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2023年7月号  №193 号 通巻877号
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   『ありがとうございます』

この11月号の発行の準備中にも、被災された方やその親せきや友人の方々からのメールを沢山いただきました。信州、関東・東北という広い地域でも被害は将来の農山村の存続自体への深刻な今後の問題提起になりました。過度に集中した都会のインフラの脆弱さは、2020年の東京オリ・パラ開催後の課題となるでしょう。

今は、被災された皆様の今後と地域、経済、生活、健康の対応が最優先。自治体職員の皆様、医療関係の方々や日常生活に欠かせない仕事に従事されている方々が守られ、整えられることを、祈り、願うのみです。

 

 2019年9月16日から2019年10月15日までの誕生日や孫の誕生感謝献金、結婚記念感謝として、また、文書伝道「つのぶえジャーナル」事業への寄付金としていただきました。感謝してご報告いたします。

神崎 昇様 山本あずさ様 佐藤のり様 朝比奈恵子様 近藤諄一様 近藤明子様 加納さおり様 西島希美様 馬場暁美様  匿名3名様

 

*寄付金口座…郵振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社 

また、お便り下さる方やお友達への紹介はこのメール アドレスをご利用ください。多くの「ジャーナル友さん」が与えられるように願っています。

    osamura@kind.ocn.ne.jp 

*「つのぶえジャーナル」はこれをご利用ください。

http://tunobue.blog.shinobi.jp      

(米国南長老教会文書伝道事業)刊行責任者

   つのぶえ社代表   長村秀勝

 

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 「今月のことば」

 

 まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、

みまえに近づこうではないか。

 

           =ヘブル10:22=

 

 大雨や氾濫に遭われた方々や多くの支援活動に参加されている人々に、神様のお守りと健康をお祈りいたします。一日も早い復興のために活動されておられる自治体職員の方々のおられることを知る時、謙虚にそのお働きに尊敬の思いで、祈らせていただきます。残暑は健康を蝕みます。ご自愛ください。

 

 身近にいろいろのことが起こる時、時として不安になったり、不公平や理不尽な思いを持つものです。そのような時こそ、自らを振り返って見ることは大切です。

 

 「まごころを持って」「神に近づく」という二つの言葉は、なんと尊いお言葉でしょう。驕り高ぶる心や振る舞い、卑屈な思いに陥る日々に、この二つの言葉は、より良くもせず、より悪くもせず、ありのままの姿で神のみ前に行くことへと導いてくれます。

 

 神のみ前に、性質、心、思いを、そして自分のあるがままの内なる生活、外なる生活を置くことでもあります。もし、私たちが自分の見る一部を、または自分で「した」と知っていることを隠したり、見逃がしたりしようとすれば、もはや、私たちは「まごころ」を持ってはおりません。偽り者であり、不誠実であります。そして救いの道は、キリストにあっては閉ざされていなくても、私たちには閉ざされるのです。

 

 また、私たちキリスト者が使う言葉に「心からの真実・・・」という言葉をよく口にいたしますが、本当にそうであるかを、今一度、自分に吟味させます。

 日々の生活に「真理の帯を腰にしめ」、罪人に着せられる「義の衣」も、真理の帯で締められていなければ、脱げ落ちてしまいます。「あるがままに」、神のみもとに行くことを許されるのは、神の愛のゆえに、やさしいことだと考える者は、自分をまだ知っていないのです。「まごころをもって神に近づくことが出来るように、神の助けを祈りましょう。

 

 

   「小閑記」

 

  わが魂はもだしてただ神をまつ。

     わが救いは神から来る。  =詩篇62・1=

 

 人にはそれぞれの環境や年齢の差異はあっても、ふと自分を振り返る時が訪れるといわれます。

 この冒頭の聖句は、それを私たちに考えさせる大切なみ言葉であり、時でもあります。

 

 ダビデは、その生涯の夕暮れを迎え、過ぎ去った時のことを振りかえって立っています。

 ダビデは何の屈託もない羊飼いの少年として、丘の上や花の咲いている野で、動物に囲まれて遊んでいた日々を思い浮かべます。また王位に就くまでの困難な狭き道をも思い浮かべています。自分が低く下り、高く上がるのを見、またすべてのことを、人生の真のはかりにかけてみて、幸福はどこにあるかを究めなければならなかった時のことを見て、結局は長い道を経て、神の中よりほかになかったことを、知り、知らされ、それを結論としてます。

 

 自分の幸福は、富にも貧にも、名誉にも不名誉にも、病にも健康にもなく、ただ神にのみあるという教訓を学ぶには、多くの時間と失敗と手間のかかったことを知ろうとしています。多くの人は生涯をかけて、この世に幸福を追いかけて暮らします。

 魂はこの歌を昼も夜も聞きます。「もしわたしがあそこまでやり、あれだけのものを得ていたなら、幸福だっただろう」と。

 しかし、一人として、神を見いだすまでは幸福にはなれないのが真実であります。ダビデは羊飼いであった時よりも、王となってから嘆き悲しみ、涙することが多くありました。富む者は貧しい者よりも心配も多いのが世の常であります。財産を増やす者は、悲しみも増やします。

 

 しかし、己が生涯を喜んで神の救いの手と父なる神の手に委ねる者は、命の川から命の水を飲み、平和を与える宝を見いだすのです。人生の真の平和と喜びを得たいと真に願う者は、先ず神を見出さねばならならないと、この冒頭のこのみ言葉は語っています。

        

「人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる」(箴言16:9)。

 

世田谷通信(193

猫草

 

直径30センチほどの小さな睡蓮鉢に4匹のメダカが泳いでいる。水草が茂ってよく見えないが、長生きしているところをみると、ちょうどよい密度なのではないかと思う。ちらっと見える姿は、丸々太っている。お向かいの家にもおそろいで買った同じ睡蓮鉢があるのだが、あちらは満員電車なみの過密さ。メダカのサイズも小さいように見える。

多頭飼育の崩壊現場は辛すぎて直視できない。ニュースなどで取り上げられるたびに目を背けてしまう。自分が人混みは苦手だし、ある程度の広さ、自分で自由にできる空間がないと文字通り息が詰まる。

うちのウサギ達は小型犬用のケージ2個とウサギケージ2個をくっつけて自由に移動できるようにしている。奥はトイレスペース、センター2室はそれぞれの寝場所、手前がリビングダイニングという感じで使い分けているらしい。3LDK、贅沢なものだ。

先日、上野にある国際こども図書館に行った。その昔は帝国図書館だったという。ルネサンス風建築の堂々たる文化財級の本館とアーチを描く新館からなる優美な建物だ。コレクションは児童書だけで40万冊。ゆったりした棚に高い天井、精巧な彫刻の施された柱、そこに並ぶ完璧な分類の児童書の数々。ため息しかでない。ホコリをかぶっていたり、奥に入っていたり、ましてや横倒しなんて一切ない。これでも司書の端くれなので、これを維持管理しているのが、どれほどの労力と知識に支えられているのかは、理解できる。秩序ってこういうことだよね。これだけ細かく分類ラベルを貼ればきちんと配架できる、でも真似できません。日々、小学生達がてんでバラバラに手にとって消耗していく学校図書館、読まれて壊れてなんぼの世界とは違う。

それにしても棚に余裕のあること。本を並べるのは両端から1/3程度に留め、中央のスペースは表紙を見せている。いかにも美しい。手に取りたくなる書棚。これは真似できるかもしれない。がんばろう。

モノや人の密度と、それにふさわしいだけの広さ、空間。それは人工物、自然の世界いずれにも、快適さに通じる方程式があるのだ、きっと。

 

   『美しい朝に』・・59・・

 

「朝の祈り 夜の祈り」

        J・ベイリー著

        新見  宏訳

 

 朝

 

 すべてのものの創り主なる主よ、あなたの創造の力から最初に光が生まれ、あなたはこの世の最初の朝をごらんになって、それをよしとされました。今、窓を通して射し込み、わたしを新しい日の生活へと呼び起こすこの光のゆえに、み名を賛美いたします。わたしのからだの中に脈うつ生命のゆえにみ名を賛美いたします。

 わたしの出てゆく、かがやかしく美しい世界のゆえに、み名を賛美します。

 地と海と空と、走る雲とうたう小鳥のゆえに、み名を賛美します。

 わたしに与えて下さった、なすべき仕事のゆえに、み名を賛美します。

 わたしに余暇を過ごすために与えて下さったすべてのもののゆえに、み名を賛美します。わたしの友のゆえに、み名を賛美します。

 音楽と書物、よき伴侶とすべての清潔な楽しみのゆえに、み名を賛美します。

 

 おお、ご自身のとこしえに慈愛にいます主よ、この朝のひかりがわたしにもたらす喜びと同じ喜びを持つことのできない人びとに、わたしがいつくしみの心をいただくことを得させてください。

 いのちの鼓動の弱まってゆく人びと、陽光のふりそそぐ時間にも床に横たわらねばならない人びと、日の光からさえぎられた盲目の人びと、余暇のたのしみを味わうことのできない多忙な人びと、働く喜びを持たない失業者たち、愛するものを失って心傷つき、寂しい家庭にある人びと、これらのすべての人びとをあわれんでください。

 

 おお、消えうすれゆくことなき光よ、この日の光がいま窓を通してこの部屋に流れる時に、わたしの心の窓をあなたに向かってひらき、わたしのいのちが、あなたの臨在の輝きに満たされるようにしてください。あなたのみ顔の輝きで、わたしのすみずみまで照らしてください。わたしのうちにある何ものも、この輝かしさをかげらせることがありませんように、人の光として生きられた主のみ霊よ、夕べになるまでわたしの心を支配してください。  アーメン

 

 夜

 

 とこしえにいます主よ、あなたは永遠の光のうちに住まわれます。この世の光のあせてゆく今、わたしはあなたの臨在の輝きをこい求めます。

 あなたは疲れを知らないかたです。今、わたしの五体が重く、精神もおとろえはじめるとき、わたしのたましいをあなたにゆだねます。あなたはまどろむこともありません。今、眠ろうとして横たわる時、わたしの身をあなたの守りに委ねます。

 あなたはとこしえに見守ってくださいます、今、力なく横たわる時、あなたの愛によりたのみます。

 神よ、眠りにつく前に、きょう一日のわたしの行ないを、あなたの永遠の光に照らして省みたく存じます。わたしは、義務を怠ったことを、深い悔いとともに思い起こしています。わたした、無情な言葉を吐いたことを、悲しみとともに思い起こします。わたしは、卑しい思いをいだいたことをはずかしく思い起こしています。

 神よ、これらの記憶を、わたしを救うためにお用いください。そして、永遠にこれらの記憶をぬぐい去ってください。わたしはきょう、この世界の美しさを、喜びとともに思い起こします。わたしはきょう、他の人びとが行った親切な行為を、楽しく思い起こします。わたしはきょう、わたしにさせてくださった仕仕事と、学ばせてくださった真理を、感謝とともに思い起こします。

  神よ、これらの記憶を、わたしを謙遜にするためにお用いください。そして、永遠にこれらの記憶をわたしの魂に住まわせてください。

 

 眠りにつく前に、しばらく、あなたがわたしの人生に与えてくださった愛情と友情とを喜ぶことをおゆるしください。わたしは、・・・と・・・とを親しく覚えおぼえてうれしく思います。かれらはわたしの知らない神秘のかなたに去りましたが、あなたの愛と守りのうちに必ずあると信じます。わたしはま・・・や・・・と今も友であることをうれしく思います。わたし自身の魂とともに、かれらの夜の闇の間お守りください。枕するところを持たない人びと、また横たわりながらも、苦痛や不安によって眠ることのできない人びと、すべてに、あなたのあわれみを、われらの主イエス・キリストのみ名によってこい求めます。  アーメン

 

 『その愛のゆえに』

   =時々の記=

    (162)

8月26日

1、2度低くなったので、虫たちは秋を感じたのでしょうか。昨晩から虫たちがにぎやかに鳴き始めました。私にわかるのはコオロギ、とクツワムシ、それにすいっちょんぐらいです。鈴虫は残念ながら聞くことはできません。鈴虫はとても大切に虫かごに入れて育てなければ声を出すまでは成長しないといわれています。最近ではコオロギも鳴き声が小さくなってきています。静かな田舎の夜を元気づけてくれています。

世田谷通信さんの課題図書に関してのコラムは多くの子どもたちが課題図書の話になるとうんざりしていたのを思い出しています。

主人はめまいがなかなか良くならずに困っています。それでもリハビリには出かけましたが、いつもよりも早い目に切り上げて帰ってきました。車の運転はとても危険に思いますので、これからは運転の下手な私が上野までいかなければなりません。

おしゃれなるカミキリムシに出会ひける。

崩れても続きピンクのバラ咲きぬ。

鈴鹿峰に育ちてをりぬ雲の峰。

電線にたむろしてをる帰燕かな。

ヒグラシや夜の明けぬるを喜びて。   馬場路哉

8月29日

 昨夜はとても激しい雨が降り続きました。恐ろしいほどの雨でした。今朝からも一日大雨という予報でしたので上野までいくのが心配でしたが、何とか二日目の検査に出かけることができました。

主人は13年前三重大学病院で心電図を調べていただいたときに、“あなたの心臓が弱いので、抗がん剤治療はできません”と言われたのを思い出したようで、先生にその旨を伝えていました。抗がん剤が効かない、がん患者のために三重大学の先生方からはその治療法にあたって何度も検討会をしてくださったというのです。手術と放射線治療でやってみましょうと。ところが腫瘍があまりにも大きすぎて骨をかなり削らないと取り除くことができなかったのです。その骨の代わりにチタンを埋めてもたせているのです。そんな体で13年も生かしていただいて、今は本当にただ最善を尽くして治療に励みますが、その裏では神様のみ旨にお任せしますという思いが私たちにはあります。これからの一日一日がとても貴重なものになると思って生きます。

8月30日

 今日から24時間測定の「ホルダー心電図検査」に入ります。明日、また上野まで行きます。こうしてきちんと診ていただいてできるだけのことをするという考え方は大切ですね。今日は行きだけ主人がゆっくりと運転してくれました。帰りは私の運転です。二人三脚で歩んでいます。

8月31日

 24時間の血圧測定が終わりました。体から検査器具を取り外してもらい、今夜はお風呂に入ることができます。4日間、上野まで車で無事に往復できてほっとしています。

休憩し動悸を鎮め登高す。

鍼灸師なる同級生の墓参り。

伊賀の村門に続ける青田かな。

時折にまぶしさを覚ゆ残暑かな。    馬場路哉

今度は9月13日です。その日に結果が出て、心臓や脳のMRIの結果についての説明があります。

9月2日

9月がスタートしました。残暑が厳しいです。

秋暑し目まいおぼゆることありぬ。

墓地の草刈りに一度の里帰り。

嬰児の畳で遊ぶ残暑かな。

夕方に崩れて行きぬ雲の嶺。

高らかに滝の響ける棚田かな。  

最近、夏の疲れが出始めてきました。

ヒグラシや夜明けの時を教えられ。

大いなる扇に似たる棕櫚茂る。

ぶら下がるホウの果実や風涼し。

石塔や捲くこととなる除草剤   馬場路哉

910

 お隣の90歳になる方と路でお話ししました。“暑いですね、まるで真夏ですね”“真夏以上やね”と返ってきました。秋らしくなるのは一体いつなのでしょう。萩の花も今日見ると疲れたように枯れていました。コスモスが秋風に揺れ始めると空気も澄んでくるのでしょうか。そのような日を待っています。

暑さ負け教会しばし休まむと。

ヒグラシも朝の空気も清澄に。

朝顔や淡きピンクの揃ひたる。

家の跡のうぜんの花伸びにけり。

電線に数多の帰燕止まりをる。  馬場路哉

主人は目まいが少し落ち着いてきたのか、13日の検査をキャンセルしました。

二つの検査もクリアしながら、最後の検査をやめてしまうとは、どういう心境なのでしょう。それなりに考えがあることでしょう。私は一切意見をしません。

馬場暁美

「上野緑ヶ丘教会会員」 

 

 

  眸(ひとみ)・・103・・

 

☆ 「ジャーナル友さん」の中には、この夏の暑さで体調を崩された方も多いかと思いますが、そうでない方も含めて、秋をお迎えださい。奈良の自然好きな「いわゆるママ友さん」に教わり、写し方の勉強中です。2枚の写真は、写真好きの長男が撮ったものです。ご覧ください。1枚は、平城宮跡にツバメが寝ぐら入りするのを観察に行った時のものです。私は夕映えや星空観察に癒されるタイプですが 今の住居からは明る過ぎるネオンに遮られ、土星や金星が拝める程度です。もう1枚は(「その愛のゆえに」の写真)、次男が虫を追い払っている場面ですが、太陽光がきれいな一枚です。夕暮れの真っ暗な中、ツバメ達が帰ってきた時のものです。  奈良県 NRさん

     

   通所時間と重なった台風で、職員会で話し合った結果、短い時間でも送迎

することにしました。避難勧告が出ていても避難出来ない人には、不安を煽らせる言葉ですね。皆さん身支度して待っていてくださいました。不安で心細い顔から安堵の笑顔になり、私たち職員もほっとしました。デイサービスの方々をどうするのが良いのか、今回はお迎えに行けましたが、もっともっと事前に研究する必要を学びました。 神奈川県 Y・Jさん  

 

   「隣人を愛しなさい」と聖書に教えられてはいたが、何に一つしてきませんでした。と言うより無関心でした。下町の幼馴染の町ですから、お互いに声を掛け合うのが当り前でしたが、それも一変しました。あちこちのマンションやアパートが出来て顔見知りが少なくなったのです。「都会の高齢者の孤立・孤独死」が身近に起きたのです。アパートに引っ越して2年目の老夫婦が、この暑さでお部屋の中で亡くなっていたのです。発見されたのは1週間以上もたってからでした。だいぶ前に、NHKのTVで「XXX隊」(たい)とかの地域活動を見ていたのを思い出し、「でしゃばり隊、おせっかいし隊」を始めました。驚いたのは、その活動に参加したメンバーは皆さん「おひとり様」だったのです。教会ではできないことですが、個人で気心の知れたお仲間さんとならできますね。私たち夫婦も週に2回の集まりに参加し、お仲間を増やしたいと思っています。 東京都 E・Tさん    

身近な出来事を「眸」に投稿してください* 編集子

 

十戒と主の祈り・・・8・・・2         鈴木英昭著

 

        (元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)

=父と母=

  第五戒③・しつけ

       サムエル記上2:22~25、箴言13:1、13~1424

 祭司エリの実例を読みましたが、親が子に対するしつけのことを聖書から考えることにします。「良薬口に苦し」と言うことわざがありますが、今では、良薬が必ずしも口に苦いわけではありません。カプセルに入ったり、錠剤であったり、時には糖衣錠であったりするからです。

 しつけも、ただ高圧的に、がみがみ言えば、逆効果で反発を受けることになります。そのため、知恵をもって覆い、愛をもって与えるということをしなければならないと言われます。そうでないと、ただ苦いということで、口から吐き出されてしまうことになるからです。本気でしつけをするためには愛情が必要ですから、しつけをしないということは愛が足りないことを示していると言えます。実際しつけが効果を現すのは、親の愛が知られた時です。そして、神はしつけを子供のうちにするように言われます。

 「子は父の諭によって知恵を得る。不遜な者は叱責に聞き従わない」(箴言131)。

 「鞭を控える者は自分の子を憎む者、子を愛する人は熱心に諭しを与える」(箴言13:14)。

 親が、ただ口だけで、「やめなさい」、「してはいけません」と言うだけで、何もしていないのなら、それは「しつけ」をしたことになりません。

 祭司エリは、祭壇で働いていた息子たちが、幕屋の入り口で仕えている女たちとの間に淫行のうわさがあるのを知らされ、そのことを諫めています。しかし、彼らは「父の声に耳を貸そうとしませんでした」(サムエル上2:25)。エリは彼らに何ら刑罰を科していません。

 この結果が現れることになります。31314節で、神の裁きはサムエルを通してエリに告げられました。エリは息子たちを諫めはしましたが、罰をもって咎め、悔い改めに至ることをしなかったため、エリはその罪を裁かれたのでした。息子たちは戦死し(4:11)、エリも首の骨を折って死にました(418)。

 

 両親は、自分たちと子らが神との恵みの契約の中に入れられていることを喜んでいて、その喜びの中に子供たちを育てている時、子供たちもその恵みの中に入れられていることを理解するようになるでしょう。親が神を愛し、その律法を守ることを喜び、主の日に礼拝に参加することが幸せであるなら、その歩みが自由となります。嫌々ながら主に従うのであれば、そこには自由はありません。

 私たちは、十戒が与えられた出エジプトという時代に生きているわけではなく、カナンという場所で生活しているわけでもありませんが、神の恵みをこのように親を通して受けていることでは、十戒が与えられた時代と同じです。

 

=父と母=

  第五戒④・親に従う

        申命記21:18~21、ルカ2:41~52 

「父と母とを敬う」ということを学んでいます。出エジプト2117節の「自分の父母を呪う者は必ず殺される」という言葉は厳しいもので、実行された例は聖書にはありません。

 親の苦労は、親になってみて、子が思うように育たない時、自分も親にそうしてきたのではないかということを考える機会になります。子が思っている以上に親は子を思うものです。しかし、近年頻発する事件を思うと、変化を感じさせられます。

 両親が間違ったことを子に要求した時でも、親の言葉に従わなければならないか、という問題は、理屈の上ではそれほど難しいことではありません。神の言葉に反することを求められた時、例えば、偶像を礼拝するように親に言われた時、その命令に従わないとしても、この第五戒の違反にはなりません。親の命令そのものが第二戒に違反しているからです。敬うべき親には変わりありませんが、その命令には親の権威はありません。

 親を敬うということは、親に対する言葉において、態度において親に敬意を示すことです。親が話している時、静かに十分聞いたうえで、話すということもそうです。何かを与えられた時、親に感謝を言い表すことも敬意の一つです。

 使徒パウロは、夫婦のどちらかが信者になり、信者でない夫か妻が、一緒にいたいと願っている場合、離縁してはならないと命じています(Ⅰコリント7:1216)。ですから、人間関係の中で、神が恵みを与えようとしておられる事実を大事にしなければならないということになります。子が信者になった場合、未信者の親を軽蔑してはなりません。まして、信仰が親と違うからと言って、一緒に住むことが出来ないという理由にはしません。むしろ、信者になってからは、未信者の時以上に両親を敬うことが求められます。

 聖書の中の二つの実例をみましょう。寡婦となったルツは自分の両親とモアブの地を捨て、これもやもめとなった義理の母ナオミの勧めを拒んで、彼女と共にユダの地に移り住みました。ナオミの神を自分も信じ、ナオミを母として敬って仕える道を選んだからでした。

 読んでいただいたルカによる福音書の箇所は、12歳の時のイエスについて記されている出来事です。両親は、イエスのことを叱りました。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して探していたのです」。すると、イエスは両親の誤りを指摘なさいました。「どうしてわたしを探したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを知らなかったのですか」と。

 しかし、少年イエスは両親の誤りを指摘しながらも、ナザレに帰り、「両親に仕えてお暮しになった」とあります。誤りを指摘しても、親を敬うことはもっと広い義務であることを教えています。

 

 

 バラ・マカルピン 日本伝道百年史・・22・・   

     水垣 清著

 (元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)

 

11 名古屋地方とマカルピン・・3・・

バラ先生にとって大きな問題は、この年123日、東京数寄屋橋教会で開かれた第6回日本基督一致教会大会で(議員107人、教会72個)、日本基督教会と改称された大会であったが、それは原案の信仰箇条(ウエストミンスター信条を改正して、英国のプレスビテリアン教会の採用したもの)を全廃して、これに代わるものとして使徒信条のみを採用するという修正案が、バラ先生の最も信頼した愛弟子の稲垣信(海岸教会牧師)から出されたので、議場はもちろん宣教師たちもその乱暴な非プロテスタント的時代逆行の議案に唖然としたのであった。

しかしこの提案には、当時の時代的背景があった。それは、1、日本の一般信徒の信仰レベルは、ウエストミンスター信条を受け入れるには、神学的すぎること。2、従って、全教会員の受け入れうる唯一の告白信条が必要であること。3、当時のキリスト教界は、新神学の流入とともに、特に、教会制度、組織、信条否定のプリマス・プレズレン派によって、激しく動揺し教会脱出者が続出し、分裂、解体の危機にあったからである。

プリマスの名は「教会荒らし」として、いみ嫌われていた。特に稲垣信教師の海岸教会でもプリマス派によって動揺し、これに加わる長老、神学生、有力信徒たちの教会退会が多かったのである。

その原因は、教会制度や信条に対する知識の不十分さによることながら、こうした教会の現実問題のために、信条や制度はなるべく簡潔に実際的である方が良い、と言うのが稲垣牧師の使徒信条採用案となったのである。

この討議は3日間に及び、遂に使徒信条に前文を付すことによって、満場一致で可決されたが、この稲垣牧師の提案を聞かれたバラ先生は、悲憤慷慨され、数日間は、稲垣牧師から握手を求めても、これに応じず、話しかけられても返事もせず、恐ろしい眼で稲垣牧師を睨みつけられた、と言う。

リフォームド(改革派)の信仰に立っておられたバラ先生から見れば、日本のプロテスタントの主流である日本基督教会が、使徒信条のみで立とうとすることの危険とその信仰の告白を嘆かれて、これは悪魔の業であると思われたに違いない。

時代迎合主義が知らず知らずのうちに、当時の教会の主流派に将来への方向を誤らしめたこの出来事は、重大なきっかけであったと言えよう。

=写真=

米国に於けるJ・A・マカルピン師とその家族(1941)

 

 

「キリスト教百話」

  

問26 前回の話では「最後の審判」があることが望ましいように言われましたが、その辺のことが今一釈然としませんので、もう少し説明してください。

答・・4・・

 ところが、彼の悲惨な状況を聞いて見舞いに来た友人たちはあまりの悲惨さにものも言えないでいましたが、ヨブが、あまりの辛さに耐えかねて「こういうつらい日に会うのなら、生まれてこなかった方が良かった」と呟くに及んで、友人たちは「君は誰にも知られないところで神様に罪を犯しているに違いない。でなければ、こんなひどい目に会わされるはずがない」とか、「君の信仰が足りないので、どれほどの苦難に耐えられるか神様が試しておられるのだ」とか、いわゆる因果論とか、教育目的論などで、ヨブの苦難の意味を解説して納得させようとしました。

 しかし、ヨブには、友人たちの物分かりぶりの説得には承服できません。そういうことであるならば、ヨブには既に解決をつけておれたからです。ヨブの苦悩は「正しいものがなぜ苦しまなければならないか」が分からないことにありました。そこで彼は、神様に直接「なぜこうなのですか」と、神様の胸ぐらを掴むかのように、答えを迫りました。

 これに対して神は答えるというより、矢継ぎ早の質問を発せられました。例えば「あなたはオリオン星座の形を変えることが出来るか」とか、「君が馬に力を与えることは出来るか」とか、こんにちなら「君は鰻の生態を全部知っているのか」とか「UFOの正体が確認できていないとでも言うのか」などという問いでした。

 ヨブは「知りません」「分かりません」と言うしかありませんでした。これを聞いて神様は「あなたには知らないことや分かっていないことが一杯あるのではないか。そういう無知でもって、正しい人(義人)が苦しむわけを知ろうとでも言うのか、この馬鹿もん!」と一喝されました。ヨブは、これによって「分かりました」と言ったのです。

 ヨブが分かったことの一つは、自分がいかに無知であるか、ということでした。そういうことの見当違いを知ったということです。それと、もっと大切なことは「この馬鹿もん!」と言われたことによって、自分のことを知っていてくださる生きた神様に出会うことが出来たことでした。これを、ヨブの「見神経験」と言います。また、ヨブを巡って展開される問題追及を「神義論」と呼んでいます。

 「正しい人がなぜ苦しむのか」という問いに対して、納得できる理論が展開されたわけではありません。しかし、ヨブは満足したのです。不条理があっても、そのことが意に介することではなくなったのです。それは、不条理を負うものに対する一つの解決であるということが出来ます。

    篠田 潔

(日本基督教団隠退教師・

元中部日本放送「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者

 

 

第91課 キリスト者生活の実践的義務

=12:1~15:13=・・・47・・・

F 信仰の強い人たちは、その信仰の自由をどのように行使するべきか。

                  ・・・14:13~23・・・

 「しかし、疑いながら食べる者は、信仰によらないから、罪に定められる。すべて信仰によらないことは、罪である」(1423)。

 

   「その人が自分の行為を正しいとどんなに確信をもっているにしても、その確信に基づいて行動することを他人に期待してはならない。もしある人があることを悪いと考えているなら、その人にとってそのことは悪いのである。だから、神がある肉を食べることを控えるよう命じておられるかどうかについて人が、ためらいながらその肉を食べるならば、彼は明らかに罪を犯したのであって、自分を定罪の下に置いているのである。何故ならば、すべて信仰によらないことは罪であるからである。私たちがそれが正しいという確信がないことをするならば、それは私たちにとって悪いことなのである」(ホッジ)(1414にも同じように教えていることに注意せよ)。

 

   「罪に定められる(damaned)という訳語は正しい。しかしそれは永遠に滅びを意味しているものではなく、「有罪である」の意味である。弱いキリスト信者がもし、ためらいを感じている肉を食べて、自分の良心を欺く罪を犯しても、彼がその肉を食べる者は、救いの望みがないなどとは決して言っているのではない。                                                         

 

    「すべて信仰によらないことは罪である」(1423b)。

アルフォードは次のように解釈する。「キリスト信者がその中に生き、動き、また、願い、望んでいる大きな要素である信仰に根ざさず、したがって、それと調和しないことは全て罪である」。信仰と言う原則から出てこないことをキリスト信者が行なうならば、それはすなわち罪なのである。

 J・G・ヴォス著   

    玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)

 

   『ほっとひととき「みんなのコーナー」』

 

   初秋が近くなると山々は様変わりです。紅葉が日に日に多くなりました。そうしてそれが落ち葉となって霜が覆うようになると、今年も無事に終われそうな予感がします。台風の被害もあまりなく、例年通りの収穫でみんなの顔も穏やかに見えます。祖父の時代なら近くの温泉に骨休めに出かけたものですが、最近は海外旅行です。私も数回、JAの企画で参加しました。言葉の不便はありましたが、楽しい思い出になっています。今は、足腰痛のために昔からの湯治場に家内と出掛けます。 熊本県 TSさん

 

☆ 秋が近づくと困ったことが起きます。最近、山にいた猿やシカが毎日畑に現われて来ることです。生きるためとは分かっていても、その被害はだんだん多くなってきています。私たちが動物たちの住みかに近づいたのと、山の手入れの放置にも関係しているのでしょう。私たちの年齢では山の手入れは出来ません。「動物との共生」など無理で、その内にこの地域も動物王国?になるでしょう。過疎地域の今からの姿です。 奈良県 T・Mさん  

 

☆ 「ジャーナル友さん」、お元気ですか。残暑ですね。毎月、「ジャーナル」見るのを楽しみにしている者です。要介支援2の私の日々は、週3回、ヘルパーさんに来ていただいています。食事1回、お掃除2回と訪問介護も受けています。妻を亡くして12年目で、1年前までは何とか自分で身の回りのことは出来ていましたが、骨折と手術後はそれが出来なくなってしまいました。地域の民生委員の方の助言と協力で、そのような生活になりました。最初は、人のお世話になんかなりたくないという性格の私でしたが、骨折入院で、多くの人に支えられることを知り感謝することを学び、退院後はそういう生活になりました。

あまり人付き合いが苦手な教会生活で、皆さん敬遠気味でしたが、今は牧師先生や主にある教会の方々のお祈りに感謝しています。これからは、在宅礼拝?と「ジャーナル友さん」のお声に励まされて新たな信仰生活を始めています。 岡山県 YYさん

 

   ここ数年、毎年のように大雨です。山からすぐ畑という土地柄で水害、洪水の多い地域ですから昔から対策は採ってきましたが、想定外とか観測史上初めてと言われるとどうしようもありません。稲刈りを待っていた田んぼは湖のようです。救助用のゴムボートが行き来しています。ご近所のお年寄りと犬ちゃんが救助されましたが、また明日も雨の予報。2階生活の私たちは避難先には行けません。電気は使えますが、気が休まりません。 佐賀県 TFさん 

 

   ここ長崎には沢山の島があり、狭い道と坂の多いところで、各地に被害が出ています。全国向けのテレビは都会の様子や被害の多いところが中心ですが、離島に近いところも同じ被害に遭っています。そういうところもあるのです。災害弱者などの言葉は嫌いですが、傾斜地の作物の被害も出ていて、私も含めて落ち込んでしまいます。 長崎県 DBさん

 

   消防団の人や自衛隊の人が腰までの泥水の中での救助活動で本当に涙が出ます。家の中は泥だらけで今は2階の部屋にいます。お隣りの家は平屋なので、今は私たちと一緒に避難しています。幸い、早目に水と食料は1週間分は確保してありますから分け合って食べています。「ジャーナル友」の皆さん、お祈りください。 佐賀県 PYさん

 

**********

 

▲ 天気予報では、また雨が降るようです。子供たちの学校のことも心配ですし、子供の熱中症など心配です。健康管理には気を付けます。何時もお世話になっている内科の病院もお休みです。

▲ 私の散歩道は大勢の人の散歩道でもありまして、おはようございます。今晩は、の挨拶の人や、お元気ですか、暑いですねの人もおられます。だんだんと朝晩の風が涼しく感じます。庭や歩道には百日紅やコスモス、河原にはススキや曼殊沙華が、夏の暑さの終わりを教えてくれるようです。「ジャーナル友さん」のご健康をお祈りしています。

▲ 千葉に家を建て、東京に通勤の生活が、この台風と大雨で「当然」とか「平穏」に甘えていたかを痛いほど知らされました。幸い停電は2日、通勤電車も2日で本数は減っても回復しましたが、オール電化で見晴らしの良い高層マンションの友人の所は今も停電が続き、「便利は不便と隣り合わせ」の生活のようです。・・・。

*このコーナーの記事は、すべて投稿者から掲載許可をいただいております*   編集子

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書籍紹介
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エネルギー技術の
 社会意思決定

日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
 定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本

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教会における女性のリーダーシップ
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント 
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
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「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
定価 2000円 

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「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
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「十戒と主の祈り」
鈴木英昭著
 「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
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われらの教会と伝道
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本

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さんびか物語
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円

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