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『ほっとひととき「みんなのコーナー」』
※ 「ジャーナル友」の皆さんは如何お過ごしですか。テレビに映る人の数とは縁遠い私たちの町には「3密」はありませんが、ご近所の方のお話では県外ナンバーの車が目立ち始め、「コロナ疎開」を感じますね、とのこと。近くのスーパーの駐車場でそれを見かけます。礼拝も見慣れない人が多くなり、小さな教会堂ですから手狭になり4月19日から当分の間、教会員は在宅礼拝になりました。皆さんの教会ではどのようになさっていますか。 長野県 O・Kさん
※ 東北の地にも待ちに待っていた春の訪れ…。庭の沈丁花が遠慮しがちに花をつけ始めました。蕗の薹があっという間にあちこちで咲き始めました。東北の春は何もかもが一度に春風と共にやってきます。人の行き来、船の行き来も忙しく活気が、復興に向かう日常の活動に戻りつつあります。東北訛りが何とも言えない東北魂を感じるのが不思議です。心の復興はまだまだですが・・・。 宮城県 Y・Yさん
※ 娘は看護師として働いて11年目になります。子供の時からの憧れに職業に就いて働いている娘から、仕事はコロナの患者さん対応できついが、ご本人の姿やご家族の不安なお気持ちを思って頑張っていますが、わざわざ病院の前で、大声で嫌がらせを浴びせられることが多くなり悲しくなります。勿論、頑張ってくださってありがとうとか、たくさんの感謝の言葉は頂いておりますが、疲れて帰るときの差別や、特別勤務手当がもらえる身分だからいいね~とか、謂れのない言葉で、少しこの職場から離れたいと、初めて弱音をメールしてきました。医療に関わっている人、みんな頑張っています。親として何もできません。この「つのぶえジャーナル」をお借りして、どうぞ、お願いします。お祈りください。 広島県 Y・Yさん
※ 毎日のニュースを見聞きしたり、「つのぶえジャーナル」を読んでいてやっとわかったことですが、これは対応可能な、通常の季節性のインフルエンではないということです。ですから、3密、ステイホーム疲れで云々ではなく、ある程度の終息までは年単位で日々を考えなければならないことと言うことです。それならば、落ち着いた日々の成果を求めて、具体的に考えてみましょう。惰性的な生活からのステップアップのチャンスと私は今、自分の生活を見直している83歳です。 群馬県 S・Kさん
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♪ 母は81歳ですが、昨年、長い間お世話になっている内科の先生に母のことを相
談しましたら、市のケアーセンターを紹介され、孫のような若いマネージャーさんが来てくださいました。お若い方だったので最初は心配でしたが、親切に相談に乗ってくださり、今は頼もしいお嬢さんケアマネさんです。外に出るのが苦手、人と話しするのが苦手なタイプの母でしたが、今では身支度してお迎えの車を待っています。もう2年目になりました。私も安心してパートの仕事に出かけています。
♪ 近くの広い公園では、「俄か」が多く、滑稽です。真新しい色鮮やかなジョギングスタイルで、少し走ってはのお休みさん、今にも筋肉を痛めそうに走っている人、ぎこちない父と子供のお遊び・・・。今までの生活スタイル改革のチャンスを・・・と捉えるなら、これからきっと落ち着くのではないでしょうか、と希望をもって、何時もの早朝の公園散歩を楽しんでいます。くれぐれもお怪我の無いようにと願っています。
♪ コロナで、私たちみんなで生活スタイルを見直してみました。いくつか気付いたことがありました。子供たちは塾優先です。主人は帰宅時間は夜の10時、私は仕事でお休みの日は家事に追われ休む暇もない生活。冷蔵庫はレトルト食品ばかり。食事の時間はバラバラ。そこでみんなで一大決心。週に一回は皆でテーブルを囲んで食事すること。いただきます!ありがとう!を家族の誰かに言うことにしました。ゲームもしてもいい。夜10時になってもいい。レトルトでもいい。でも、皆でテーブルを囲んで食事をする、ありがとうを言う、で、不思議ですが、後片付けの手伝いに主人も子供たちも参加するようになりました。もう2カ月も続いているのですよ。
♪ 田舎は良いですね。青空、新緑、道端の花、3密とは無縁です。日課にしている自転車でいつも誰もいない川岸で魚釣り。釣れなくても楽しいです。2時間ほど糸を垂れ、何も考えない時間は至福の時です。家内も子供たちも健康であることは一番幸せです。時々、鳥が餌を採りにきます。失敗はなく、良かったね!と飛び立つ姿を見ています。
♪ 私は86歳です。貧しい家でしたが高校にも何とか行けました。布のグローブと手作りで中に石を入れて縫い合わせたボール、太い木の枝を削って作ったバットで、三角ベースを楽しんだ世代です。高校に進み憧れの野球部に入りました。草と石のグランドを夢中になってボールを追い、顔に当てて怪我をしながら、憧れの夢の甲子園を目指して走り回りました。夏の予選が始まりました。一回戦で大差で負けました。でも私の甲子園球場は、今もあの石ころだらけのグランドです。青春は今もこれからも続くのです。若者にはそれぞれの甲子園があるのです。
♪ 1枚目は佐保川の花筏、2枚目は東大寺二月堂から眺めた市内と生駒山になります。ご覧ください。
♪ 爽やかな5月になりました。私の地域では田植えの準備が何時もの様に始まりました。収穫を楽しみにお仕事に精を出しています。ビニールハウスには夏野菜が青々と伸びています。非常事態の宣言が延長との報道がありました。でも、コロナ対策は確実に前進し、有効な薬も先が見えてきました。答えが先に行ったのではなく、確実に解決策に日一日と近づいているように思えてなりません。ぼんやりとしてきた光が、明るい光が目の前に見えているのではないでしょうか。「信じて待つ」ところに希望ありですから・・・。
♪ 今日は5月5日。こどもの日ですね。コロナで、年々減ってしまい、「鯉のぼり」を飾っている家は、ありません。ふとそんな思いになり折り紙で「こどもの日」のお祝いに「鯉のぼりの折り紙」を作りましたので写真を送りますね。昨日は、母の日でした。 折り紙で、カーネーションを折り、孫と、手作りのカードを作り、娘にプレゼントしました。お婿さんのバースデーカードも作りました。わたしは、「幸福の木」をいただきました。玄関に置いてあります。
♪ 創世記1章26節から31節で、人は神にかたどって創造された。地を従わせ、すべてを支配すると言われました。神はお造りになったすべてのものを御覧になって、それは、極めて良かったと記されています。人は神にかたどって創造され、智恵も与えられ、神さまの創造されたすべてのものを治める義務を与えられたのです。極めて良かったものすべてをです。それを怠たると神からの警告として異物が与えられるのでは・・・。
人の細胞は防護機能を持っているので、病気のもととなる異物は細胞がなんとかやっつけてくれる場合が多いです。ただ、人が弱っていたり、病気のもと(ウイルス)が非常に強いと、人は病気になってしまう。人の細胞の機能が衰えてきているのか、ウイルスが非常に悪性に変化したのか。いままで当たり前にしていたことができなくなると、当たり前と思っていたことの中に感謝すべきことがたくさんあったことに気づけたのが、非常に感謝。さらに、外出を控えてみたら、家が片付く、食事がしっかり作れる、日曜日の礼拝が以前に増して待ち遠しい。いままでの外出、本当に必要であったかと疑問になる。
疫病は、時々発生しては困るけれど、時々、当たり前を見直す必要があることを気づかせてもらった。とにかく、自分は今できることをする。困難に立ち向かっている方々に支えがあることを祈ります。
この文章は、全て投稿者から掲載許可をいただいております。 編集子
「今月のことば」
イエスは彼らに言われた、「子たちよ、何か食べるものがあるか」。彼らは、「ありません」と答えた。・・・イエスは彼らに言われた、さあ、朝の食事をしなさい」。
=ヨハネ12:5,12=
聖書の記事や出来事には、神の主権と限りない愛が記され、希望へと導く出来事に満ち満ちた記録の書、喜びの書と言えます。その一つ一つから、どれほどイエスはご自分を救い主と信じた者たちを愛してくださったかがわかります。
イエスは墓のそばでマリヤに会い、涙をぬぐっておやりになります。主を知らないと断言したペテロに、特別な言葉をおかけになっています。神の言葉を忘れた弟子たちと共に、長い道を何度も何度も一緒に歩いて聖書を解き明かしてくださいます。
また悲しみと恐れにこころを閉ざした弟子たちの真ん中に立たれ「安かれ」と言われます。夜が明けたころ、海辺に行かれ、薪を集め、火を燃やして、その友のために食事を用意なさいます。
よみがえり、栄光を受けられた救い主が、そのようなことをなさるのを見るのは、驚くべきことではないでしょうか。これらをイエスの愛として嬉しく、また有り難く感じないで、見過ごすことができるでしょうか。
今は物にあふれ、何の不自由もなく、今を生きている人々もおります。同時に、病と飢えと不安の中にある人々の方が圧倒的に多いのも現実です。霊的な闇や悩みに迷い込むことが、如何に悲惨であるかを知っている人に、私たちキリスト者は何を語り、何をわかり合うかを、今一度、振り返ってみることは決して無駄なことではないでしょう。もし、そのような心が失せ、信仰が小さくなっているとしたら、それはコロナウイルスの禍のように世界は暗い闇になってしまいます。
日常の常識や良心は崩れ去り、大切なものを見失い、与えられていた光と幸いを自らこの世的な損得や幸いを得るために捨て去ってしまったのであるならば、もう一度「あなたの隣人を愛し、支え合いましょう」。
問うてみましょう。今、失いかけているもの、それは、主イエス・キリストと共に、信仰と平和を失い、主イエスの示された救いの道がふさがれていないかどうかを・・・。もし、そのことに気付きたいと思うなら、今一度、主イエスがお語りになり、そして歩人になさったことを、み言葉から、イエスの歩まれたその歩みを、語られた言葉を学び返し、感動し、涙する心と信仰を願い求めるなら、必ずよきもので満たして、力なき者に力を与えくださいます。
小さな善意、心優しい我慢、ほしいと思うマスクやトイレットペーパーの二つを一つにして、他の人にお譲りする心の優しさは「共に喜び、支え合う心と生活」の「共生人」なる人間でありたいと思います。
主イエスよ、われは貧し、
旅人にして、巡礼者なり。
この世の富の欠ける身は、 主こそ、わがたすけなり。
イエスよ、われをあいして
わが道に、われを励まし
ためらうわが歩みを導き、わが力、わがよりどころとなり給え。
「小閑記」
夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。しかし弟子たちはそれがイエスだとは知らなかった。・・・イエスの愛しておられた弟子が、ペテロに「あれは主だ」と言った。
=ヨハネ21:4,7=
この情景は実に不思議です(21章全体をお読みください)。イエスが来られた夜に、数人の弟子たちが漁船に乗り組んでおりましたが、ペテロのみが主と認めました。このことはどういうことかを考えてみましょう。
「多忙と期待外れ」は、時に大切なことから遠ざけさせます。イエスだとわからなかったペテロとその他の者たちは、彼らが出会ってきた失敗でその心がいっぱいであったこと、彼らの魂はすっかり、悲しみと不平と疑いのとりこになり、イエスのお姿はその霞の中に隠れてしまっていたこと、彼らは失望で取り乱して、他のことなど、見ることも聞くこともできなかったことなどが考えらます。
しかし、ペテロはイエスを忘れることはありませんでした。内的な眼で主を明らかに見たのです。ペテロは愛していたお方を忘れることができませんでした。それで、み声を聞いて、主が岸に立っていられるのを見た時、彼の思いと心の中に生きている方である主を認めたのでした。
もしも、それまでの心がこの世的なことばかりで満ち溢れ、イエス以外のものでいっぱいになっている人々は、主が来られて助けようとなさっても、容易に主のみ声を聴き、また主(救い主)と認めることができないのではないでしょうか。
神様とは異質のもので私たちの心が満たされていると、主を見ても、主と認める私たちの能力は、弱められるのです。
しかし、それぞれの方が歩まれる人生の戦いにおいても、その心と思いを、イエス・キリストの中に保つことのできる人は、主のみ声を聞き、悲しみや困難にあっても忙しい世にあっても、主を認めることはできるのです。私たちの当り前の、日常の生活の中でも、救い主のみ声を聞き、お目にかかることを願い続ける歩みでありたいものです。
世田谷通信(199)
猫草
萌芽更新という言葉がある。ほうがこうしん、と読む。「ぼうがこうしん」でもいいが、濁ると語感が悪いので、前者にする。何かというと、まだ若い元気な木を伐って、再生させること。こう書くと、どうして元気な木を伐るんだ、かわいそうじゃないか!と急に怒る人がいるのでびっくりする。木は適当な時期に伐った方が良いのだ。木のため、森のため、他の植物やその周辺の生きもの全部のためにも。もちろん、山ごと全部伐って荒れ地にするのではない。その逆で、はげ山にしてしまった反省を踏まえて、ちゃんと木の状態をみて、適切な時期に、1本ずつ慎重に伐る。
確かに、木が切り株だけになると空間がすっぽり空いて、寒々しく見える。樹液があふれるのを、泣いているみたいと擬人化する気持ちも分からなくはない。でも若い木の生命力はすごい。樹液が出るのは元気な証拠、半年もすれば脇からどんどん細い枝が育つ。切り株だったのがあっという間に若枝に覆われる。その細い枝も剪定する。メインの幹とサブを残すのだ。それが適度な大きさに育てば10年から15年周期で伐ると良いと言われている。
伐った枝や幹も無駄にはしない。太い部分はベンチに、中ぐらいの幹は椎茸のホダ木に、細いのは薪にする。もっと細い小枝や葉っぱは一カ所に集めて積み重ねておくとインセクトホテル、虫の宿になる。そこは新たな生きものの隠れ家や住み処になるのだ。
伐った後は地面に光が入る。埋まっていた種子が発芽し、新しい草花が育ち、花や樹液には虫が集まる。その虫を狙う小動物が来る。多様な生きものが増えて、複雑な循環が始まる。朽ち木は様々な菌や虫たちがせっせと分解し、やがて土に還り、土壌を豊かにする。多様な微生物によってふかふかになった土からは思いがけない新しい芽が出る。その絶え間ない繰り返しこそが生物多様性だと思う。
新型ウィルスというが、既知のウィルスはほんのわずかなこと。菌、微生物、ウィルスに関しては、わかっていないことの方が圧倒的に多い。何がきっかけでよくなるか悪くなるか専門家にも予測できないならば、できるだけ多様な可能性を残そう、色々な条件の環境を守ろう。目に見えない小さな生き物が生息できる住処を増やそう。
もちろん不潔で不衛生は論外だが、一方で消毒された環境は脆弱でもある。良いものも悪いものも日和見もすべてなくしたらバランスがとれない。画一的で過剰な反応がいつまで続くのか、次世代の解決策や特効薬が見つかるかもしれない可能性までも知らず知らずのうちに握りつぶしてはいないか。
『美しい朝に』・・65・・
「祈りつつ待てよ」
御神に愛されている者よ 試練の嵐が過ぎ去るのを
御心が行われるのを 祈りつつ待てよ 祈りつつ待てよ
御神に生かされている者よ くしき御旨示されるのを
進む道を開かれるのを 祈りつつ待てよ 祈りつつ待てよ
御神に守られている者よ 天使がラッパ吹き鳴らすのを
栄光の主が来られるのを 祈りつつ待てよ 祈りつつ待てよ
=水野源三 第三詩集=
沙耶香のつぶやき-6
♡ 思うように体調が良くならない。花粉症にもなり始めた。高校に行けるだろうかと不安になる。この体調の悪さははんぱない!焦ってしまうのは良くないとはわかっているが、どうしょうもない。母は神様がお守りくださる、と言うが、母も体調を崩している。
♡ 毎日、新型コロナウイルスのニュースばかり。花粉情報も大嫌いだ。元気になりたい・・・。外に出るのが怖い・・・。
♡ 少しですが食べること、食べたいと思い始めている。久し振りなのでうれしい…。頭の方は今もまだ痛い。
♡ 今日はお隣の梅の木に鶯が美味しそうに蜜を吸っているのが見えて、春を運んでくれた。何だかうれしい気分になれた。鶯さんありがとう!
♡ 精神科の先生は今の体力では無理だから元気になり、コロナウイルスも落ち着いてから高校に行けばいいよと言ってくれたので、学校の方に連絡したら、入学は出来るから、元気になったら登校することにしても良いとのことで、母とも相談してそのようにした。
『その愛のゆえに』
=時々の記=
(168)
2月13日
温かい春の風です。どうもスギ花粉が春風に乗って飛び出しているようです。アレルギーを持っていますが、今年ほど花粉に対して激しく反応したことはありませんでした。ぜんそくのような激しい咳が続きます。しばらくすると鼻水が絶え間なく出てきます。困ったものですが、アレルギーと上手に付き合っていくしかありません。
笠間川良き淵ありて冬日影
奉仕へと使わし球へ年新た。
春暁や感謝と願ひ祈りける。
一山の枝を打たれて山笑ふ。
実や池に鯉の潜みぬ薄氷。 馬塲路哉
これからは散歩に出かけますがマスクをしっかりして、行くつもりです。
2月15日
庭の梅がつぎつぎと花を咲かせています。一度風邪をひくとこんなにも長引くのかと思うほどで、散歩は続けていますが足の動きは重いのです。散歩道から見える桜の木を眺めています。日脚も伸びてきて春近しという感がいたします。
古寺の快慶の作春きざす。
強東風や一夜さかけて風の音。
朔風に電線なりぬ尾根の道。
日脚伸ぶくもの陰間の入日かな。
聖書会礎となり卒業す。 馬塲路哉
お互いに人混みは避けて必要最低限にしたいものですね。気候の急変も高齢者には大変なところがあります。各地におられる「ジャーナル友さん」のこと、お祈りしています。
2月19日
梅の花が咲き誇っています。ホーホケキョと鶯が梅の花の周りをきれいな声を響かせているのです。梅に鶯とはよく言ったものですね。鶯は梅の花の香りを察知してどこからか、やってきているのです。
水仙の崖の上なる老いの家。
たかむらの雅やかなり今朝の東風。
春立ちて連れ立ちいきぬ明烏。
田園を見晴らす丘や枇杷の花。
学びやへ急ぐ自転車霜の朝。
鈴鹿峰に待望の雪輝きぬ。
狭き門入れと聴きて入学す。
せせらぎは金気水なり春めきぬ。
青鷺の谷渡りをる竹の秋。 馬塲路哉
あまりによいお天気に誘われて主人はリハビリと言って、山添村を散策しているようです。歩くだけですが、血圧も安定してきました。
3月1日
昨日の疲れからか、一日休んでいました。いよいよ3月です。今年は卒業式、入学式が取りやめになっていつもとは違った3月になっています。このような経験は長い間の教師生活の中でも一度もしたことがありません。それほどまでにこの新型コロナウイルスの感染拡大は緊急事態なのですぬ。一日も早く終息宣言を願い、祈っています。
梅が枝の下を歩けば匂日けり。
きびきびと動く看護師春の暁。
朔風や山のくぼ地で休みける。
山峡や畑のみ残り祈念祭。
寒肥を畑黒々と翁撒く。
春の夜や白黒映画を懐かしむ。
甘き避け散歩を増やす遅日かな。
鳶の笛四温日和となりにけり。
早春や鳶旋回す山の峡。
鳥の巣を狙う望遠カメラとも。
万両に日の届きをり草をひく。
天遊の碑の園青き踏む。
野良猫の今日も歩きぬ梅の下。 馬塲路哉
今日は雨が降らずに一日が過ぎましたが、昨日は春の雨ではありましたが、こちらはとても激しく降り続きました。息子はレインコートを着ての配達でしたが制服がびしょ濡れになって帰ってきました。雨の日の配達はとても気を使うので疲れた様子でした。無事に仕事を終えることができて、待っている私たちもほっと致しました。
3月9日
一日激しい雨でした。主人が蕗みそを作ってくれました。春の香りが広がってとてもうれしい気持ちになりました。
かぎろひの一瞬つよし冴え返る。
木斛(もっこく)のつややかにして春日影。
湯豆腐微淡泊なるや南禅寺。
初点前一期一会の縁となる。
雪降るや釜の松籟(しょうらい。湯が煮えたぎる音のこと)響きける。 馬塲路哉
主人はリハビリということで村内を歩いています。
3月11日
今日は雨がやみましたが、風がとてもきつくて、あっという間に洗濯用の物干しざおごと倒れてしまいました。主人と力を合わせて倒れた物干しざおと石の土台とをもとに直そうとするのですが、二人とも風と重さに負けてよろよろするばかり。
少しずつ持ち上げて何とか元に戻りましたが、このようなきつい風にあおられたことは今までになかったことなのでびっくりです。雨の降り方と言い、風の吹き方と言い、激しすぎるのです。
名古屋はいかがでしたか。お祈りしています。
馬場暁美
「上野緑ヶ丘教会会員」
眸(ひとみ)・・109・・・
✬ 連休で時間が取れた分、怠け癖が出て体の節々が痛くなり、シップのお世話になっています。私のような中年以上の者には、適当に動いているのが健康維持にはよさそうです。家にいてもすることがなく、無駄な時間を過ごしてしまいました。会社人間?仕事人間?までではなくても、家での「過ごし方改革」?をしなければならないなあ~と痛感しました。妻は、元気が取り得と一番張り切っています。礼拝は一緒に行きました。 山口県 B・Sさん
✬ 連日の新型コロナウイルスの報道は、高齢者施設の職員として、インフルエンザの流行の対策と同時に受け止めなければなりませんので、神経質になるくらい気を付けています。職員は通勤ですから、万全の備えです。お見舞いのご家族の方にもご不便をお掛けしています。一日も早い終息を願って働いています。福祉や医療関係の人の精神的負担は重いです。このような思いもしない出来事でも、国の対策や予算が増えないのが現実、でも頑張ります。お祈りください。茨城県 K・Fさん
✬ 日当たりのよい土手に沢山草の芽や土筆が出し始めると、ここ山形も長い寒さから解放された気分になります。山々はまだ雪ですが、しばらくしたら山肌にいろいろの残り雪の形が出始めます。それを境に畑には人の姿が多くなります。あちこちからトラクターの音が聞こえ、大地は眠りから覚めます。長い冬の終わりが近づきつつあります。でも怠け者の私はまだまだ仮眠中ですが・・・。 山形県 S・Aさん
✬ 定年退職して再就職し派遣されたのが時給905円の大型スーパーの店内の清掃係です。何十年も机仕事でしたので、体力的には自信は持てなかったが、今はもう体力的にも慣れて週三回、3時間の仕事が楽しくなりました。良い運動にもなり、家内から明るくなったねと言われて、嬉しくて仕方がありません。食欲も出てきましたし、夜もよく眠れます。今まで野菜の値段など考えたことなどありませんでしたが、今は毎日見ていて、主婦の家計のやりくりの苦労が少しですがわかり始めました。食事の時、この野菜XX円だったよ、なんていう会話が出来るのが自分でも不思議な感じです。 神奈川県 K・Uさん
✬ 2月も今日で終わり、暖かい日差しと共に、希望の門出を迎える3月のはずなのに、各地に広がる新型インフルエンザやコロナウイルスの影響は、悪質なデマ、風評で暗い気持ちにさせます。母がお世話になっている施設でも面会禁止で洗濯物は受付で受け渡しです。母がどうしているか心配ですが、お任せするしかないですね。今まであまりマスクなど使わない生活ですが感染拡大しないように、他の人に心配をかけないように使っていますが、不慣れな主人は顎マスクです。今はただ祈るばかりです。静岡 県 B・Hさん
✬ 庭で掃除をしていると、遠くの道に親子連れがいて何やら仕事をしているのが見えました。気になったので道まで下りていきました。すると月ヶ瀬小学校の教え子が子供の手を引きながら、電気料金のお知らせを配っているのです。どうしたの?と尋ねると学校が休みなので仕方なく子供を連れながら仕事をしているのです、との返事。聴くと、お友達と遊んではいけません、とのことで、家の中でばかり過ごさせなければならずに親も、子供も、ストレスが溜まって仕方がないことです。
久しぶりにゆっくり子供と過ごせるので喜んでいるのかと思っていたら、なんだかとても大変な様子でした。早く終息してほしいですね。 三重県 B・Aさん
✬ 花粉症の娘なのですか手持ちのマスクとトイレットペーパーを届けてくれたので、お隣の方にお分け出来ました。祖母はよく「お互い様」と言っていましたが、これは「喜びを分け合うこと」なのですね。娘にそのことを伝えたら、それは良かったネと言ってくれました。 大分県 S・Kさん
<身近な出来事を「眸」に投稿してください> 編集子
十戒と主の祈り・・・10・・・
鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
=姦淫=
第七戒①・罪の性質
申命記22:22~27
「姦淫してはならない」という第七戒に入ります。どういう場合に姦淫と見なされるかと言いますと、一般にイスラエルでは結婚している女性、あるいは婚約している女性との性的関係だけが姦淫とされていました。それは男の重婚がなされていたからだと考えられます。
例えば、ユダは、死んだ長男エルの嫁のタマルに、二男にオナンを与えましたが、彼も死んでしまい、三男のシエラはまだ若いということで、与えませんでした。そこでタマルは、義父のユダが近くの町に来ることを聞いて、顔をおおい神殿娼婦のみなりをして、ユダと姦淫しました。その時、ユダは後に一頭の羊を与える約束をしましたが、その交換の品としてユダの印章と杖とを前もって求め、それをもったまま姿を消しました。やがてタマルが子を宿し三ケ月になるということがユダの耳に入りました。
ユダは彼女を焼き殺すように命じます。しかし、タマルが使いに証拠の品を送り届けさせると、ユダは自分が彼女に三男シエラを与えなかったので、タマルが正しいことを認めました。しかし、タマルはやもめであったため、ユダへの罰は考えられていません。
他人の女奴隷との性交は盗みとして、弁償が求められるだけ(レビ19:20~21)ですが、姦淫の場合の罰は、このように死刑でした。申命記22章23~27節には、その刑罰の原則が記されています。
男が婚約中の女と姦淫した現場を発見された場合は、二人とも石打の刑に処せられ、婚約中の女が助けを求めることができない場所で強姦された場合は、男だけが死刑になるとなっています。
旧約聖書で、偶像礼拝は比喩的にしばしば姦淫と呼ばれています(エレミヤ3:8~9、エゼキエル25:37など多数)。主なる神は、イスラエルが偶像礼拝者になることを御自分に対する姦淫と呼んで、特に嫌われました。そして決してお許しになりませんでした。
偶像礼拝はイスラエルの神が持っている神との関係を破壊し、かつ神の名誉を著しく傷つけることになるからです。カルメル山に集まったバアルの450人の預言者たちをエリヤが殺しても問題にならなかったのはそのためです。
こうしたことから言えることは、姦淫の罪は、盗みという第8戒の違反とは別のものであり、結婚や婚約した者たちだけにある関係と名誉とを破壊する罪(箴言6:34~35)、そして自分自身の結婚の関係を破壊する罪だということです。しかも配偶者への不誠実だけでなく、神との契約への不誠実でもあります。夫婦が互いに疑うということ自体がこの契約を軽んじていることから生じます。その原因は、クリスチャンも知らず知らずに世俗主義に影響されて、神との契約の民であることを忘れるですから、注意しなければなりません。
第七戒②・戒めの範囲
レビ記18:6~20
第七戒を考えるためには、人間の創造と結婚の制度を視野に入れなければなりませんが、それは次回から学ぶことにします。また、主イエスが山上の説教(マタイ5:17、28)で教えておられますように、罪は姦淫の行為だけでなく、その精神面にまで及ぶことが教えられていますが(ウエストミンスター小教理問71、72参照)、前回に続いて、まず、この第七戒が罪であるとしている人間関係の範囲について聖書から知っておく必要があります。
レビ記18章を読んでいただいて分かりますように、このような家庭関係についての一連の戒めがあります。それは血のつながりのある近親者だけでなく、その関係のない義理の関係であっても問題にされます。家族関係という秩序を破壊することになるからです。こうした禁止の命令があるということは、この時の近隣の異教の国々にこうしたことが存在していたことを意味すると共に、イスラエルの民がその影響を受ける可能性があったためであろうと考えられます。
22節には同性愛の禁止が記されています。この問題は、20世紀末から欧米の主流の改革派、長老派教会においても、教派を二分する原因となっている事柄ですから、別に改めて検討することにします。2003年6月に開催されたアメリカ合衆国長老教会(PCUSA)の第215回の総会では、投票はされませんでしたが(これまで数度総会で可決され、3分2以上の中会の承認が得られず否決)、同性愛者、両性愛者、性転換者の教職任職の提案が将来再び出されることになりました。
さて、姦淫は結婚関係に対する一つの罪ですが、結婚関係にない者との淫行、売春・買春についてはどうなのでしょうか。旧約聖書は、ユダと嫁のタマルのこと、サムソンとガザの遊女のこと(士師記16:1)、エリコの遊女ラハブのこと(ヨシュア記2章)、ソロモンの裁きを受けた二人の女のこと(列王上3:16~27)などから、イスラエルには明らかに遊女がいたわけです。このことから聖書は売春を一見、大目に見ているように見えますが、その女に夫があるか否かによって違い、夫がある場合、その夫に殺されることもあることを記しています(箴言7:19~27)。しかし、だからと言って、結婚していなければ問題がないとされたわけではありません。処女であることxが結婚の条件であったからです(申命記22:13~21)。
しかし、キリストによる贖いの恵みを与えられてからは、信仰者はキリストのものとされたことから、その体はキリストに買い取られた聖霊の宮です。そのため不道徳から離れなければなりません。エルサレム会議は、異邦人教会の信者たちには割礼を求めないことを決めましたが、偶像礼拝と共に、「みだらな行い」(使徒5:20.29)である不品行を避けることを命じました。キリストの教会である信仰者はキリストの花嫁だからです。
バラ・マカルピン 日本伝道百年史・・28・・
水垣 清著
(元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)
13 20世紀に・・2・・
1904年(明治37)、マカルピン師42歳のとき、津島に伝道したとき、後年、金城経学院院長になった市村與市氏を仏教徒からキリスト者に回心させた話がある。
「市村先生は金城教会の長老として永く忠実に奉仕された。先生は仏教主義の哲学館を出られ、仏教徒としての生活も青年時代になさったのであるが、愛知三中に在籍中の1904年(明治37)頃、名古屋地方に伝道中のR・E・マカルピン師に導かれのがキリスト教を求道するきっいかけであった。
先生は求道の初めの頃のことを、こう述懐しておられる。
『明治37年頃、マカルピン師は伝道師松本顕二氏と共に津島に伝道せられて、片山正吉氏の宅に於いて初めて同師に面会した。其時同師は〝人は皆罪人である″と云われたことがどうしても私の腑に落ちないのであるが、同師は寛容と愛とを以ておもむろに私を導いて今日に至らしめて下さたのであった…』。
其の後先生は熱心に求道されて、ついに1910年(明治43)の3月に、吉川逸之助牧師によって受洗された」(市村與市先生113頁)。
市村氏が金城学院に終生奉職されたのにも、こうしたマカルピン師との深い関係があってのことであろう。
この年の2月20日、日本はロシアと戦争状態に入って国内は緊張し、耐乏生活が続いた。マカルピン師の身辺にも、また人知れぬ悩みがあった。それは一粒種の長男クリスビー君が虚弱で、日本での風土に合わず、米国のノースカロライナ州のトリヨンの病院に入院加療中であった。しかし、よくじつ翌1905年(明治38)9月14日には、次男のジェームス・オーガスチン・マカルピン君が名古屋市白壁町の宣教師館で出生して、マカルピン夫妻を喜ばせた。しかし、難産で夫人は余病を併発して生死の危機に立たされたが、主の憐みによってふたたび恢復された。
「キリスト教百話」
問26 前回の話では「最後の審判」があることが望ましいように言われましたが、その辺のことが今一釈然としませんので、もう少し説明してください。
答・・10・・
ある仏式の法要が行われた後で、読経を司られた曹洞宗の僧侶が「人間は死んだら皆仏(ほとけ)になるのです」といわれたものですから、「では地獄に落ちるなどということはないのですか、「往生要集」には随分地獄のことが詳しく書いてありますが…」とお聞きしましたら「それは人間が悪いことをしないように勧めるための話でありまして死ねばみんな仏になるのです」という答えでした。
「往生要集」を書いた源信という人は浄土宗の人ですから、曹洞宗の人との地獄についての説明の仕方が違うかもしれませんが、「死んだ人はみんな仏になる」という死後理解については、大変興味深くお聞きしました。そして、テレビなどで、死体を前にして警察官が「仏さんの身元は確認されているか」など言い交しているのも、まんざら理由のないことではないなあと思ったことでした。そして、そうであれば、読経は以上のことの確認を告げていることとして有り難いことだろうと思いました。
それと、A級戦犯を靖国神社に祀ったことが問題にされている中で、ある人が「日本人は、戦犯であろうとなかろうと、人間は死んだらみんな神になるのだから、戦犯であったかどうかなどは全く問題にならない」と言っておられるのを聞いたことがあります。そして「死んだ人にまで恨みを抱き続ける外国人には、日本人のこういう心は分からないだろうなあ」と言われましたので「そうなれば生前何を行いどう生きたかなんてことは一切問題にならないということになるが、それでよいのかなあ」と思いました。「人の生涯は棺の蓋を覆うた後でわかる」と言われていることの真実性は承認しましたが、「死者に鞭打ってはならない」と戒められていることは、生前の人物評価はあってよいとするも、死後のことは死の彼方を支配される方にゆだねるべきであって、生きている人間が与り知ることができない死後世界のことにまで介入してはならないし、そういうことができるものではない、という宣言であろうと思います。
そうであれば、死後のことは、永遠の支配者であられる神に委ねればよろしいし、この点についてあれやこれや思い煩うことはなかろうと思います。が、死者はすべて仏になり神になるというのは、聖書が告げているのとは違うという思いを禁じ得ません。
聖書によって示される神は「全能の神」であられますから、この方に委ねることが、神を信じるということの具体的表明であろうと思います。わたくしたちの間では「冥福を祈る」とか「慰霊」とかいう言葉が、何の違和感もなくごく普通に語られています。西欧では「鎮魂曲」という音楽がありますが、これらのことをせざるを得ない心情には共感し同情はするものの、全能の神がおられないかのように振る舞うことは、神への不信という逸脱行為になるのではないかと思います。
死後の世界の展望は、聖書にはさまざまに述べられておりますが、それは神のご支配の豊かさを示すものとして受け止めたいものであります。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元中部日本放送「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
第94課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・51・・・
G キリストの非利己的な態度を見習うことが、すべてのキリスト者の義務である。
・・・15:1~13・・・1・・・
「どうか、忍耐と慰めとの神が、あなたがたに、キリスト・イエスにならって互いに同じ思いをいだかせ、…」(15:5)。・・1・・
「互いに同じ思いをいだかせ」という表現は、教会の会員の間に意見の相違があってはならないという意味ではない。それは、会員は調和した感情と態度とを相互に持っていなければならないと言っているのである。小事についての意見の相違はあっても、お互いに調和ある態度をとることは可能なのである。「キリスト・イエスにならって」、すなわち、「キリストを手本にして」、または「キリストの命令に従って」の意味である。強い者と弱い者とは、食物についての意見が違うであろう。
しかし、その違いにも関わらず相互の関係において、両者は調和と一致を求めなければならないのである。
しかし、この調和と一致の態度は、人間に意思や計画によって来るものでは決してなく、神の賜物なのである。すなわち、忍耐と慰めの源であり作者である神によりあたえられるものである。だから、パウロはローマの教会の人々が互いに同じ思いをいだくことを神が許されるようにと祈っているのである。
私たちが現代の諸教会における分裂や分派精神を是正しようとするとき、このことをよく銘記しておかねばならない。真の調和と一致とは、人間の計画や立案によって来るのではなく、神によって与えられるものなのである。
「こうして、心を一つにし、声を合わせて、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神をあがめさせて下さるように」(15:6)。
「キリスト者の間におけるこの調和と交わりとは、彼らが正しく神の栄光を現わすために必須なことである。神を正しく崇めるためには、人々の間に不必要な不和があってはならない」(ホッジ)。
J・G・ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
『ほっとひととき「みんなのコーナー」』
※ 家の近くの梅の畑に白い花が咲き、ほのかな香りとともに春の風がここ奥多摩にも来てくれました。珍しく雪が降り梅も遅くなるのかなあ~と思っていましたので、うれしくなりました。これからの季節には可憐なミツバツツジが春山登山を楽しむ人を出迎えます。我が家の小さな畑にはスイセンが咲いています。そろそろ土おこしを始めようと思っています。 東京都 K・Dさん
※ 毎年、春の暖かい季節までの心配事はインフルエンザでしたが、今は新型コロナウイルスです。持病は通院対応で済んでいますが、肺機能の病気と糖尿病を患っているので、一日も早い終息を願っています。今はニュースを見るのが怖いですが、つい気になり不安でも見てしまいます。検査要件に該当しては困りますので家に閉じ籠ってしまいそうです。お祈りください。 滋賀県 H・Tさん
※ 新型コロナウイルスの蔓延が一日も早く終息してほしいと心から願っていますが、同時に日本人の今までの生き方、考え方を見直さなければならないことを私は痛感しました。言葉は厳しいですが、テレビでの発言や新聞報道のやり方の影響でしょうか、何もかも政治や政策に問題化し、どうぞ皆さん、積極的に自粛しようではありませんか!委縮することではないですよ・・・、との発言が欲しいです。マスクの買い占めと転売、それを高くても買う無神経さが蔓延していることの方が、後々の日本人の心の在り方として残る課題ではないでしょうか。「災い転じて福となす」「おもてなし」は日本人の心のはずなのに・・・と思いメールしました。私の地域には、マスクの買い占めも、トイレットペーパーの買い占めも、紙おむつの品不足などは全くありません。それは無責任なテレビの煽り報道とSNSとかのデマに振り回されている自己中人間の愚かさです。 秋田県 A・Oさん
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♪ 家の中で仕事をしていると心身ともに疲れを感じますので、意識して、時間を作って冷たい風に当たるようにしています、今も午前中40分から60分くらい散歩してきました。気分転換になりました。ついつい仕事の流れに任せていましたが、年齢を考えるようにしました。この自覚は大切ですね。そのことに気付いてから、私も心身ともに高齢者であることを自覚・実感しています。そう思うようになってから、休むことは、物ぐさでも、怠けでもない、大切な休養であると思いました。変な罪悪感が消えたのが不思議です。
♪ こんばんは。ようやく、体調が良くなってきました。車いすで、1人で空を写して来ました。とても、きれいな空でした。車いすって、子供と目の高さが同じなんですよね。座って「子供の目線」で見れるなんていいですよね。マスク不足のニュースばかりで暗い気持ちになりますので作ってみましたので写真をお送りしますね。材料はキッチンペーパー、コーヒーフィルター、ガーゼです。
♪ 春になりますと一面たんぽぽの花が咲く公園の広場ですか、若いお母さんたちがお弁当持参で、子供たちも楽しそうに駆け回っていました。甲高い子供の笑い声は、小鳥の囀りのようで、暖かい風に乗って響き渡っています。私は久し振りの散歩・・・。枯れた芝生は絨毯、その下には暖かい日差しと共に芽を出す元気な根の命が満ち溢れているのが、私の体に伝わってきます。桜の枝には蕾がたくさんついていました。その横をゆっくりと散歩をしていました。
♪ 洗濯物を干している最中にパラパラと粉雪が舞い始めました。寒いです。また真冬の寒さに戻ったようです。急激に気候が変わると高齢者には厳しいものがあります。くしゃみや咳が激しく出ているのですが、これは花粉症の影響です。熱はありませんので普段通りの生活です。
♪ ここ毎年、鳥インフルエンザの季節ですが、遠慮してか、発生していませんね。新型コロナウイルスに恐れをなして逃げてしまったようですかね・・・。私たちのところにも早く有効な薬が与えられ、桜の季節を迎えたいと思いました。
♪ 公営の団地に住んでいます。普段はあまり隣近所のことなど気にも留めない生活でしたが、同じ階の方からの電灯や物音に気を付けるようになりました。高齢者ご夫婦やお一人で生活されている方の様子が気になるからです。これを機会にお互いに声を掛け合い、挨拶を交わし合うように心がけます。
♪ 私の住んでいるところは山に囲まれていて、花粉に悩まされるところですが、今はコロナウイルスのニュースで皆さん神経質になっておられます。診療所では診察はせずに手持ちのお薬をもらう人が多くなったと聞きました。何時もは、待合室は会話の場ですが、窓口で持病の薬だけをもらって帰るのです。
♪ 両親は街中に住んでいますので、コロナの感染を恐れて外には出ません。階下にはコンビニがありますので、そこでまとめ買いをすれば届けてくれますので、大助かりです。心配は、散歩好きな両親はよく二人で出かけていたのが出来なくなり、足腰が弱らないかということです。母からのメールでは近くにある公園には人の姿がないよ・・・、とありました。今のところ持病の薬もあり、マスクもトイレットペーパーもコンビニにあるので心配はありません。
*この文章は、全て投稿者から掲載許可をいただいております。 編集子
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」