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『ありがとうございます』
これからの秋田は日本の農村風景になります。周りの山々に抱かれ、茅葺の民家、階段状に作られた棚田の風景が秋田の自然の恵み豊かな山村に変わります。寒い、雪の季節から解き放たれた喜びが、そこにあります。桜よりも緑鮮やかな山々が、今年の恵みを約束してくれているのです。
教会には車で1時間はかかりますが、礼拝を守り神様に感謝して、農作業ですと、メールをくださいました。
2019年3月16日から2019年4月15日までのイースター記念感謝献金者、「つのぶえジャーナル」事業への寄付者の報告です。感謝いたします。
村田和子様 神崎道夫様 馬場暁美様 岡田千歳様 佐藤のり様 加納さおり様 井上三郎様 匿名2名様
*寄付金口座…郵振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社
また、お便り下さる方やお友達への紹介はこのメール アドレスをご利用ください。多くの方々の「ジャーナル友」が与えられるように願っています。
*「つのぶえジャーナル」はこれをご利用ください。
http://tunobue.blog.shinobi.jp
(米国南長老教会文書伝道事業)刊行責任者
つのぶえ社代表 長村秀勝
今月のことば
彼らはイエスを引き取った。イエスはみずから十字架を背負って、されこうべ(ヘブル語ではゴルゴタ)という場所に出て行かれた。彼らはそこでイエスを十字架につけた。
=ヨハネ19:17~18=
ゴルゴタ。驚くべき、きよい丘よ。その名を言う時、深い厳粛な思いの波に飲み込まれ、何とも言えない静かな喜びと心からなる感謝の思いが信仰者一人一人の魂を揺さぶる。
幾千万の人々、否、数えきれない人々、長い年月の間、私たち人類はあなた(救いの恵み主)を待ち望み、待望したことか。そうして時の続く限り、人間はあなたの御業を回顧する。日が地上を照らすように、十字架に立つあなたは、私たちの唯一の光であり続ける。
ゴルゴタ。そこで私たちは、木にかけられた、神にして人なるお方にお目にかかる。そこで神と人間とが和解のために出会い、罪はその審判と刑罰と死とを受ける。そこで蛇の頭は打ち砕かれ、敵意は滅ぼされ、和解の印を知る(創世記3:15)。
そこで天が開かれ、命の木に至る道が開かれる。そこに恵みのみ座が設けられ、わたしたちは、はばかることなく聖いお方に近づき、憐れみを受け、必要な時に助けをいただく恵みを見い出す。
ゴルゴタ。悪しき日の私たちの避難所、闇の中の光、荒れ狂う大海の中の堅い巌、沈みそうな船のための港、魂の碇、墓を通って永遠の命に至る道。
ああ、ゴルゴタよ。世はあなたを憎み、あなた無くしても道と港を見いだせると信じている。けれども、私たちは確かに知っている。人間のともした光がすべて消えた時、あなたが世を照らし、信じる者をすべてに永遠に完全な日へと導くことを。 アーメン
小閑記
「わたしに何をしてほしいのか」
=ルカ18:41=
私たちは日々の生活の中に、たくさんの願いや願望をもって時を過ごして生活しています。誰かに、あなたは私に何をしてくれますかと言われたり、私のしてほしいのはこれこれですが・・・ということはおありですか。買い物に行き、欲しいものが手に入るとささやかでも喜びを得ます。病気の時、お医者さんに癒してほしいと願います。
ところで、思いがけない時にあなたは、イエス様が「わたしに何をしてほしいのか」と問われた時、何をどのように言うことが出来ますか。私自身は戸惑ってしまうでしょう。「わたしをあわれんでください」と言えるでしょうか。イエス様が救い主であると知り、信じている人は、私を憐れんでください。私の罪をお許しください。苦しみや悲しみから救い出してくださいと願うことは出来るでしょう。
イエス様が祈っている私たちのところに来られて「わたしに何をしてほしいのか」とお聞きになったとしたら、私たちの日々祈り求めている事柄を素直にイエス様にお応えできるでしょうか。ありきたりの願いであったり、自己中心の祈りであったりで、真に必要な願いと言えないのではないかと考えるとしたら、このイエス様の問いかけは、私たちには欠くことのできない大切な事柄と言えます。
聖書の中に「また、祈る場合、異邦人のようにくどくどと祈るな。彼らはことば数が多ければ、聞き入れられるものと思っている」と言われています。
私たちが祈りによって神の前に出る時、自問してみようではありませんか。
私が今、何を望んでいるのか。実際に何が必要なのかを、神様に申し上げているでしょうか。
心疲れている時、心渇いている時と、何もかも手に入っている時の祈りに、どのような違いがあるでしょうか。
イエス様は、疲れたものは私のところに来て休みなさいと言い、思い悩むなと言い、隣人を愛しなさいと言われました。そうして「神の国と神の義を求めなさい」とお教えくださいました。
この「わたしに何をしてほしいのか」の神様からの問いかけを、本当に大切にしたいものです。
世田谷通信(187)
猫草
4月スタート悪くない。と最近思うようになった。年度の切り替えの話だ。以前は世界的に9月スタートが当たり前なので、そちらにいつ合わせるんだろう、早くやれば良いのにと内心思っていた。
なぜ気持ちが変わったかというと、準備期間のことを考えるから。新学期の準備を年度末に慌ててやりたくないので、図書室の場合12月ぐらいから動き始める。2学期の蔵書点検や新着本受け入れなど大きな作業のめどがついたあたり。気候的にも寒いぐらいが本の移動などの作業には活動しやすい。
そう、9月なんてまだまだ暑いじゃないですか。仮にその時期に年度切り替えだと7,8月という猛暑の中、大型台風やゲリラ豪雨にひやひやしながら準備をすることになる。図書に雨は大敵、暑い盛りに本の移動だけでもうんざりなのに、梱包の手間が増える・・想像するだけで気持ちが萎える。
さて学校自体は3月後半まで現スタッフで在校生にきっちり向き合う必要がある。卒業、進級も大切なイベント。4月1日に発令、着任、始業式までの数日に1年間の方向性を決める業務がぎゅっと凝縮される。膨大な作業をこなして新年度を迎えなくてはならない。担任が決まり、役割分担、諸々の会議が5分、10分刻みで行われる。新任の先生方も初めましての挨拶もそこそこに、大量の文書、引き継ぎ、教科書を受取り、教室を整え、時間割を決め、職員室はさながら戦場のような慌ただしさ。
大規模校だからというのもあるのだろうが、新人もベテランも、男性も女性も、力仕事も含め、よく働くものだと感心する。物の移動ももちろん、印刷室もコピー機もフル稼働、山積みのコピー用紙がどんどん消費され、画用紙や文房具のストックも尽き、まあ1台ぐらい印刷機が故障する。
こんな殺気だった時に図書関係のことなどできたものではない。だから早めに印刷物は完了、来年度の準備をしておく必要があるわけだ。
そして子ども達を迎える。もちろん男性はネクタイ、女性はスーツ着用での始業式。和装の保護者もちらほら。温暖化で桜はとっくに終わっていて期待できそうにないが、まあ過ごしやすい季節ではある。
『美しい朝に』・・53・・
K・Aさんの都合により4月号の『美しい朝に』は休載させていただいています。
編集子
*********
水野源三詩集 「主にまかせよ 汝が身よ」より
「こんな美しい朝に」<Ⅰ>
空には 夜明けとともに 雲雀が鳴きだし
野辺には つゆに濡れて すみれが咲き匂う
こんな美しい朝に こんな美しい朝に
主イエス様は 墓の中から 出てこられたのだろう
「こんな美しい朝に」<Ⅱ>
霧がしだいにはれてきて 山々が姿現わす
こんなすばらしい朝に 主は主はよみがえられた
空高くひばり鳴きだし 霧にぬれてすみれが咲く
こんな美しい朝に 主は主はよみがえられた
早起きの人が笑顔で 朝のあいさつをかわしあう
こんなうるわしい朝に 主は主はよみがえられた
「今日一日が始まる」
わが部屋にわが心に 静かに近づきたもう
主イエス様の足音で 今日一日が始まる
わが耳にわが心に ひそやかに語りたもう
主イエス様のみ言葉で 今日一日が始まる
わが足をわが心を やさしく導きたもう
主イエス様のみ心で 今日一日が始まる
写真・・・R・E・マカルピン夫妻の7人の女子(1903夏)
『その愛のゆえに』
=時々の記=
(156)
2月20日
今朝洗濯物を干していると、北側の山から“ホーホケキョ”と鶯の鳴き声が聞こえました。一瞬耳を疑いました。今まで2月に鶯の鳴き声を聞いたことはありませんから。しばらくするとまた鳴き始めます。主人に声をかけて、二人でしばらく待ちました。またはっきりと大きな声で鶯が鳴き続け、きっと梅の花の蜜を求めているのかもしれません。朝からとてもほのぼのとしたひと時でした。
耕しや黒美しくならされぬ。
京へ出る御とぎ峠の薄霞。
船団の如進みける春の雲。
ぎらぎらと早やもゆるなり春入日。
雨粒とともに眺めし梅の花。 馬場路哉
2月21日
くもり空の一日。天気予報では晴れるとのことでしたので、たまっていた洗濯物をたくさん干しました。風が吹いていましたが一向に乾きません。仕方がないので必要なものだけ乾燥機に入れ、あとは部屋の中に入れてストーブの力を借りることにしました。
山仕事、帰りの道に風花す。
冴え返るオルガン強く秦しける。
雪嶺のふもとに母を見舞ひけり。
料峭の終わりを告ぐやトビの笛。
春の水岩間岩間に踊りける。 馬場路哉
主人が上野市の花屋さんで“紅梅”の鉢植えを買ってきてくれました。小さなちいさな花が二つ、三つついています。とても愛らしいものです。土に植え替えればきっと見事な木になるのでしょうが、しばらくは小さな鉢で楽しみます。春ですね。桜の開花予報が出ています。
3月3日
2週間ぶりに礼拝に行ってきました。するとびっくりすることがありました。
山添村の若い青年が礼拝に先週からきておられるとのことです。ご挨拶に行くと、またびっくりです。息子の小学校、中学校の同級生です。キリスト教のことを学びたいと教会を訪ねたと思われました。神様の不思議なお導きにとても感謝いたしました。お母様とは音楽研究会で一緒に合唱したことがありますし、今は山添村の俳句会で主人とご一緒しています。息子にこのことを伝えても、あまり反応はありません。幼いころは一緒に日曜学校に行っていたのにと思うと残念で仕方ありません。神様のお導きと憐れみを祈るものです。
丘陵は貸農園や青木踏む。
店頭に小振り並びて桜鯛。
枝打つや谷の底ゐみ春の川。
雨上がり鶯のちょっと鳴く。
春疾風(はやて)伊賀の盆地を突っ走る。 馬場路哉
明日は雨だというのですが、友人を月ヶ瀬の梅を案内することにいたします。
運転には十分に気を付けて行ってきます。長い間勤めていた月ヶ瀬小学校の前も通り抜けます。もう誰も私を知る人はいないはすが、時々、覚えてくれている方がいて、大きな声で呼んでくれるのです。こちらも思い切り手を振って昔のように大きな声であいさつしています。懐かしいなあ・・・・。
3月5日
昨日の雨の一日と違って、気持ちよく晴れ渡りました。遠くの山並みを見渡しますと、桜が芽吹き始めたように辺り一面、ピンク色に移っています。タンポポがあちこちで目立つようになりました。チューリップの芽がこの暖かさでぐんと大きくなったように感じます。
カラオケや“北国の春”持ち歌に。
伊賀焼に乗ってをるなり立ち雛。(たちいひな)
かんざしのように枝あり梅白し。
朝まだき仲空にあるおぼろ月。
廃寺跡谷間(たにあい)広く春日待つ。 馬場路哉
この頃の私たちは夜は昭和の懐かしい歌番組にはまっています。主人は誰が作詞した曲なのかを知ろうとしています。中でも主人のカラオケでの持ち歌は“北国の春”です。私はテレサテンの曲がとても好きです。もう平成も終わろうとしています。昭和が遠い昔になろうとしているのが寂しいですね。
3月12に日
こちらは風がきつく吹き荒れています。杉の枝が狭い道にたくさん落ちています。花粉症で花がぐずぐずするはずだなと杉の枝の多さに驚いています。この地で生まれ育った主人は杉にもヒノキにもアレルギーが出ませんから、抗体ができているのでしょう。
青年の教会へ来ぬ春の雨。
三笠山焼かれて黒し塔の側。
卒業す新島譲を敬愛し。
復活を信ずるトマスイースター。
渕と瀬の広々とあり春日濃し。 馬場路哉
趣味の園芸を見ていますと、もう桜の花が咲き誇っている映像が映し出されています。桜は梅と違ってとても華やかです。地植えをすると大きくなるので鉢植えにするとよいと教えてもらいました。桜は奈良ではなんといっても吉野ですね。学校の社会見学で一度行ったのですが、とてもきれいなソメイヨシノに感動したのが思い出されます。
馬場暁美
「上野緑ヶ丘教会会員」
写真・・・R・E・マカルピン夫妻と子女 於名古屋長塀町(1902年夏)
眸(ひとみ)・・97・・
☆ 福島のU・Kさんからの「眸」の投稿を読みました。わたしも、無言派です。何か言うと、周りから何か言われるのではないかとか、子供がいじめにあうのではないかとかを考えて、何事にも無関心、無反応を装っているのです。たぶん子供の時に、学校で内申点を気にしていい子ぶることを身につけてしまったのかもね・・・。子供を見ていると、わたしの子供のころそっくりです。自己嫌悪!! 千葉県 T・Mさん
☆ 「ジャーナル」の更新日を楽しみにしています。大分前だったと思いますが、お務め帰りに電車の中で「ジャーナル」を見ていますという投稿がありましたが、わたしは事務の仕事で疲れた休憩の時に、コーヒーを飲みながら見ています。皆さんの投稿が面白いですね。元気をもらっています。わたしの苦手は、帰宅してからの食事の用意です。もちろん、スーパーさんのお世話になっていますが…。もう手造りはしていません。落第主婦兼母親で娘に助けてもらっています。今のところは親元を離れる気配はありませんが、そうなったら正直困ります。主人は、テレビと仲良しで、期待していません。 愛媛県 A・Aさん
☆ 私の村の小学校は、統廃合したのですが、それも廃校になり、孫たちは今はスクールバスでの通学も数名になりました。村の存続も私たち11家族で、残っているのは空き家です。幼友だちは子供のところに行き、後は誰も来ません。私たちも80歳です。お祈りください。 兵庫県 N・Rさん
☆ オリ・パラのボランティアのことが話題になりましたが、身近な地域活動こそ大切なのではないでしょうか。お元気な高齢者の方々のお働きで、私たちの地域にはゴミなど散らかっていません。観光地のゴミ問題も心がけ一つで解消するのではないかと思います。散らかっているから捨てやすいのだそうで、きれいな街にしたら、ゴミ捨ても減るのではないかと思うのですが・・・。 京都府 O・Sさん
☆ ラーメン店で働いたのは子供が小さく、時間に融通を付けてくれるというのが動機でした。その子供も今はわたしから離れて生活しています。店長はよく変わりますので、今ではわたしが店長代わりみたいですし、若い人の親代わりみたいになってしまいました。これからは健康第一と老後のことを考えて働きます。もちろん、礼拝第一です。健康ですから本当に感謝です。シングルで子供には寂しい思いをさせたと思っています。ギャンブルとDVから逃れるためには、神様が備えてくださった最善の道と感謝しています。子供も勤め先の教会に行っています。「ジャーナル友さん」の中にもシングルの方がおられると思いますが、支えてくださる神様に信頼するのが一番ですよ。理解してくださる人もいますよ。頑張ってください。シングル、がんばれ!! 埼玉県 K・Jさん
☆ 水路の流れも速くなり、水かさも多くなってきました。雪どけとは春の印です。冬の風にさらされた乾いた畑に降る雨も直ぐ沁み込んでいきます。後、数回雨が降るとあちらこちらの畑では土おこしの機械が音を立て始めます。遠くの木々も緑が生えてきます。細やかな我が家の畑も鍬を入れようと思っています。 静岡県 B・Oさん
☆ 母は毎日畑通いし、作物作りを楽しめる体力のある方です。その為、ずっと私はそれを当てにしています。野菜の不足の時やお値段の高い時は、うれしいです。母の健康とわが家のお金の健康のために体力をセーブしつつ、言葉しかないエールと心からの感謝でいっぱいです。塾のお金はかかります。最近は、子連れで実家に戻り、畑の手伝いをしたら、そういうやり方はだめなのよ、と叱られましたので、わたしは消費者?になることにしました。最近はピカピカに洗った野菜が届きます。 兵庫県 H・Hさん
☆ 桜の花に先駆けできれいな花をつけるのが木蓮。その木蓮が今年もお隣りの庭に咲き始めました。緑の少ない春先に咲く神様からの贈り物。うれしくなります。もうすぐ春ですね~。 愛知県 R・Oさん
写真・・・名古屋学院献堂式とR・E・マカルピン 上段中央(1916年)
十戒と主の祈り・・6・・1・・
鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
=主の名=
第三戒①・利用する
出エジプト記20:7、使徒19:11~20
第三戒の「主の名をみだりに唱えてはならない」という禁止の命令は、もちろん、主の名を口に出してはならないということではありません。聖書のどこにも「主(ヤーウェ)」というヘブライ語では4文字の言葉(YHWH)ですが、それを口にしてはいけないと記されてはいません。
問題は、どういう目的で主の名が用いられるかです。聖書には偶像の名がしばしば出てきますが、それらが礼拝の対象とされることが禁じられます。同じように、主の名が誤った目的に用いられることが禁じられます。
誤った目的で用いられる場合としては、どのようなものがあるでしょうか。ドウマ教授は、それを三つのケースに要約しています。
使徒言行録の19章では、神がパウロの手を用いて、目覚ましい奇跡を行なわれ、彼の所持品にさえ驚くような力があったことが報告されています。つまり神がパウロを用いて御自分の大きな働きをなさったということです。祭司長スケワという者の7人の息子たちは、神に用いられたのではなく、逆に神の名が自分たちの支配下にあるかのように、自分たちの誉れを示すために、イエスの名を利己的に利用して、悪霊を追い出そうとしました。
しかし、使徒パウロと違い、イエスを信じていない彼らが、イエスの名を騙って、その力を引き出そうとしているのを見て、悪霊は彼らに襲いかかりました。それは、エフェソの人々に恐れを抱かせ、イエスの名がかえって崇められるという結果になりました。
自分の誉れのために主の名を利用して、みだりに唱える第二のケースとして、偽預言者があります。預言者とは将来を予告するという狭い意味よりも、神から語るべき言葉を預かった者、という広い意味で聖書で使われます。したがって、偽預言者とは、主から語るべき言葉を預かっておらず、語るように遣わされていないのに、「主は言われる」と騙る者のことです。
預言したことが実現しないとき(申命記18:22)、預言したことと反対のことが起こるとき(Ⅰ列王記22:35)、神に遣わされていない事実を隠すとき(エレミヤ14:15)、彼らは偽預言者であることがはっきりします。
自分の誉れにために神の名をみだりに唱える第三のケースとして挙げられるのは、偽りの誓いです。誓いについては、私たちの信仰生活と最も関係がありますので、機会を改め扱いたいと思いますが、ここでは、偽りの誓いを主の名を用いて、真実の誓いであるかのように装うことの問題です。
「神の名にかけて誓う」ということを、「主は生きておられる」(エレミヤ5:2、エゼキエル14:16、ゼカリヤ5:4)という表現をもって、偽りの誓いをいっそう真実なものに見せようとしていることが問題です。
第三戒②・わたしはある
出エジプト記3:7~15、9:16、詩篇106:8
ドウマ教授は第一戒、第二戒と違って、神はご自分のことを語られるのに、初めて一人称から三人称に変えておられることに注意を向けるように言います。「わたしをおいてほかに・・・神としてはならない」「いかなる像も造ってはならない・・・わたしは主である、あなたの神」というように一人称から、今度は「わたしの名」とは言わないで、「あなたの神、主の名を・・・みだりにとなえてはならない」と言うように、御自分のことを三人称で述べておられるからです。なぜそのようになさったかということですが、ヤーウエ(主)という名そのものに注目させるためであると言います。
神ご自身が、モーセの問いに答えて、ご自分の名について説明なさった有名な個所が出エジプト記3章にあります。10節にあるように、神はモーセに、ご自分がイスラエルの民をエジプトから約束の地に導き上ることを告げます。そして、モーセを召し出して、彼をエジプトの王のもとに遣わす計画を語られました。モーセは尻込みしましたが、やがてこの山でモーセは民と共に神に仕えることになるという約束を与えられ、決意しました。
その時、モーセは自分を遣わされた神の名を民から問われることを予想して、神の名を尋ねました(3:14)。それに答えて、神はご自分が「わたしはある」という名の神であることをお告げになりました。それは四文字の言葉で、英語で記せばYHWHで、ヤーウエと発音される名でした。それは、「私は救い主として存在する」とか、「わたしは語ったことを実行する」という意味であり、主なる神とはどういうお方であるかを示すものでした。ここでは、彼の先祖アブラハム、イサク、ヤコブに約束されたことを実行する神、イスラエルを救い出す神として、その名の意味が明らかにされました。
エジプトの王に語るべきことをモーセに命じられた神は、9章16節で、「わたしは、あなたにわたしの力を示して、わたしの名を全地に語り告げさせるため、あなたを生かしておいた」と言われ、異教徒であるエジプトの王さえも用いて、ご自分がどういうお方であるかを明らかにされるとおっしゃいます。
また同じことを、詩篇の記者は主なる神が、イスラエルの民を敵から救うのは、やはりご自身のヤーウエという名がそうした意味を持っていることを、歌っています。「主は、御名のために彼らを救い、力強い御業を示された」(106:7)キリストによって救ってくださったのも同じです。
「みだりに唱える」の「みだりに」(ラシャア)は、「勝手気ままに」ということなら、神の名を口にしないようにという消極的な戒めになりますが、そうではなく、この素晴らしい意味を持つ主の名が、誤りなく正しく崇められるようにという勧めです。
写真・・・10歳のJ・A・マカルピン(1915年)
幼年期のJ・A・マカルピン(1910年) 於横浜
バラ・マカルピン 日本伝道百年史・・17・・
水垣 清著
(元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)
9 R・Eマカルピン来日・・1・・
こうした事情から1885年(明治18)にバラ先生は、米国の南長老教会外国伝道委員会宛に書簡を送り、日本伝道の急務と宣教師の足りないこと、米国オランダ改革派教会ミッションはその規模からいって、今、宣教師を派遣することは難しく、貴ミッションよりの応援・派遣を願うという依頼の文面であった。
そこで南長老教会は「たまたまセントルイスの、グランドアベニュー長老教会が、亡くなった牧師マクヒーター博士のため、何か適当な記念事業をと考えていたので、外国伝道委員会総主事ヒューストン博士と相談の上、日本伝道の資金を提供することを申し出た。外国伝道委員会は喜んでその申し出を受け納れ、二人の青年を日本に派遣することに決めた。
一人はヴァジニア州ブバント出身のグリナン師(Rev Randolph Bryan Grinnan)、もう一人は、アラバマ州マーデイスヒル出身のマカルピン師(Rev Robert Eugenius McAlpine)であった。二人の青年は1885年11月10日サンフランシスコを出発し、12月1日火曜日、横浜に到着した(近藤武一著「米国南長老教会の日本伝道」33頁)。
ここでR・E・マカルピン師の来歴について記すと、師の両親は、父をオーガスチン・アービン・マカルピンと言い(1820年4月28日生~1910年6月16日没)で、(1847年10月26日結婚)、R・Eマカルピンのお父さんは、お医者さんであったが、ある嵐の日、馬に乗って患者を巡回する内に風邪をひいたのがもとで49歳の時に逝去されてしまった。その時R・Eマカルピン師は男6人、女2人の兄弟姉妹の中の一番下であった(1862年3月5日生)。少年時代をアラバマ州のタラデガ(Talladega,Alabama)の学校に学び、後にテネシーのクラークスビルにある南西プレスビテリアン大学に学んだ(1914年に神学博士の学位を得られた)。最後の学びは南カロライナのコロンビア神学校である。1884年10月14日、外国伝道にため召命を受けられて日本への伝道に来日されたのであった。
写真・・・バラ・マカルピン 両宣教師の家族 於横浜(1910年)
「キリスト教百話」
問24 キリストの再臨ということが言われていますが、それはどういうことですか。最後の審判があるとも聞いていますが・・・。
答・・4・・
しかし、一方その方がやたら厳しい方であって、迂闊なことをしようものなら、厳しいお咎めを受けるしかないということになるのであれば、あまりあれこれしないで、じっとしていた方が良い、という生き方が出てくる話でもあります。
そこで、この話をキリストの再臨ということに即して考えるならば、先ず神はキリスト共に生きておられる方であるということです。そしてわたしたちはそれぞれにふさわしいかお考え賜物を与えられて、それがどのように喜ばれるように生かされたか、期待して待っておられる方であるということです。
わたしが、もし自分の人生を、自分を超えた存在によって与えられ、そこに貸し与えられた賜物をどう生かしたかを問われる方の下で生きている者であると受け止めるなら、最終的な評価(審判)を受けるときが来ることは、それがいつの日のことかわからないにしても当然のこととするのでありますし、この方に喜ばれるように生きることを志すこともまた当然のことであります。
これらのことはいずれもキリストの再臨を信じるという信仰によることでありまして、「そういうことは信じられない」ということは、理性的には「その通りです」と言いつつ、「そういうこととは全然違います」ということであるわけです。
マザー・テレサはインドの路上で弱り果てて横たわっている老人を見て「イエス様がここにおられることを知った」という旨のことを言われたと聞いています。そうだとすれば、キリストの再臨はいつの日とも言えない終末的な事柄であるとともに、日常的なこととして、体験する出来事でもあると言えます。それはキリストが今も生きておられるからに外なりません。ある人は「キリストの再臨は終末における事柄であると共に日々の日常的な事柄でもある」と言っています。
「いと小さき者の一人」においてのキリストとの出会いはあります。終末的な事柄の現在性があると言えるのではないかと思います。それがキリストによって与えられている信仰ではないかと思っております。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・
元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
第88課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・42・・・
F 信仰の強い人たちは、その信仰の自由をどのように行使するべきか。
・・・14:13~23・・・
「もし食物のゆえに兄弟を苦しめるなら、あなたは、もはや愛によって歩いているのではない」(15節)。
ここの「もはや愛によって歩いているのではない」という言葉は適訳です。もし強いキリスト者があらゆる環境下において、またあらゆる人々がいるところで、どんなものでも食べてよいというキリスト者の自由を行使することを主張するならば、彼らは弱い人々の上に悪い影響を与えることになるのです。他人の霊的状態を無視して自己の権利と自由のみを主張することは、キリスト者の愛の義務に反することなのです。従って、強い人々は肉を食べることによって、肉によって躊躇している弱い人々を傷付けることにならないように注意しなければなりません。
「あなたの食物によって、兄弟を滅ぼしてはならない。キリストは彼のためにも、死なれたのである」(15B)。
ここで私たちは、良心を無視することが、魂を滅ぼすような性質のものであることを知ります。強い信者が肉を食べることが、どうして弱い信者を滅ぼすことになり得るのでしょうか。肉そのものはもちろん害もないし、宗教的敵に腐敗をもたらすようなものではありません。しかし、強い信者が肉を食べることによって、弱い信者を滅ぼすことがないように注意しなくてはならないのです。「滅ぼす」(アポ オルエdestroy)という語は明らかに極めて強い語で、傷つけるとか、つまずかせるとか、悲しませるとかいう意味より、はるかに強い意味を持っています。
それは破壊的な性質と魂を破壊して神より離れさせてしまう性質をもった言葉です。もちろん、神は弱い信者を立たせることがおできになることは、全く正しいことです。さらに神があらかじめ知っておられて、生命に予定されていた人々が栄光を受けることも全く真理です(8:30)。これらのことは全て確かです。しかし、パウロはここでは信者をお支えになる神の力のことではなく、罪の破壊的な力について語っているのです。15節でパウロが「滅ぼす」という言葉を用いる時、罪はもし神の恵みによる制御の下で活動しているのでなければ、どのようなことになるかについて述べているのです。
神の恵みによる制御の手から離れてしまう時、罪は確かに罪人を永遠に滅ばしてしまうのです。そして弱いキリスト者は、自分の良心に反した行為をするとき罪を犯してしまうのです。強いキリスト者は、まず止まってよく考えてみなくてはならないのです。罪とは如何に恐るべくも危険なものであるかを考えなくてはなりません。彼は自由を行使するにあたって、この点をまず考え、彼らの自由の行使が、弱いキリスト者を導いて罪を犯させることにならないかを考えなくてはならないのです。
今日の時代において、きよい肉と汚れた肉という問題はもはや論争点とはなりません。しかし、15節において具体的に示されている原則は、依然として真理であり有効であることを知らなくてはなりません。強いキリスト者は弱いキリスト者を滅ぼすことにならないように、その自由を行使しなければなりません。この原則を適用することができる事例は今日いくらでもあります。
パウロの時代がそうであったように、神によって禁止されていない事柄について、良心的に迷っている人々は今も多いのです。例えば、真面目なキリスト信者の中には生命保険は有罪であると考える人々がおります。大多数のキリスト者は生命保険は道徳的に正しいと主張します。そして彼らはこれに加入する権利を持っています。しかし、彼らは迷っている人々を説得して、それに入らせようとしてはならないのです。弱い人々が良心に逆らって行為して、罪の破壊的な力の犠牲者となってはならないためです。
J・G・ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
『ほっとひととき「みんなのコーナー」』
☆ 我が家の庭の梅はまだまだ冬眠中?です。雪の中ですから。氷が溶け出すとお目覚めで春になります。部屋の鉢植えの桜は咲き始めました。桜の次が外の梅の順番が定番になりました。私はまだまだ厳冬の中で震えています。「ジャーナル友さん」のことお祈りしています。 福島県 A・Mさん
☆ 昨年、ご主人の転勤でこの地に来られた方が、今までも何度も経験しているので、身軽な感じです。子供たちもお友だちと楽しく過ごしていました。そうして中学一年生です。多感な年齢、受験を考える年齢になれば、持ち家に戻ることを考えているところです、と言っておられました。
子供の成長と共に課題も変わるのですね。わたしの子供たちは何を考えているのでしょう。今朝も朝早くに楽しそうに部活とかで、出て行きました。 長崎県 T・Iさん
☆ 「つのぶえジャーナル」を送って頂きましてありがとうございます。もう3月ですね。冬の間は 寒い寒いと言っておりましたが、過ぎてみますと、この冬は暖かでした。灯油の購入量が、去年と全然違いました。雨が少なかったのと暖かかったのとで、富士山の雪も 少ないです。「今月のことば」をありがとうございます。 体調が守られますように、お働きが守られますように、お祈りいたします。 静岡県 H・Tさん
☆ あれからもう8年になりました。わたしには8年ではありません。昨日の出来事です。まだまだ手つかずのところもあります。若い人もわたしのような年寄りも言葉には出しませんが、悲しみを抱え込んでいます。記憶は薄まり遠のくのでしょうか。忘れたい、そして忘れたくない。忘れてほしくないです。 福島県 Y・Yさん
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△ 愛知県ではまだまだ豚コレラの被害が出ていまして、田原市の養豚農家では、健康な子ブタも殺しました。もうこれ以上、命が無駄にならないことを祈るばかりです。風評被害も怖いです。
△ 私の兄はどこにいるのでしょう。冬に時期に出稼ぎに出たまま、もう30年以上になります。弟も妹も亡くなり兄だけです。全く連絡がありません。何をしているのでしょう。お互いに高齢になると、心配です。連絡してほしいと、毎日祈っているのですが・・・。
*このコーナーの記事は、すべて投稿者から掲載許可をいただいております。 編集子
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」