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2023年7月号  №193 号 通巻877号
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 「今月のことば」

 

あなたの若い日に、悪しき日の来る前に、あなたの造り主を覚えよ。

      =伝道の書12:1=

青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。

 「年を重ねることに喜びはない」と言う年齢にならないうちに。

      =コへレトの言葉12:1=

 

世界の各国は新型コロナのウイルス対策に真剣に取り組んでいます。この病禍に日常の「当り前」が恵みであり、生きる術に何を求め、何を見失っていたかを、心に問う時、この試練に立ち向かうことができるのではないでしょうか。元気な若者がこの病禍の感染源と言われ、自己中心な快楽に時を過ごしている大人の世代の意識が問われています。

 

視点を変えてみましょう。この新型コロナウイルスは、2、3か月の緊急事態の対応で収束するものではないのです。一時的な収束であって撲滅ではないのです。菌は名前を変えてこれからも出現する「菌」なのです。人間が存在する限り「菌」も存在するのです。人間は多くの病を克服してきた歴史でもあります。その努力はこれからも続くでしょう。だからこそ、「支え合う心、励まし合う思い」が力になるのです。5年、10年、否、終末の喜びを迎える日まで、その思いが個々人に、社会が求められているなら、向き合おうではありませんか。

 

冒頭の聖句は、初めて教会に行き聖書を開き、旧約聖書の創世記から読み進み始めて知る神様からの問いかけとして、多くの人の心に残るみ言葉と言えましょう。それは、若者だけでなく、人それぞれが、「今」を「若い日」に置き換える時、何が与えられ、何を失い、何を探し、何を得たかを最もよく見ることができるのではないでしょうか。一日を終り、次の朝を迎える心の備えをさせるとしたら、幸いな時でしょう。

 

若い日の年月は美しいものです。それは希望と未来に夢を持たせるからです。未知への憧れ、不安という人生のステージに立ち向かう情熱に満ちています。しかしまた、責任と危険の時でもあります。であるからこそ、この「若い日・青春の日」に、すべての基礎が置かれているとも言えるのです。

 

若い日を一つの絵画で表すなら、春の朝、自然の最も美しいせせらぎ、雪は溶け緑豊かな山々、小鳥の声が喜びを歌っています。荒れた畑に肥料をまき、土を掘り起こして種を蒔き、成長の時を待つのです。

若い日は、私たち一人一人の人生の春です。その時を無駄にせず、生涯の方向を探り、良い日を待つ時なのです。

人生の夜明けは、若い日だけではないのです。齢を重ねた今、造り主を知るなら「若い日」なのです。

 

 救い主よ。わが心のやさしき間に、主に捧げん。わが心を。

  すべてのわが力を、とりて主のものとしたまえ。

 

 主よ、われを取り、今、とりて、若さあふるる心を君のものとしたまえ。

  われをなして、わが魂に、きよき愛を満たしたまえ。

 

 

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 「小閑記」

  

  あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。

繰り返して言うが、喜びなさい。

           =ピリピ4:4=

 

 テレビの画面には空の商品棚とここの商品は売り切れましたという張り紙、その横にトイレットペーパーを抱えきれないほど持っている人の後ろ姿が写っていました。しかし、その後ろ姿には、喜びも安堵の気持ちもありませんでした。何とも虚しい気持ちになりましたが、これは日本だけのことではなく世界の各地にある姿です。

 

 「主にあって喜ぶ」とは、必ずしも幸福に感じることと同じではありません。聖書は、私たちが常に喜ぶように勧めていますが、自己満足とは違います。また悲しみや人の痛みを感じ共に涙することも「喜び」と言います。ただあの抱えきれないトイレットペーパーを手に入れた束の間の喜びでないことだけは確かです。主にあって喜ぶということは、それとは本質的に異なることのようです。

 

 私たち一人ひとり、悲しみや、不幸や、悩みに耐えている現実の中にあっても、主にある喜びを失っていることの証拠ではありません。かえって、しばしば最も大きな悲しみに耐えている時こそ、主にある喜びは最も完全であり、深く強いものでもあり得るのです。強がりや言葉でのことではありません。私たちは、深い悲しみや不幸にあるとき、私たちは最も愛する人の元に行くのではないでしょうか。聖書の中に、人は「泣くものと共に泣き、喜びを分かち合うところに、喜ぶこと」を学んでいます。

 

 人が最も苦しむとき、不思議ですが互いに労わり、励まし合う者です。キリスト者として神のみ心に最も近づくとき、キリストの思いとなり、キリストに喜ばれることを探し、行動へと進むのです。心がこの世を愛している時、口で歓声をあげることは出来ます。しかし、悲しみが訪れている時、主にある喜びがもっとも大いなることを知っていることは、何と幸いなことでしょう。

 

 <538>

 1 過ぎゆくこの世 朽ち行くわが身

   何をかたのまん 十字架にすがる。 

 2 ながくもとめし 罪のゆるしを  

   したしく主より きくぞ嬉しき。

 3 古きわが身は  十字架に死にて

   あらたに生くる  身とぞなりける。

 4 時もたからも  この身も霊も、

   みな主のものと みまえに献げん。

 5 主にある我は  よろこびあふれ、 

   代々みさかえは 主にとぞ歌わん。 アーメン

 

 

世田谷通信(200

猫草

 

学校には図書室がある。そう法律で決まっているのだ。昭和28年に「学校図書館法」が制定された。その第一条は「この法律は、学校図書館が学校教育において欠くことのできない基礎的な設備であることにかんがみ、その健全な発達を図り、もって学校教育を充実することを目的とする」である。サンフランシスコ平和条約の翌年、まだ戦後の混乱と混沌の中で、学校教育の基礎的な設備として図書室が位置づけられた意味を今一度考えたいところである。偏った情報統制や一部の特権階級しか知識にアクセスできない社会は自らの誤りを正せない。それは戦時中、意図的に歪曲された情報やそれを是とする状況があったからだ。終戦後にその情報操作が白日の下にさらされ、多くの大切なものを失い、辛くも生き残った人たちの歯噛みするような悔しさがあったと思う。戦後すぐにその改善策を教育と図書室に求めた、決意のような思いを感じる条文である。

とはいうものの理想と現実はなかなか折り合いがつかないのも事実ではある。今から15年前、長男が小学校に入学した時、校内を回って、図書室を探した。それは校舎3階にあった。背の高い書棚が並び、電気は消えて鍵がかかっていた。中は暗くてよく見えない。図書室と言うより書庫だった。司書にあたる人は居るが、他の学校と兼務で2ヶ月に1回来るのだという。基本的に無人なので、授業や調べ物の時に先生が鍵を開けて使う場所だった。ん?図書室ってそういうものでしたっけ・・。

疑問を抱きつつ、長男が4年生になったとき、学校から図書ボランティアを募る話があった。最初は朝の読み聞かせ充実と、廃校から大量の寄贈を受けた本の整理などだった。何かできることがあればと参加して、驚いた。蔵書目録がないのである。何年に何を買ったという図書原簿はある。しかし現在どこにどの本がどういう状態で何冊あるかがわからない状態。やっぱりこれは図書室ではなくて倉庫だ、と思った。

その後副校長先生より、中休みや昼休みに毎日子どもたちが利用できるように図書室を開けたいと話があり、図書事務としての勤務が始まった。電算化も進み、蔵書はデータベース化された。数年前より学校にも民営化の流れが来て、給食、警備、主事、司書も外部委託となった。平成26年に「学校図書館法」が改正され、「学校司書」の配置が法律で位置づけられたことも、大きな転換点と言えるだろう。さて、これからの学校図書館とはどんなふうになっていくのだろうか。

まずは学校が再開されるのを、今はただ静かに待つしかない。

:里山農園のチューリップと六条大麦の写真もよければ使ってください。チューリップ写真は縦長だったので横長にトリミングしましたがどうでしょう?

 

 

『美しい朝に』・・66・・

 

 四つ葉のクローバー

 

  学校の帰り道で 姪が摘んで来た

    四つ葉のクローバー 十数本

      姪のやさしさを 姪のやさしさを

        ひとり占めにしては もったいない

  孤独に病気に 苦しんでいる人々に

    分けてあげよう

                 水野源三 第三詩集

 

沙耶香のつぶやき-7

♡ これから高校生だよと張り切り、はしゃいていたら学校から新型コロナウイルスのために休校となりますとの連絡が来る。でも、学校は科目の選択制なので時間割を考えて、好きな数学と苦手な英語を中心に選んだ。先生は優しそうなので安心。苦手は通学時の人混みなので、それを考えて学科を選んだ。お昼のお弁当は母の手作り。ここは外国の人が多く、先生も丁寧に教えてくれそうで、わたしには合っている気がして、5月から始まするのを待っている。でも、どうなるのでしょうか。不安。

♡ 犬の散歩は土日だけで、母と兄が犬のお供。父は見ているだけ。両親は優しく黙って見守ってくれていて、うれしい。学校は楽しいとまでは言えないでしょうが、今のところ行けているヨ。女の子が話しかけてくれる。まだまだ緊張気味。

♡ 体調の乱れもなく、うれしい。食欲はやはりあまりない。焦らないようにしている。母には学校のことなど、なんでも隠さず話している。学校の近くにキレイなお花屋さんがあり、そのうちに立ち寄ってみようと思っています。その勇気は今はない。

♡ 友だちはまだ出来ない。来ている子も不安そうな顔。日本語が分からない外国の子は、両親が日本にいるので来ただけだと言っていたのが聞こえた。本当は来たくないのだろうなあと思った。どうして今ここに来ているんだろう?声が掛けられない。

♡ 連絡用のため家族割の携帯を家族みんなで持つことにした。何だか大人気分。通学はやはり気疲れする。その内に慣れるよ、と言い聞かせている。早寝早起きは続いている。勉強は面白い。予習と宿題は別にないが、自分で決めてやっている。日記は学校のことばかりだ。

♡ 小学生の担任の先生から手紙が来た。Aちゃんが知らせてくれたのだ。便箋7枚の手紙。沢山の思い出を書いてくれた。沙耶香さんらしく好きなことをして、学校生活を過ごしてください、とある。うれしくなって泣きましたよ。先生は見守っていてくれいたんだ。Aちゃん、ありがとう。

♡ 犬の散歩に父も初参加。メタボ解消とか。言われて初めてなるほど感。わたしは160㎝の痩せなので、その心配はない。兄も細身、母も細身。学校では髪型も服装の自由。わたしはいつも同じ。兄はバイトしながらの大学生。飲み会参加でお金がかかると言っている。大学生って気軽なのかな~。

♡ 通学するようになり、帰りにコンビニで飲み物を買うことが出来た。今まで一人で入ったことはなく、何時も母と一緒。ドキドキした。友だちは出来ない。あまり気にならない。クラブ活動は参加しないことにしている。まだ嫌な思いが強いのだ。

♡ 少し緊張していたのか、最近、疲れている。頑張り過ぎたところもある。焦りも出てきた。良い子ぶっている自分がだんだん嫌いになってきた。それもわたし・・・

♡ ご近所のおばさんに、元気そうねとか、頑張っているのねと言われなくなったのが嬉しい。その言葉がとても聞きたくない言葉だった。素直になれていない今の私。

 

 

 『その愛のゆえに』

   =時々の記=

   (169)

 

3月12日

冷たい朝でした。でも今はお日様が照りだして暖かくなってきました。春らしいなと空を見上げるとなんと今年初めてのツバメがやってきたのです。2週間ほど早いです。遠いフィリピンから海を渡って危険にさらされながらも、去年3、4か月過ごした我が家へ帰ってきてくれたかと思うと胸がいっぱいになります。ツバメさんたち今年もよろしくね。野の花や草が春になっていっせいに勢いを増してきました。人間たちはコロナウイルスの危険にさらされていますよ。

白梅の咲き続きをる日数かな。

雑木山薄紫に山笑ふ。

寸刻の吹雪で済みて合羽着ず。

ゆふづつとならぶ上弦春の月。

春愁や春の一と日を配達す。    馬塲路哉

 

3月25

 キリシタン生まれし山田受難週。

右近祭近づき媼草を刈る。

黄の光まき散らすなり竹の秋。

黄梅を咲かす農家の門の前。

文芸を好みし祖母や山桜。   馬塲路哉

 

玄関先では朝からツバメがにぎやかにさえずっています。春ですね。そして4月がやってきます。新年度のスタートです。気持ちだけでも若くありたいと願うこの頃です。

 

3月28

 待っていたソメイヨシノが咲き始めました。ちょうど朝の散歩道で桜とあいさつできます。昨日はまだつぼみだったのに今朝はもう10輪以上は花を咲かせていました。土手を見るとラッパ水仙が黄色い花を咲かせています。すぐそばの畑にはスモモの白い花が咲き始めました。春爛漫となっています。どちらを見渡しても花盛りです。たくさんの花たちに出迎えられて心うきうきしてきますね。

青き踏みジュスト右近碑訪ねばや。

伊賀街道吹きさらしなる春疾。(はやて)

笠取の山へ揚げたるいかのぼり。

黄を点じ吹かれてをり柳の芽。

坂道に停まり難きあられかな。   馬塲路哉

 

今日も一日雨が続きそうです。でもその恵みの雨をいただいて木々はとてもうれしそうです。もう、6月に花を咲かせるアジサイが緑の若葉を勢いよく芽吹かせています。その勢いに力をもらって、感謝して一日一日を過ごしたいものです。

 

4月3日

今日は朝は寒さを感じましたが午後からは暖かくなり気持ちよく散歩ができました。

でも桜が満開に咲いているのにいつものように心から“キレイだな”と感じられないのです。心なしか満開の桜も遠慮がちです。

伊賀街道春の流れに沿ひにけり。

白梅に目白の木たる朝かな。

早天に感謝を捧ぐ受難週。

父植えし杉太きこと山笑ふ。

梅が枝に湖の連立ちにける。   馬塲路哉

 

1週間分の食料を買い求めに伊賀上野まで出かけてきました。スーパーも人が少なく感じました。でも、私たちが行くスーパーはお年寄りが多いのです。最近ではお互いに声を掛け合って励ましあっています。今日は、“沢山リンゴを買ってどうするの?と尋ねられました。主人の血圧を下げるためにジュースを作っているのですよ”というと、“それはよいことね”と励ましてくださいました。

 

4月8日

 緊急事態宣言が発令され、一層緊張感が増してきました。今日は診療所へ定期検査に行きました。待合室には患者さんらしき方は見当たりません。医師と看護師2人と補助の方1人いるだけです。待ってもなかなか診察してくれません。尋ねてみると今日すぐ近くでコロナの患者が発生したというのです。私はいつもの診察室とは別の部屋に連れていかれました。看護師さんに血圧、採血をしてもらい、後はいつもの薬をもらって帰るというのです。多分主治医がその患者さんと接触したために診察を避けているのだとわかりました。あまりにも身近での患者さんの発生で驚いています。しっかり免疫力を高めて何とか乗り切りたいと願っていますが。

朝散歩、降り注ぎたる柳の芽。

外出の場所限られぬ春愁。

ジュンサイの育ちをるかと覗きけり。

無条件選び説かれぬイースター。

初ツバメ、古巣に入りて鳴きにけり。   馬塲路哉

 

山添村の同じ場所を行ったり来たりの毎日です。私たち夕の散歩は二人が密着して話をしているので、しばらく一人で散歩を続けるようにしました。

 

4月10日

 二人での夕の散歩は密になる時が多いのでしばらくやめることにいたしました。その代わり一人で、山道を散歩しています。昨日はもうモンシロチョウ、モンキチョウに出会いました。まだ生まれたばかりの小さな羽をひらひらと靡かせながら私の前を横切っていきました。桜は風に吹かれて桜吹雪となっています。もう、梅の枝からは新緑の芽が噴き出ています。いよいよ緑したたる新緑の季節に移り変わろうとしているのですね。

山人の、今朝会費にける初ツバメ、

梅に来てすぐ離れもす目白かな。

畑跡ドッグランさせ草青む。

日当れる山のなぞへよ狸かな。   馬塲路哉

 

コロナウイルスによる緊急事態宣言が発令され、外出が限られると、気持ち的にストレスを感じるものですね。でも道路も静かでとても過ごし易いのです。

 

4月15日

 今日はとても暖かい春の日差しが降り注いでいます。今まで外で草をひいたり、お花に水をやったりしていました。背中にお日様がいっぱいに入り込んでポカポカに暖かくなっています。私たちは今までなら外に出るのは散歩と食料の買い出しでしたから、今は別に不便を感じません。ただ、散歩の途中で皆さん声をかけてくれるようになりました。お互いに声を掛け合って励ましあっているのです。最近は歩いている時間より口を動かしているほうが長くなっています。もちろん5メートルは離れての会話です。とても大きな声を出し合っているのです。田舎ならではの光景と言えますね。

 

馬場暁美

「上野緑ヶ丘教会会員」 

 

  

 

  眸(ひとみ)・・110・・・

 

✬ 医療従事者用のマスクが届けられ、何だか院内が安ど感に包まれています。入院患者さんに接する私たちにとっては欠かすことの出来ないものでしたから、これからは不安なく仕事ができます。今までは連日、状況把握と対応のための会議、協議の日々で精神的には限界ですが、一日も早い終息を願って、患者さんには笑顔でお声をかけています。 山口県 B・Hさん

✬ 村の春の行事も新型コロナウイルスが心配で検討中です。世話役もみんな高齢者ばかりですから、今は健康第一で対応策はありません。台風など自然相手は時間や情報で方法は考えられましたが、今回の新型コロナウイルスは手強いので、町の係の人と先の見えない話し合いですが、情報収集は欠かせません。私たちには、組長さんを通して連絡網を活用しているところです。普段の地味な活動が役に立っています。良い意味での地縁です。 徳島県 S・Aさん

✬ 幼い子供を預けて仕事に出かける不安そうなお母さんの姿は、私自身でもあります。三人の子供は家におり、母は私が帰るときまで一緒にいてくれますので、こうして子供を預かってもらえるので働くことができます。県の職員として今まで以上に責任ある仕事なんだと思わされています。頑張ります。 神奈川県 K・Uさん

✬ 「ジャーナル友さん」の上に神様のお守りをお祈りいたします。全世界が新型コロナの蔓延で迎えてしまった受難週、喜びの日であるイースターも先の見えないウイルスとの戦いになるのでしょうが、キリスト者にはその先にある、御国に住む希望は、不変ですから、不安でも絶望することなく、復活の主をお祝いする喜びを抱けていますから、感謝以外にありません。希望を目指して生きるのがキリスト者であるとするなら、それに近づく歩みをしたいものです。しかし、現実は厳しいコロナとの戦いでもあります。病禍の中にある人、その病み人の治療に当たっている方の献身的な働きには感謝しかありません。大きな専門病院だけでなく、日頃お世話になっている病院の方々も、同じく献身的に働いておられます。そのお働きに支えられていることもまた事実ですね。そうですね。5日の主の日は、本数は少ないですがバスを御利用なさって礼拝に来られる方は、注意されていて礼拝に来られた方は少なかったですね。幸い、息子家族の大きいサイズの車に、私たちは何時もの様に迎えに来てくれますので、行くことができました。 愛媛県 B・Hさん

✬ この地方では大きいほうの老人ホームの職員ですが、皆さんにとってここは「終の

棲家{(私はあまり好きな言葉ではありませんが・・・)ですから、今回の新型コロ

ナの出来事で、皆さん、不安になられていましたし、職員も極度の神経質になってし

まいましたが、良い意味で御利用の方も職員も十分な注意や配慮には緊張感を持って

対応していますので、穏やかな生活リズムに戻りつつあります。笑顔や大きな声が聞

こえてきた、改めて頑張らなければと思うようになりました。「ジャーナル友」の皆様のお祈りに感謝し、近況報告をさせてもらいました。これからもお祈りください。お願いいたします。 兵庫県 TKさん

 

<身近な出来事を「眸」に投稿してください>  編集子

 

十戒と主の祈り・・・11・・・         鈴木英昭著

 

        (元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)

=姦淫=

  

 第七戒③・男と女

      エフェ52133

 

 神が定めてくださった結婚という制度を考えた上で、その制度との関係でこの第七戒を検討する必要があります。

 神が人間をお造りになった時、男と女に造られました(創世記1:27)。それ以来、この世に生まれた人は男か女のいずれかでした。人は初めから男か女かの違いがあることを経験してきました。しかし、初めから人類には男か女の違いがあるということについて、一致があったわけではありません。ドウマ教授によると、ギリシャの哲学者プラトン(紀元前4世紀中頃)は、人間が最初に造られた時、「アンドロジヌス」(両性)、つまり男であり・女でもあるように造られたと言ったそうです。この両性とは、男女の要素の完全な統一を具現化した者ということです。

 しかし、神々からの刑罰がこの両性に臨み、その結果、二つに分裂し、今では人は男と女のいずれかになったと言います。この分裂以後、休息を失った人間の愛は、失われた統一を求めて終わりのない追及をしている、というのです。

 この考えに立って、フランス人のエリサベツ・バドアンターという人が、人類の変遷を、第一に、互いに相手を必要とした自己と他の共存の時代、第二に、他を必要としない自己の時代、聖書の人間創造の時代は、女性を抑圧した父なる神の時代、そして第三に、今では自己は他であろうとする時代、他に自己を求める時代になっていると言います。つまり、男と女の違いが去って行く時代であると言います。

同性愛(homosexuality)とか両性愛(bisexuality)が生じているのはそのためで、聖書が規定しているような性ではなくなったことを示すと言います。

 そして、人間が男女として振る舞うのは、人間が内在的にもっている方向から来るのではなく、生育(nurture)から来ると言い、子供たちが男として、或いは女として振る舞うように養育することから生じるのであって、男女のいずれかであるのでなく、男か女のいずれかになるのである、と主張します。この考え方が、フェミニストが聖書の神を男性名詞だけでなく、女性名詞でも表現することを主張するようになる根拠のようです。

 わたしたちは、男女の違いが、神の意図から生まれたものであって、その後の歴史に見られる堕落や罪の刑罰や悲惨の中から生まれたものでないことを知っています。神は6日目に人を男と女に造られた時、その日のことを振り返って、「はなはだ良かった」と判断しておられるからです」(創世記1:31)。

 創造の時に意図された男女の平等という理想的な関係は、罪によって破壊されましたが、キリストにある神の恵みによって回復されます。新しい調和ある関係は、夫としてのキリストと花嫁としての教会の関係から導き出されます。この調和の中にもある種の秩序があります。キリストがこの教会の頭であるように、最初に造られたアダムがエバの頭でした。彼らは一緒に世を治めます。女性の役割は仕えることよりも常に多くを含んでいます。

 

 第七戒④・人工授精

      創世記1:28

 

 「姦淫してはならない」という戒めと関連性のあるものとして、家族計画、人工授精、そして、試験管ベビーなどのような現実の問題がありますので考えておきましょう。

 特にヨーロッパのような少子化先進国に急速に近づいた日本では、結婚しない、結婚しても子供は産まない家庭が急増していることが統計に現れています。それが高齢化社会となって現れてきているのは、社会全体の責任であり、子を育てる家庭にのみ負担を求めるような状況が、手当や税金などの面で改善される必要があります。そうしたことに努力してきたヨーロッパは回復の兆しが見え始めているようです。

 同じように「産めよ、増えよ」(創世記1:22)と神の命令を受けた動物とは違って、人間には長い期間にわたって養育するという任務があるため、家族計画が必要になります。そのため避妊ということも合法的であると言えます。

 姦淫という視点から、卵子の受精や受精卵の定着に障害があるため、前者のための人工授精(artificial insemination)や後者のための試験管ベビー(in vitro fertilization)というような技術について、ドウマ教授のテキストを参考に考えてみます。

 普通、人工授精とは、対外で人工授精を行って、受精卵を妻の子宮に戻すことです。この場合、夫の精子と受精するAIHとよばれるものと、第三者の精子提供者の精子と受精するAIDと呼ばれるものとがあります。結婚は夫と妻の排他的な霊的または肉体的な関係ですから、AIDは明らかに合法的です。しかし、第三者の精子の提供をうけておこなわれるAIDは、この第七戒に触れることになります、精子は単なる「もの」に過ぎないという反論がありますが、輸血や臓器移植の血や臓器は「もの」とは言えても、精子の場合はそのように言うことができないのは明らかです。

 

 次に、妻の子宮が受精し定着できない場合の対策として、行われているものに、妻の代理として、第三者の女性の子宮を借りて、胎芽に成長させ、出産に至るという方法(IVF)です。

 この方法が夫婦の受精卵による妊娠ということから、この第七戒に違反することはありませんが、4つの条件を満たさなければならないということです。その第一は、この受精卵が女性とその夫によるものでなければならないということです。つまり第三者の卵子や精子を用いるものであってはならないということです。第二の条件は、その胎芽は卵子の持ち主である妻の子宮に植え付けさせなければならないということです。さらに、第三の条件として、受精した卵子はすべて妻の子宮に植え付けられなければならないということです。一個だけを用いて、他を廃棄したり、実験用に用いたりしてはならないということです。そして、第四は、胎芽は最適の時に速やかに子宮に植え付けられなければならないということです。

 

 

バラ・マカルピン 日本伝道百年史・・29・・   

     水垣 清著

 (元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)

 

13 20世紀に・・3・・

 

 マカルピン師の伝道に東濃(岐阜県の東美濃)の地は魅力があった。山深い中津川、そして徒歩でしか行くことの出来ない黒川村など、そこに住む進歩的な人々との語らいは興味があった。すでに明治35年12月、中津川まで鉄道が開通していたので、マカルピン師の伝道も便利になった。

明治39年春、44歳の誕生日を迎えて、その3月、中津川地方で大人2名、小児2名洗礼をさずけ、さらに10名が試問の上、洗礼を受けるはずであった。中津川から大井を経て、それから20キロメートルを徒歩し、蛭川の遠ケ根峠を越えた加茂郡黒川村では、3年前の(1903)6月30日に、旅宿奈葉屋で最初の信徒藤井和次郎がマカルピン師から受洗した。

続いて1905年(明治38)5月4日には、藤井千代、楯 エツ、藤井浅太郎が受洗した。さらに、明治41年1月には、マカルピン師に導かれた藤井伸一(現参議院議員藤井丙午の父)、藤井銀三郎が受洗している。

祈り、忍耐、熱心による伝道が、神道一本槍の寺のない村に福音の種の芽を成長させたのである。坂下町の曽我一家が入信してマカルピン師の世話になり、坂下教会(現日本基督教団坂下教会)の基となったのもこの頃である。

この年、バラ先生はラトガス大学から神学博士の学位を受けられた。一ケ年休暇を得て帰米された。この夏の8月23日、軽井沢の避暑地で北メソジスト教会の宣教師フランク・H・スミス氏の夫人は、ポーリン・ヘロン・スミス嬢を出産した。これが後のJA・マカルピン夫人のミセス・ポーリン・マカルピンさんである。

 

 

 

「キリスト教百話」

  

問27 キリスト教はイエス・キリストを信じるという点では一つであると思いますが、いくつもの教派に分かれているのはどうしてですか。

 おっしゃるように、キリスト教と称されるものにおいては「使徒信条」という、信仰内容を凝縮したものがありまして、この内容を共通のものとしている点では違いはありません。しかし、キリスト教が次第に広がっていくにつれて、それを受け入れた民族の伝統との関連などによって、様々な変容がなされるに至りました。その一つは東西両教会の分裂のことであります。東へ広まって行ったキリスト教会は、東方教会と呼ばれますが、その中心はコンスターチノーブル(いまのイスタンブール)を中心とする集団となりました。

 一方、西方に伝えられたキリスト教は、ローマを中心として西方教会と呼ばれていました。これがはっきり分裂したのは11世紀であり、それ以来「正教会」(オーソドックスチャーチ)と自称し、ギリシャ正教会、ロシア正教会となりました。このロシア正教会が日本に伝道して出来たのが東京のニコライ堂を中心とするハリストス(キリストのロシア語による発音)正教会であり、イコン(聖画像)を掲げるのが特徴であります。

 西方教会はローマ・カトリック(普遍性)教会と自称し、ローマ帝国の進展に伴って西欧に広がりました。日本に最初に伝道をしたのはこの教会でありまして「天主公教会」と自称し、この信徒は「キリシタン」(クリスチャンの意、切支丹)と呼ばれました。この教会はローマの法王を持つバチカン市国を形成していることと、ローマ教皇を権威の頂点としているところに特徴があります。

 16世紀に英国王ヘンリー8世の結婚がローマ・カトリック教会によって無効の宣言が発せられたのを機に英国の教会は自立宣言をして「英国教会」となり、これが国外に伝道されて「聖公会」(聖なる公同の教会の意)を自称し「日本聖公会」を造り、立教大学や聖ルカ病院や学校の経営にも力を注いでいました。

 同じく16世紀にドイツの修道士マルチン・ルターが信仰に関する公開質問状を張り出したことによって起こされたのが宗教改革(リフォーメイション)と呼ばれることでありまして、この結果プロテスタント教会と呼ばれる教会が生まれました。ローマ・カトリック教会を旧教と呼び、プロテスタント教会を新教と呼ぶのは、この出現の時期に関してのことでありであります。

 プロテスタントというのは「抗議者」の意でありまして、ドイツにおける改革運動に対して、国会の多数派を占めるカトリック派の絶対多数派が改革阻止を決議したのに対して、改革推進派の少数が抗議したことによって、この人たちが「抗議者」と呼ばれたことに発しています。これがルターと同じく改革の路線にある者の総称となったわけです。

篠田 潔

(日本基督教団隠退教師・元中部日本放送「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)

 

 

第94課 キリスト者生活の実践的義務

=12:1~15:13=・・・52・・・

G キリストの非利己的な態度を見習うことが、すべてのキリスト者の義務である。

・・・15:1~13・・・2・・・

 

 「こういうわけで、キリストもわたしたちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れて、神の栄光をあらわすべきである」(15:7)

 

 ここでパウロはローマ教会の人々に、相互の交わりを勧めている。「受け入れる」という意味は、キリスト者の交わりに受け入れることである。教会の中にあって、あの兄弟やグループとの交わりを拒否するような個人やグループがあってはならないのである。このような相互の交わりはキリスト者の義務であることは明らかなことである。

 しかし、現代の諸教会において、この義務が如何に無視されていることであろうか。キリスト者の交わりが、自己中心主義の愚かな心を持った一部の人々によって、如何に破壊されていることであろうか。時として教会の中のある人々に語り掛けようとしない。そして、語るときでも、むしろ沈黙している方が良いほどに冷たく形式的で、小馬鹿にしたような態度で話すのである。このような行動は、ここで教えられている「互いに受け入れよ」という命令にもとることであると言わねばならない。

 

 パウロはここで、何故、キリスト者は互いに受け入れなければならないかについて、二つの理由を述べている。

 第一の理由は、キリストが私たちを受け入れてくださったからである。私たちの救い主キリストは、その大いなる愛と憐みとによって、罪人である私たちを御自身の民として受け入れてくださったのである。この驚くべき恵みに与かっている私たちは、やはりキリストが受け入れてられる兄弟たちを受け入れることを拒むことは考えられない。もしキリストが私たちを受け入れてくださっているのなら、私たちも互いに受け入れ合わなければならないのである。

 

 第二の理由は、私たちが互いに受け入れるべきことを神の栄光が要求しているからである。内紛や党派抗争によって分裂している教会は、決して神の栄光を現わすことはできないのである。いくらかの意見や見解の相違は避けることが出来ないであろう。しかし、神の栄光を現わそうと願うのであるならば、少なくともお互いの間に親切な思いやりのある友情的な気持ちがなければならないのである。

 もし憎みや争いがあるならば、神の御霊を悲しませるのであって、神の栄光を現わすことはできず、むしろ栄光を傷つけるのである。「祭壇に供え物を捧げようとする場合、兄弟が自分に対してなにか恨みをいだいていることを、そこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい」(マタイ5:23,24)。

 

   JG・ヴォス著

   玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)

 

  『ほっとひととき「みんなのコーナー」』

 

  コロナウイルスのニュースで何とも言えない重苦しい表情の人々で、下町の商店街から笑顔が消えてしましましたので、一日も早い賑やかな市場になってほしいです。昔からの食堂の女将さんが、お客さんの来ない日が多くて、張り合いがないので、主人は家に閉じ籠ってはため息です。お花屋さんの花も元気がありません。ところが近くの喫茶店に100円引きの張り紙を出したら、お客さんが戻ってきてくれたとマスターが喜んでおられました。私も100円引きに誘われて出かけています。お店のご主人は儲けより笑顔が一番うれしいよ!と得意そうでした。 東京都 ODさん 

  コロナウイルスのニュースの中に、お元気に退院される方が増えているニュースがあり、日に日に多くなっているのを知り、安心はできませんが明るい気持ちになれます。私の通っている施設も利用者やその家族、職員の努力と用心で、元気に来られていて、怠けてはいけないと励まされています。 埼玉県 GKさん

  葉桜になりましたが今は清楚なハナミズキが新緑の中にひっそりと咲いてきます。桜のような華やかさはありませんが、新社会人、新入生、新入園児など、「新」をお祝いするかのように咲いていて、重苦しい今の日常に爽やかな花を神様がお与えくださったと感謝しています。何だか新型コロナに立ち向かう気持ちにさせられてきました。 埼玉県 JMさん

 

**********

♪ おはようございます!こちらは、やはり日は出ていますが寒いです。三寒四温そのものです。ご近所の方から手作りの可愛いガーゼのマスクを頂きました。私も作っていたので、お互いのマイマスク交換ができました。そういう「お楽しみの心」が今は必要ですね。何でも便利に手に入る世代の人にはできない生活の知恵でしょうか。手作りの小物屋さんでは、マイマスク用の材料が売れているとニュースに出ていました。困った時にこそ生まれる、生きる力が湧いてくるのでしょう。頼もしい限りですね。コロナウイルスも買い占め転売者も逃げ出しますよね。

♪ 手づくりのマスクをつけて買い物に出かけました。見知らぬ方から“素敵ですね。そのように手づくりをすればマスクが足りなくなるなんてことはないのよね”といっていただきました。私が作ったものではないので少し、気恥ずかしく感じましたが。

なんだかそう言われるだけでほのぼのとした気持ちになりました。家に帰ってすぐにマスクを洗って干しました。使い捨てではなく何度も使えるというのは大切なことだなとしみじみ思います。なんでも便利になった時代ですが、洗って何度も使えるというのはエコにもなりますよね。マスク一枚でいろんなことを考えさせられている私です。

♪ 新型コロナウイルスで私たちはいろいろのことを学んだのでないでしょうか。自分の心の姿を見る機会になりました。当り前は当り前ではなく、多くの方々の支援や善意によって成り立っていること、日々の生活が多くの人の手によって支えられていること、マスクはほとんどが中国の方々の汗によって安価に手に入っていることなど全く知りませんでした。安い賃金で働いている方々に、尊敬と感謝と友情を覚えさせられました。「支え合うことは、無限の力」になるのですね。 

 昨日は、結婚記念日でした。コロナがこわいですが、花に癒されます。おすそわけしますね。

 深夜、救急車のサイレンで隣りの棟の方が搬送されました。お元気にお好きは畑にはたくさんのお花を上手に植えられていて、好きなもの同士が集まって、いろいろ手入れの情報交換をしたり、鉢植えを楽しんでおられた方ですから、元気になられると信じています。きっとお仲間が水やりをされることでしょう。

♪ 新型コロナウイルスのニュースで暗い気持ちになってしまいましたので、手元にある「つのぶえジャーナル」を読み返していたら、何か月分も夢中で読んでいました。今、読み返していろいろのことに気付き、多くの方のお祈りがあり、またお祈りくださいという言葉のあるのに驚きました。

♪ 新型コロナウイルスは長引きます。今は移動を制限して一時的に抑えられても、

GW開けにみんなが動き出したら、潜伏期間の人から広がるし、下水やあらゆるところからからまた第二波、第三波が散発的に発生するでしょう。そのうちインフルエンザみたいに毎年の流行になって落ち着くんですかね。

♪ 私の食べ物、着る物、手にするスマホ等々、何もかも日本以外からの輸入品で成り立っていることに驚きました。「自給自足」という言葉がありましたが、今は他国依存の日本なのですね。このままでは日本は成り立たないのではないかと思えます。「外国依存・寄生虫日本」から覚醒しなければ…と思いました。

 

=この文章は、全て投稿者から掲載許可をいただいております= 編集子

  

  『ありがとうございます』

 「春の小川」・・元の歌詞

 

春の小川は さらさら流る。 岸のすみれや れんげの花に、

匂いめでたく 色うつくしく 咲けよ咲けよと ささやく如く。

春の小川は さらさら流る。 蝦(えび)めだかや 小鮒の群に、

 今日も一日 ひなた出(い)でて 遊べ遊べと ささやく如く。

春の小川は さらさら流る。 歌の上手よ いとしき子ども、

 声をそろえて 小川の歌を 歌え歌えと ささやく如く。 

 

 新型コロナウイルスのニュースの日々、ふとこの歌が浮かんできました。

 

 2020年3月16日から4月15日までのイースタの感謝献金、健康に感謝していただきました。

飯山三郎様 佐藤のり様 三浦あやめ様 馬場暁美様 加納さおり様 近藤ひろ子様    匿名3名様

 

*寄付金口座…郵振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社 

また、お便り下さる方やお友達への紹介はこのメール アドレスをご利用ください。多くの「ジャーナル友さん」が与えられるように願っています。

    osamura@kind.ocn.ne.jp 

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(米国南長老教会文書伝道事業)刊行責任者

   つのぶえ社代表   長村秀勝

 

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書籍紹介
    8858e3b6.jpg
エネルギー技術の
 社会意思決定

日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
 定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本

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教会における女性のリーダーシップ
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント 
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
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「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
定価 2000円 

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「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
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「十戒と主の祈り」
鈴木英昭著
 「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
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われらの教会と伝道
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本

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さんびか物語
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円

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