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『ありがとうございます』
連日の猛暑でしたが、数日前からの涼しさか、秋のお便りが多くなりました。兵庫県の丹波におられる「ジャーナル友さん」からは、・・・。急な涼しさに静かだった虫たちがいっせいに声を出して鳴いています。昨夜はコオロギがとても賑やかに威勢よく鳴き続けてくれました。秋だなと感じさせてくれたひと時でした。ここは、神戸などに較べると1ケ月近く秋の来るのが速いので、直ぐ近くには初冬と言う感じです。夏の疲れを癒してくれる紅葉を待ちわびています。今は夏の疲れが出ています。気力は低下・・・。
2019年8月16日から2019年9月15日までのイースター記念感謝献金者、「つのぶえジャーナル」事業への寄付者の報告です。感謝いたします。
佐々木つね様 奥山理沙様 佐藤のり様 馬場暁美様 清水一郎様 加納さおり様 匿名2名様
*寄付金口座…郵振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社。
また、お便り下さる方やお友達への紹介はこの下のメールアドレスをご利用ください。多くの「ジャーナル友さん」が与えられるように願っています。
*「つのぶえジャーナル」はこれをご利用ください。
http://tunobue.blog.shinobi.jp
(米国南長老教会文書伝道事業)刊行責任者
つのぶえ社代表 長村秀勝
「今月のことば」
わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。
=Ⅱコリント5:1=
世界の各国の民族の歴史的行事には、その宗教の名は別にして、それぞれの名称は異なっても共通した思いで行われているものがあります。それは亡くなった者に思いをはせる心のひと時であります。記念日という国家行事であったり、個人では、日本では命日と言われる日を大切にしています。
聖書の言葉には、私たちの身体を何時かは取り壊されるべき家、幕屋、天幕にたとえています。それによって神様は、内なる真の人は、まったく独立したものであり、住むべき地上の家はなくなっても存在することが出来るのだ、と教えています。
確かに、どんなに美しい建物が土の中に埋められなければならないことは、悲しいことであります。しかし、落胆する理由はありません。なぜなら、神様は、私たちのために、新しい家を建てる備えをしてくださったので、誰もその変化を悔やまなくてよいのです。
パウロはこのことについては、何の疑いも持っておりませんでした。そしてこの深い確信は、パウロが常に勇気を持っていた原因であり、自らの身体を脱け出して、天より賜る住家を着て、主のもとに住むことを望んでいたのです。
「わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。・・・・。わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださるのは、神です」(Ⅱコリント5:2~5)。
最も美しい、最も深いキリスト信者の姿は、天国に行き、神と共の住み、救い主にお目にかかることであります。神は信じる者に天国を約束してくださったのですから、キリスト者は一人ひとり、毎日をこの確信を持って、日々を歩むことです。希望は確かな喜びになり、信仰の悩みに打ち克たしめる勇気へと導いてくださいます。
キリスト者の記念日は、主にお目にかかる先取りの日なのです。人びとは今は無き(亡き)者を思うこともありますが、大切なことは日々神様を、神様の思いをお迎えし、再会を喜び、その恵みを独り占めにすることではなく、多くの人に伝え続ける日にしたいと願う記念の日にしたいものです。
「小閑記」
しかし、イエスは女にむかって言われた、「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。
=ルカ7:50=
私たちの日々の中に、親しい人に、家族に「ありがとう」「感謝します」という思いと言葉、意識を豊かに持ち、口に出来たら、その毎日は、暗く憂鬱になるでしょうか。不快に思うでしょうか。笑顔に変わることでしょう。
この聖書のみ言葉は、私たちの一番望むことです。想像してみてください。
イエスご自身(救い主)の口から、「あなたの罪は許された」「あなたの信仰があなたを救ったのです」というお声を聞くことは、たぶん、地上で私たちが経験する、最大の喜びでありましょう。
この喜びをこそ、多くの人は、人が熱心に慕い求めても、祈っても、主イエスへの信頼なくして得られものではないのです。このイエス様に出会うまでのこの女性も、そうであったでしょう。しかし、熱心は無駄ではありません。イエス様は言われました。「あなたの信仰があなたを救ったのです」と。では、この女性を救った信仰には何があったのでしょうか。お手元の聖書をお開きになり、ルカによる福音書7章36節から50節を是非お読みになってください。そうして、その時の状況を想像してみてください。
「命がけ」「わき目も振らず」という言葉がありますが、この女性の姿には
必死な思いで、人をかき分け進み、イエス様の足もとに、罪あるままの自分を投げ出したのです。その姿が、イエス様の言われる「あなたの信仰が・・・」というお言葉になったのです。
この女性の姿は分かりやすいですが、自分に置き換える時、「自分を投げ出す」ことほど難しいことはありません。あるいは、祈りの時でも、神様とお二人の時でも、自分を曝け出すことは出来ません。ましてや、多くの人の前での、女性のあのような行動は、勇気ではなく、「罪を許されたい」という思いが、日々の生活の中にあったからこその行動ではないでしょうか。人それぞれに自分の中にある、得体のしれない邪魔者があるからです。でも、イエス様のみ前に進み出ましょう。
「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」をいただくために。
救い主のうれしきみこえ 天よりの平和を敷きひろぐ。
幸いみちたるその声に かぎりなき生命と喜びあり。
世田谷通信(192)
猫草
課題図書というのが5~6月毎年発表される。子どもの頃はこれが嫌いだった。課題は宿題に通じる、強制的な感じがする。そもそも読書は自由で、大人から学年に応じて読めと強制されるなんてまっぴらだと思っていた。読書遍歴は頭の中身と同等、他人の前で本を読むのも晒すようで好きではない。好きな本を聞かれるのも抵抗があって、いつも無難に「赤毛のアン」と答えることにしていた。そう言っておけば大人は納得するからだ。小学生で歴史小説や外国文学、古典SFを読破しているのは秘密だった。理解していたか疑問は残る。文章を味わうのとは無縁で、とにかく高速、丸呑みで読み潰していた。
偏った自分の読書傾向はさておき、図書室でずっと本に関わって、子ども達の読書離れという言葉を聞く。読む子は勝手に本を手にとって行くけれど、そうではない子もかなりの数がいる。きっかけづくりも必要なのだと思うようになった。本のPOPや紹介コーナー、課題図書というのも良いものである。本の専門家が沢山の新刊のなかから「これは」と思う本をピックアップしている。当然内容も深いし、興味をひきそうなジャンルも配慮され、読み物だけでなく科学的な本も含まれるようになった。
図書室での授業時間を少し借りて、それらの本を1冊30秒ぐらいで紹介していく。見所、概要、背景など、学年に応じて、それぞれ心に届きそうなフレーズを考える。紹介した後で、課題図書コーナーに皆が集まってきて、次々に本を手にとって貰えると嬉しい。ぱらぱらめくって戻す子もいるが、そのまま1,2頁読み、借りていく子も居る。本が好きな子は、これ面白そうという嗅覚が働くのだ。装丁やタイトル、わずかな手がかりからそれを拾い上げる。そうではない場合はうなぎ屋さんのように、外に向かって香ばしい煙をうちわであおぐ必要がある。うなぎと同様で、食欲をそそられて店に入ったものの、あの味を美味しいと思うか、あまり好きじゃない・・と思うかは、まあその人次第ではあるけれど。
『美しい朝に』・・58・・
小犬もいただく落ちたパン屑
この絵はマタイによる福音書15:21~28の聖書の言葉から描かれました。「女は言った。『主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。』 そこで、イエスはお答えになった。『婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。』」
はじめ私は、「落ちているのはパンではなく、小さいパン屑でしょう」といって、わざわざパン屑を書き足してやりました。ところが家内は、「パンは消さないで。大きいパンのほうがいいもの」と言いました。食いしん坊からではなく、イエス様の恵みをいっぱいいただきたいから、という気持ちのようです。
私たちはイエス様の恵みを小さく考えたり、少しだけでいいと思ったりします。その背後には、あとは自分で間に合わせますからという考えがあるのかもしれません。命のパンであるイエス様の恵みの中に、今日も生かされていきましょう。
岐阜県大垣市在住 H・N
**********
生かされている
自分では 何もできない私が
家族のやさしさによって
オレンジ・ジュースを飲み
アイスクリームを食べ
詩を作り み言葉を学ぶ
自分では 生きられない私が
神さまに
愛され
生かされている
水野源三第四詩集
『その愛のゆえに』
=時々の記=
(161)
7月16日
お変わりありませんか。参議院選挙がたけなわです。今は必至でどの立候補者も皆さんと握手を交わし一票の獲得に必死です。選ぶ者はその一票の重みを大切に受け止めなければならないはずなのですが、どうも、投票に行く気持ちになれません。年寄りの億劫さでしょうか。
濡れているアジサイに差す朝日かな。
尋ねたる、憩の汀みずすまし。
白鷺哉滋賀の青嶺をよぎりける。
カッコウや多羅尾の山のレストラン。 馬場路哉
まもなく梅雨明けでしょうか。それなのに、朝顔は一向につぼみをつけてくれません。このような7月は初めてです。朝顔が一凛咲いてくれるのを待っています。
7月22に日
私たち庶民にとってはどの政党になっても何ら変わらない苦しい生活が続きます。弱者や、若者たちに、もう少しよい環境を与えてほしいと願うものです。
期日前投票に出かけようと思っていましたが、入場券がなかなかとどきません。
仕方なく、昨日の選挙投票日に出かけました。広い体育館にたくさんの管理委員さんがおられます。それなのに投票するのは私たちだけです。それだけ関心が低いことがうかがわれました。
嬰児の確と抱かれ母子草。
泉なるため池ありて農捨てず。
万緑や刈りこまれたる茶畑あり。
アジサイや別れは不意のこととして。
大股で麦蒔く人に夕明かり。 馬場路哉
昨日の夕方、窓を開けますと、日暮らしがカナカナとなき始めています。
7月31日
朝から紫紺の朝顔が二輪も咲いて、とても元気をもらっていました。台所、廊下の床拭きをして、大物の洗濯物も頑張って仕上げました。体は疲れましたが、気持ちがすっきり致します。シェイクスピアが言っておりますように、人間は気持ちの持ちようで、気分が前向きの時は何事でもやり切ることができると。全くその通りですね。
七夕や習ひの願ひ二つ三つ。
ピンクなすバラ美しく崩折れぬ。
明けぬるや晴れを惜しめと時鳥。
美しき伊賀の青田に滋賀の山。
くちなしの咲くや一輪雨の朝。 馬場路哉
遅れていた朝顔がようやく毎朝一、二輪ずつ咲き始めました。
8月1日
連日の猛暑です。今まででしたら、何とか夏の暑さはクーラーなしで過ごすことができていたのですが、この猛暑にはエアコンをつけて除湿して、室温を下げなければ夜は眠ることができません。温暖化現象の影響のでしょうか、各地で35度越えですから、東南アジアの気候と変わらなくなりましたね。
エアコンが苦手だった私ですが、今年はエアコンに頼り気味です。
黒々と疑ひも無き青田かな。
つづれ折虎杖たけて車現れ。
あれこれと必死で祈る皐月闇。
ぬた場あり寝床もあるや草を刈る。 馬場路哉
この猛暑ですのに、あちこちから草を刈る音が聞こえてきます。田舎ではお盆前はとても皆さん忙しく草刈りに励まれます。里帰りする人たちが気持ちよく故郷へ戻ってきてくれるのを楽しみにしているようです。
8月7日
朝から蒸し暑い一日です。人間が便利な生活を進めていこうとすると、温暖化につながっていくのですね。自然界はこの影響をもろに受けて農作物がいつもと違う出来栄えになったり、お花が夏に咲かなくなったりと、とても悲しいですね。
やや低き土塀の内の桔梗かな。
家の脇一株太し鹿の子百合。
顔の汗拭くや力士の集中す。
祇園会の来ると玉蔓を切る。
高きより葛のなだるる川原かな。 馬場路哉
8月8日
おはようございます。甲子園では若者たちが真っ黒になって戦っています。
あのエネルギーは鍛錬と厳しい規律が培ったものなのでしょう。どの選手もきびきびとした動きを見せてくれてはつらつとしています。テレビの画面から応援する高齢者もなんだかその若さをもらって一緒になってプレーをしているようになります。
あずまやを設らふ(しつらふ)緑の川堤。
細やかな幸と績ぐなりミニトマト。
奥伊賀の山頂に梅雨の雲。
碁を打てる女性の試案汗滲む。 馬場路哉
馬場暁美
「上野緑ヶ丘教会会員」
眸(ひとみ)・・102・・
☆ 暑い毎日ですが、「ジャーナル友」の皆さん、お元気でしょうか。毎日、バスと通勤電車の日々です。職場には冷房が入っていますが、退社から家に着くまでの蒸し暑さは、辛いですね。退社の時に携帯の水筒にお茶を入れて持ち帰り、途中で水分補給しています。塩分と糖分補給のためにはチョコレートなどをハンドバックに入れてそっと食べています。駅を出たらスーパーで買い物、これが一番重たいです。家族の健康のために生野菜と果物や卵やお肉は必ず買います。休みの日は、娘が食事の担当でほっとする時です。その心づかいがうれしいです。 埼玉県 T・Mさん
☆ 夏休みで毎年遊びに来ていた孫たちのために、主人は、スイカとトウモロコシを植えて待っていました。毎年驚くほど背丈が大きくなる姿を見て、娘の苦労と喜びが分かります。育った家にいる間だけでも休んだらと言っても、私たちの世話を焼いてくれます。うれしいです。この夏の暑さも後少し。涼しい秋風が収穫前の畑に近づいてきます。今、孫たちとトウモロコシを食べていたところです。 滋賀県 A・Aさん
☆ 苦手な、人との接触の多い今のポジションにも少し慣れてきました。幸いにも理解のある上司で、よく相談に乗ってもらいます。そんな関係で仕事も上手くいっています。気持ちの余裕ができたのは確かです。イライラを家族の前では出せず、悶々としていた日々でしたが、今は年頃の子供と過ごすのが楽しくなり、前のような屋台や暖簾への寄り道はしなくなりました。まだまだ中堅ですが、後輩も何人かいますので、良い相談相手の上司になりたいと、日々を過ごしています。地方の物作り工場の職人です。 埼玉県 N・Rさん
☆ 今年の夏は本当に短くて、もうススキが秋風?に揺れています。コウロギの声も夕暮れと共に聞こえてきます。秋の実の柿も何とか庭先に出来ましたから、鳥たちは一安心でしょう。長い梅雨、短い夏、そうしてここ愛媛の山里は秋を迎えました。軒先の日除けも片づけなければなりません。「ジャーナル友さん」のご健康をお祈りいたします。 愛媛県 T・Mさん
☆ 田んぼの稲もきれいに刈られて、今は、畦には彼岸花とススキになりました。春先からの苦労が、今は感謝と満足感です。遠くに聞こえていた祭りの太鼓も音も消えて、秋の訪れです。今年も私たちの健康も支えられて、満ち足りた気持ちでおります。昔の建物ですから秋風のころからは暖房器具のお世話になることが多くなります。まだ少し先ですが早霜で陽に照らされた畑は、不思議な世界に変わります。・・・。 京都府 K・Kさん
☆ 私は事務の仕事が本当に苦手で、パートでも、非正規でも時給のことよりも、机の仕事があるかどうかを優先していまして、今は、車の交通整理や現場の整理整頓の仕事をしています。同性との関わりが苦手はわたしには、ヘルメットスタイルでピッピイと笛を吹き、旗を振っています。もう7年目で、現場の皆さんと同じように真っ黒に日焼けしている30半ばです。友だちも、なにもそのような仕事でなくても・・・と言うのですが、現場で働く皆さんは、外見は厳つく、乱暴に聞こえる言葉も、事故が一番怖いので大声の怒鳴り声になりますが、気持ちは優しいですよ。裏表がなく安心できます。母は早く結婚してほしいよと言いますが、この職場の雰囲気が好きで、その気はなく、当分、母を悲しませるのかな?これから猛暑、お仕事帰りにビールとなればいいのですが、これまたアルコールはダメなので、家にいる母の手作りで大満足です。健康なので楽しく、これからも頑張ります。両親と兄二人です。父も兄たちも会社勤めです。「ジャーナル」は、わたしのたのしみで、読み返し、読み返しして楽しんでいます。小柄な中年の女性?です。通勤は地下鉄ですから、内心、女性の視線は気になります。 東京都 K・Jさん
☆ 外国人観光客の増加で、日本ではない観光地や街並みになってきたことが、地元の深刻な悩みです。個人のモラルの問題でしょうが、団体客の場合は時間に制限があるのか、見物ではなく写真スポットに駆け出します。まるで大売り出しの買い物客です。私たち地元の商店街の人の仕事は、バスが出た後のゴミ掃除です。言葉が通じないので、どうにもなりません。観光収入も大事ですが、日本の良さを伝えるために何らかの制限を・・・という声が最近は、地元から出ています。国民性が出るのも怖いですね。 長崎県 C・Kさん
<身近な出来事を「眸」に投稿してください> 編集子
十戒と主の祈り・・・8・・・1 鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
=父と母=
第五戒①・両親を敬う
出エジプト20:12、申命記6:20~25
申命記6章24節の言葉のように、神がイスラエルを「今日あるように、常に幸いに生きるようにしてくださった」のですから、幸いであり続けるためには、「主を畏れる」ことから来ます。この時、エジプトから救い出された民は、荒野での生活をしていましたから、「幸いに生きる」ということは、物理的な幸いではないことが分かります。
二世代くらい前までは、家業を継ぐということが多くありました。そのために、親に教えられて一人前になっていくわけで、生活そのものが親に聞き従うということが比較的多くありました。しかし、教育の制度が普及、知識の伝達が早まり広まって来るにつれて、子供たちの知識が、比較的早い時期から親の知識を超える面が出てくるようになり、社会人になるころには、ごく限られた職種は別として、子は親と違う職業に就くことが多くなりました。さらには、親よりも高い収入を得ることもまれではなくなりました。そうした時、子が親を敬うのは、親の能力や経済力ではなく、親が持つ神への信仰と、子への親の愛が一層はっきりしてきます。
子の方が父母に勝る面があっても、子が父母を敬うのは、何よりも父母が神を敬って生きているのを見るからです。モーセも、主イエスも語っておられるのは、この点で共通しています。親の信仰の姿を見て、神への畏れを抱きます。しかし、親の信仰が人々の前では神中心であっても、家庭ではそうではなく、自分中心である場合、子は矛盾を感じながらも、子は親のようになっていきます。
両親が子に配慮がなかったり、態度に一貫性がない時、子は精神が不安定になります。また人格を軽視されると、自立が難しくなる場合もあります。子は、生まれつき自己中心ですから、親が神中心になっていないと、本当の意味で両親を敬うことはできません。そこで、神は申命記6章20~25節にあるように、親に役割を与えられました。
この点、主イエスの態度は分かりやすいと思います。ある女が「何と幸いなことでしょう。あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は」と叫んだ時、主イエスは「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」と言われました(ルカ11:27~28)。幸いなのは血族でも、環境そのものでもなく、神の言葉を聞いて、信じて守る人であり、血のつながり以上に大事なのは信仰だということです。
このように、この世の教育の手段が進歩し、内容が豊かになっても、子が親の教育を信頼し敬うようになるのは最終的には親自身の責任です。親自身が神の言葉に信頼し、悔い改めの歩みをしていることで、特に幼い子供は、親によって百パーセント教育されることになります。聖書の物語を学び、讃美歌を歌い、祈りを身につける土台は家庭における毎日の生活のなかでなされます。よく三歳までが大事だと言われるのはそのためなのでしょう。
=父と母=
第五戒②・神を敬うから
エフェソ6:1~14
エフェソの信徒への手紙6章2節の「『父と母とを敬いなさい』は約束を伴う最初の掟です」と、3節の「そうすればあなたは幸福になり、地上で長く生きることができる」ということについて、考えてみましょう。
十戒の第二戒の偶像の禁止命令では、出エジプト記20章6節にあるように、「わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える」という約束があるので、第五戒で言われている約束は最初の約束ではないのではないか、ということです。しかし、エフェソ6章2節の「最初の」と訳されている「プローノス」というギリシャ語は、最初という意味のほかに、「最大の、最も重要な、最も優れた」という意味があります。
カルヴァンの考えでは、第二戒は第一の板に記されていて、「全律法に及ぶ」(綱要Ⅱ、8、37)戒めであるが、第五戒は第一の板の最初に記されていて、神に対する戒めから対人間関係に戒めが移り、その基礎となるので、「最も重要な」掟と考えることができるということです。
次に、この「主が与えた土地で長く生きることができる」という約束は、長生きそのものが神の祝福と考えられるのかということです。それとも、長生きそのものは重く考えるべきことではないのかということです。カルヴァンが綱要の中でこのいずれも正しくはないと語っていることを引用してみましょう。
「…ある人はぬけぬけと最高の年齢まで生き延びるかもしれない。けれども、それは、この人生において神の祝福を欠きながら、悲惨にも呻吩する以外のなにものでもなく、しかも、後の世においては、いっそう大きな刑罰が備えられているのであるから、敬虔な子らに約束された祝福にあずかることはとうていできない」(Ⅱ8、38、渡辺信夫訳)。
つまり、長生きそのものが必ずしも祝福ではないのです。長生きにつて、「健やかな人が80年を数えても、得るところは労苦と災いにすぎません」(詩篇90:10))というモーセの詩の言葉もあります。従って、信者が約束されて、すでにこの地上の生活で経験することを始めている永遠の命に比べるなら、地上でどんなに長生きしたところで、それはたかが知れています。長生きそのものを絶対化してはならないのです。
こう理解した上で、信仰者は与えられている今の生命を軽んじてはなりません。両親を敬う者は、彼らを敬うことで神を敬うことをしているからです。神を敬う者へのこの約束は、神の祝福を将来だけでなく、現在も受けるという約束です。「信心は、この世と来るべき世での命を約束するので、全ての点で益となるからです」(Ⅰテモテ4:8)とパウロが教えている通りです。その反対に不従順、不道徳、暴力、怠惰、知恵の欠如などは、多かれ少なれ、自己管理ができず、自己中心になりますから、短命をもたらす可能性が大きいことになります。
バラ・マカルピン 日本伝道百年史・・21・・
水垣 清著
(元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)
11 名古屋地方とマカルピン・・2・・
1889年(明治22)2月5日、バラ先生は瀬戸永泉教会(旧水野村)の小会議長として奉仕し、4月21日は同じく小会議長としてR・E・マカルピン師が奉仕されている。この日、加藤梅三郎、加藤友七、桜井タキの三名が信仰告白をして、マカルピン師から洗礼を受けた。この年さらにミッションはC・K・カミング宣教師とウイリアム・B・マキルエン宣教師(REV William Beauregard Macilwaine)を日本に派遣し、カミング師は岐阜、名古屋地方に、マキルエン師は高知に居住し伝道することになった。
マキルエン師は1932年(昭和7)まで43年間、首尾一貫して高知市に留まって伝道して、後引退された。当時高知は南長老教会ミッションの宣教師が8名駐留していたが、同年(1899)徳島県に伝道していた南メソジスト教会ミッションは、同地方の伝道を南長老教会ミッションに移譲することになり、南長老教会の3名の宣教師が徳島へ派遣された。
明治も中期に入って、キリスト教界にもいろいろな変化と動揺があった。明治23年には、前年に帝国憲法の公布があって、「信教の自由」も条件付きではあったが一応認められるようになり、10月30日には教育勅語が発布、第一回帝国会議の開会(11月29日)など、次第に文明国家の形を成してきた。1月23日には新島 襄(48)の逝去、3月には福音週報(のち福音新報と改める・植村正久)の発刊、7月にはキリスト教信者9名が衆議員になり、12月には日本基督一致教会は日本基督教会と改称した。
この頃から日本は、欧化主義の反動として富国強兵へと移行し、国家主義中心の思想へと転換して、儒教の忠君愛国を軸とする道徳が主唱されるようになった。仏教、神道、儒教主義による排外の対象として、キリスト教はその矢面に立たされた。
特に「教育勅語」の渙発は、その動機に、時の文部大臣榎本武揚が「我国の道徳を全うせんと浴せば、儒教主義、即ち忠君愛国の主義を基礎とすべし」と主張し、これに基づいて、さらに神道主義の「祖宗惟信」の道へと修正され、これが明治の欽定憲法とともに、天皇制へと確立されていったことから、「国家対宗教」論は、時の論題となって、東京帝国大学の哲学教授加藤弘之によって取り上げられた。
これは、キリスト教は日本の国体に反する教えであり、キリスト者は乱臣賊子であると言ったことから迫害も加わり、キリスト者の学校教師は教壇から追放されるといった時勢の中で、宣教師を物珍しく歓迎した者も、次には非国民と言われることを恐れて、外人敬遠の気風が生じてきた。
それだけにバラ先生やマカルピン師の伝道も、種蒔き伝道の範囲から信徒の信仰育成へと重点的に牧会的宣教への配慮が必要となってきた。この年1890年(明治23)、バラ先生は大阪で開かれた宣教師会議で開会説教をされた。また南長老教会宣教師としてJ・W・モーア師が来日された。
=写真=
岐阜加納教会イースター記念礼拝、前列左より4人目J・A・マカルピン師、その隣は伊達量平氏牧師(1939年)
問26 前回の話では「最後の審判」があることが望ましいように言われましたが、その辺のことが今一釈然としませんので、もう少し説明してください。
答・・3・・
しかし、その真実は、先述した因果応報の原理の真実性であって、それが納得できるからこそ、成り立っている説話ではないでかと思います。
ということを、少しくどくどと述べたのは、この原理では納得できないことが人間とこの世界における事実としてあるからです。いわゆる「不条理」と呼ばれている事柄がそうです。
これは因果論では説明できません。ですから「不条理」というしかありませんが、そういう説明はつくとしても、そういう不条理という事実の中にある人にとっては、これは耐えられるものではありません。この苦悩から脱却できる「安らぎ」を見いだすことはできません。ということは、人間の側にあるものや、人間が考えることによっては解決を見いだすことができないこの「不条理」の中に、人間は放り出されていて、出口のない、そして光のない闇の世界のただなかに置かれているような存在である、というしかないのが事実ということになります。
「不条理」は説明できないから不条理なのですが、人間はこの説明がつかない事態の中で苦悩してきました。例えば、聖書に出てくるヨブという人は、神様の前にも人々の前でも全く非の打ち所のない人でした。そして資産家でした。ところが、ある日、突然、すべての子供を失い、財産のすべてを失い、おまけに体一面に腫れ物ができて、当人とは見定め難い状況に陥りました。踏まれ蹴られるの極致に至りました。
彼の妻は「そんなにまでして神様を崇めるなんてことはないでしょう。神様なんか呪って死んだ方がましよ」と言わずにおれないほどでした。しかし、それでも彼は、神に文句や不平を言うことなく「神は幸いを与えて下さる方だから、災いをくださるのだ。神様のことを悪く言ってはいけない」と言って、神への信仰を貫いたのでした。
信仰の人というのはこういう人のことをいうのかと思わされます。つまり、神を信じて生きることが、何か良い見返りがあってのことではない、ということを立証しているからです。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・
元中部日本放送「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者
第91課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・46・・・
F 信仰の強い人たちは、その信仰の自由をどのように行使するべきか。
・・・14:13~23・・・
「あなたの持っている信仰を、神のみまえに、自分自身に持っていなさい」(14:22a)。
「この言葉の中で、パウロは原則の譲歩や真理の放棄を要求しているのではないことを、今まで以上に強く主張している。彼は強い信者に有罪的でないものを有罪的であると信じることを求めたり、弱い信者たちの「ためらい」のために、彼ら強い信者にその良心を拘束せよと要求しているのではない。彼はただ 強い信者に、その自由を思慮深い寛大な仕方で行使しなさいと求めているに過ぎない。
だから、パウロは自分の信仰を神のみ前に、自分自身に持っていなさいと言っているのである(すべての肉の合法性を強く説得している)。すべての肉を食べることを止めないで、神のみ前にあるように、敬虔にそれを行使しなさいと言っているのである」(ホッジ)。
「自分自身に持っていなさい」(Have it to thyself)。この言葉は第一に私たちの信仰、すなわち弱い兄弟たちがためらいを感じている事柄は、実は合法的であるという確信をしっかりと持ち続けるようにとの教えなのである。強い信者たちはその信仰をしっかりと持つべきである。彼らはそれを捨てて、代わりに弱い兄弟たちのためらいを受け入れてはならないのである。
第二に、この言葉は、強い信者はその確信を公然と行動に移すことを主張すべきではない。すなわち、良心的なためらいを無視するという罪を犯さないでは、強い信者と同じ行動をすることができない弱い信者たちの面前では、強い信者はその確信を行動に移すべきではないことを教えている。強い信者たちは原則として、その信仰・確信を堅持することができる。しかし、弱い兄弟たちを霊的に傷つけてまで、それらの確信を行動に移すべきではないのである。
「神のみまえに」(14:22b)。これは「神の面前で」、「神が見ておられるところで」という意味である。「神が見ておられ、認識しておられるので、人々の前で見せる必要はないのである。それは私たちの心の中に密かに抱かれ、神に喜ばれ、受け入れられるような仕方で行使されるべきであり、これみよがしに、あるいは他人を傷つけるような仕方で行使されたり、誇示されたりすべきではない」(ホッジ)。
「自ら良いと定めたことについて、やましいと思わない人は、さいわいである」(14:22b)。
やましくない澄んだ良心は大きな祝福であり、そのような良心を持つ人はさいわいである。良心が承認しない事柄を、自らおこなうことを許さない人は、やましくない良心を持っている人である。やましくない澄んだ良心はさいわいの根源であるから、22節の初めにある「信仰」、すなわち、ローマの強いキリスト信者が到達していた信仰は、まことに価値の高いものであって、決して放棄されてはならないものである。「自分自身が認めていることについて、少しもためらいを持っていないということはさいわいなことであり、その意味で信仰の強い人は羨ましがられるべき状態である」(アルフオード)。
J・G・ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
☆ お祈りください。今回の大雨の被害はで、小さい集落に住む私たちには、過酷です。声を掛け合って避難は出来ましたが、家から車道までの壊れた道路はとても手の付けようがありませんでした。家で食べる野菜畑も土砂の中です。電気の停電はありませんでしたから、こうしてメールは出来ています。子供たちも心配してくれています。元気な時はお隣りさんのお手伝いも出来ましたが、そのような心も身体にも今はもう余裕はないです。先日、息子の車で主人は診察に行き、沢山の持病の薬を貰ってきました。最近、お肉やお魚食べていませんね。 山口県 T・Sさん
☆ 被害に遭われた「ジャーナル友さん」もおありでしょう。お祈りとお見舞いを申し上げます。私の住むところは水田で、大雨のニュースには神経質なくらい最近は敏感になりました。遅れに遅れた梅雨明けの次は、この猛暑、クーラーの助けを借りての日々です。農道の草だけは元気に伸びています。細い水路と歩道がわからないくらいで危険なので、皆さん総出で草刈りになりました。この時ばかりは「助け合い」の有難味がわかります。 群馬県 T・Mさん
☆ 子供への親の「教育虐待」のことが新聞に出ていました。受験勉強のための塾通い、習い事の支援、スポーツの練習の協力、親も子供も何だかとても切なすぎる感じがする。「よく遊び、良く学び」と言うことがあったような気がする。ゆとりや遊び心を失うと熱心が虐待に変身するのがとても怖い。ふと我が身を振り返って、励まし、激励が子供の心には「虐待」になっていないだろうか、と思ってしまう。そう言えば最近、身近なことでも孫とほとんど話していない。 神奈川県 Y・Yさん
☆ この梅雨の長雨と日照不足で、主人の家庭菜園の収穫は家で食べる分だけで終わりそうな感じです。トウモロコシはあきらめたと主人はがっかりしていて、気の毒です。天候に左右される野菜農家さんの悲嘆さが少しですが分かります。 静岡県 T・Fさん
☆ 猛暑の毎日ですが、何だか今年の夏は短いのでしょうか。萩の花が咲いていました。残暑も終わりか、夜の風も秋風のようです。何とかこの暑さは乗り越えられそうです。夏休みに来ていた孫たちはもう帰りました。親たちは仕事の関係で、数年前から子供たちだけになりました。夏だけではありますが、虫篭や釣り竿を持って近所の子供たちと出かけて行きます。一夏ごとに大きくなる孫を見るのが楽しいですね。帰ってきた子供たちには冷えたスイカをたくさん食べてもらいます。 和歌山県 D・Bさん
☆ 「ほっとひととき…」や「眸」で、いつも自分の生き方や日々の過ごし方を考えるようになりました。今は子育てに追われていますが、子供の成長と共に、自分の「働き方改革」?を考えています。結婚前に考えていた、大袈裟な言い方ですが「生き方」と今を考えた時、子育てしながら出来ることはないかなと考えていましたが、それが「子育て」と言う理由で、どこかで逃げている、放棄してしまったことに、何時も「ジャーナルさん」たちの投稿から考えさせられています。結婚前のことは実際には出来なくても、何か出来そうな感じがしてきました、単なる仕事ではなく、何かです。そう言えば、最近は、本好きな私は本は買っていませんでした。何時も母が読み聞かせで、本の世界、空想の世界へと連れて行ってくれました。今は、読みなさい的に買って与えています。母との絆は、本の絆になりました。主人と相談して、2か月に一回程度からと、子供の友だちの「本のお楽しみ会」を計画しています。子供たちに意見を聞いて計画しようと思っています。 秋田県 P・Yさん
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▲ 夏休みになり、高校生がボラ活動で来てくださいました。若者は素晴らしいですね。そこで出会った人と直ぐ友だちになって、仲間が出来るのです。頼もしい限りで、元気を貰いました。瓦礫や土砂はまだまだで、そのままですが、あの高校生たちが残してくれた清々しさは、代えがたいです。
▲ 家の近くにあるコンビニが、私の日々の生活の必要な食べ物を揃えてくれていて、本当に助かっています。味付けも手料理好きの私の好みで、主人は気づいていないのか?美味しいと食べてくれます。
▲ 友人が前立腺の手術を受け、短い時間ですが見舞いに行って来ました。術後の顔でしたが、不安は消えていて安心しました。これからの日々の生活も体力恢復を焦らずに取り組んでくれよ!と言って帰ってきました。私も同じ手術を受けた先輩?として、伝えることが出来ました。
▲ この暑さは虫たちにも異変が起きているのでしょうか。季節を間違えたかのようです。今朝はモンシロチョウの蛹がくちなしの葉っぱにくっついているのを見つけました。蛹はすぐに死んでしまいました。暑さのためでしょうか、何だか哀れです。
*このコーナーの記事は、すべて投稿者から掲載許可をいただいております。 編集子
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」