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『ありがとうございます』
天気予報と同時に花粉の情報・予報が今は当たり前になりましたが、多くの人には欠かせない情報なのでしょう。季節の言葉には、「春一番」とか「早咲きの梅」とかが使われますが、「季語」に「花粉予報」になるとは思えませんが、「XXの花粉症対策」には…ということになるのではないかと思ったことがありました。季節の変わり目はいろいろと思い掛けないことが起こります。皆様のご健康が支えられますようにお祈りいたします。
私も、リハビリ・トレーニングセンターに、週一回ですが送迎の車で行き始めて3か月になります。毎回、お互いにお名前が覚えられないので、私はXXです。どうぞよろしくが挨拶になります。運動メニユーが終わるごとに、お互いに拍手と頑張りましたねの笑顔が満ち溢れています。83歳ですか…まだお若いですねと言われています。これもまた、楽しい交わりの場であり、時でもあります。また来週お会いいたしましょうの挨拶で、それぞれ、帰りの車に乗り込みます。
2020年1月16日から2月15日までの報告です。お孫さんや子供たちの卒業、入学などへの感謝として、春からの農作業を迎えることへの感謝、また「つのぶえジャーナル」の事業継続への寄付が送られてきました。感謝して報告させていただきます。
菊川正市様 島袋寛子様 佐藤のり様 西田まゆみ様 馬場暁美様 吉武 肇様 加納さおり様 匿名1名
*寄付金口座…郵振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社
また、お便り下さる方やお友達への紹介はこのメール アドレスをご利用ください。多くの「ジャーナル友さん」が与えられるように願っています。
*「つのぶえジャーナル」はこれをご利用ください。
http://tunobue.blog.shinobi.jp
(米国南長老教会文書伝道事業)刊行責任者
つのぶえ社代表 長村秀勝
「今月のことば」
イエスはこたえていわれた、「ああ、なんという不信仰な時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたといっしょにおられようか。
いつまで、あなたがたにがまんができようか。その子をわたしの所に連れてきなさい」。
=マタイ9:19=
信じる私たちにイエスが何度となく、私たちの不信仰について嘆かなければなかったとすれば、恥であり、不名誉であると感じます。もし、私たちが主イエスを信じることが厚ければ、私たちの証しを通して、多くの不幸な人々を主のみ前にお連れし、主はお助けになることが出来たでしょう。しかし、私たちの不信仰のゆえに、神が私たちに助けられること望まれた多くの人々は、助けられることなしに過ぎてしまわねばならないとは・・・。
それでも、私たちの上にくだる恥と懲らしめの只中に、一つの大きい慰めがあります。私たちにできないことを、主は、なし給うのです。そして主は、すべてを主のみ前に持って来なさいと、私たちをお招きになります。私たちは父親でしょか、母親でしょうか。どちらにしても、いろいろの仕事をし、不従順な、また無信仰な子供たちを持ち、それを考える親たちは、心配し、嘆き、そして祈るのです。また、このようになったことで、自分を責めることでしょう。
そうであるなら、来て、イエスのみ言葉を聞きましょう。「その子をわたしの所に連れてきなさい」との・・・。
救い主が、みもとへ、私たちの持て余す問題を持って来なさい、と言われる時には、素直に、謙虚に主のみ前に置きましょう。そうです。置くべきなのです。
主のみもとに持ってきた重荷を、また持って帰らないようにしなければなりません。多くの人々はそうしてしまいます。しかし、それをしてはなりません。重荷は主のもとに残しておかねばなりません。神は、私たちが祈ることを望まれますが、神の約束されたことを覚え、主の言われたことに、より頼むことを望まれるのです。そうすれば、私たちは重荷から逃れることができます。そして、主に、主こそ尊いお方であるあるという、私たちの信仰を見ていただくことができるのです。主が私たちにそのようにお求めであることを知ることは、何と幸いなことでしょう。
「あなたを呼んでおられるから」
キリストが昼も夜も あなたを呼んでおられるから
あなたの心を静かにして キリストのみ声を聞けよ
キリストが愛をこめて あなたを呼んでおられるから
あなたの心を空(むな)しくして キリストのみ愛を受けよ
キリストが細き声で あなたを呼んでおられるから
あなたの心の向きを変えて キリストのみもとへ行けよ
水野源三
「小閑記」
もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、
わたしたちはキリストにあずかる者となるのである。
=へブル3:14=
すべてのキリスト者は、自分の人生が罪深く汚れている時のこと知っております。私たちには取り返しはできません。なされたことは、なされたことで、それをどうすることもできません。もし、私たちがあらゆる努力をしたあげく、最後の望みも絶えた時、目に見えない手が、私たちの目を自分中心からそらせ、罪人を救われるかたの方へと向けさせてくださったとするなら、何と幸いなことでしょう。
美しい春の朝に、小鳥が歌うように、私たちは全く、自由な救いについて歌ったのです。この時、私たちに最初に確信が与えられ、それが一日の日課の、そして最後までしっかりと持ち続けようと奨める大切さを、このみ言葉は教えているのであります。しかし、私たち一人一人の人生は、このことは言いやすいけれども、為しがたいことをも教えてくれます。私たちが実際にある自己、また、罪深い偽りの自己から全く離れて、すべてのものをイエスのみの中に持つこと、これはキリスト教の高峰であって、神の恵みを他にしては、何人も手にすることのできないものであります。
私たちの悪の本質と人間的な理性は、絶えず私たちを汚れた罪深い自己・自分へ引き戻そうとし、知らず知らず、キリストよりも自らのキリスト教により頼む結果となりやすいのです。こうなれば、主を仰ぐべき時に自己を見て、結果としては、疑い、憂い、そうして平和を失うのです。私たちが喜ばしく、善良に、霊的になっている時は、すべて良しと感じます。しかし、心が冷淡で悪意を持つ時、神を疑い、信仰は萎えるのです。これは最初の信仰をしっかり持っている姿ではありません。これはキリストを信じるよりも、自分を信じることにあります。
主のみが、常に、私たちの救いを全うしてくださるのです。
わが手のわざは、主のおきての求めにかなうまじ。
わが熱心はためらわず、わが涙は、とこしえに流るるとも、
罪をあがなうことを得し。主よ、主にのみ救いあり。
世田谷通信(197)
猫草
英語を使わなくなって久しい。いや違う。一度もきちんと英語が話せたことはない。苦手で、克服したい気持ちもあり、でも向き合ってこなかった。授業として英語を学んでいたのは何年前だろう。もう単語も文法も思い出せない。
里山農園というのが近所にあり、集まったボランティアの方々と畑を耕したり雑草をとったりしていた。農園オープンから日が浅く、ほとんど初対面。ふと隣の方が半ズボンで、草むらにいるのが気になった。虫刺されや引っかき傷、鎌も使うので危ない。休憩の時、「長いズボンの方が良いですよ~」と声をかけた。よく見たら欧米の方だが、簡単な日本語は理解できるだろうと思っていた。すると「すみません、日本語はわかりません」と英語で言われたと思う。
じゃあ英語で、と思ってみたものの、頭が真っ白になるとはこのこと。脳内のどこにも英語がない。ええと、長ズボンはロングパンツか。虫刺され・・虫はバグ?いやインセクト・・?刺すって英語で何でしたっけ。幼稚園児並の語彙力だ。
そんなわけで英会話はあきらめたが、それでも少しコミュニケーションがとれたのが、サツマイモ料理の話題。あちらは茹でて潰してバターと砂糖と生クリームと混ぜてオーブンで焼いてパイにするという。それは絶対美味しいね、カロリーは相当高そうだが。日本ではどうするの?と聞かれて、煮る、揚げる、蒸す、焼く・・かなあ。そうだジャパニーズスイートポテトと言えば石焼き芋!中でも安納芋は甘くてほくほくで美味しいよ、と言いたかったが英単語がでなかった。でも「これね!」とスマホで石焼き芋の画像を見せたら分かって貰えた。英語力より主婦力。画像は言葉のカベを超える。まあそれでなんとかやっていける。できないことが多くなりすぎて、今更英語力のなさを気にしても仕方ない。図太くなるというのは、若い頃のような「あれもできない、これも足りない」焦燥感がなくなることなのかもしれない。
かつて子どもの頃に周囲の大人を見て「どうして粗野で無知で矛盾だらけなのに図々しく、あんなに偉そうなんだろう?」と思った。そんな存在にならないようにせめて無知の知を自覚して、謙虚でいよう。
『美しい朝に』・・63・・
「今宵も心静かに」
臥す窓にのぞくあの星を
創りたもうた父なる御神が 私をも創りたもうた
今宵も心静かに 父なる御神を喜ぶ
夜ごとにまばたくあの星を
動かしたもう父なる御神が 私をも導きたもう
今宵も心静かに 父なる御神を喜ぶ
あの星も小さき私も
慈しみの御手で包みたもう 父なる御神を愛する
今宵も心静かに 父なる御神を喜ぶ
=水野源三=
沙耶香のつぶやき-4
♡ 4月から高校?に行こうと思っている。単位制なので何だか気が楽だ。制服もないそうだ。でもやっぱ怖い。中学のときに生徒仲間からいじめられたわけではないが、とにかく先生次第だ。
♡ 何となく今年の目標なんか考えた。初めて・・・。そうだ、「日本の昔話」を読んだので、今度は「グリムとか、アンデルセン」の童話集を読んでみようかな何んて頭に浮かんだ。本を読みだすと不思議とすぐ寝てしまう。だから本が好き。
♡ 今までにスクールに行ったことがある。みんな個性的で自己主張が強くて、疲れて辞めたので高校のことを考えると不安だ。母は焦らなくていいんだよ、と言ってくれる。その言葉に甘えるところがある。定期的に診察を受けている病院の先生は、体力的には無理な面もあるかな・・・と言う。性格的に頑張るタイプなので、そこを心配してくれる。負けず嫌いなので、自分の気持ちが不安定になりだした。
『その愛のゆえに』
=時々の記=
(166)
12月16日
今朝はマイナス2度まで下がりました。外のバケツは氷が張っていました。まさに真冬の寒さがやってきました。毛糸の帽子に毛糸の手袋、マフラーは二枚巻き付けて朝の散歩に出かけました。
年賀状も書き終えて今朝主人に郵便局までもっていってもらいました。一年に一度のご挨拶ですが、年を重ねるにつれて重荷になってきました。主人は郵便局に勤めていたので、あまり愚痴を言わずにと気持ちを入れ替えています。昨日も一人でクリスマスソングを賛美していました。
つかの間の冬の入日に見とれける。
朔風を侮るなかれ尾根の道。
初冬の雨模様なり桟を拭く。
冬立つやかぎろひ強き路を掃く。
朔風の谷より来る匂ひかな。 馬場路哉
12月30日
やっと雨が上がりましたが、今度は冷え込んできました。明日から北日本は大荒れの予報です。雪が降る元日になるとか。
干し柿の色しっくりと変わりけり。
冬薔薇咲かせ媼の元気なる。
山峡は今黄落の最中なる。
落ち葉掃き朝の日課となりにけり。 馬場路哉
ことしも残すところあと一日です。全能の神様に導かれての一年であったことに心から感謝するものです。
1月3日
樫と杉勇̪姿をなせり冬入日。
押しなべて神のみ旨ぞクリスマス。
帰国せし宣教師よりクリスマス。
伊賀盆地時雨るると見え雲移る。
テンポ良き女性の第九大晦日。 馬場路哉
大晦日、BSで第九を聴きました。珍しく女性の指揮者でした。とても歯切れがよかったように感じられました。
1月6日
寒の入りですね。例年に比べると雪ではなく、雨が降り出しそうです。裏庭の八朔の木がたくさんの実をつけています。
朔風の奥伊賀山へ向かふなり。
もがり笛古き軒端の辺りより。
眠る山送電線は海辺へと。
布引の山一字なす初景色。
山の端を離れて明し冬の月。 馬場路哉
明日からは冷たい雨になりそうです。
1月9日
昨日の嵐も収まりました。今日は春を告げる小さな水仙が白い花を咲かせていました。例年よりもひと月は早いように感じられます。散歩道ではもう椿の花が赤、ピンクの花を咲かせています。こうして春を迎える準備があちこちでなされているのを肌で感じ取っています。
ぱらぱらとパラパラと日あたりながら木の実落つ。
山囲む忍者の町は霧の湖。
つかの間の冬の入日に見とれける。
日当たりながら木の実ら靴。
山囲む忍者の町は霧の湖。 馬場路哉
1月10日
今朝、庭の梅の枝を見ると、なんと、小さなつぼみがたくさん芽を出しています。なんだか、もうすぐ花を咲かせてくれそうな気配です。このまま、温かさが進めば、今年は2月に梅の花が見られるかもしれません。そう考えるだけでうきうきしてくるのです。温かいっていうのは本当に感謝なことです。今夜からはまた寒さがやって来るとのこと。体調管理が必要ですね。
生けられて光を放つ寒椿。
高減の風凛として寒の入り。
鳥の巣を見る望遠や山眠る。
草少し引くを日課の老いの春。 馬場路哉
空き家増え呟けるかの冬の雨。
馬場暁美
眸(ひとみ)・・107・・
✬ 年末年始は、ご家族の皆様方のご負担になることは知りながらも、それぞれの家で過ごしていただきましたが、みなさん、満ち足りたお顔で施設に帰ってこられ、本当にほっといたしました。ご本人より慣れない介助で、ご家族の方のお疲れは想像以上だったと思いました。入浴は帰宅時に風邪をひいたり、けがをしたりすることが今まで多く、我慢してもらいましたので、職員は多くなった入浴業務の数日と人数で、疲れましたが、皆さんの入浴時の、ご機嫌さんのお顔になっていたので、一安心でしたが、職員の中に腰痛の再発さんが出てきました。元気なお顔が最高のシップ薬ですよと、皆で慰め合っています。 佐賀県 T・Gさん
✬ 小6の娘は絵を描くことが好きで、勉強の塾は嫌がり絵画教室に行っていました。時々、絵の展覧会に行きたいというので連れて行くのですが、私はそれほど興味はなく、お付き合いです。植物の絵が好きで手提げかばんにはいつもスケッチ用のノートと鉛筆を入れるケースを持ち歩いています。色のセンスは抜群で洋服を買うときは、良きアドバイス?をしてくれます。体形のチェックは厳しく私のような何でも食べたがり屋さんには、貴重な存在です。4月から一貫校なので楽しみにしているようです。 神奈川県 B・Sさん
✬ 厳しい日本海の風の中に咲くスイセンのたくましさには、驚嘆そのものです。お花屋さんのスイセンも綺麗ですが、逞しさ、生きる力とでもいうのでしょうか、そういうものがあまり感じられません。北陸人の忍耐強さのシンポルのような花に後押しされて、毎日を過ごし、今少し先の春を待っています。各地におられる「ジャーナル友」の皆様のことを、お祈りしています。 福井県 R・Iさん
✬ お正月、昨年末から家族で釜山に行ってきました。反日とか言われていますが、日本人家族と分かっても嫌な気持ちにはなりませんでした。子供たちは、反日、嫌韓などとは無関係で、好物の韓国料理をたくさん食べて満足して、今は宿題の感想文を書いています。子供たちの素直な喜びがうれしく、メールしました。 山口県 S・Aさん
✬ 雪の中に寒椿が咲いています。今年は例年に比べ雪の少ないお正月でしたが、急に大雪になりましたが、今まで雪の中に少しだけ顔を出してくれる梅に、主人は木の周りに穴を掘り枯草をこんもりと巻いていました。それで元気になるのかわかりませんが、汗を流して頑張っていました。終わって満足げに窓越しに眺めている主人の優しさに私もうれしくなりました。ここ群馬の山の中は春はまだまだ先ですが、気持ちは一足先に春です。 群馬県 F・Uさん
<身近な出来事を「眸」に投稿してください> 編集子
十戒と主の祈り・・・9・・・3 鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
=殺人=
第六戒⑤・戦争
申命記20章、黙示録22:3~5
第六戒の「殺してはならない」ことに関連して、今回は戦争のことを聖書から考えます。為政者は神から剣の権威を与えられています(ローマ13:4)。それは、国の内部から生じる悪を抑えるためであり、外部からの侵入や攻撃を防ぎ、領土と国民を守ることのためにあります。
まず、非戦論とか完全平和主義というものは聖書から導き出すことは困難です。山上の説教は、個人の自己犠牲や愛の行動を教えていますが、国として戦争を放棄することを教えているわけではありません。むしろ、聖書は神の承認のもとに、あるいは神の命令として、戦争は行うものとされています。神は戦争の具体的な方法についてまで申命記20章で教えられています。
歴史的には「正義の戦争(just war)」という考え方があり、ドウマ教授は正義の戦争の条件として、次の6点を挙げています。すなわり戦争は、①合法的な政府によるもの、②合法的な理由で③合法的な目的で④利益と犠牲を考慮した上で⑤受けた攻撃に対応した手段で⑥民間人と兵士との違いを確認して、戦われるものであるということです。
しかし、神は戦争や流血を正常なものとみておられるわけではありません。そのため、戦場で多くの人の命を失い血を流したダビデは、神殿の建設にたずさわることが許されませんでした。
これが原則となることですが、問題は第二次世界大戦で、アメリカが原子爆弾を日本の広島と長崎に投下したことによって、戦争というものの考えが、その悲惨さのゆえに大きく変えられました。例えば、その大量殺戮と後遺症のゆえに、核廃絶を主張し、単独軍縮を行ったらどうなるのでしょうか。相手国はそれを良いことにして、核の脅威をもって攻撃を仕掛け、支配の手を伸ばすことを誘発するようなことになります。
また、核兵器が持つ抑止力については、核攻撃をすれば、相手から核攻撃を受けることになって、共倒れを恐れ、この半世紀以上、核兵器は使用されることがなかったと言えます。しかし、こうした力のバランスだけで平和を維持することはできず、道徳的、政治的な制度が必要です。というのは、かりに政府が緊急に核兵器を使用したとしても、相手国が使用しないという前提がなければ、意味がありません。また、何時でも使用できる可能性がなければ、相手国の餌食になるだけで、抑止力はありません。
このように、核戦争の影響力は「正義の戦争」の概念では扱い切れないことになります。今では簡単に原爆は作られるため、核兵器を除くことができませんし、それなしには生きられなくなりました。しかし、それを使うことができないのです。そうなると、残された道は、国連のような場で、悲劇を避けるために話し合うことしかありません。それと同時に、このための最終的な解決はキリストの再臨によって、こうした危機的な状態を変えていただくしか道はありません。
第六戒⑥・死刑
使徒25:11、ローマ12:19、13:4
隣人を殺してはならないという戒めに関係して、死刑について考えてみましょう。世俗化した国、例えば、ドイツ、スイス、オランダ、デンマーク、ノルウェー、北米の幾つかの州など死刑が廃止された国もあります。聖書にみられる死刑の基本的な根拠は、人間の生命の尊厳から来ていて、「人間同士の血については、人間から人間の命を賠償として要求する」(創世記9:5)ということです。「神にかたどって造られた」人間だからです。
死刑は、この神の律法を破った殺人者が、刑罰として受けることと、殺人の罪がその犯人や関係者によって更に犯されることを防ぐためという二つの目的があります。旧約聖書には、死刑執行のケースが、偶像礼拝、安息日を聖別しないこと、良心に反抗すること、姦淫、同性愛行為なども理由となり、その多さに驚かされます。
日本では仇討というものが美談とされ、なかでも忠臣蔵は有名です。殺された者の家族や関係者が、仕返しをするということですが、それはエスカレートする危険性があります。そうなることを防ぎ、殺意がなかった場合のために、6つの「逃れの町」という制度がありました。
今ではこうした個人的な仕返しは禁じられるようになり、為政者が刑罰として行なう死刑へと移行してきました。その聖書的根拠の一つは「権威者はいたずらに剣を帯びているのではない」(ローマ13:4)ということです。そして、パウロ自身、死刑に当たるようなことをしているのであれば、死を免れようとは思わない、と述べて、死刑の正当性を認めています(使徒25:11)。宗教改革の時代に、個人でもなく、為政者でもなく、ローマ教会が教会裁判によって、プロテスタントを処刑したことがヨーロッパには非常に多くあったことがよく知られています。
人権運動家たちは、アメリカでの死刑廃止や中絶禁止の運動に熱心ですが、アメリカでの暴力による死の人口比はなんとヨーロッパの20倍だそうです(M・ホートン『全き自由の律法』155頁)。
また、神学者のカール・バルトは、キリストのゆえに、神はすべての人と和解したのであるから、死刑はすべきではない、という考えです。しかし、ドウマ教授は、神が人の業に応じて報いられる(マタイ16:27など)のであり、人は個人的に復讐してはならないが、神が報復する(ローマ12:19など)ので、バルトの主張は誤っていると述べています(「十戒」237頁)。
これらのことから、神は死刑という制度を今も認めておられると考えられます。ただ注意しなければならないことは、旧約聖書の時代のイスラエルが、現在のイスラエルと違って、神の民として、社会的にも宗教的にも特別に清い状態を求められていたために、多くの死刑がある厳しい刑の適用が必要であったと考えられます。
バラ・マカルピン 日本伝道百年史・・26・・
水垣 清著
(元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)
12 バラの足跡・・3・・
マカルピン師の名古屋伝道の実は、現日本基督教団金城教会で、その前身の相生町講義所は明治26年1月11日の設立である。日本基督教団の総理であった富田 満氏も1899年(明治32)7月2日、マカルピン師からこの講義所で受洗した。
1900年(明治33)になって条約が改正となり、外国人の日本国内の旅行も自由になった。それまでは、健康上の理由で保養のための名目でいちいち当局から許可を得なければ旅行ができないという面倒なものであった。
マカルピン師も5月には瀬戸永泉教会で洗礼式、10月7日には名古屋旭座でキリスト教大演説会(聴衆4500名)、11月25日(日)には、瀬戸永泉教会献堂式があって、バラ先生も横浜から来られて11月28日、3名の洗礼式が執行された。
この教会の敷地は700坪(191円6銭)で、バラ先生は横浜から来る人力車賃を節約して土地建物のために多額の献金をされ、土地は田圃であったので、埋め立てのため瀬戸川から老体もいとわず砂を運んで勤労奉仕をされたということである。
1901年(明治34)10月11日、日本基督教会第5回大会は、バラ先生の来日40年に対し、感謝の決議をし、その功労を表彰した。
「米国リフォームド教会派遣宣教師ゼームス・エッチ・バラ氏は、日本に渡来してより来る11月(明治34)を以て満40年に達せんとす。同氏は本邦最初の外国宣教師の一人たるのみならず我日本基督教会創立者の一人にて常に克己献身して主に忠誠を致されしは皆人の知る所なり。大会は此年月間同氏が終始一日の如く教会及び伝道のために尽瘁(じんすい)せられたるを多とし、尚今後長く健康にして使命を全ふさられんことを祈る依って特に決議して之を記録に留む」。
と、大会は満場総起立して敬意を表した。これに対してバラ先生は、申命記8章21節、イザヤ書第60章20節、アモス書第1章5節の聖句を引用して声涙共にくだる答辞をのべられた。
「キリスト教百話」
問26 前回の話では「最後の審判」があることが望ましいように言われましたが、その辺のことが今一釈然としませんので、もう少し説明してください。
答・・8・・
ある牧師の集まりで「自殺した人はどうなるのか」と言う問題を巡って意見交換をしたことがあります。それはモーセの十戒において、神は「汝、殺すなかれ」と命じられているから、他人であろうと自分であろうと殺すものは神の御心に適わないことをしたのだから、当然、神の祝福の中には入れられない、と考えるからです。
最近はそうでもありませんが、ローマ・カトリック教会では、自殺は、「殺すなかれ」という神様の戒めに背いたことになるから神に対する罪を犯したこととして赦されず、従って自殺者の葬儀は教会では行わない、ということになってしいました。その観点から言えば妊娠中絶も胎児を殺すこととして赦されないことでした。ただし、こういうことは他者があずかり知ることができない分野のことでもありまして、そう単純明快に答えが出せるものではなく、したがって、不問とされてきた傾向が強かったと思います。しかし、そうは言うものも、何とかある答を見出したいという思いが冒頭のような問題提起となったのでした。
これについて、ある牧師は「神様の愛のみ手に委ねればよい」と言いました。すると別の牧師が「神の愛のみ手に委ねる」という時には、若干人間が自分たちに都合がよいように神様を想定してしまっているきらいがある。そういうことから言って「神の全能の御手に委ねる」という方が良いのではないか、と言いました。
この発言で大方の人は納得しました。それは、神の全能においてなされることが一番良いことだと信じられるからです。そいういうわけで、わたくしは、葬儀の司式をする時には「神様、この人のすべてをあなたの全能の御手に委ねます」とは言うものの、以上のような説明だけでは納得出来ないと言うのか、落ち着けない点がありまして、様々な質問が出されます。
例えば「そうはおっしゃいますが、亡くなった人は本当に安らかでしょうか」という質問です。こういう質問を出される人は、恐らく亡くなった人の生前の生き方を見ていて「あのままですんなりと死後の安らぎを得られるとは思えない」と考えられたことと思います。また生前やり残したことが一杯あって、無念のまま死んだ人も安らかでおられるのか、とか、特に心ならずも戦場に送られて無残の死を遂げた人も、死んだ後は安らかな境地になっているのか、などの疑問があるわけです。
それは、どこかで帳尻が合わないことには、落ち着けないからです。この点について人生の達観者の一人は「善人がその善のゆえに滅びることもあり、悪人がその悪のゆえにながらえることもある」と言っています。(コヘレト7:15)
こういう言葉を聞くと「それは、そうだが、だからといってそういうことで落ち着かれるか」という思いがあって、不条理には耐えがたいものが人間の中にはあるように思えます。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元中部日本放送「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
第92課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・49・・・
G キリストの非利己的な態度を見習うことが、すべてのキリスト者の義務である。
・・・15:1~13・・・2・・・
「キリストさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかった。むしろ、『あなたをそしる者のそしりが、わたしに降りかかった』と書いてあるとおりであった」(15:13)。
私たちは、このことが聖書について何を意味しているかをよく銘記しておかなければならない。第一に、それは聖書の歴史的真理性を意味している。もし、万一、聖書が真理でないとするならば、私たちは聖書から忍耐も慰めも希望も受けることはできないのである。古の神の民に対する全能の神の力強い働きと導きの記録が、もし真実でないとすれば、私たちには何の励ましにも助けにもならない。もし旧約の大部分が、自由主義神学者たちが言うように、信頼できないものであり、歴史的に偽りであるならば、それは宗教的意義も価値も全くないことになる。
現代の新正統主義神学者たちは、聖書は歴史的には偽りであるけれども、宗教的には真理であると主張する。これらの学者たちの一人の言葉がよく引用される。「エデンの蛇が実際に語ったかどうかというようなことは重要ではない。重要なことは蛇が喋ったかではなくて、蛇が語った事柄である」という言葉である。
私たちはこのような議論、聖書に対するこのような態度を不条理な詭弁であるとして拒絶するのである。聖書は歴史的に真理でなければ、宗教的にも無価値なのである。聖書の歴史的信憑性と宗教的真理性とは引き離すことは出来ないのである。そして聖書自身が聖書は真実であると主張しているのである。
第二に、この節は聖書の有機的一体性と統一性を教えている。それは、旧約聖書は新約聖書に劣らずキリスト者に対する神の直接的なみ言葉を伝える神の言葉であると言う意味である。聖書の一部分のみかではなく全体が、私たちを教えるために書かれたものである。
極端な神学者は、聖書のある部分を他の部分から引き離してしまう。すなわち、「この約束はイスラエルに対するものであって、教会に対するものではない」とか、「この部分はイスラエル人のためであり、この部分はキリスト者に対するものである」などと言う。このような考え方は誤りである。聖書のすべての部分がすべての人々のためのものである。「なぜなら、神の約束はことごとく、彼において『然り』となったからである」(Ⅱコリント1:20)。
もし、神のすべての約束がキリストにあって「然り」となったのであれば、すべての約束はキリストにあるすべての人々のためのものでなくてはならないのである。 J・G・ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
『ほっとひととき「みんなのコーナー」』
※ 昨年のクリスマス礼拝、そうして元旦礼拝は、教会の方のお気持ちを頂き、十年ぶりかで主人と守ることができました。もう諦めていたのです。数名の方のお世話でベッドを乗せてもらえる福祉タクシーを予約してくださいまして、本当に感謝でした。ヘルパーさんもご一緒に礼拝などに参加してくださいました。皆さんから、今度はイースター礼拝ですよとお声をかけてくださり、恵まれた気持ちでおります。 大分県 Y・Yさん
※ 子供の受験で本人も家族も緊張しています。お正月も塾に行って帰りは遅く、主人と私が交代で迎えに行きました。私と同世代の塾の先生もおられ、ご自分の家族やお子さんもおありの方もおられるでしょうから、ご心配と思います。あと少しの頑張りです。今は健康で受験に向けての健康管理を最優先にしています。 山形県 O・Dさん
※ 夫婦二人の最近の食事は、少し多めに作った鍋物に野菜などを継ぎ足して食べています。おでんみたいに、汁が煮詰まっておいしいですし、寒いこの地域のお年寄りは、昔から皆さんそのようになさっている感じのようです。細くなった雪道を歩くのは無理で、保存用の野菜はそれぞれの家庭で準備してあります。お肉やお魚は、週に一回来るコンビニの巡回販売のお世話になっています。私のところは灯油は使わず、薪ストーブで煮炊きと暖房です。お風呂だけはプロパンガスです。猫が二匹薪ストーブの前を占領しています。パソコンがあるので、私も「ジャーナル友・祈りの友」の仲間入りをさせてもらっています。 栃木県 G・Kさん
※ 20数年ぶりに高校生時代の友から年賀状が届きました。何度かお便りや年賀状を送ってきましたが、受取人不明とのシールで戻ってくるので、お友だち住所ノートの名前の上には赤線を引いてありました。そのような彼女からの年賀状で、本当に驚きました。いろいろのことがあり過ぎて、疲れ果てて、一人で生活していてごめんなさいとの添え書きがありました。わたしにはその添え書きで十分でした。今も何度も、何度も読み返し、両の手に挟んで、懐かしい名前をあたためながらうれしくて泣いています。本当にうれしい2020年になりました。 鳥取県 A・Hさん
**********
♪ ここ宮崎はもう春です。木々の枝にはふっくらとした木の芽が、土手には枯葉を押しのけるようにいろいろの草の茎を見つけました。ニュースでは水仙や寒椿や蠟梅の便りが多くなりました。雪や寒さの中でお暮しの「ジャーナル友さん」には申し訳ない思いがいたします。どうぞ、お体に気を付けて、春の来るのをお待ちください。お祈りしています。
♪ いつもお元気に、春に咲くお花を楽しみにお庭の手入れをされていたお隣の88歳の元気な方が夜に部屋の中で転倒し、骨折、緊急手術を受けられました。部屋の中でも起るのですね。気を付けなければと思いました。寒い冬は特に気を付けて行動しなければなりませんね。お祈りください。
♪ もう何十年も、毎日通勤の時に通る街並みも、ふと立ち止まると何かが変わっていることに気づくものですね。日常生活の忙しさは、大切ものを見過ごし、無関心になっていることが多いと思うことが多々ありました。先日、家内の運転で少し寄り道をして、県営の公園にある池の傍に車を止めて早春の湖面を見ていると20数羽の鳥の群れが、浮き沈みしながら餌を求めている姿が可愛らしく、見惚れていました。私の周りにもたくさんの人がおられること、そのお一人お一人に、もっともっと善意の眼差しを向けるなら、そうして、私自身にもそのような眼差しで見守られていることにきづき、心が温かくなりました。
♪ 老人施設利用者さんの数名が、年末年始の帰宅には、私たち職員も気懸りでしたが、家族と共に過ごされた数日で満足したお顔で帰ってこられました。ご家族との日々はやはり一番安心なのでしょう。その明るい笑顔を私たち職員も、改めて大切にしたいと年明けのミーティングで再確認しました。数名の方はご家族の都合で、施設で過ごされました。
♪ 仮設に入っての生活になりましたが、最近は入院する方が多くなりました。衣食住の全てを失った気持ちは本当にさみしいです。その環境の変化とご近所さんというお友だちに恵まれない生活に息が詰まる思いがしています。これから寒くなると一層家の中になります。わたしのように、こうして、自称「ジャーナル友」として、いろいろの方と繋がりのあることは、本当に感謝なことです。また、お忙しいのに「ジャーナルさん」さんから、いつもお返事を下さいますこと、ありがたいことです。どうぞ主人ともども、今年もよろしくお願いいたします。
♪ 孫は高校受験の推薦枠で入学の目途が立ったと娘から連絡がありました。子供の頃から書道部に入っていましたので、進学する高校に書道部があるかが、孫の高校進学の基準でしたが、それが叶ったようで良かったと思います。娘も同じで、今は地域で書道の先生をしています。
♪ 仮設に入ることができてほっとしています。体育館での生活で体調を崩していた主人も、食欲も出てきて外に出るまでになりました。お正月前には伸び放題の薄い白髪の頭をきれいに散髪もできました。やっと身だしなみを気にするようにまでなれました。遠方からわざわざ教会の方が元旦礼拝に車で迎えに来てくださいました。新年のご挨拶をすることなど、考えていませんでしたので、本当にうれしい気持ちにさせてもらいました。
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東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」