは」わたしのメールに返信を下さり、うれしいです。病院の先生は、メールでもいいから友達を作りなさい、というのですが、皆楽しそうな学校の様子や遊びに行ったことなどが多くて、羨ましいので、最近は、メールの交換は出来ていません。自分が惨めになるからやめてしまいました。
「沙耶香のつぶやき」を毎月読んでいるよ。わたしは今23歳、外に出るのは定期の病院の先生との面談くらいかな。そんな状態がもう8年近くになったかな。中学時代からクラスの人にいじめられてからなんだよ。子供の頃は看護師さんにあこがれていました。なんかみんな輝いていて、わたしもそうなりたいと思っていたよ。今は短い時間でも一人で外に出たいと思っているよ。沙耶香さん、これからも読むからね。バイバイ!! 私は愛媛県に住んでいます。
『その愛のゆえに』
=時々の記=
(171)
5月15日
薄雲に覆われている山添村です。燕のひなたちが元気よく育ち、二回目の卵が温められているようです。朝の目覚めはツバメのさえずりで目が覚めます。自然豊かな山添村で生活できていることに心から感謝しています。
さえずりに始まる杣の一日かな。
山の上にほんのり登る朧月。
大地読み続けて春を惜しみけり。
渕緑川浪白く夏めきぬ。
夕づつも月も出てをる五月かな。 馬塲路哉
5月も折り返し点に来ました。コロナで振り回されています。まだまだ第2波、第3波に脅かされるのでしょうか。
5月25日
蒸し暑くなっています。教会の礼拝も今までのように一緒に集まっての礼拝はこの時期だけは考え、見直す必要があるのかもしれませんね。オンライン礼拝が行われていますが、パソコンが苦手なものには文書伝道という形に礼拝できます。その時々の対応で今を迎えていることでしょう。
ゆかしさよかつて農家の桐の花。
樫切って五月の空の明るかり。
癒されぬ薔薇を読みたるリルケの詩。
餌を運ぶツバメの実にリズミカル。
夏の川朝日の低く眩しかり。 馬塲路哉
今、リハビリの散歩から主人は返ってきました。汗だくです。
5月29日
とても暑い一日となりました。昨夜のことです。野良猫のレオが3度も悲痛な声で鳴きました。これはほおっておけないと思い、外に出てみましたが、猫の姿は見られません。きっと屋根裏へでも逃げたのでしょうか。その時です。私の数メートル前を狐がぎらぎらと目を光らせて走り去りました。初めて狐を見た私です。怖くなって足が震えました。野生ですから俊敏さはたとえようがありません。今までイタチ、鹿、さるは目の前を走っていくのを見たことがありましたが、狐は初めてです。裏山のタケノコもすっかり食べられてしまいました。危険を冒してまでも人間の住む所までやってくるなんて。よほどおなかが減っていたのでしょうね。世の生き物たちが必死で生き延びようとしている姿は学ばなければなりませんね。戸締りをしっかりしなければとあちこち開け放っているところを点検して回りました。
偲びもす農家の昔桐の花。
五嶋みどりバッハを奏づ聖五月。(友からCDが送られてきました。)
過疎進む古き杜なる椎の花。
柿若葉老木にして瑞々し。 馬塲路哉
毎日日中は30度近くまで気温が上がります。マスクを着用しての散歩はかなりきついです。ラジオから流れるマスクをつけての激しい運動には気を付けましょうの声で誰もいない山の道ですから帰りはマスクを外してしまう私です。
6月1日
いよいよ6月です。学校も動き始めました。2か月遅れの始業式ですね。子供たちの中には生活のリズムが整わなくてスムーズに一歩を踏み出せずに苦しんでいる子供たちがいることでしょう。私はどうしても長いお休みの後は苦手でした。
代々の石碑に撒きぬ除草剤。(草を刈るのが大変な年齢になってきました。)
夏の川弧を描きをり慰霊の碑。
過疎進む古き杜なる椎の花。
一陣の風おほでまり吹雪けり。
藤の花肩の力を抜くべしと。 馬塲路哉
70歳から80歳までの高齢者たちが毎月、お掃除のボランティアをしています。
中には来るだけが精一杯で何もできずに帰ってしまう人もいます。それでも来てくれてそばで見てくれているだけで励まされます。人間って不思議なものですね。そばにいてもらうだけで、元気がもらえるのですから。
6月7日
朝からとても暑くなってきましたが、村中の高齢者も、若者も、一軒に一人が草刈り機をもって、道や土手の草刈りの「出会い」です。最高齢者で80歳です。それ以上になるとやはりこの暑さの中での草刈りは無理なようです。都会に出られた息子さんが帰ってきたり、近くにいる親せきが手伝ったりということになります。来週もあります。田舎に住んでいるとこうした草刈りの「出会い」が大変です。でもみんなの力で2時間ほどでとてもきれいに草が刈り取られていきました。
朝ツバメやる気満々鳴きかわす。
朝霧のゆるりよぎる山若葉。
チョコ色に光るもありて樫若葉。
棕櫚の花傘添へらるる姿かな。
五月雨は加太の山を隠しけり。 馬塲路哉
我が家も蚊取り線香の出番がやってきました。それに蟻の行列が台所のあちこちで見かけるようになり、かわいそうなのですが、殺虫剤を吹きかけてしまう私です。
6月16日
今日も一日暑くなりそうです。息子は対面でのやり取り以外はマスクを外してもよいとの指示が出たと喜んで出かけました。マスクをしての肉体労働は蒸れてきて大変なようです。書留、小包があれば対面になりますから、マスクを着用しなければならないので時間的には遅れがちになるというのです。今は一人一人にGPSという機械が取り付けられ、どこで何をしているか今どのようなものを配達しているかを掌握できるようになっているというのです。良いように考えれば何かあった時にはすぐに助けに来てもらえるのでしょうが、あまりにも拘束されすぎてしんどいですね。時代の流れですからそのような動きにも順応していかなければならないのでしょう。息子の顔も日ごとにたくましく日焼けで真っ黒です。
明けむとす山峡渡るホトトギス。(ホトトギスの声で目が覚めます。)
咲かせもす都忘れや雛住まひ。
一所日差しを避けて雪の下。
草引けば一隅と言へ明るかり。
朝の間に道草を刈る鄙暮らし。(午前中は何とか草を刈る元気があります。) 馬塲路哉
田舎では今、どんどん大きくなる草との戦いです。皆さん、朝早くから草刈り機の使える方はブーンブーンと音を立てながら頑張っています。その音を聞くと皆じっとしていられなくなり、草刈り機の大合唱になります。
馬場暁美
「上野緑ヶ丘教会会員」
眸(ひとみ)・・112・・・
✬ 梅雨入りと共に、目につくのがいろいろの種類の紫陽花です。色も豊富で鉢植えを選ぶのが楽しみです。それにしても不思議なのは、小さな花の集まりが大きな塊になっているのですから・・・。難しいことは分かりませんが、梅雨時の心を癒してくれるのとで私は満足しています。忙しい看護師の日々は今も変わりませんが、誰かが贈ってくださったのか、院内の片隅に置かれていて、頑張って!と励ましてくれています。誰かがお世話しています。 大分県 B・Hさん
✬ 近くの公園の池には毎年、親子のカモの姿を見ることができて、梅雨の季節を感じます。それを見つめる保育園の園児も先生に手を引かれて歩く姿は、微笑ましいです。カモも園児もすくすくと育って行くのですね。 三重県 S・Aさん
✬ 学校の授業も始まり、子供たちも落ち着いたのか、元気な声で教室内が賑やかになりました。私たち大人はあれこれ先を考えてしまいますが、子供たちには今の笑顔が一番です。さあ、準備していた教材で頑張らねば・・・と思う今日この頃です。 佐賀県 B・Aさん
✬ 主人はテレワークに慣れてしまったのか、朝起きるのが辛いと言っています。通勤のために6時には起きていましたから、無理もないことですが、心配なのは運動不足です。「新しい生活」の模索と言われていますが、今は主人のお昼を作って私は仕事に出かけます。これでも「専業主夫」がいいなと言いだすのではないか?と心配です。冷蔵庫の缶ビールの減り方が多くなったようなので、気になりはじめました。 千葉県 G・Kさん
✬ つい先ほど、真夏の太陽が照り付ける中、ヤマト便の方が汗を拭きながら「つのぶえジャーナル」6月号を届けてくださいました。ありがとうございます。気を付けて!とご挨拶をしました。考えてみましたら、名古屋からこんな小さな島まで届けて下さるのですから、感謝しかありません。今からページを繰って拝読させていただこうと楽しみにしているところです。都会では新型コロナウイルスで、神様は有能な研究者、医療従事者を通して、この危機を克服できるようにお用いくださっています。私の島には小さな診療所しかありませんので、いつも心細い思いをしています。ですから、このような新型コロナウイルスのために、対策の方法などありません。ですから、こうして「ジャーナル友」としてお届けいただけるのは本当にうれしい限りです。島の信仰の友と今まで通り回し読みします。海風で今日は半そででもよいくらいの暑さですよ。皆様のご健康をお祈りいたします。 鹿児島県 S・Kさん
✬ 梅雨を彩る淡い黄緑色紫の菖蒲が家の近くにある公園の池に今年もたくさん咲き始めました。私の目にはアヤメもカキツバタも同じように見えて、どちらも綺麗で「いずれがアヤメかカキツバタ」で大好きです。家の庭木には今年も「ハナミズキ」が咲いてくれました。顔馴染みの方が、今年も咲きましたね!と声をかけてくださいました。梅雨の季節の花は、どれもお淑やかで控えめな艶やかさがありますね。 神奈川県 S・Sさん
<身近な出来事を「眸」に投稿してください> 編集子
十戒と主の祈り・・・25・・・ 鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
=盗み=
第八戒①・人を盗むな
申命記24:7、Ⅰテモテ1:9~10
第八戒になりました。盗むことへの戒めです。何を盗むかということになると、名誉や時間のようなものも含めて物を盗むことだけでなく、人を盗むということの戒めでもあります。その証拠に、パウロはテモテに宛てた第一の手紙1章9~10節で、十戒の中の第八戒に相当する盗みに、人を「誘拐する者」を挙げています。最初は、その点を考えてみることにします。同じことが出エジプト記21章16節にも、申命記24章7節にも、「人を誘拐」することが特に挙げられています。
宗教改革時代のオランダに有名な神学者でホエチュス(1589~1676年)という人がいました。ドルト会議でアルミ二アンと闘ったことでもよく知られています。彼も、この盗みについて、誘拐のことであるして、具体的に4つのケースを挙げています。
第一は、ローマ教会によって子供が盗まれて、修道院に連れてこられる場合です。第二は、奴隷として盗まれて、売られることです。当時、東西インド諸島で行われていたようです。第三は、物乞いをさせるために子供が盗まれました。第四は、若い男女が将来結婚するために、少女を盗みました。こうしたことは、自由という価値ある宝を人間から奪うことになります。
この人を奪って奴隷にするという点で、十戒の前書きにあるように、イスラエル人はエジプトという「奴隷の家」から救い出されました。したがって、神はイスラエル人が自分たちの兄弟の自由を奪って、奴隷にすることを禁じられました。イスラエルには、戦争の捕虜になった外国人や何らかの理由で奴隷になった外国人がいました。それでも、彼ら奴隷の生活は、耐えられるような配慮を受けていたことは第四戒の安息日の戒めの言葉(出エジプト20:10、申命記23:16~17)から分かります。
宗教改革以後には、第八戒は特に奴隷として人を盗むことが問題の中心になりました。しかし、現在は奴隷制の廃止によって、この戒めが奴隷のことを指しているとは一般に考えることがなくなりました。それでも、人を誘拐することが、違った形で表れていることも事実です。
例えば、北朝鮮による日本人や韓国人の拉致問題、テロによるハイジャックで人質とされることも一時的にあります。しかし、誘拐以上に、植民地政策とか、人種差別というようなものは私たちの周囲に最近までありましたし、1980年代の末に廃止された南アフリカのアパルトヘイトは法的になされた差別でした。しかし、こうした特定なものではないとしても、不景気になると、賃金カットやリストラと言う圧力、市場の独占により価格を釣り上げることなどによって、巧妙に人々の自由や労働力の搾取があります。20世紀になっても、各国で明らかな搾取もありますし、それを見分けることが困難なものでもあります。
バラ・マカルピン 日本伝道百年史・・3・・
水垣 清著
(元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)
15 明治末期の伝道・・1・・
女婿のマカルピン師も、義父バラ先生に劣らぬ宣教の活動に忙しかった。同じく11月22日には、高知県幡多郡下田町の青年会の招きで特別集会が催され、肌寒い雨の中を100余名の来会者があった。筆者も昭和8年から15年までの8年間、中村町に赴任して、この下田町に毎月2回自転車で伝道したのであるが、俊寛が島流しにあったような、太平洋の荒波に面した小さな部落で、地の果てに来たような淋しいところであった。
すでに明治の末期、この見捨てられたような土地にも、福音がマカルピン師によって伝えられていたのに驚いた。交通の発達した今日にはもう見ることの出来ない伝道精神に、こころをうたれるものがある。続いて23日、24日は中村町でマカルピン師と青木仲英師の講演会があり、こどもたちも100人あまり集まった。
1908年(明治41)から翌1909年(明治42)にかけてマカルピン師の宣教の片鱗を記してみよう。
1908年 2月10日 岡崎劇場にて集会
3月21日 日本基督金城教会伝道、教会献堂式に出席祝祷
3月27日 津島劇場にて集会 200余名
5月 7日 瀬戸集会にて路傍伝道集会
1910年(明治43)開催の名古屋築城300年記念及関西府県聯合共進会を機会に、市内キリスト教8派協同一致天幕伝道を90日連続の集会を持つため、予算1000円を計上し、委員長、関沢義之氏、会計担当マカルピン師、実行委員長、吉川逸之助教師が事に当たった。
1908年9月21日、神戸神学校始業式(新入生8名)、マカルピン師出席祝祷をなす。同10月27日、28日、愛岐教職者会を瀬戸永泉教会で開催し、夜はマカルピン師「罪の性質とその救済」について説教、会衆50名。
1909年5月、岐阜の中学校(旧制)5年生のため毎週水曜日マカルピン師が名古屋より出張し、バイブルクラスを開く。
以上のように愛岐地区は、キリスト教にとって未開拓の石地のような土地であったが、あらゆる機会を活用して、聖書を、キリストを求め祈り、熱心に教え導いたマカルピン師の伝道の労苦は今日の教会形成を成し遂げるための大きな礎であった。
「キリスト教百話」
問28 キリスト教は、大きく分ければカトリック教会とプロテスタント教会になると思いますが、どうちがうでしょうか。
答・・2・・
日本聖書協会によって、ローマ・カトリック教会とプロテスタント教会の聖書学者による共同の翻訳作業によって。「新共同訳聖書」が出版され、それぞれの教会で多く用いられています。聖書を信仰の規範としていることにおいては、どちらの教会においても違いはありません。ただし、聖書には解釈が必要であります。そして、そうであれば、どういう解釈が正しいものとするかについての問題が起こります。
その際、カトリック教会は聖書解釈の決め手となる権威は教皇にあるということになります。その権威は、遡ればペトロに至ります。ペトロはイエスに「あなたは活ける神の子キリストです」と告白しました。これに対し、イエスは「あなたはペトロ、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と宣言し、ペトロには「わたしはあなたに天国の鍵を授ける」と言われました(マタイ16章)。ここでペトロはキリストから天国の鍵を授けられた者として、教会の権威の担い手とされたのでありまして、この権威を「ペトロの座」と言い、この権威の座を継承する者が「教皇」であるというのが、カトリック教会における教皇理解であり、これが教会の「伝統」となっているわけであります。
一方、プロテスタント教会においては、既述したことによって明らかなように、教会と信仰の権威の所在は「聖書」にあります。聖書により、また、聖書を通して語りかけられる神の言葉にこそまことの権威があるというのでありますから、ここに二つの教会のちがいがあります。ただし、聖書をまことの権威とすると言いましても、その内容をどう受け止めるか、神の言葉として聞くべきことは何かと言うことになりますと、基本的には聖霊の導きがあってのことでありますが、受け止め方や解釈に、微妙なまたかなりの違いが出てくることになりまして、教理やマリアの位置や典礼などについての様々な違いがありますが、基本的には以上述べたことが、両教会の違いの要点であります。
キリストを信じることにおいて一つでありながら、このような違いを持ったまま個別的に活動しているのはキリストの名に相応しくないのではないかと言うことでなされているのが「世界教会一致運動」(エキュメニカルムーブメント)と呼ばれているものであります。また「世界キリスト教協議会」(WCC)というのもありまして、出来る協力はしようという姿勢と動きがあることは知っていてよいのではないかと思います。
ただし、プロテスタント教会の側の問題としては、聖書を拠り所とすると言いましても、その解釈の仕方によっては、キリスト教ではなくなってくるということが、「統一原理」と称する集団発生に見られるところでありまして、聖書の内容の展開の豊かさと、それからの逸脱には峻別が求められます。他人事でなく心したい点であります。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元中部日本放送「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
第95課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・52・・・
G キリストの非利己的な態度を見習うことが、すべてのキリスト者の義務である。
・・・15:1~13・・・2・・・
「異邦人もあわれみを受けて神をあがめるようになるためである」。「それゆえ、わたしたちは異邦人の中であなたに讃美をささげ、また、御名をほめ歌う」と書いてあるとおりである」(9節)。
それによって異邦人が神を崇めるようになる神の憐みは、キリストによる救いの恵みのことであって、それにすべての恵みと祝福が伴うのである。一言で言えば、異邦人たちに神を知らぬ状態、神の国は無関係の状態から変化させて、神の国の民とならせてくださった神の憐みを言っているのである。キリストは贖いの業によって、二つのことを成就して下さった。すなわち、第一に父祖たちの受けた約束を成就することによって神の真実を維持された。第二にキリストは異邦人たちを御国に入らせて、彼らも神の憐みを受けて、神をたたえ崇めるようにされたのである。
「それゆえ、わたしは異邦人の中であなたに讃美をささげ、また、御名をほめ歌う」(9節b)。
これは詩編の18:49の引用である。それは真の神を知り、礼拝することが、未来において異邦人にまで拡大されることを宣べた、多くの旧約の聖句の一つである。詩編18:49において歌っているのはダビデである。ダビデは、神に讃美を捧げている異邦人たちに取り囲まれている自分を考えているのである。そしてこのことは、彼らが神の礼拝者であるという意味なのである。
「また、こう言っている、『異邦人よ、主の民と共に喜べ』」(10節)。これは70人訳聖書(ギリシャ語訳旧約)による申命記32:48の引用である。そして詩編67:35がほとんどこれと同じである。
「また、『すべての異邦人よ、主をほめまつれ、もろもろの民よ、主をほめたたえよ』」(11節)。これは詩編117:1の引用である。
「またイザヤは言っている。「エッサイの根から芽が出て、異邦人を治めるために立ち上がる者が来る。異邦人は彼に望みをおくであろう」(12節)。
これはイザヤ書11:1、10の引用である。イザヤのこの言葉は極めて明瞭に、また決定的に来るべきメシヤは、ユダヤ人のみならず、異邦人の上にも臨まれることを述べている。パウロの引用は70人訳旧約からなされている。何故ならば、意味においてはヘブル語原文とあまり違いはない。「イザヤの約束は、腐敗して滅びたダビデの家より、一人の人物が起こり、その支配はすべての民を含み、ユダヤ人のみでなく、異邦人も彼に依り頼むことになるということである。この預言を成就するためにキリストが来られ、近くに、あるいは遠くにある人々に救いを宣べ伝えられたのである。二つの部類の人々がともに、このへりくだった救い主によって、あわれみのうちに受け入れられ、一つの集団の中に結合されたのである。だから、彼らは互いに裁いたりせず、また争うことを避けなければならないのである」(ホッジ)。
J・G・ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
◆ 主人を亡くして7年目、なかなか心の整理のつかないまま月日が流れてしまいました。書斎には主人の好きな本がそのまま残っていて、そこで一人時を過ごしていました。一冊のアルバムがありました。何となく開いてみました。入院する半年前、旅行に行った時の写真がありました。山あいに静かにたたず萱葺き屋根の家並み。集落の中を走る道には車の往来はほとんどなく、あちこちから聞こえる虫の声、青く伸びた萱、昔話に出てくるような日本の原風景に心を奪われていたあの時がそこにありました。主人の文字で、南会津町と栃木県の境界付近にある水引集落。入り口近くに置かれた案内板に目を向ける。室町時代の文安年間(1444~49年)ごろ、3人の猟師がこんこんと湧き出る清水に魅了されて住み着いたのが始まりとされ、集落の名の由来が書かれている。写真の整理の時に書いたのでしょう。性格そのものの文字、ふとなぞっていました。元気でいるかい!と励ましてくれていて、懐かしさと、主人の暖かい心根を感じていました。まだ70なのに、と思いました。 埼玉県 L・Tさん
◆ ・・・。学校も以前のように元気な子供たちの笑顔の登下校が始まりました。変わったのは生徒のみんながマスク姿くらいでしょうか。新一年生もお兄ちゃんやお姉ちゃんの後を追いかけている姿も変わりません。きっと親御さんも ひと安心されていることでしょう。 新潟県 O・Kさん
◆ 昨日のこと曇り空の元、次男が誘い出してくれたので奈良公園に夫と行きました。たまたま草を必死で食べるお腹の大きな雌鹿がおりました。夫は「こんな草ばかり食べて…」と絶句していました。お腹の赤ちゃんのために食べるその姿に、何とも言えない「愛」をもらいました。散策後、次男の通う幼稚園前の「この世のすべてのいのちに平安がおとずれますように」という親子鹿の写真が貼られたポスターを一緒に見て過ごすことができました。 (奈良県 N・Rさん)
◆
+=+=+=+
♪ 昨日の雨とは、打って変わり、大阪は快晴です。朝のうちに、ソファーを布団乾燥させました。保育園が、コロナでお休みで孫が来るので(綺麗好きの娘の感化を受けて)。先日、孫と公園に行き、写真を写しましたので、お送りしますね。シャッターチャンスが良かったみたいです。娘と孫が泊まりにきました。朝8時過ぎから、散歩に行きました。また、季節を感じさせるいい写真が写せました。
♪ 私の楽しみは、「ジャーナル」で馬場路哉さんの俳句を読むことと、暁美さんの何気ない日常の出来事の様子を読むことと、皆さんのお声に接し、微笑ましい気持ちにさせていただくことが出来ることです。今は息子夫婦の家で生活しながら、デーサビスに出かけていますが、住み慣れた馬場さんたちのような緑もなく、鳥の声もなく、私には怖いほどの車の音とスピードで、心の休まるところがない生活に、お届けいただいている「ジャーナル」を読む時が憩いの時になっています。何とも言えない信仰の香が、安心させてくれます。6月号を読み、7月号が楽しみです。
♪ 山法師が今年も庭に咲いてくれました。長い新型コロナウイルスのためにお休みの学校に、孫たちは元気に登校していますが、親の娘の方が、休校疲れが出てきて、落ち込んでいます。きっと多くのお母さんたちも同じで、元気になってほしいと、お祈りしています。コロナ疲れ、自粛疲れの解消は、まだまだ先のようです。社会全体、世界が新型コロナウイルスからのストレスで、何かの機会で暴発しないかが心配です。
♪ 蒸し暑くなりました。浴衣、団扇、冷えた素麺なんて考えながら川辺を散歩していたら、何と蛍が飛んでいるではないですか!もう十数年見たことがなく、諦めから忘れていました。あの淡い光に命が・・・、短い命、主人を誘って見に行きました。飛んでいました。幼いころに歌ったことを思い出しました。
「蛍」
蛍のやどは 川ばた柳
柳おぼろに 夕やみよせて
川のめだかが 夢見る頃に
ほ ほ ほたるが 灯をともす
川風そよぐ 柳もそよぐ
そよぐ柳に ほたるがゆれて
山の三日月 かくれる頃に
ほ ほ ほたるが飛んで出る
川原のおもは 五月のやみ夜
かなたこなたに 友よび集め
むれてほたるの 大まり小まり
ほ ほ ほたるが飛んで行く 文部省唱歌 (編集子添付)
この文章は、全て投稿者から掲載許可をいただいております。 編集子
『ありがとうございます』
・・・。信仰の友さんから「つのぶえジャーナル」の感想を頂きました。「つのぶえジャーナル」の世界は、主にあってつながっている、地上の神の国のようにあたたかいです。神様を身近に感じながら読んでいます、と言うものでした。
辛いこと、悲しいこと、不安を抱えている日々を見守ってくださっている神様の愛を頂いている方々のお気持ちが、「つのぶえジャーナル」から頂けてとてもうれしく感じます、ともありました。また年齢と共に体力、気力、能力(筋力?)の限界を感じていますが、為すべきことが与えられていることには感謝しなければなりませんね、とありました。
本当にうれしいことです。改めて、励まされ、勇気を頂きました。
また水栽培をまた始めました。
葉ネギとさつま芋です。葉ネギは市販のもので、可愛い根が付いていますので、そのままコップに挿しているだけで、さつま芋は1本のさつま芋の上下を5センチほど切ってそれも透明の容器の底に少しだけ水を入れておくだけです。葉ネギは次々と新しい茎(葉?)が出てきて、ネギの微かな香が心地よいです。さつま芋も葉になる芽が幾つも出てきました。(長村)
2020年5月16日から6月15日までの献金・寄付金を報告させていただきます。
鶴原澄子様 宮川真澄様 森みどり様 稲田喜水様 佐藤のり様 馬場暁美様 加納さおり様 長谷川めぐみ様 匿名1名様
*寄付金口座…郵振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社
また、お便り下さる方やお友達への紹介はこのメール アドレスをご利用ください。多くの「ジャーナル友さん」が与えられるように願っています。
*「つのぶえジャーナル」はこれをご利用ください。
http://tunobue.blog.shinobi.jp
(米国南長老教会文書伝道事業)刊行責任者
つのぶえ社代表 長村秀勝
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」