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2023年7月号  №193 号 通巻877号
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   『ありがとうございます』

 

東海地方の梅雨入りは例年よりも遅れた関係?なのでしょうか、やっと梅雨明けに・・・。暑くて暑くてと言ってアイスクリームを楽しみにしている人も多いことでしょう。クーラーの出番です。これから灼熱の夏がやってくるのでしょうが、ひまわりは真夏の青空がお似合いの花ですね。近くの家の軒先の朝顔は葉っぱが大きく、日陰を作っています。今の名古屋です。

 

 2019年6月16日から2019年7月15日までのイースター記念感謝献金者、「つのぶえジャーナル」事業への寄付者の報告です。感謝いたします。

 

梶川実雪様 鶴原澄子様 長津 栄様 佐藤のり様 三浦のの様 加納さおり様  匿名2名様

 

*寄付金口座…郵振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社 

また、お便り下さる方やお友達への紹介はこのメール アドレスをご利用ください。多くの「ジャーナル友さん」が与えられるように願っています。

    osamura@kind.ocn.ne.jp 

*「つのぶえジャーナル」はこれをご利用ください。

http://tunobue.blog.shinobi.jp      

(米国南長老教会文書伝道事業)刊行責任者

   つのぶえ社代表   長村秀勝

 

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 「今月のことば」

 

 ご主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席がございます。

           =ルカ14:22=

 

このみ言葉は、招待を受けた者への教訓と言われている箇所の一部ですが、ある客の一人が「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言ったと記されています。

 

今日ばかりでなく、いつの時代でも世界は争いと悲惨な出来事を繰り返してきました。希望のない、暗く、侘しいものと思う人も多いことでしょう。平和を願うと言いつつ、その歩みは争いへと突き進んできました。人がいる限り、尊厳を願い、求めつつも、反面、そこでも「XXXハラスメント」という言葉で言われていることが身近に起きています。

学者や専門家はその解決のために原因を探り、答えを求めています。それは決して無駄でありません。

 

しかし、このような現実に対して、神は警告し続けています。神に敵対する

サタンは、力ある者を言葉巧みに誘い込みます。パンと富と名誉の罠を用いて、神のみ子イエス様を誘惑さえしたのです(マタイ4111)。

しかし、イエス様はお答えになりました。

「人はパンだけで生きるものではない。神の口からでる一つ一つの言葉で生きる」。

「あなたの神である主を試してはならない」。

「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」。と。

 

神より離れ、神なき知識には、そのサタンの力を打ち破ることはできません。暗闇と困難に追い込まれ、希望なき明日を、ただ迎えるとしたならば、何と虚しいことでしょう。

 

「今月のことば」は、私たちに希望を約束しています。「まだ席があります」とイエス様はお招きくださっています。

神様は、私たち一人ひとりに「まだ席があります」と言われている今があるのです。私たちから主のみ霊を取り去ってはなりません。この命のみ霊・み言葉・約束は、命のみ言葉、希望の光として働いておられます。

 

この「まだ席のある」、この「席」はこれから先も・・・、と言うことではありません。「今」という時です。私たちは、罪の赦しと、神との平和を願う思いをもっているなら、日々、神のみ前に進み出ましょう。

 

自分の罪を、神への背信を認め、悔い改めへの歩みを始めるなら、絶望する何の理由もありません。しかし、その席に着く時間は今なのです。「まだ」は何時までもではありません。何時か着く席はなくなります。そのことを忘れてはならないのです。

 

  「小閑記」

 

 わたしのした事を何もかも、言いあてた人がいます。さあ、見にきてごらんなさい。もしかしたら、この人がキリストかも知れません。

         =ヨハネ4:29=

 

 私たちは人に知られたくないものを、心に隠し持って生きているとも言えます。それを、日本人は時に、「墓の中まで持って行く」という言葉で言い表すところがあります。

 

 聖書の中に、「律法がなかったら、罪は死んでいた」とあります(ローマ2:1~、7:7~24をご参照ください)。

 

 この冒頭のみ言葉は、サマリヤの霊的にはまだ覆いのかかっていた心の目の女性が、井戸のほとりでイエス様にお目にかかった時のことを、このように叫びました。「わたしのした事を何もかも、言いあてた人がいます。さあ、見にきてごらんなさい」。

 

その人は昔の預言者でもなく、モーセでもありません。キリストであったのです。ペテロが浜辺で主にお目にかかった時、自分の罪を今までになく、はっきりと見なければなりませんでした。

ペテロは言いました。わたしはつまらない男です。危ない時には逃げ出します。わたしのことは構わないでください。行かせてください。わたしは何の値打ちのあることはできませんよ。イエスよ、わたしから離れてください・・・と。

 

イエス様の愛より発する光に照らされて、自分の罪と不貞、不信仰を見る時、その時でもなお恥と信仰の未熟さとの中にいるのです。

「あなたこそ神のキリストです」と告白し、わたしはあなたを知らないなど、言うはずがないと自負していたペテロ、激しい言葉で知らないというペテロは私たち一人ひとりです。

 

その時こそ、罪人を悔い改めさせるお働きをなさるのが救い主なのです。イエス様が救われるのは、自分が罪人であるとことを認める時です。しかし、信仰が与えられ、キリスト者になったその時から、実はこの「自分の罪人である自覚」は薄れていくのです。

もう救われている自分という間違った自覚、身勝手さに陥りやすいのです。

この自覚の希薄さは「信仰の老化・劣化」そのものであると自戒することを、ひと時も忘れない信仰と日々の歩みをしたいものです。

 

 

世田谷通信(190

猫草

 

里山の良い季節になってきた。世田谷にも野草は咲く。キンランやギンランが斜面にほっそりした姿を見せる。ヤマユリがすっと茎を伸ばしはじめる。ホウチャクソウやナルコユリ、ジエビネの地味な花も近くでみると美しい。ウラシマソウが釣り糸のような細い花序を伸ばしているのも面白い。

この光景があるのも前年にボランティアが頑張ってササ刈りをして、明るく開けた斜面になったからだと自負している。もちろん人為だけではない。昨年は暴風雨で古木の幹折れが多発し、何本か倒木の危険があるものを区が伐採した。その林冠が大きく抜けて、ギャップが林床を明るくしている。明るくなったのは上部だけではない、林冠と同じぐらいの範囲に根があったと考えると、木の半径数mの地下にも大きな変化が起きているはずだ。幹という主を失って、根は少しずつ萎縮、分解が始まっているだろうし、まだ勢いがあれば萌芽更新するだろう。

しかしその木が元の姿に生長する前に周辺の植物が空いた場所の争奪戦をはじめていて、今後、何がどう優勢になってその空間を占めていくのか。興味深い所である。

すでにクヌギやコナラの幼樹が育っている、地面の下で自分の番が来るのをじっと待っていたのだろう。これらが育つのが先か、隣の木が枝を伸ばしてくるのが先か、静かな戦いが繰り広げられている。

オーストラリアの植物に、バンクシアというのがあって、その種は頑丈な樹皮に守られており、山火事の後にはじけて発芽するそうだ。最初はなぜ山火事をトリガーに?と思ったが、周辺が焼けて世代交代するきっかけと思えばなるほどと思う。いち早く発芽して自分が優勢になれるチャンスだし、土壌は灰で栄養が豊富になっているだろう。それにしても、どれ位の頻度で山火事が発生するのか不確定なリスクは伴う。ピンチを逆手にとった方法は面白いと思うけれど。その前に本体が寿命を迎えたら数が減るのに。

ヤマユリにしても、あんなに茎を伸ばすのはたくさんの種を遠くに飛ばしたいのだろう。それにしたって茎が細く花が重すぎではないか。自立できずに地面に倒れてしまうことがよくある。それこそ本末転倒ではないのか。やっと飛ばした種は発芽率が低いし。結局、ムカゴでクローンを増やすのは発芽までの時間稼ぎというわけか。

生きものが命をつないでいくプログラムは合理的なようでどこか危うくちょっと破綻していて、それでも戦略と創意工夫に満ちている。

 

   『美しい朝に』・・56・・

 

 養老鉄道の春

 

家内は娘を訪ねるときなど、たびたび桑名・大垣間を走る養老鉄道というローカル線を利用していました。車に乗らなくなった私も、今はよく利用します。西は養老山系、東は伊勢湾まで広がる濃尾平野。その間をゆったりと走ります。自転車の持ち込みもできるのにはびっくり。

山並みも四季折々、楽しい変化を見せます。山粧(よそ)おう秋から、山眠る冬への移り変わりは、なにか哀愁を感じさせます。しかしすぐに山笑う春が来ます。薄暗く時には雪に覆われる養老山系にも、必ず春はきます。文字通り、被造世界全体が笑っています。笑っているばかりか、踊っているようでもあります。

事故でベッド生活が続く家内が、こんなにも楽しそうな養老鉄道の春を描いてくれて、私自身が一番慰められました。

それにしてもこの赤い列車はどこまで行くのでしょうか。この絵を見ていると、このまま笑いながら、踊りながら、イエス様の天の御国まで、ことことと走っていくように思えてなりません。あなたも私たちと一緒に乗ってみませんか。楽しいと思いますよ。

            岐阜県大垣市在住 HN

 

   **********

 

 「耳をふさいでも」    水野源三第二詩集

 

耳をふさいでも耳をふさいでも

  聞こえる主のあのみ声が

 私が世に来たのは

  命を与えるため

 

 耳をふさいでも耳をふさいでも

  聞こえる主のあのみ声が

 彼等のなすところを

  御父よゆるしたまえ

 

 耳をふさいでも耳をふさいでも

  聞こえる主のあのみ声が

 自分の十字架を

  負ってしたがい来よと

 

 『その愛のゆえに』

   =時々の記=

   (159)

 

5月18

 私の散歩の時刻は午後3時30分からです。空を見るととても怪しげな雲が出てきました。大きな傘をもっていこうと考えています。やはり梅雨の影響がこちらにもやってきているようです。一日曇り空。アジサイのつぼみが出始めました。

母の日や賛美歌に母和しにける。(510)を賛美して母を思い出していました。

母の日や茶畑横の施設訪ふ。

池の如静まり返る代田かな。

菜の花と白鷺のそふ川ありぬ。(山添村の小さな川に大きなシラサギが飛んできてびっくりいたしました。)     馬場路哉

5月24日

 今朝、ホトトギスの初鳴きを聞きました。鶯とは違ってまたとても美しい響きです。“卯の花の匂う垣根にホトトギス早も来鳴きて忍び音漏らす、夏は来ぬ”の夏の到来を知ってホトトギスが山の間から声を響かせています。いよいよ夏、初夏の到来ですね。蟻の行列が庭で見られ始めました。また大きな蛇もやってきました。自然界の生き物たちが敏感に反応するのには驚きです。

5月27日

 心から感謝して6月号の早いお届けに飛び上がるほどうれしく思いました。

とても蒸し暑い一日でした。そろそろ梅雨入りなのでしょうか。今日、山添村の産直場へ出かけましたら、もう新茶が並んでいました。新茶の色と香りは初夏の香りです。暑さが吹き飛んでいくように感じられます。午後3時に主人が鉄瓶でお湯を沸かしてお茶を入れてくれるのが日課です。ここ山添村ではどこのお家でも男性がお茶を入れてもてなしてくれるのです。村では、お茶は男の方が入れるという習わしなのです。入れてもらったお茶は特別においしく感じます。

明日、主人は三重大学病院です。私もと考えていましたが用事がかかってきて出かけられなくなりました。

5月28日

 今朝はいつもより、一時間前倒しして起きて、朝の準備をしました。主人は雨の中午前7時に出かけました。予約通りに診察をしていただいて、この度も異常なしということで、感謝のうちに家路につくことができました。うれしかったのか、津市のお菓子をお土産に買って帰ってくれました。

 

5月30

 今朝からは雨が上がり、新緑が輝いて見えます。あの事件でとても悲しく胸が痛みます。悲しいことです。あまりにもひどすぎます。主人は昨日の疲れと緊張から解放されてリハビリに出かけました。

丘の上の図書館脇の新樹かな。

緑陰に高きや裏の良心碑。

空の鳥しみじみとみるバードデー。

青芝や羊は丘を目指しける。     

2時間も遅くなるとは。

寛容と柔和を覚え聖五月。

藤だなを夫の遺せし山家かな。

柔らかき一菜にせむ蕗を摘む。

葉桜の隙間にひかる名張川。     馬場路哉

63

 今日は主人はまた山添村歩こう会へ出かけました。おにぎりを二つ持ってうれしそうに出かけて行きました。今は若葉が香り、ウォーキングにも最高の季節です。昨日は愛知県で植樹祭が行われていました。主人たちも20年前に自ら植樹した山林を歩くというのです。自分たちで植えた木の香りを思い切り体に吸い込みながら、一日を過ごすことでしょう。

我が家では多くの木がとても大きくなり茂ってきました。これをある程度伐採しなければ電線に引っかかり皆さんに迷惑が掛かります。今年の夏はこのままにして、また樹木医さんに診てもらってから、中切りという切り方で、大切な命は生き続けていくようにしてもらう予定です。

67

 やはり梅雨入りです。こちらはとても激しい雨と雷にびっくりです。梅雨入りにふさわしくアジサイが次々と色を変えて咲き始め、目を楽しませてくれています。紫色のアザミ、土手にはバラ科の花しもつけがピンクの花をたくさんつけて目を引きます。

聖五月山に次々咲けるもの。

瀬音聴き眠りに入るキャンプかな。

北窓を開けば森の木々太し。

三段に藤のかかりて川の上。

なら若葉全身見えてまぶし刈り。    馬場路哉

611

 いよいよ、梅雨本番を迎えました。ミニバラがとてもきれいに咲き始めました。しもつけの花もバラ科の花だと聞いています。それもとてもきれいに咲き誇って梅雨空を明るくしてくれています。野の花、庭の花たちに感謝しながら過ごしています。小さな畑に目をやるとピーマンがいくつも実をつけだしています、ミニトマトも青いのですが、もうたくさん実をつけて楽しませてくれています。あと10日もしたら、赤くなってくれるかもしれません。小さな畑に野菜たちを見に行くのが楽しみになってきました。

過疎進み地蔵傾ぎぬ(かしぎぬ)シャガの花。

速やかな飛翔を眺むバードデー。

山賢やえびねの花を並べ売る。

黒鯛と侮るなかれ塩の味。

バイク連切ってをるなり若葉風。     馬場路哉

主人は昨夜、突然亡くなった方のお通夜に行きました。奥様もお二人とも校長先生でやめられた方たちですから、それは沢山の方が弔いに来ておられていたそうです。200人以上はおられたとか。私は葬儀は一体だれのためにあるのだろうと考えさせられるこの頃です。幸いにも私たちの住んでいる所では、今はみな家族葬です。葬儀は親しかった身内でお送りしましょうという呼びかけが広まってきたのです。山添村の中でも私たちの住んでいる所はとても改革的です。同じ村に住んでいても住み心地は違うのですね。感謝しています。

馬場暁美

「上野緑ヶ丘教会会員」 

 

 

  眸(ひとみ)・・100・・

 

☆ 私は4代目の林業家として林業を営んでいます。戦後の林業は昭和20年~30年代は、日本の戦後復興のなどのために木材の需要は急増しました。しかし、戦争中の乱伐で森林は荒廃し、供給に追い付かなくなり、時の政府は「拡大造林」を奨励して自然は広葉樹から針葉樹中心の人工林になりました。里山の雑木林は消え、山奥の天然林まで伐採し人工林になりました。また家庭の燃料革命は木炭や炭から電気・ガス・石油に切り替わりました。外国からの安い輸入材は、林業を直撃しました。今、日本の山は、間伐などの手入れがなされず荒れるままです。台風の被害の様子の画面には山肌を露にした姿、痩せ細った流木の山は、日本の自然の荒廃の象徴です。花粉症はこの「拡大造林」と荒廃した針葉樹林の植林のツケともいえるのです。林業はAIの活用や技術革新よりも、国土を愛し、自然を愛する志ある人の育成にあります。国立競技場や多くの施設が木材使用になりましたが、治山治水の豊かさは国の宝であり力です。

場違いな「つのぶえジャーナル」に、自然の豊かさとは何かに関心をもっていただきたいと思い投稿しました。 大分県 T・Mさん

 

☆ 4月末からの連休は、新入社員の私たちにはつらい休みになりました。緊張していた日々から解放されたのですが、この連休で、今まで続けてきた就活の日々、研修の毎日で、緊張の気持ちが不安になり、一緒に入った同期が数名退職してしまいました。学生時代までの年月は、ある意味では楽しく、自由で、自分の好きに過ごしていたのが当り前になり、友だち仲間の人とのかかわりから、今はお客様、仕事の評価、上司や先輩などからとなり、気持ちの面で余裕など失いかけているときの長い連休で、気持ち的に出勤が苦痛になるのです。でも、何とか頑張って乗り越えたいです。 大阪府  AAさん

 

 どこの田んぼも緑一色です。稲の成長は水と太陽と土をわたしたちの心配りで秋の実りが決まりますので、忙しいですが本当に楽しい時でもあります。これは水田農家ばかりでなく、物つくりなら同じだと思います。この夢があるから頑張れるのでしょう。よいものを皆さんにこれからもお届けますよ、が物つくりの思いです。 群馬県 NRさん

 

☆ 町の職員として、掲げているのが地域振興です。今までの活動を調べたり、ほかの市町村の活動で何か参考になることはないかと、数少ない職員で資料の再検討を始めています。私のところには、特別な観光資源があるわけでもなく、普通の地方都市ですが、お役に立ちたいと思っています。小学校の廃校後の活用を、私を含めた地域の方々と楽しく語らいながら進めております。これからは、学校の先生と相談して、継続的に子供たちの考えを聞く機会を多くしたいと思います。人数は少ないですが、私も含めて30代ですから、夢の持てる課なのですよ。自分自身に期待しています。 佐賀県  OSさん  

 

☆ 暑くなりましたが、皆さんお元気にお過ごしください。我が家では、子供たちの希望で、今年も朝顔を日除け代わりに植えています。最初は子供の夏休みの宿題がきっかけですが、今はそれが当り前になっています。毎日花の数を数えていた子供も大きくなりましたが、お母さん今日は何個咲いたねと、おはよう代わりの挨拶になっています。時々は水やりもしているようです。

背が伸びた娘と息子に浴衣を新調しました。 埼玉県 KJさん      

 

<身近な出来事を「眸」に投稿してください> 編集子

 

十戒と主の祈り・・7・・2・・             鈴木英昭著

        (元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)

=安息日=

  第四戒③・主の日

       レビ記23・1~3

 先回、安息日は救いの日ですから、喜びの日、感謝の日であることを学びました。今回は安息日の過ごし方について学びます。

第一に、レビ記232節から3節で繰り返されていますように、主人はモーセに安息日は「聖なる集会の日である」と言われました。集会のために聖別された日ということです。ただ休むためではなく、集会の日です。

 第二に、その集会の日は、安息日の詩篇92編によると、「主の祝日」(2)であり、人々は御名をほめ歌い(2)、御手の業を喜び歌いました(5)。また、主の真実を宣べ伝え(3)、主の正しさを宣べ伝え(1)ました。ここに安息日の守り方の基本が見られます。また、そのことは、列王記下4章の預言者エリシャにまつわる一つの出来事から推測できるように、この日に預言者の言葉を聞くことで、神の言葉を聞く日でもあったことを暗示しています。

 北のイスラエルにおいてさえ、人々が、安息日に神の言葉を聞いていたことは、シネムの女が、自分の死んだ息子のことで、預言者エリシャの所へ、ろばに乗って行くことに対して、夫が彼女に、「どうして、今日その人のところに行くのか。新月でも安息日でもないのに」(23)と言っていることからからもわかります。

 第三に、新約聖書に繰り返し出てくる会堂での安息日の状況から分かります。会堂は、バビロン捕囚の時代に起源があると言われていますが、人々は、ごく普通のこととして、安息日に集まっていました。主イエスご自身も安息日には、会堂を神礼拝の場所に使われました。

 ナザレにおいて、「いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻き物が渡された」(ルカ416~17)とあります。礼拝の後で、病人を癒されました。右手のなえた人(同6・6)、18年間も腰の曲がったままの女性(同1410~11)を癒されました。パウロとバルナバがビシデア州のアンテオキアで安息日に会堂に行った時のことですが、律法と預言者の書が朗読されると、「兄弟たち、何か会衆のために励ましの言葉があれば、話してください」と言われて、パウロが語っています(使徒1314~41)。

 こうした多くの例から明らかなように、安息日には、神の言葉が朗読され、それに基づいて、説教がなされました。

 

 このように、安息日は仕事を休めばそれで良いということではなく、讃美と神の言葉を聞くことをもって、主なる神を礼拝するために聖別した日として休まなければなりません。このように、休むということが私たちだけでのためにあるのではありません。主なる神がなさってくださったことが語られ、それを聞き、喜びと感謝をもって神を讃美します。信仰者は、主人にあって、こういった意味で休むことに、最も深い喜びを見出します。

 

 第四戒④・神への感謝

             ネヘミヤ1315~22

 

 今回は安息日の戒めを破ることについて、聖書から学びましょう。すでに学んできましたように、安息日は休息の日、礼拝の日です。しかし、旧約聖書を見ると、常に感謝をもって守られていたわけではありません。

 このネヘミヤ記は、バビロン捕囚から帰ってきたイスラエルの民に向かって、ネヘミヤが紀元前4世紀の末ごろに記したものとされています。ここに記されている言葉からもわかりますように、安息日を守ることに積極的ではなく、いやいやながら守るというような雰囲気が見られます。ネヘミヤが問題にしているのは、安息日に商売をするために、前もって商品を都に運び入れようとする人々を締め出すために、金曜日の夕方に都の門を閉ざして、安息日にも門を開けず、安息日が終わって初めて開くようにさせたということです。安息日が始まった夜に城門の外で休むことさえ禁じました。

 

 安息日を守るという命令は、積極的な意味で守ることに意味があることをすでに学びました。なぜなら、それはエジプトの奴隷状態からの解放であり、罪の奴隷から自由にされた自由の律法だからです。従って、この日に、私たち信仰者は神への感謝を表明する日です。ところが、守りたくはないのに守らなければならないという奴隷的な意識で安息日を過ごすのであれば、安息日の祝福を受けていないことになります。もしもそういうことであれば、何とか理由をつけて安息日を守らないようになるでしょう。

 安息日に商売をし、仕事をしようとする人は、第四戒だけでなく、他の戒め、例えば第八戒めの盗み、第十戒の貪欲の戒めも違反していないかをチェックする必要があります。ネヘミヤはそうした点を問題にしているからです。

 ウエストミンスター信仰告白第218項に、安息日の例外的な働きとして「神様礼拝と、また必要な義務と、慈善の務め」の3つが挙げられています。ここで必要な義務は何を指すかということになります。スコットランドのロバート・ショウは、ウエストミンスター信仰告白の注解書の中で、その内容として、「教会への往復、町の防衛、航行中の船の運転、消火と運搬、家畜の給食と世話、病人への訪問と助け、幼児の世話」を挙げています。

 

 七日の内の六日間は自分のものですが、一日は主なる神のものです。それゆえに、神のためにとっておきましょう。大きな恵みをくださった神のものを盗むことはあってはなりません。主は、安息日だけでなく、七年目を休耕年とされましたし、50年目をヨベルの年として、その年に奴隷は主人から自由になり、土地は返却されました(レビ記251~12)。それらは本来、神のものだからです。安息日は私たちが神のものとされたことを、最も明白に教えてくれる日です。

 

 バラ・マカルピン 日本伝道百年史・・19・・   

     水垣 清著

 (元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)

 

10 高知とマカルピン・・2・・

1887年(明治20410日、マカルピン師にとって、生まれて初めて日本語による洗礼式を20人に施したのである。これは一生涯忘れることはできない、大きな印象であった。

その頃高知では、先生が生徒を引率して時々神社参拝をした。ところがその中に、12名のキリスト者の生徒がいて、神前でお辞儀をすることを拒んだ。そして、ほかの生徒たちにも参拝を拒否するようにすすめた。先生たちは神社参拝の礼を率先して示して、生徒もこれにならうようにすすめたが、生徒たちは「単なる偶像に礼拝することはできない」と聞き入れず、先生たちを冷笑した、ということである。

こうしてキリスト教信仰の影響感化によって生徒たちは、「信仰の自由」と「良心の自由」を目ざめさせたことは、高知伝道の良い成果であった。

 

グリナン、マカルピン師たちの片言まじりの説教でも、高知人にはよく通じたのである。太平洋に向かって開かれた高知の県民性には、新時代への展望とビジョンを持つ進歩性が指導者階級にあった。

明治3年(18708月の神道国教化とともに廃仏毀釈が高知全県下に行われて、あらゆる寺院仏閣が破壊され、その数458ケ寺に及んだ。現存の寺の多くは、その後復興したものである。

革新の気風は県下にみなぎっていたのと、自由民権家の多くの者が、その倫理性をキリスト教に求めてフルベッキ師、タムソン師、ミロル師、ナックス師、アレキサンドル師、バラ師、プライス師、ハートス師などの外国宣教師や植村正久氏、押川方義氏、片岡健吉氏、岡弘毅氏などの来県伝道によって、高知教会は、その設立当初信徒21人であったのが、6ケ月後の1885年(明治1811月には82人、1887年(明治2012月には328人、1890年(明治2212月には556人、1891年(明治2312月には618人と躍進したのである。

 

高知市に関する限り、宣教の働きは日本の牧師、信徒の伝道で十分であった。マカルピン師は、むしろ高知県の郡部の遠く宿毛、中村地方や東部の安芸、田野方面に、北部は山奥の本山、土佐山、樫山地方に伝道した。もちろん、こうした伝道には日本人の信徒が同行して集会を助けた(後日、須崎、幡多郡地方に再度伝道したマカルピン師によって大正年間宿毛教会(現日本キリスト改革派宿毛教会)の会堂が建設された。(当時、主任伝道者今西延幸師)。

写真=JAマカルピン宣教師夫妻按手及び日本伝道出発当時の父子(1935

 

 

「キリスト教百話」  

問26 前回の話では「最後の審判」があることが望ましいように言われましたが、その辺のことが今一釈然としませんので、もう少し説明してください。

答・・2・・

 わたしたち日本人は、昔から「天地神明にかけて恥じない」生き方を良しとしてきました。そう言い切れる人を立派な人としてきました。そういう言い方でもって自分を律してきた人には尊敬の念を払います。但し、その場合、「天地神明」というのは何をもってそう言うのかはっきりしているわけではありません。「天地神明」と言うからには、人間を超えた存在が前提されているでしょうし、そういう言葉を聞く者にとっても、漠然としてではあっても、なにがしかの共通理解をしているように思います。単に「人倫に照らして」という次元のことではなく、人倫と言うにしても、人間を超えた存在との関係の中でのこととして考えられているように受け止められているわけです。

 と言うことは「天地神明にかけて」と言っても、その「天地神明」は、はっきりした人格的意思表示をしている存在ではないと言うことです。モーセが十戒を与えられた時のように、「わたしはあなたがたをエジプトから導きだした主である」という神様の名乗りが挙げられて、その上で「わたしのほかに何者をも神としてはならない」ということを始めとして、「殺すな」「盗むな」「姦淫するな」などのように、はっきりとした神からの人格的意思表示を受けてのことではないのです。

 「天地神明」という言葉に、まるで人格的なものが想定されていないと言うのではありませんが、あるとしても、それは擬似人格的と言ったらよいか、人格な匂いがすると言ったらよいかと思う程度で、モーセの場合とか違うのであります。これはモーセに限ることではありません。イエス・キリストは「わたしを信じなさい」と言われ、「わたしの戒めを守りなさい」というように、はっきりと意思表示をされています。従って、これにどう答えるかが問われているわけで、「最後の審判」ということも、こういうことからして当然のこととして理解され、受け止めてもいるわけです。

 「天地神明にかけて」というのと「イエス様の御心に照らして」と言うのとでは、以上のような違いがあるのです。日本人の中にある「諸行無常」というとらえ方を自分なりにしているのと、「あなたは・・・」という問いかけを受けている者とでは、その人生を含めての最終的な決着がどうつけられるかがそうはっきりした問題意識にはなって来ないのと、これが大きな問題となってくるのとの違いが出てくるのは当然ではないかと思います。

 どちらが良い悪いかの問題ではなく、「最後の審判」と言うことが問題になるか、ならないかの人生基盤に違いがあることを先ず明らかにしておきたいと思って、以上のことを述べた次第です。

   篠田 潔

(日本基督教団隠退教師・

元中部日本放送「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)

 

 

第90課 キリスト者生活の実践的義務

=12:1~15:13=・・・45・・・

F 信仰の強い人たちは、その信仰の自由をどのように行使するべきか。

                  ・・・14:13~23・・・

 「食物のことで、神のみわざを破壊してはならない」(1420a)。

 この文章は14 :15bと幾分か似ています。「神のみわざ」という言葉の性格、厳密な意味については、種々の見解があります。ある人たちは「キリスト者の兄弟たち」という意味に理解します。しかし、最も適当と考えられる意味は、前節の終わりに述べられた「徳を高めること」です。「神が植えられた植物であり神が建てられた建物である同僚のキリスト信者の意味である」。神のみわざと、強いキリスト信者がある種の食べ物を食べる権利の間に重要性の比較があるのではなりません。

 重要性においては、前者は後者のはるか上にあるので、真の霊的なキリスト信者は、弱い信者の建徳が危険にさらされている場合には、自己の自由を制限することに躊躇を感じるものではないのです。

 

 「すべての物はきよい。ただ、それを食べて人をつまずかせる者には、悪となる」(1420bc)。

 ここで「すべての物」とは明らかに「すべての種類の食物」の意味です。「きよい」という語のギリシャ語は「純粋な」と「清い」の両方の意味があります。「すべての食物は宗教的見地によりすれば清い。すなわち、人を汚すものではない」。私たちが覚えておくべきことは、パウロは食物の有効性を論じているのではなく、ある食物についての宗教的な躊躇という問題を論じているということです。

 健康面から見れば、すべての種類の食物が必ずしもきよいわけでないことは明らかです。ひと山のパンも身体のために良くないものを含んでいて、無害でないかもしれません。しかしパウロはそんなことを論じてはいません。パウロは弱いキリスト信者が、ある食物を食べることについて、宗教的にためらいを感じたり、迷ったりしていることを考慮して、強いキリスト信者はその自由の権利をどのように行使したり、あるいは節制したりすべきかを論じているのです。

 私たちはこのパウロの論の中に、近代の衛生論的な事柄を導入するならば、それはパウロの論の正しい理解ではありません。

 J・G・ヴォス著   

    玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)

 

   『ほっとひととき「みんなのコーナー」』

☆ 桜も終わりやっと春らしい毎日になりました。まだ山の頂には白いものがあります。ですが、もうすぐ北国も初夏になりました。一面、雪景色もきれいですか、車のライトで見る濃い緑の畑は不思議な感じがします。時には不気味さを感じます。昼間の畑とはまた別世界になるのです。 青森県 TSさん

 

☆ 嫌がっていた保育園行きも、皆さんに励まされて、今は家に帰ってから覚えた歌を歌いながら部屋の中を元気に動き回っていますが、気になるのは、毎年のことですが、園の出入り口を見詰めて離れないお母さんが、今もいるのがとても気になります。お母さんケアーが必要なのではと思ってしまいます。一声、掛けようと思っています。 神奈川県 T・Mさん  

 

☆ 我が家の野菜作りは、お世話になった老人施設のお役に立ちたいと思い、主人は母がお世話になっていた時から、お惣菜用として作らせてもらってきました。毎日の食材費の一部になればという思いからでしたが、今は主人の生甲斐になり会社勤めの傍らでしたが、定年後の今も続けています。今は二人の孫も農業後継者?になり、自分で考えた野菜を作っています。私はそれをお届けする役目です。 東京都 YYさん       

 

☆ 娘の学校の地域活動研究に引率で参加しました。私の子供のころの市場のお店もお花屋さんももうありません。考えてみれば、広い駐車場、品数の多い大型スーパー、便利なATMもありで、車利用の私にはそのようなお店から気持ちも足も遠退いていました。空き店舗の多いのに驚きました。後継者不足と言いますが、買い物する人が減っては、成り立たないのは当たり前で、これから、子供と一緒に歩いて買い物をしようと思っています。地域貢献??になるかもなんて・・・。 鹿児島県 TFさん 

 

  伸びた公園の草むらに鳥たちが動き回り、探し回って何やら食べていました。

活発に動き出した虫たちを食べているのでしょうか。けなげに生きる姿にしばし見とれていました。春のままで庭の手入れもせずの怠け者になっていた自分に反省です。古くなった竹箒を買い換えました。 群馬県 VKさん

 

  お茶がブームで目にする抹茶お菓子をつい食べ過ぎてしまう初夏です。

 児童虐待の凄惨な事件の詳細が報道される度に、行き場の無い憤りを感じます。「世田谷通信さん」のは動物虐待の真実ですね。動物は声を発せられない弱さがあるのが、幼い子どもと同じく弱いものを標的にする狡さに身震いします。

 フードロスを活かす為に朝ご飯を提供している福祉活動をされるグループもあります。育児等が一段落した主婦の集まりやリタイアした年配の方々の見守り活動が、安全な街作りに一役買う時代になって来ています。そこにはまるで主イエス様を囲むかの様な一体感と笑顔があります。

ネットを通じて「ジャーナル」をご覧になっている若者達も、宗教の垣根を超えて、どうか今の自分に出来る他者への配慮や思いやりを行動に移し、より良い暮らし作りに一役買ってほしいですね。 奈良県 NRさん
 

**********

     定期健康診断を受けてきました。持病はありませんが、何時ものように中性脂肪と血糖値に注意とかで、一か月後にまた病院に行くことになりました。60代の人の多いのに驚きました。診察を終えて出てくる人は皆さん、反省?顔です。その一人の私も過信しないで晩酌を減らし、過食に注意します、と決心しました。妻は横でにやにや笑っています。

     散歩道が華やかになりました。紫陽花があちこちに咲いています。雨上がりにはカタツムリを時々見ますが、最近は何だか珍しい生き物になったのでしょうか。それとも葉陰に隠れているのでしょうか、最近はあまり目にしません。また池のない公園ですから、カエルはいません。皆さんのところは如何ですか・・・。

     毎月贈ってくださる「つのぶえジャーナル」は、家族の中で一人で信仰生活を守っている私には、力をいただく糧になっています。ありがたいです。メル友とは違った信仰の糧になります。時々「ジャーナル」で「祈りの輪」という言葉に出会う時、勝手にお仲間気分にさせていただいております。これからもよろしくお願いいたします。私もお祈りしています。

     私の息子は中学生の時のいじめで不登校になり、今も家からは出られない生活で40歳になります。川崎の出来事で、また「引き籠もり」という視点でのニュースが多くなりました。「引き籠もり」は悪であり、人様に迷惑をかける存在、人間なのでしょうか。生きる権利すら奪われた本人と家族のことを考えてほしいです。人それぞれです。私たちには、私たちと子供3人でした。現在は私たち夫婦と長男の3人です。穏やかに生活しています。他の子供たちも家族を連れて遊びに来てくれています。

*このコーナーの記事は、すべて投稿者から掲載許可をいただいております。ご紹介させていただいているものは、スペースの関係で、その一部です。心苦しく思っています。 編集子

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書籍紹介
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エネルギー技術の
 社会意思決定

日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
 定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本

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教会における女性のリーダーシップ
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント 
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
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「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
定価 2000円 

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「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
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「十戒と主の祈り」
鈴木英昭著
 「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
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われらの教会と伝道
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本

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さんびか物語
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円

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