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2023年7月号  №193 号 通巻877号
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「ありがとうございます」

年末に、圧力鍋を購入したので、料理にはまっています。赤飯もはじめて炊きました。とても、柔らかく炊けました。野菜の煮物を炊きましたと写真が送られてきました。「つのぶえジャーナル」の写真の多くは身近に見つけた花などの写真です。身近な風景の写真などお送りください。大歓迎です。 

2019年12月16日から2020年1月15日までのクリスマス献金、新年感謝、孫の誕生日感謝献金として、また「つのぶえジャーナル」事業継続への寄付者の報告です。感謝いたします。

 村田和子様 羽野 環様 佐藤のり様 和田順一様 和田貴美子様 馬場暁美様 菊池すみ子様 植田和美様 加納さおり様 井上義明様 島田祥子様   匿名3名様

 

 

*寄付金口座…郵振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社 

また、お便り下さる方やお友達への紹介はこのメール アドレスをご利用ください。多くの「ジャーナル友さん」が与えられるように願っています。

    osamura@kind.ocn.ne.jp 

*「つのぶえジャーナル」はこれをご利用ください。

http://tunobue.blog.shinobi.jp      

(米国南長老教会文書伝道事業)刊行責任者

   つのぶえ社代表   長村秀勝

 

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 「今月のことば」

 

 主の慈しみは世よとこしえに 主を畏れる人の上にあり

  恵みの御業は子らの子に 主の契約を守る人

   命令を心に留めて行う人に及ぶ。

        =詩篇103:17~18=

 

私たちの身体の膝が弱ると、歩むことができず、私たちの心の手が痛むと、働くことは出来ません。

信仰者として大きい問題は<精神的>力の問題です。真実、信仰者らしい生き方をする力、すなわち<歩む>力の問題です。なぜなら、信仰者らしく<語る>ことは、信仰者の大部分の人にとって、さほど難しいことではないが、信仰者らしく生きることは、より難しい日々の熟練がいります。

私たちの内と外にある人間的な強い力が働いて、信仰者の生活をいたずらに口やかましものにさせ、生気のない、弱々しいものにしております。

 

しかし、信仰者が真に信仰者らしい生き方で、神のみ名を崇めることが、神様のみ旨であり、この世に束縛され、邪悪な時代に生きるよりも、もっと生甲斐のある、何かがあることを示すことが神様の御心であります。

 

ではその力をどこに求めたらよいのでしょうか。

知恵があり、学問のある人々は言います。いくらよく食べても、食物が全ての必要な栄養を含まないならば、膝が弱るでしょう。美食をしても、骨や軟骨を作る要素を欠くならば、膝は震えわななくでしょう、と。

 

信仰者がそのことを信仰生活に応用・適用すれば、得るところは沢山あります。信仰の生活が、神様のみ言葉の一面のみを受け入れるのであったなら、信仰者が生きるために必要な力をみ言葉から、得ることはありません。み言葉の戒めと、教えを受け入れない人は、長い間には、永遠の慰め、許しの恵みを受け入れる余裕がなくなるでしょう。

この2020年、神様の救いのすべての勧告に心と耳とを開いて聞き歩みたいと願う日々でありましょう。私たちの熱心や決意は弱いものです。先き先きの計画は捨てましょう。今日を大切にするなら、新たな力が、弱った手に心に、信仰の喜びの恵みが待っていますから・・・・。

 

いともやさしく、善きわが友、楽しきにいます主よ、来りませ。

疲れし者の求むる憩い、真日照る時の、涼しき陰

嘆ける時に安らぎの 癒しの力もて、来りませ主よ、われらに。

 

 「小閑記」

  

 求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。

          =マタイ7:7~8=

 

 わたしたちは、神様のもとへ、何かを願いに行くときは、誰も開けてくれない閉じられた戸をたたくのでもなく、心を閉ざし憐みの心を持たない者のところに行くのでもありません。

 否、わたしたちは、わたしたちを迎えに使いをよこし、わたしたちに祈ることを教えて、必ず得させると約束してくださった方のところへ行くのです。

 

 多くの人は、祈りは命令されたものであると考えたり、心の内にある不平や不満、時には愚痴に近い思いを口にしたり、無病息災を「願掛け」のようなものと思うのです。時には、宝くじの最高額が当たりますようにとか、受験に合格しますようにと祈る人もおられます。弱いわたしたちのささやかな願いとも言えるでしょう。

 

 しかし、大切なことがあります。それは、わたしたちの無能と神様の全能とを示すためであると考える誤りです。もちろんわたしたち人間は、全能者ではありません。

 「祈り」は、わたしたちが憐れみを受け、助けを必要とする時に助けてくださる恵みを見出すことのできる、全能の神のみ座へ向かって開いている「扉」であります。「祈り」はくびきではありません。「つばさ」です。義務ではなく、「権利」であります。祈りは、弱き人間の権利であります。

 

 わたしたちの周りのすべての戸口が閉ざされている時、生きる希望も力も失ってしまったと思える時、その時こそ、わたしたちは手を合わせて、神様のみ前に出て、わたしたちの必要を求めることのできる「時」なのです。わたしたちは神様に、人生で自分に起きるすべてのことについてお話しすることのできる「時」なのです。

 

 救いのために祈ることから、罪の赦し、日々の仕事のこまごまとしたことまで、神様にとっては、その子供たちがこの世で骨折り、働いていることが何であれ、つまらないから聞いてやれないというものは何一つないのです。

 今日もまた、わたしたちは生活と仕事、健康の時も病気の時も、すべて祈りの中に、神様に語ることが出来るのです。

 

「そのとき、あなたがたがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる」(エレミヤ29:12~14)

 

 道を求むる旅人われに、愛と御霊は、なぐさめなり。

 主よ、旅路の終わるまで、わが友、わが守りとなりて導きたまえ。

 

 

 

 

 

   

   

 

 

 

 

世田谷通信(196

猫草

 

月一度小学校低学年向けに「お話会」という読み聞かせをしている。放課後、希望者のみなので510名程度の少人数だが、お話しを聞きたい子ども達なので、とてもよく聞いてくれて読み手も楽しい時間になっている。

どんな絵本、テーマにしようか、あれこれ考えながら56冊を選んでおく。まず表紙をみせて、子ども達と相談しながら読む順番を決めて行く。「知ってるー」「この間先生が読んだー」という本よりは、知らない本のほうが集中できるし、「あのねー、わたし知ってる・・」とネタばらしをされるリスクも少ない。子ども達は新しいお話しを聞くとき、とても真剣で、一生懸命だ。このあとどうなるんだろう?と頭の中がフル回転している感じが伝わってきて、可愛らしい。その気持ちをこわさないように、読むスピードやページをめくるタイミングにも気を遣う。

起承転結のしっかりしている本、言葉のリズムが面白い本、絵や装丁に工夫がある、しかけ絵本など色々あったほうが、その場の雰囲気に合わせやすい気がする。

季節や行事に合わせた本も効果的。1月なら、お正月、おもち、お年玉、カルタ、雪などの絵本を並べてみてもいい。低学年なので集中して話が聞けるのはせいぜい10分。1,2冊読んだら、3冊目は探し絵やクイズのような遊び要素をいれたり、写真絵本を眺める時間があってもいい。4冊目になるともういいや~、という空気になってくるので、表紙とあらすじだけ紹介して、また今度ねと終わりにする。

23年生に読書感想文用の本を紹介する場合は、冒険、笑い話、怖い話、動物が出てくる話、など幾つかのジャンル別に数冊ずつ用意する。「表紙のすぐ裏に数行のあらすじや作者からのメッセージが書いてある場合も多いです、面白そうだなと思ったら本文を数ページ読んでみてくださいと伝える。」ちなみにこの表紙の裏、カバーの折り返し部分は「そで」と呼ぶらしい。

なかなか新しい本に手が出ず、いつも同じシリーズの本や図鑑、迷路、クイズの本ばかり借りてしまう子どもが多い。長い本を紹介するときは全部読めないので、冒頭のみ紹介することもある。「『その森の奥で男の子が見たものは・・』はい、この続きは自分でね。」と、わざとキリの悪いところで本を閉じると「えー!うそでしょう、おしまい?」「めっちゃ気になる~」と手が伸びる事が多い。

読書スタンプラリーや本の福袋、クロスワードパズル、たくさん読んだ子には特製しおりプレゼントなど色々な工夫で本と出会えるきっかけができるようにしていきたい。

 

『美しい朝に』・・62・・

 

 「寄せ書き」

 

 まだいちども あったことがない

  多くの人々の 愛のこもった寄せ書き

 多くの人々に 祈られているから  愛されているから

  昨日も今日も 生きていられる 

 神さまを 讃える詩がつくれる   

          *み国をめざして 第四詩集*

 

沙耶香のつぶやき」-3

 

♡ パソコンでゲームなどはしない。好きになれない。本は母にお願いして、今は、少し離れているが図書館から「日本昔話」シリーズを借りて読んでいる。お伽の世界みたいで面白い。わたしの住んでいる所にも、茅葺屋根の家があり覗いてみたくなる。でも勇気がない。そこに大人がいるから。

 

♡ 家族は何も言わないのがうれしい。不登校だが勉強は好きだ。その内に興味のあるものと出会えると思っている。時々、近況報告?で児相に行くが、お元気そうですね、と笑顔で職員さんが言ってくれる。それで十分。母も納得している。フリースクールを勧められたこともあったが、今はそれもない。

 

♡ テレビはあまり見ない。音楽を聴くのも苦手。母と話しているのが好き。料理が好きなので母の手伝いでおかずを作る。失敗の方が多いかも。着る物は母にお任せ。家でも身支度はきちんとしているつもり。犬の散歩の時はジーンズとバスケ用のシューズ。バスケが好きだから。部屋の壁には八村選手の大きなポスターが貼ってある。

 

♡ 今の悩みは食べても太れないこと。定期的に診察を受けている病院で、少し増えたねと言われてうれしかった。祖母の家に電車で母と行った。1年は会っていないが元気だった。食べてるの?と聞かれ、食べてるよと、嘘をついた。おばあちゃん、ごめんなさい!おばあちゃんは分かっている。

 

♡ 犬の散歩の時、声をかけてくれる人がいる。うれしいがやっぱ怖い。この怖さは説明できない。元気にしている犬を見るのは好き。予防注射などの係は母。車の中で待っている。猫はどうも好きになれないが可愛いとは思う。

 

♡ 従妹が、最近、メダカを飼っているよと写メしてくれた。机の周りには女の子らしい小物がある。私の机の上には物がない。ごちゃごちゃが嫌いなのだ。そうそう、だいぶ前に買ったお気に入りの花柄のメモ帳が3冊あるだけ。

 

♡ 寒さに敏感なので着ぶくれだるま、と母に言われる。直ぐ熱を出し、食欲も無くなり、そのために太れない。その繰り返しなので予防注射をしたので、今の所大丈夫。油断しては失敗の繰り返し。風邪予防に良い食べ物ってないかなあ・・・。

 

『その愛のゆえに』

   =時々の記=

   (165)

 

11月16日

 昨日、星野富弘さんの詩集を読んでいました。大きな事故で体の自由が奪われてしまったとき、生きる力を失ってしまったことが何度もあったのですが、神様と出会ってからの人生は、何かお役に立てることをしたいと思うように変わったことを強く訴えておられます。神様とともに歩むことは、生きる力と喜びが与えられるのですね。インフルエンザが流行っています。お大切になさってください。

天守閣孤高なりけり、うす紅葉。

白菜を獣にやられ捨てにけり。

喜びを鳥は歌ひぬ秋日和。

一瞬やつるべ落としの夕やけす。

祈りつつ聴かんとすなり秋の声。   馬場路哉

 

今朝から片頭痛が激しく横になって休んでいました。主人がいつの間にか夕食の準備をして作ってくれました。感謝でした。今は片頭痛も収まりましたのでやれやれです。思ってもみないことが起こるこの頃です。

 

11月25日

 外はもううす暗いです。朝から曇り空のまま、一日中真っ暗なように感じられます。散歩道の紅葉も葉っぱを落とし始めています。カサカサと葉っぱの音がリズミカルに聞こえてきます。11月もあと一週間となりましたね。気ぜわしい12月を迎えますが、私たちの救い主イエス様のご降誕の月です。イエス様を救い主として信じる信仰が今、与えられていることに感謝いたします。

病室に小春の日差し届きけり。

伊賀の霧滋賀の山並み隠しけり。

鳩の声リズミカルなる小春かな。

羊穂や伊賀の田んぼの広ごりぬ。  馬場路哉

 

これから冬至までどんどん日がみじかくなってきます。なんだか、忙しく感じます。

 

12月1日

 今朝の最低気温は氷点下一度でした。池には碓氷が張りました。寒さが本格的になってきました。昨日、来年度のカレンダーをお店でいただきました。2020年まであとひと月なのですね。

東京オリンピックの時は私は高校1年だったように思います。お友達のラジオから流れる開会式の様子を聞き入ったのを覚えています。寮生活でしたから、こっそりラジオを聞かせてもらっていたのでした。あれから55年がたったなんて信じられないのです。元気でテレビで映し出される競技を楽しみたいと今からわくわくしています。

草紅葉刈る哉色合ひ愛でもして。

芝生あり散歩の叶ふ小春かな。

山の端の余韻はつるべ落としかな。

碧天にみくにを思ふ小春かな。

川浪の白緑として冬に入る。  馬場路哉

 

一日、一日、神様がともにいてくださって強め、励ましてくださっていることに感謝いたします。明日のことを思い煩うことなく、感謝の気持ちで終えることができる幸いを覚えるこの頃です。

 

12月7日

 日当たりに和みをるかの落ち葉かな。

ピアノ曲流れゆくかに秋の風。

細流の時を刻みて黄落す。

過疎の村柿なり年のめぐりけり。

蓑虫の小枝の陰へ隠れけり。  馬場路哉

 

奈良の柿、特に吉野の柿は有名ですが、今年はここ山添村でも柿が鈴なりです。それも我が家ではここ数年一度も柿の実が熟さなかったのに今年はびっくりするほどなのです。カラスも持て余して道端に食べ残しを捨てていきます。このような年もあるのですね。

 

12月8日

 今朝は少し寒さが和らいだような気がいたしました。腰の痛みを抱えながら家事を進めるのですが、時間がいつもの倍はかかります。何しろ、腰の曲げ伸ばしをすると痛みが走るのですから。どうしても支えを持つか正座してからでないと動けません。亀のような動き方ですが、何とか朝の家事をこなすことができました。これから先が思いやられます。だんだん、今までできていたことができにくくなっていくのでしょうね。受け入れるしかありませんね。

枯竹を焚きて枝焼く小春かな。

フェルメール柔和なイエスクリスマス。

目つむりて鳥の声聞く日向ぼこ。

木の葉ひ後に現はる黄蝶かな。

山峡を厚く包みぬ照紅葉。  馬場路哉

 

巷ではクリスマス商戦でにぎやかなイルミネーション、ジングルベルが流れています。ここ山添村でも夜になると家の周りを明るく照らしている光景が見られるようになってきました。

救い主イエス様のお生まれになった良き日を静かにお迎えしたいものです。

 

馬場暁美

「上野緑ヶ丘教会会員」 

  
 

 眸(ひとみ)・・106 ・・

 

✬ ここ京都も行楽のシーズンで、大勢の観光客が来られます。私は、夏のお中元、冬のお歳暮の時のみ、老舗の総菜の専門店で働いて20年近くになりました。今は日本食のおいしさがお分かりの方も多くなり、それぞれのお好みの品を買い求める方が多くなり、一時期のような騒ぎはあまり見受けません。味付けも、外国人を意識した時もありましたが、それもなくなり、「日本の味」を求めてこられるようになりました。それと、若い方が「日本の味」に関心を持つようにだんだん変わっています。「老舗」の伝統の味は、「日本の味、京の味」と思えてうれしいです。我が家の味はコンビニの味に??? 反省しています。  京都府 T・Gさん

 

✬ クリスマスツリーの飾りつけは、我が家の楽しみになりました。10月に入ると、家族一人ひとりが工夫を凝らして作ります。その出来栄えは、年々変わります。中学と高校の娘たちも子供のころから作り続けたものを残してありますので、昨年からツリーの木を2本にしました。今は子供たち60%、私たち10%、贈ってくださったもの20%、残りの10%は来年のお楽しみにしています。これが我が家の2019年のクリスマスの準備でした。私たちのためにケーキはありません。 神奈川県 B・Sさん

 

✬ 小さな高齢者向けの施設ですがクリスマスツリーを飾りました。色とりどりの電球が小さな食堂を華やかにしてくれます。外は雪です。ご家族の訪問はお忙しいのか、年に一、二回の方もおられ、ポツンと外を見詰めている姿に、今は亡き母がダブります。母は自分の家で死にたいといつも言っていましたが、心臓発作で病院でお世話になりましたが、その母を思い今の施設で働くことを決めて良かったと思っています。「ジャーナル」は夜勤の時に読んで、「ほっとひととき・・・」さんのお言葉で、頑張らなければ!と思わされています。クリスマス礼拝は夜勤明けでしたので、家で休んでいました。 福井県 R・Iさん 

 

✬ 少なくなった仮設の方々の健康状態を確認する仕事をしていますが、一年目より二年目、そしてこれからを思うと、年齢的な疲労以上にご高齢の方々の健康状態や日々の生活の大変さや心のお疲れが重なって、深刻になってきました。それを仕事としていても、やはりお訪ねする内に親しみがわいてくる分、辛いものがあります。寒さがそれに追い打ちをかけるかのようです。雪国の宿命ですと言い聞かせています。 福島県 S・Aさん

 

✬ 私一人残してみ国へ行った主人、育っていった子供たち・・・。独りで迎えたクリスマスは今年で10年目になりました。クリスマスカードも少なくなりました。信仰の支えであり、交わりの場であった教会も閉鎖になり、この村でのクリスチャンは私一人になりました。「聖書研究の友」「つのぶえ」、そして「つのぶえジャーナル」と続いてお世話いただいてきましたことを、改めて思い、感謝です。私のために、わざわざ届けてくださるヤマト便さんに、受け取るたびに、お礼を申し上げています。どうぞ、今後ともよろしくお願い申し上げます。外は雪です。だんだん文字も乱れて読みづらいことでしょうが、お許しください。 新潟県 S・Gさん(この文章は、お許しをいただいて少しお手紙に手を加えました。編集子)

 

<身近な出来事を「眸」に投稿してください> 編集子

 

十戒と主の祈り・・・9・・・2         鈴木英昭著

 

        (元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)

=殺人=

  第六戒③・その内面

        詩篇139:21~24

 人を殺さなければそれだけでこの戒めを守ったことにはなりません。第六戒は内面的な意味を持っているからです。人を殺す行為は、人の内側から生じる思いが行為となって外に現われたものです。そのため、 第六戒について、ウエストミンスター大教理問答の問136の答えは、「罪深い怒り、憎しみ、妬み、復讐心」の4つの動機が問題にされています。

 特に説明することもないかもしれませんが、「罪深い怒り」は感情が瞬間的に爆発することで、人に対する苦々しい思いの現れです。怒りの言葉を相手に浴びせ、それは目にも表れることになります。目で人を殺すということもあり得ます。

 他の人への「憎しみ」の思いは、「あの人は死んだ方が良い」と現実に思うことです。ヨハネの第一の手紙315節もこう記しています。「兄弟を憎む者は皆、人殺しである」。

 次に「妬み」ですが、これは自分が持っていない良いものを盗みたくなる思いです。妬みは他人への攻撃心を生むだけでなく、自分自身を不安定にします。自分のもので満足することが必要ですが、パウロは、「愛は…妬まない」(Ⅰコリント134)と言って、愛の力を強調します。

 最後に「復讐心」ですが、それは復讐する権利がないにもかかわらず、そうしようと願うことです。自分で復讐しないで、神のその権利を、判断を委ねるよう、「善をもって悪に勝ちなさい」という言葉(ローマ1219)に従いたいものです。

これら4つの動機は合法的な場合があります。それは、詩篇1392122節で言われているような場合です。すなわち、神を憎む者を憎むことや、神の民が偶像に負けたとき、神がその民に対してもつ妬みのように、私たちが誤って人を憎み、取り戻したいと願うことです。正義の怒りとか、きよい復讐心のように、神と隣人の誉れのために怒りや復讐心を持つこともあり得るからです。

 しかし、現実はそんなに単純ではありません。正義の怒りと思っていても、利己心からの不義の怒りが混ざり合っていることがよくあるからです。私たちは自己の不義を隠すために正義の怒りと思っているかもしれません。そのため、それを識別するために、自己吟味が常に必要です。

 それで、私たちは、神が私たちを調べ、正しい道を歩んでいるかどうか、間違った道を歩んでいないかどうか、私を調べ尽くし、迷い込んでいないかどうかを明らかにしてくださるように、祈る必要があります。この詩篇1392324節は、その祈りです。「神よ、わたしを究め、わたしの心を知ってください・・・」。

 最後に、主イエスは山上の説教で、さらに高い次元のこととして、殺すことを防ぐために、だれに対しても自分のできる最善のものを与える愛があることをお教えになりました。

 

 第六戒④・自殺

       士師162331、ヘブル1132、32、39

 

 第六戒に関して、一つの実際的な問題として自殺があります。聖書には6例が記されています。ペリシテ人と共に死んだサムソン、剣に倒れ伏したサウル王と彼の部下(サムエル記上3135)、アブサロムの側に寝返った策略家アフイトフエル(サムエル記下1723)、王宮に火を放ったイスラエルの王ジムリ(列王記上161819)、そして、イスカリオテのユダです。これらの人々について、聖書はサムソンとサウルについて見解を述べていますが、他の4人については事実を述べているだけです。

 サムソンが自分の命を犠牲にして行った最後の行為は、ヘブライ人への手紙では、「信仰の人」の行為と言われています。しかし、サウル王の自殺は、後に歴代誌上1014節で「主によって殺された」と見なされています。彼らの自殺は、それまでの歩みがどうであったかによって判断されることが分かります。

 

 このように聖書にある数少ない実例から、原則になるようなことを導き出すことは難しいと思われます。さらに、時代が複雑になるにつれて、問題も複雑になります。先日、ある集まりで、尊厳死とか安楽死について話を聞く機会がありました。医師の立場に立つと、尊厳死であっても、患者を殺しているような思いになるという感想がありました。

 人は神のかたちに似せて造られたために、その人が身体をもって、知と義と聖という神のかたちを発揮する使命をもっています。自分はそれを捨てることになります。そういう点で、自殺は神の創造の目的に反します。それが原則的な理解ですが、やはり現実には判断は難しいことがあります。

 例えば、肉体的また精神的に病的な要素が自殺に至らせるかもしれません。その場合、何よりも治療が必要です。時には専門的なケアが必要です。孤独に対する助けを求めて自殺未遂の程度のつもりが、自殺に至ることもあります。何らかの信号が出されていた時期に、特にキリスト者として助けになることができなかったかを、後になって悔やみます。宗教改革以前、教会は自殺者の埋葬を断ったそうですが、埋葬と結び付けることは行きすぎではないでしょうか。

 ドウマ教授は、キリスト教会にも自殺者があることに言及し、自殺が罪であると語られていたなら、信者は悲劇をもっと防ぐことができたのではなかったかという反省を述べています。そして誤解のないように、同教授は、自殺を正当化する理由が倫理的にないこと、また、自殺が困難から逃げるために許される道でもないことを語ります。

 信者にとってはキリストが避け所であり、希望の源ですから、多くの信者が指摘するように、自分の判断ではなく、神の導きに信頼すべきであるということです。

 ただし、隣人を助けるための自己犠牲として命をささげることは例外的にあり得るとされています。

 

 バラ・マカルピン 日本伝道百年史・・25・・   

     水垣 清著

 (元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)

 

12 バラの足跡・・2・・

 

明治も30年期に入って、日本資本主義の発展時代となり、反面、社会問題、労働問題が多発して政治上にも混迷・分裂の時代となった。従って、国家主義と社会主義の中間にあって、キリスト教会は振るわず、沈滞ムードの時代であった。

R・E・マカルピン師は1898年(明治31)、愛知、岐阜地区の伝道を担当して、木曽路の東美濃地方にもたゆまぬ伝道旅行をされたが、集会に集まる者は、時に2、3人という状態であった。宣教の困難は加わり、ミッションの東美濃地区伝道の打ち切りといった問題も生じて、補助伝道者の日本人教職はその打開に苦慮したのである。

明治31310日、米国オランダ改革派ミッションのフルベッキ師が逝去した(68歳)。バラ先生にとっても日本の同信・同労の友として、これは淋しいことであった。しかし、バラ先生はたゆまぬ伝道心をもって、開拓した伝道地を巡回して、「足の伝道」を続けられた。

明治32年以後、信州伊那谷の伊那地方でバラ先生からの受洗者を記すと

1899年(明治32) 514日  小平よし 中村まさる 水谷てる

1900年(明治33) 529日  田中しき

1901年(明治34) 1018日  権田静枝 三津木ゆきえ

1907年(明治40) 1028日  堀内君子 斎藤政頼 所角太郎 

三沢常吉

1913年(大正 2) 518日  藤沢きよ 藤沢せつ子 所しのぶ

          813日  小口遇夫

1914年(大正 3) 1117日  唐沢やすえ 唐沢あさ

1915年(大正 4) 521日  宮下きん 高島清人 有賀一男

1916年(大正 5) 717日  宮下信雄 後藤季武 鈴木とり

                唐沢あい

         1222日  高橋信四郎 西沢美則 春宮基宣

                      (以上筆者調)

バラ先生は日本を去るまで、こうして山深い伊那の地まで福音を述べ伝えて止まなかったのである。

 

 

「キリスト教百話」

問26 前回の話では「最後の審判」があることが望ましいように言われましたが、その辺のことが今一つ釈然としませんので、もう少し説明してください。

 

答・・7・・

 キリストや殉教者ステファノの例などを引き合いに出すと、ほとんどの人には縁遠い話のように受け止められかねませんが、キリストと共に十字架につけられた犯罪人が、キリストに向かって「あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言ったのに対してキリストが即座に「はっきり言っておくが、あなたは今日わたし一緒に楽園にいる」と宣言された(ルカ223943)ことに即して言うと、キリストがおられる楽園に共におれる者というのは、どういう人であるかに関わりなく、キリストに対して「あなたを信じます」という者でありさえすれば、その時直ちに楽園(神の国=天国)の住民に加えられる、というのである、ということなのです。

 

 このことが非常に大切な点です。と言うのは、多くの人は自分にこだわるからです。例えば「わたしはステファノのような立派な信仰者にはなれない」とか「十字架につけられるほどの人間でもない」とか言うのです。つまり、良くも悪くも何者かとしての自分が自分の内に占めているものですから、キリストはそういう人の内へは入ろうにも入れないでおられるのです。

 「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまたわたしと共に食事をするであろう」と言うのがキリストの招きというものです(ヨハネ黙示録320)。

 

 自分の内側を自分で点検したり他人との比較対照で、あれこれ考えたりしている限り、キリストは、依然として外に佇んでおられるだけです。自分の中のことはどうでもよいのです。もともとこだわるほど大したものではないのです。「さあ、どうぞお入り下さい」と言うのが、キリストを信じるということです。そうすれば、先述の犯罪人ではありませんが、その途端に、信じた者は、キリストと共に楽園に住むことになるのです。

 

 少しくどくなったかも知れませんが、ここまで書いてきたことは、「世の終わり」とか「最後の審判」ということも、今、キリストを信じているなら、そこで世の終わりも最後の審判もすべてがキリストによって「楽園住民証明書」をいただいていることによって、「問題なし」として解決済みのこととして理解すれば良い、ということになるのです。

 真面目な人か、ぐうたら人間かなど問われてはいません。問題は、今、キリストを信じてキリストと共に生きる恵みに与かっているかどうかにあります。言うなれば、今と言う時が世の終わりであり最後の審判がなされているところであります。それは今と言う時が、時間と空間を越えた永遠との接点である、と言うことであるからです。

 一点に立てば全体が見渡せるという場があります。今、キリストを信じて生きるなら、神による揺るがない祝福の世界に生きて、行く末も、そういう世界での展望となるに違いないでしょう。

       篠田 潔

(日本基督教団隠退教師・元中部日本放送「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)

 

 

第92課 キリスト者生活の実践的義務

=12:1~15:13=・・・49・・・

G キリストの非利己的な態度を見習うことが、すべてのキリスト者の義務である。・・・15:1~13・・・1・・・

 

 「キリストさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかった。むしろ、『あなたをそしる者のそしりが、わたしに降りかかった』と書いてあるとおりであった」(1513)。

 

 イエス・キリストは完全な非利己主義の模範であった。「キリストの模範は手本としてのみでなく、励ましとして常に私たちの前に掲げられている」(ホッジ)。

ここでキリストが手本として語られていることの中心主題は、その非利己主義である。キリストは自己を主張されたのではなく、ご自身の意志を天の父のご意志に従わせられた。彼は天の父の栄光のために自ら苦難の中を歩まれた。キリストに降りかかったそしりは、実は神へのそしりであったのだ。キリストがそれらのそしりを忍ばれたのは、父なる神のご意志と目的と、キリストご自身の意志と目的とは同一であると考えられておられたからである。

 

 キリストの非利己中心主義について述べて、パウロは詩篇699を引用している。これはメシヤ預言の一つであって、メシヤとしてのイエス・キリストについて述べているものである。メシヤ詩篇として新約聖書の中に引用されている箇所はいくつかある(参照・ヨハネ21715251928、使徒120)。

この事実は、詩篇の中にはキリストについては、何も語られていないと主張する人々が如何に間違っているかを示すものである。キリストが最高に自己中心であり、神のご意志に自らを従わせられたように、キリスト信者は、その兄弟たちの中に神のみ旨と目的とが完成されるように求めて、非利己中心的でなければならない。キリスト信者は自己の個人的なことについての配慮に勝って、他の兄弟たちの霊的福祉と教会の建徳を第一に考えねばならない。もし私たちキリスト者としての愛が本物であるならば、それは決して抽象的なものであってはならず、必ず具体的なものとなって現われるはずである。

 

 「これまで書かれた事がらは、すべてわたしたちの教えのために書かれたものであって、それは聖書の与える忍耐と慰めによって、望みをいだかせるものである」(154)。「これまで書かれた事がらはすべて」という表現によって、パウロは明らかに旧約聖書全体を意味していることがわかる。

「これまで書かれた事がら」として表現されている旧約聖書は全体として(新約聖書ももちろんそうであるが)誤まりない神のみことばであって、神の啓示によって人間に救いと霊的福祉のために与えられたものである。だから私たちは聖書から忍耐を学び、慰めを受け、望みをいだかされるのである。

  JG・ヴォス著

  玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)

 

   『ほっとひととき「みんなのコーナー」』

 

 今年は早めに会社に休暇を貰ったので、12月の中旬には帰省すると連絡がありました。結婚のお相手も一緒とのことでしたので、主人と大喜びしています。息子は37歳で、今まではいくら結婚しなさいと言っても、無関心でしたが、実は数年前から交際していたというのです。お相手の方も30歳とかで、クリスマスプレゼントとお正月のお祝いとを同時にもらいました。私たち夫婦には息子一人でしたから、寂しい思いでしたが、こうして健康であったことを神様に感謝しています。嬉しくてメールしました。 栃木県 K・Nさん

 

   今回の自然の猛威で、多くの方がつらいお正月をお迎えになっておられたことと思います。お祈りいたします。新しい日記帳に、2020年の願いは「健康」と書きました。誰もが願い、誰もが皆さんがそうであってほしいという願いも込めて選びました。この3月末で定年退職ですが、幸いにもこれからも続けて働くことができます。老後の貯えよりも、むしろ生甲斐となり、まだまだ現役と自分に言い聞かせることができたことが喜びです。教会の役員は、若い方にお任せして引退します。 佐賀県 Y・Kさん

 

  三世代住宅?の生活になり12年目になりました。息子夫婦の提案で家の改築の時に同居を考えてくれて、バリアフリーになっていて、便利です。元気な時には無駄と思っていましたが、今は感謝です。日当たりの良い部屋は主人のベッドとポータブルトイレ、入浴サービスのお世話で過ごせます。お医者さんも来てくださいます。テレビでは高齢者のご夫婦だけの生活が問題になっていますが、私たちは恵まれています。2ヶ月に一回、私たちの家で牧師先生と教会の方がお訪ねくださり、聖餐の恵みに与からせていただいています。クリスマスの時は、孫たちの手作りのプレゼント交換などで楽しく過ごしています。主人には「ジャーナル」を読んであげて、信仰の話や「ほっとひととき…」「眸」さんたちのことを話し合い、祈っています。 鹿児島県 K・Sさん

 

  汚泥に埋まったリンゴの根元だけは何とかしなければと頑張っていますが、この寒さで作業は思うように進まないところに、雪が降り、あたりが一面雪です。やる気が削がれてしまいます。リンゴ農家の仲間も、来年春まで少しでもできることをして、春に備えようと、暗い気持ちでお酒で元気づけはしていますが、元気のないリンゴの木を見ている者には、春までの辛い日々の年明けになります。 長野県 M・Sさん

 

  昨年の村のお茶飲み会で、もうお餅つきなど10年以上したことがないということが話題になり、みんなで家の物置を調べたら杵と臼がそれぞれ3個づつあることが分かり、年の瀬に集まって餅つきをしました。昔を思い出して張り切り、学校の先生に相談して、子供たちも参加して、楽しいひとときを過ごしました。米粒まじりのお餅は格別で、味わいがあります。仕上がったお餅はそれぞれ持ち帰り、参加できなかったお家にも配りました。今回は、中年?の婦人会の出番はありませんでしたが、裏方をさせていただきました。心得ていた役割の割り当てで、人との絆はこのような小さな行事で続けられていたのですね。笑顔が一杯、お腹も一杯、感謝が一杯でした。 愛媛県 B・Kさん

**********

♯ 我が家の片づけは一段落しましたので、日ごろからお世話になっている4軒隣りのご高齢の家の片づけをしています。少しでもお役に・・・なんて思っていましたが、頼りにされてうれしくなってしまいました。すべてが片付くまで続けます。

♯ 驚いたことがありました。一緒に地域でボランティア活動してきた友だちが、入院していたそうで、気が付きませんでした。彼女の特技は、お掃除なのです。ですから、どこでも大歓迎でした。後日お見舞いに行ってきましたが、そこでも、お掃除の役目を果たしているのです。体を動かすことは回復には一番なのよ、と笑顔でした。私の

 ほうが元気をもらいました。

♯ 寒くなりました。まだまだブルーシートの屋根、屋根、屋根です。何だか皆さん無口になりました。屋根の修理も予定が立たず、不安がそうさせるのでしょう。報道も最近は殆どありません。知事の対応の不手際等が問題になりましたが、そんなことより、もっともっと現状を報道してほしいです。「置き去り、忘れ去られ」は、辛いものです。

♯ 頑張っておられたお隣りの方が、後かたづけと心労で体調を崩され、奥さんが入院されました。家にはご主人一人だけで、これから寒くなるので、毎日、それとなく家の様子を窺ったり、声をかけるようにしています。食事は、配達のお弁当を注文したりしていますが、少し多めに作ったおかずや煮物を届けるようにしています。車の運転はされませんので、奥さんのお見舞いや洗濯物は、主人の車での送迎で、何とかやれていますが、後わずかでも、お手を貸してくださる方が与えられるようにと、教会の方にお声をかけようと主人と話しています。お祈りください。

 家を失い、家族を失った子供たちも大きくなり地元に働きの場がないので東京に出て行くのが当り前になり、過疎化は深刻です。年月は問題    を浮き彫りにします。水田や畑の荒れて行く様子は、春を迎えると共に露になります。青い草が萌え出てもやがて、夏には雑草に覆われてしまいます。これは私たちの地区ばかりではありません。復興と共に過疎が進んでいる各地の被災地だと思います。2020年、どうなっていくのでしょうか・・・。

♯ 今朝の最低気温は氷点下一度でした。池には碓氷が張りました。散歩道や土手は真っ白になっています。霜が降りて凍ったからです。車のフ     ロントガラスもカチカチに凍っています。散歩をしているとまつげが凍っていくのがわかりました。寒さが本格的になってきました。皆様のご健康をお祈りいたします。

 

♯ 紅葉も終わり、今は山茶花が寒さの中に健気にたくさん咲いています。1月になるとニュースは春の便りが多くなります。梅の蕾も小枝に見  

ることでしょう。南紀和歌山は暖かく、散歩にも楽しみがふえ、交わす挨拶の言葉の中にも春を待つ笑顔が季節を感じます。

*このコーナーの記事は、すべて投稿者から掲載許可をいただいております。 編集子

    

 

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書籍紹介
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エネルギー技術の
 社会意思決定

日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
 定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本

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教会における女性のリーダーシップ
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント 
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
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「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
定価 2000円 

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「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
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「十戒と主の祈り」
鈴木英昭著
 「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
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われらの教会と伝道
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本

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さんびか物語
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円

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