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2023年7月号  №193 号 通巻877号
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 『ありがとうございます』

 三寒四温で寒いけど、やはり春ですね。ユキヤナギやサンシュユ、足元に目をやれば、ホトケノザやぺんぺん草が咲いていますね。コンビニのお店まで行く途中、小さなガーデニングをしている人をちらほら見かけました。わたしは春があまり好きではない(体調を崩しやすい)のだけれど、冬にはなかった、いろいろな色彩が鮮やかになるこの季節は、眺める分にはいいのかなと思います。このようなお便りを愛知県のOKさんから頂きました。

 これから、各地におられる「シャーナル友さん」から桜のお便りなどをいただけることを楽しみにしております。

 

2019年2月16日から2019年3月15日までの「つのぶえジャーナル」事業への寄付者の報告です。感謝いたします。

 

木田一郎様 斎田健一様 木下 肇様 佐藤のり様 加納さおり様 太田垣総一郎様 匿名2名様 

 

*寄付金口座…郵振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社 

また、お便り下さる方やお友達への紹介はこのメール アドレスをご利用ください。多くの方々の「ジャーナル友」が与えられるように願っています。

    osamura@kind.ocn.ne.jp 

*「つのぶえジャーナル」はこれをご利用ください。

http://tunobue.blog.shinobi.jp      

(米国南長老教会文書伝道事業)刊行責任者

   つのぶえ社代表   長村秀勝

 

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  今月のことば

 

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい。

        =ヨハネ15:9=

 

私たちの願いは、神の思いを知り、神に愛され、神に信頼して生きることです。しかし、私たちの思いは、それとは程遠いものがあります。とうてい不可能なことでもあっても、そうありたいと思える神への熱い思いを願い求めたいものです。

 

この冒頭のみ言葉の中に、父がみ子を愛されているかという説明の中に、どれほど多くのことが含まれているでしょうか。聖書の中には、その具体的な一つ一つが記されています。是非、聖書を丹念にお読みください。「わたしを見たものは神を見たのである。…。わたしを信じたものは御父を信じたのである」という言葉が新約聖書の中にあります。そのことを通して、私たちは神様への思い、神様への信頼が日に日に増し加わるとするなら、信仰の恵みそのものと言えます。

神に創られた被造物、神に背を向けた罪人、有限な者が、無限者を知ることなど、不可能そのものです。それを可能にしてくださったのは神ご自身の愛と憐みの賜物です。

 

神の愛は、神ご自身の如く偉大であります。この偉大さの中でも最も偉大なこととして、私たちに訴えるのは、父がイエス様を愛したように、イエス様がご自分の者たちを愛してくださるということであります。父がイエス様を愛されたと同じように、私たちもイエス様に愛されるということ―これは私たちの理解を超えることです。

私たちは、イエス様にその命を失わせ、イエス様に反抗し、不従順でした。そしてなお悪いことには、救われた後にさえ不従順なのです。そうであるのに、主イエスは父が主を愛されたように、私たちを愛してくださるのです。

 

イエス様は言われました。「わたしの愛のうちにいなさい」と。この招きの御声に日々、信仰に望みをもって歩む3月でありたいものです。

 

  小閑記

  弟子たちは出て行って、イエスがお命じになったとおりにした。

               =マタイ21:6=

 

私たちキリスト者が、イエス様がするようにとお命じになったとおりに従うならば、物事の考え方においても、日常の実生活においても、多くのことがもっと簡単になっていたことでありましょう。自分の価値判断やいろいろの事情が優先し、ことを複雑・不透明にすることは多々あります。

 小さいことと思われることでも、救い主のためにそれがなされる時は、偉大なものとなります。ロバの綱をとってイエス様のもとへ連れてくるだけで、主のみ栄と他の人々の役に立つことができます。渇く者には水を飲ませ、悲しむ者には、そっと声をかけることで、・・・。キリスト者の生活が、キリスト教的生活とこの世的生活の部分に分けられるとする考えがありますが、それは、神様のお命じになったという視点から考えるならば、成り立たないことです。

 

 神様を信じる人々は、神の教会の中におり、どこで生き、どこで働いていようとも、神様のみ前に立ち、常に神の民の役割を神様から担っています。もし、信仰の生活、教会の生活とこの世の生活、社会の生活とに分かれているなら、それは偽善という罠に陥ってしまうでしょう。

 

 今はあまり見られなくなりましたが、教会の礼拝に出る時、身支度して礼拝するのが当り前でした。正装したものですが、最近はそれがそうではなくなりました。普段着、労働着がいけないというのではないですが、無頓着になるならやはり一考すべきではないでしょうか。日々の生活の延長のままの礼拝には、衣服の乱れ、心の乱れに現われるとするならば、心を正す、あるいは信仰を整えることで意味あることと思いますが如何でしょうか・・・。

 

 大切なことは、祈りと感謝をもってイエス様のために働くときの心の、信仰の制服でありましょう。

 主を信じる人として、すべてのことが公の礼拝であり、イエス様のための仕事であるとみなしたいものです。

  誠実なる生活をイエスのためになし、

  わがすべてに主を喜ばせ

  よろこばしき、自由なる心もて

  忠信なる者となるは、わがために、祝福の道とこそなれ。 

 

 

世田谷通信(186

猫草

昨年、約20年ぶりに名刺を作った。ボランティア活動をしているときに、名刺を頂く機会は意外とある。シンポジウムや会議に出れば尚更。名刺をもらっても返せないと何だか収まりが悪く、名刺持ってないんです、すみませんと謝ったりしていた。

これまでずっと名前のない生活で、たいして困らなかったのだ。子どもが小さい頃はお母さん同士も先生からも「○○くんママ」「おかあさん」と呼ばれていた。子どもが成長するとそれもなくなり、名前を呼ばれるのは病院や役所ぐらい。普段は何者でも無い暮らしをしていた。別段不自由も感じないし、でも社会の役に立っているわけでもない、だれでもない、半透明な存在として自分を認識していた。図書室で働いてはいたものの、名刺を作ろうとは思わなかった。

でも今どきは学生さんでも名刺を持っている。ちょっと作ってみようかなと思って、デザイナーの友人にレイアウトをお願いした。名前とメアド、ボラ名とイラスト。フォントはペン字風のやさしい雰囲気。ネットプリントで100500円。ワンコインでできるんだ。なんて手軽なのでしょう。

さてめでたく名刺を手に入れても、しばらくの間は使う機会が無かった。持っていること自体を忘れていたり、名刺入れを探したり、出すタイミングを逃したり。名無し生活が長いと、こうなるのかと苦笑する。会社に勤めているときには、まず会議の前でも何でも、人に会ったら、長々と名刺交換の時間があって、役職の偉い人から順に「あ、私こういう者です」という、奇妙な挨拶をお互いにしていた。「○○と申します」って名乗ればいいのに、と思っていたが、当時は組織への帰属意識が今よりずっと高くて、個人名よりも、部署や肩書きを示す意味合いが強かったのだろう。

最近は、名刺入れを使うのを諦め、財布に数枚入れておくようにした。もごもごせずに「○○です」と名前を言えるようになってきた。どこに所属しているかではなく、自分が誰なのかを伝えるツールとして便利なものだ、名刺は。

 

 

   『美しい朝に』・・52・・

 

昨日は誕生日でした。今は、まだ目を休めないとだめみたいですので、PCも携帯も禁止です。花束を主人からもらいましたので、写真を送りしますね。

 

*********

 

「朝の祈り 夜の祈り」

        J・ベイリー著

        新見  宏訳

 

 朝

 わが命の主よ、あなたの律法を、わたしは喜んで守り、あなたとの交わりを喜んで味わい、あなたへの奉仕に喜んで身をささげます。新しい一日の仕事におつかわしくださろうとするこのとき、わたしはみまえにひざまずきます。

 この新しい一日について、わたしのささげる貧しい感謝をおうけくさい。この日の喜びと輝きを、たのしくもまた益ある労働にみたされるべくそなえらえられた長い時間を、ひろく開け放たれた機会を、そして新しい出発ののぞみを、主よ、感謝いたします。

 どうか、わたしの心にこの一日の機会を十分に用いようとする願いを起こしてください。きのう心に誓ったことをやぶることなく、きのう犯したあやまちをそのまま残ることのないようにしてください。悲しみを抱いて道をたどる人を路傍にみすてて過ごすことがありませんように。わたしの義務をあますところなく果たし、すべての悪習慣をのこりなく根絶やしにすることができますように。

 わたしの行いが、この世の中を少しでも人びとの住みよい場所にすることができる場合には、それを行い、わたしの言葉が、落胆している人びとの心をなぐさめ、弱い意志をふるいたたすことができる場合には、それを語り、わたしの祈りが、キリストのみ国をひろくすることができる場合には、それをいのることができますように。

 

 主よ、この日、わたしに親切な心をお与えください。柔和に耐え忍ぶ心と、堅い決心を与えてください。苦しみに耐える心をあたえてください。慈愛をお与えください。貞潔をお与えください。

 わたしの心の言葉に誠実を与えてください。課せられたつとめに対する勤勉をお与えください。

 

 時みちて、われらの主、救い主イエス・キリストを立て、われらの心を、あなたの愛を知る知識をもって照らしてくださった神よ、わたしをめぐみ、主のみ名にふさわしいものとしてください。  アーメン

  

 夜

 もっとも賢く、偉大であって、聖なる主、あなたは、知恵と力と慈愛によって、わたしをみ像(かたち)に似せておつくりになりました。あなたは、わたしにこの生命を与え、わたしの命の数をさだめ、住むべき境界をさだめられました。また、恵みふかく、有益な環境のうちにつつみ、わたしの心にあなたの律法をしるしてくださいました。

 今あなたは、わたしの心のもっとも奥ふかいところでわたしに出会い、わたしに語ろうと待っておられます。わたしの罪と咎をもかえりみず、愛のみ手をさしのべて。

 どうか、心の平和に向って通じているこの道に、わたしをすすませてください。心をひくくし、つつしんでみ前に近づかせてください。わたしの王であり、主であるイエス・キリストのみ心をつねに身におびてゆくことができますように。不平や、不当な欲望や、隣人への敵意をことごとく捨て去り、ためらわず、みこころに全く従うことができますように。

 

 主よ、みこころのうちにこそ、わたしの平安があり、あなたの愛のうちにこそ、わたしの安息があり、わなたに仕えまつることにこそ、わたしの喜びはあります。

 あなたこそ、わたしの心に望みとするすべてであります。

 「わたしはあなたのほかに、だれを天にもち得ましょう。地にあなたのほかに慕うものはない」。

 

 神よ、あなたのみ前に、わたし自身のことばかりでなく、他の人と、隣人のことをおぼえます。

 わたしの友だち、ことに・・・、また・・・を。きょう、共に働き、また共に遊んだ人びとを、悲しんでいる人びとを、あなたのみ国の、困難な持ち場や、孤立した前哨戦にあたっている人びとを。

 

 われらのすべての父なる、ただひとりの神よ、この夜、われらの近くにいまして、われらのたましいを見守ってください。

 イエス・キリストのゆえに、この祈りをおききくださいますように。 アーメン

 

 

 『その愛のゆえに』

   =時々の記=

    (155)

113

庭の梅のつぼみは昨日よりもさらに大きく膨らみ、花になると真っ白の梅なのですが、つぼみはまるで赤い花が咲くかのように濃いピンクです。鼻を近づけると、なんだかよい香りがしてきそうです。

二上の山より朝日冬紅葉。

数々の祝福を謝す大晦日。

聖霊の導き待てる去年今年。

第九聴きまもなく覚ゆ淑気かな。

永遠に川の流れる淑気かな。     馬場路哉

昨日のことです。主人に一通のはがきが来ました。それには、このようなことが書かれていました。“あなたの俳句の作品はとても良いものです。それらを集めて俳句集を作りたいと思います”というものです。この言葉に乗ってはいけないといって主人はすぐにそのはがきを廃棄しました。「つのぶえジャーナル」に載せていただけることが一番の喜びであり感謝なのですから。ほかにも新聞社からも誘いがあります。オレオレ詐欺のようなものですから気を付けないとと言っています。

117

 外へ出るととてもきつい風に吹き飛ばされそうになりましたが、お日様は明るく照り春の兆しを感じました。散歩の途中でお隣の方と出会いました。風がきついのに帽子もかぶらずにすごいな、と言われました。帽子をかぶらなくても寒さをそれほど感じずに散歩を終えられるからです。

青空に梅のつぼみの赤と白。

嬰児の泣き叫ぶなり日脚伸ぶ。

初時雨信楽の山隠しつつ。

聖餐を受くやおりしも寒の入り。

海岸のハクアのビルへ旅始め。    馬場路哉

122

 毎日歩いている散歩道に昨日から黄色い梅が咲き始めました。蝋梅という品種です。一番に咲く梅の花として親しまれているものです。今日は昨日よりも一段と花の数が増えています。冷たい風に揺れながらも“春ですよ”と呼び掛けてくれています。先日見つけたフキノトウも青い小さなはっぱをたくさんつけて芽を出し始めました。このほろ苦さが春を感じさせてくれるのですね。

杉ヒノキ枝打ちされて山眠る。

堤防は良き散歩道山眠る。

蝋梅や卒寿の夫婦働きぬ。   馬場路哉

128

散歩に出かけようかと思いながら郵便受けを見に行きますと、もうジャーナルが届けられていました。うれしくなって、散歩を後回しにして、ジャーナルを読むのを優先しました。今月もヤマト便さんが気を使ってくれたのでしょうか。早く届けていただいて感謝です。

ジャーナルを読ませていただいていると、あちこちでフキノトウの収穫とか、つくしが出始めたとか、びっくりですね。日本列島は南北に長いのですからまだ冬の真最中の雪国の方たちもおられれば、春を感じられる方たちもおられるのですね。ジャーナルを読ませていただいていると、家に居ながらにして全国へ出かけているようでとても楽しくなります。

底冷えの伊賀に十字架掲げ建立。

押され行く、車椅子なる毛糸帽。

過疎なれど斯く(かく)賑わひの藪椿。

読みもする、カルヴイニズムや冬籠り。

大霜や三輪山と田の引き締まる。    

粉雪やただ、診察の順を待つ。

大木となりし橡(くぬぎ)の山眠る。

橋の上に消防車止め出初式。

枇杷の花数多付きをる良き窪地。    馬場路哉

26

 京都の方ですが、十何年も前からお会いしていませんのに、今日電話が入りました。そしてどうしても今月中にお会いしたいとの電話です。びっくりいたしました。すでに年賀状もやり取りしていません。お世話になった方ですから、むげにお断りすることもできません。2月25日月曜日にJR奈良駅で待ち合わせをすることにいたしました。何かが起きたのだとお察しいたします。誰かとどうしても話をしたいという切実な願いなのですから。私にできることを精いっぱいしたいと思います。

底冷えの伊賀の教会祈りけり。

早春や賛美歌の声そろひける。

主てふ字殊に大きく筆始め。(今年度の標語聖句を書き終えた時のこと。)

鳥達の飛び立ちにけり春隣。

料峭(りょうしょう)に耐えてリハビリ続けなむ。  馬場路哉

私は左股関節の痛みで、歩いていたり、立っていると突然足の力ががくんと抜けてよろけるようになってしまいました。

馬場暁美

「上野緑ヶ丘教会会員」 


 写真・・・バラ記念会堂  石の礼拝堂
      バラ宣教師祈祷場、神奈川の一本杉 

  

 

  眸(ひとみ)・・96・・

☆ 数年前に庭の片隅に植えた水仙がたくさん咲いています。風に吹かれて、淡い香りが春を運んでくれています。梅の蕾も膨らんできました。季節は春に向かって動いているのですね。2019年はどのような年になるのでしょうか・・・。でも自然の営みは逞しく、確実です。何だかほっと致します。  千葉県 T・Mさん

☆  主人の両親が高齢になり、長男の主人が会社を辞めて4年目になりました。慣れない野菜の栽培農業ですが、今は農家の跡取り息子になったねと言われるようになっています。会社勤めの時はひ弱な主人でしたが、たくましくなりました。土など触ったことのないわたしも、今は日焼けを気にしている暇などありません。年中、何かの収穫のある野菜の栽培農業ですから、大変です。テレビでイギリスの農業は外国の人によって成り立ということは本当によく分かります。EU離脱問題で深刻な人手不足に陥るとか、これは私たちも同じです。働き手不足です。 愛媛県 AAさん

   インフルエンザが猛威を奮っていますが、如何お過ごしでしょうか。「今月のことば」にはっとさせられています。どうしてこんなに大変な事を乗り越えていかなければいけないのだろう、いや、何時迄も続くまいと自身を励ましてきた困難と思われる事柄が 多くありました。若い時の苦労は買ってでもしなさいと、父には厳しさを持って接してこられたと感じています。ところが40代になり、身体の衰えを感じ始めたのか、周りの知人達の人生を歩むスピードが減速してきた様に感じました。その時、ふと自分がコツコツ続けてきた、例えば 家事力にしても、自分だけでは無く、家族も支え続けるエネルギーだと感じられる様になってきたのです。

ふと気を緩めてしまえば 面倒な事の多い、食事の準備一つ取っても健康に生きる術と思えば 何のその玄米や発酵食品の良さに価値観の似た友人達と分かち合い、元気に暮らしたいと願う様になりました。大変な事柄を経て、主からの祝福となっているのだなあと実感しています。おかげさまで、少し余った時間や体力で私のもできるボランティアをしています。 奈良県 NRさん

☆ 切り花のハウス栽培を始めて10年になりました。やっと安定してきましたが困ったことが私の中に起きているのです。それは季節の花の感覚がなくなっているのです。道端に咲いている花が、販売用の花より美しいと思うのです。テーブルにはお隣りの方が楽しみにお世話しているお花をいただいて飾っています。素朴さがあって好きです。 愛知県 AJさん

     

<身近な出来事を「眸」に投稿してください> 編集子

写真・・・来日当初の住居 神奈川 成仏寺

 

十戒と主の祈り・・5・・3・・

             鈴木英昭著

        (元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)

=刻んだ像=

  第二戒⑤・御子を拝む

       創世記1:26~28、Ⅰコリント3:10~17、6:19   

 人は神に似せられて造られている者ですから、偶像のように拝まれてはなりませんし、また不信者であっても単なる動物のように見なされてもなりません。

 人は神のどういう面で神と似せて造られているかについては、ウエストミンスター大教理問答の問い17の答にあるように、「知識と義と聖」において神に似せて造られました。それらを、アダムとエバはその堕落により、狭い意味では失ってしまいましたが、広い意味では残っています。

 狭い意味では、アダムとエバの堕落の直後に、神は回復の道を提供してくださいました。原福音です(創世記3:15)。それを信じることで、人々には回復が与えられました。その実例がエバやセトにおいてすでに見られました(同4:1、25)。

 

 主イエスが父のもとに行われることを告げられると、弟子のフイリポが父を見せてほしいと言いました。それに対して、主は、「わたしを見た者は父を見たのである」(ヨハネ14:9)とおっしゃり、主御自身の言葉と業から、ピリポは父なる神がどのようなお方であるか分かったはずだと言われました。主は特別な意味で父が共にいてくださいましたから、主は彼らが御自分を礼拝することを拒むことはありませんでした。

 読んでいただきましたように、Ⅰコリントの信徒への手紙3章16節で、信者たち自身が、教会であるとして「神の神殿」、「聖霊の住まい」と呼ばれています。このように、キリスト者は、群れとしても、個人としても、神の住まいとされていますが、あくまで造られた者ですから、人を拝むことも、人から拝まれることも、あってはなりません。

 

 神は、洪水の後で、ノアの息子たちにこう言われました。「人の血を流す者は、人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ」(創世記9:6)。この意味は、すべての人には神に造られた広い意味の神の似姿があるので、殺されてはならないということです。それに違反すれば死の刑罰があるということです。

 神の住まいを意味するソロモンの神殿は、彼の違反後、直ちに廃墟となったわけではなく、民が神殿で礼拝することなくはなったわけでもないことは、未信者にも当てはまります。信者が神でないものを礼拝してはならないことは明らかですが、未信者も広い意味の神の似姿をなおもっているのに、偶像礼拝しかできない性質の持ち主であることを認め、尊敬と憐れみをもって、狭い意味の神の似像がその人のうちに回復されるように愛する必要があります。

 

第二戒⑥・芸術作品

       Ⅰ列王記7:13~14、10:18~20

 

 ヤコブはラケルの墓に記念碑を建てました(創世記35:20)。ペリシテ軍との戦いの勝利を記念して、サムエルは石を立て、エブン・エゼル(助けの石)名付けました(Ⅰサムエル7:12)。しかし、同じような石柱であっても、イスラエルが「どの小高い丘にも、どの茂った木の下にも、石柱やアシエラ像を立て、主が彼らの前から移された諸国民と同じように、すべての聖なる高台で香をたき、悪を行って主の怒りを招いた」(列王記下17:10~11)ということが問題でした。

 

 幕屋や神殿にさえ芸術的な作品がいろいろありました。Ⅰ列王記7章13~14節にありますように、テイルスのヒラムが招かれ、青銅の柱、柱頭をはじめ多くの飾りが造られました。契約の箱と関係のあるケルビムも人の手によって造られたものです。ソロモンの王宮の王座に至る6段の階段には、6対のライオンの彫像があったことが記されています。イスラエルの12部族を象徴するものでした(Ⅰ列王記10:18~20)。

 しかし、旧約聖書にはイスラエルが人間の像を刻んで建てたという実例がありません。神々の像を造ることが禁じられていることが、礼拝の対象ではないとしても、イスラエル人には人の像を造ることを躊躇させたのでしょう。イスラエルの王もユダの王も、戦勝を記念した文書を記録して聖書に多く残していますが、自分の像を造らせたという記事は聖書にはありません。

 オランダのドウマ教授は、宗教的な像に対する禁止は目に見える芸術作品には適用できないと言います。すでに挙げたように、ソロモンの神殿でも王宮の場合でも、芸術家の手腕が用いられ、ヒムラのような外国人の助けを必要としました。アブラハム・カイパーは、イスラエルが神の国の宗教とその勝利の担い手とされたが、芸術については同じように言えないと考えています。ドウマはカイパーの著書「カルヴィニズム」の次の言葉を引用します。

「結局、神の知恵が彼に現われていたソロモンは、イスラエルが建築の点で遅れていて、外部からの助けを必要としていることを知っているだけでなく、ユダヤ人の王である自分の行動によって、ヒムラが少しでも恥とは考えていないことを、公に示している。むしろ、ソロモンはそれを神の自然な定めと理解している」。

 この第二戒の理解の誤りから、イスラエルにおける芸術作新が少ないとしても、この種の芸術作品は第二戒の違反とされることはないということです。造られたものによって神は御自身の栄光を表されるからです。第二戒は神々の像を造ることを禁じています。そして、その像に頭を下げ、仕えることを禁じています。崇拝する像を造ってはならないのであって、すべての彫刻を禁じているのではありません。


写真・・・瀬戸永泉教会堂の玄関

 

 バラ・マカルピン 日本伝道百年史・・16・・   

     水垣 清著

 (元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)

8 バラの伝道・・8・・

1883年(明治16)、51819日午後一時から東京の久松座(後の明治座)で、キリスト教大説教会が開催され、バラ先生は「イザヤの予言」と題して話された。金森通倫、コレル師、松山高吉、ノックス師、押川方義、小崎弘道、宮川経輝などが説教者で、この日には会衆二千名ほどで、翌19日には海老名弾正、稲垣 信、横井時雄、フルベッキ師などの説教があり、劇場の二階が落ちはしないかと危ぶまれて、丸太で支柱するほどの盛況で三千人が集まった。

この年、明治16年の初週祈祷会は明治5年横浜の初週祈祷会に始まったリバイバルの如くに信仰復興の機運はキリスト教主義学校や教会にまで起こり、数週間連続の祈祷会は燎原の火の如く上州、神戸、大阪、中国、四国、仙台地方にも伝わって、熱心な信仰者が多く生じたのである。

時代は文明開化の潮流に乗じて、この年11月には鹿鳴館が開館し、政治思想では自由民権運動で国内は沸騰していた時である。

同年1112日、マルチン・ルーテルの四百年記念集会が木挽町の明治記念館で開かれて、バラ先生は、井深梶之助、稲垣 信、フルベッキ師、小崎弘道の人々と説教壇に立たれた。会衆は千五百人であった。日本における青年主体の運動が始まったのもこの年で、教会内で青年会の組織が計画され、ヤングメンの訳語として小崎弘道の発案で「青年」の訳語が生まれたのである。

 

バラ先生の伝道は変わることなく続けられたが、その伝道範囲もますます広くなって、とても改革派教会の宣教師だけでは伝道の責任を果たし得なくなって来た。来日当時の米国オランダ改革派教会の宣教師を記すと次のようである。

 

「宣教師名と夫人名」 来日年月日、備考

シモンズ(18341889) Simmons,Duane B1859.10、神奈川横浜、医師

シモンズ夫人 Simmons,Mrs.D,B1859.10

フルベッキ(18301898)Verbeck Guido Fridolin1859.11.7、長崎、東京

フルベッキ夫人Verbeck Mrs. G,F(Maria) 1859.11.7、長崎、東京

ブラオン(18101880)Broun,Samuel Robbings1859.10、横浜

ブラオン夫人Broun,Mrs.S.R1859.10、横浜

バラ(18321920)Ballagh,James Hamilton1861.11.11、横浜

バラ夫人Ballagh,Mrs.J H(Margaret Kinnear) 1861.11.11、横浜

スタウト(18381912)Staut,Henry1868.2、長崎

スタウト夫人Staut,Mrs.H1868.2、長崎

キダー女史(18381910)Kidder. Mrs.Mary Eddy1869.1、横浜

ウォルフWolff.C.H.H1871、弘前、東奥義塾

ウォルフ夫人Wolff.Mrs.C.H.H1871、弘前、東奥義塾

へゲンバーグ女史Heguembourg,Miss,S,K,M1872、横浜

写真・・・バラ宣教師の尽力によって建設された瀬戸永泉教会会堂

 

 

「キリスト教百話」

問25 キリストの再臨ということが言われていますが、それはどういうことですか。最後の審判があるとも聞いていますが・・・。

答・・3・・

 キリストの再臨ということは頭の中では、なかなか理解しにくいことでありますが、このことを考える手掛かりになるかと思われる話を、キリストが語られた譬え話を借りて言うと、次のように理解されるのは「タラントンのたとえ」という、題でよく知られている話でして、ある人が旅に出かけるに際して、三人の使用人を呼んで、それぞれの力に応じて、一人に5タラントン(1タラントンは労働者の20年分の賃金相当とされています)、一人には2タラントン、もう一人には1タラントンを預けたというのです。

 そこで5タラントン預けられた者は、早々出掛けて行って商売をして、ほかに5タラントンを儲けました。もう一人の2タラントンを預かった者も同様にしてほかに2タラントンを儲けました。もう一人の1タラントン預かった者は、穴を掘って主人の金をその中に隠しておきました。

 かなりの日がたってから主人が帰って来て、預けておいた金の清算をはじめたところ、前述のような結果で、主人は先に二人に対しては「忠実な奴だ。わたしはおまえのことで喜んでいる。お前も一緒に喜んでくれ」と言い「これからはお前にもっと多くのものを管理させよう」と言い、1タラントンをそのまま差し出した使用人に対しては、「お前は怠け者で悪い奴だ。お前がそういうやつだと始めから分かっていたのなら、銀行に預けておいた方が、利息付きで返してもらえたのに、そういうことにならなくて残念だ。お前にはもうなにもたのまないから、とっとと出て行ってくれ」と言ったという譬え話です。この使用人は、その結果外で泣いて歯ぎしりするのであろうが、もう取り返しはつかない、という話です(マタイ25:14以下)。

 

 この話のポイントの一つは、人間にはそれぞれに応じたタラントンが与えられているということです(タラントンということは、これに関わる言葉でありまして、それぞれに与えられてる賜物ということを意味します)。問題は、この賜物には、それを信頼と期待をもって貸し与えている主人がいて、その賜物をどのように生かしたかについての評価をするということです。その主人が何時帰ってくるか、その日のことは使用人には分かりません。が、その日が来ることは確かです。

 ですから、何時帰って来られても良いように、主人の信頼と期待に応えるために精いっぱいの努力をするのが、使用人の当然の生き方となるわけです。その結果、「わたしのなすべきことをしただけのことですが、ご主人さまにこんなに喜んでいただいたばかりでなく、更に沢山の信用預かりの栄に浴しました。こんな喜びと光栄はありません」と言うことになります。

 しかし、一方同じ主人であっても、この主人をただ厳しい人とだけ受け止めて、自分が信頼され期待されているとは考えていない使用人にとっては、ケチな主人の怒りを受けないようにきゅうきゅうとしているだけで、賜物も下手に損じないようにしまっておくだけとなるしかありません。

 この話をどう受け止めるかは聞く人次第でありまして、特定の受け止め方だけに絞って、それ以外は認めないというような性質の話ではありません。しかし、イエスが「聞く者は聞くが良い」と言われていることに即して言うなら、この話は、われわれにも主人にあたる方がおられて、その方からそれぞれに相応しいとされている賜物(タラントン)が与えられており、何時の日か、その方から、人生の総括を受けることは確かであると信じて生きることが求められている話であると言うことができます。

       篠田 潔

(日本基督教団隠退教師・

元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)

 

第88課 キリスト者生活の実践的義務

=12:1~15:13=・・・41・・・

F 信仰の強い人たちは、その信仰の自由をどのように行使するべきか。

                  ・・・14:13~23

 「わたしたちは、主イエスにあって知り、かつ確信している。それ自体、汚れているものは一つもない。ただ、それが汚れていると考える人にだけ、汚れているのである」(1414)。

 旧約の汚れているものと清いものとの区別は、もはや効力を持っていない。その限りにおいては、異邦人のキリスト改宗者、すなわち、強い人たちが正しいのである。しかし、彼らが銘記しておかなくてはならないことは、この点について旧約が教えている律法が、今もまだ拘束力を持っていると考える人々(ユダヤ人改宗者)は、良心的にそれを無視することができないということである。それ故に、強い者は、弱い者に対してその義務感を犯させるに至らしめるような行動は何一つしてはならないのである」(ホッジ)。

 

 「わたしは、主イエス・キリストにあって知りかつ確信している」。パウロがここで述べようとしていることは、自分自身の理論によって到達したような結論ではなく、神の啓示によって知るに至ったものです。マルコ福音書71423にあるキリストのみ言葉を暗示させるようなものがここにあります。すなわち、「すべて外から人にはいって、人をけがしうるものはない」(714)。主はもちろんここで宗教的な汚すものについて語っておられるのです。そしてパウロは1414で、宗教的な汚すものについて述べています。旧約の儀式律法の中の汚れた食物についての古い区別や禁止は廃止されてしまって、今では拘束力をもってはいないです。従っていかなるものもそれ自体汚れたものとみなされるものではありません。同じ教えが語られている使徒行伝10915を参照してください。

 それ自体汚れているものは一つもないということが真理ですが、パウロのローマの教会に中には、まだこの単純な真理をはあくしていない人々がたくさんいたのです。彼らの考えによると、それ自体汚れていて清くないものがまだ多くあっただけです。そこでパウロは付言して「ただ、それが汚れていると考える人にだけ、けがれているのである」と言ったのです。すなわち、清くないものがなおまだあると信じているキリスト者には、それらにあずかることは安全ではない。彼らにとっては、それはまだ清くないのであるから、それを食べることによって、有罪と考えていることをすることになり、したがって彼は自分の良心を犯すことになるからです。

 たとえ良心が無知であり、誤っているにしても、とにかく良心に逆らって行動することは罪なのです。

 「きよくないものの肉を食べること自体は罪ではない。しかし、神によって禁じられているとその人が信じていることを行うことは、罪なのである。その罪は肉を食べることの罪ではなく、良心を無視することの罪なのである」。

J・G・ヴォス著   

 玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)


写真・・・地方伝道時代のバラ宣教師(1880年48歳)
     日本基督公会横浜海岸教会

 

 

   『ほっとひととき「みんなのコーナー」』

☆ 2019年も2か月が経ちました。主人が昨年末に退院し、今は家で静養しています。好きな庭のことを考えてはあれこれと思案している様子です。改めて健康第一と思いました。まだ60代ですから・・・。 宮崎県 A・Mさん

☆ まだまだ寒い日の昨今ですが、みなさまのお祈りと「ジャーナル」で励まされています。主にあって神様のお守りと愛に与からせていただいているにもかかわらず、感謝のない暗い心になってしまう信仰弱い者ですが、送られてくる「ジャーナル」の皆様のお声に、枯葉のような信仰の私を励まし、喜ぶことを気付かせてくださいます。本当に感謝です。その思いを書きたいと思い、やっとペンをとりました。毎月の「眸」や「ほっとひととき・・・」「今月のことば」など、お目に掛かることはできませんが、皆さんと信仰という絆が持てています。皆様に感謝いたします。 高知県県 TIさん

☆ 「美しい朝に」さんのこと知りました。健康回復を心よりお祈りいたします。主人の日々の生活も血糖値の管理とインシュリン注射の助けを借りての10年目ですから、他人事ではありません。心折れることもありました。自棄になることもありました。でも、頑張ってください。 青森県 TSさん 

☆ 柳田国男先生の「遠野物語」を読んだのは学生時代だったでしょうか。東京育ちの私のかけ離れた世界の人々の日常生活と民話の数々に引き込まれてもう60年以上になりました。その間、何度も秋田を旅して、そこに息衝いている日常の生活から、先生が「常民」という言葉を使われていたその意味深さを、AI時代になった今こそ、知らされています。昨年、最後の旅として、家内の協力を得て春夏秋冬の秋田旅行をすることができました。

 観光化された行事もありましたが、あの方言で語る日常会話の響きに魅了されました。「ジャーナル友さん」も「気まま旅、ご自分の宝さがしのこころ旅」をお楽しみになるのも、一つの彩ある日常ではないでしょうか。今年は、旅日記のメモを整理しようと思っています。もちろん、メモは残します。 福井県 YYさん       

 

**********

     今の北見は本当に寒いですよ。マスクなんか通用しません。覆面スタイルです。吐く息で外側は凍っています。大人も子供もカーリングに夢中ですよ。こんな楽しみもあるのですよ。部屋の中は温室です。

     お手紙ありがとうございます。わたしはイエス様のお守りで元気にしています。聖書も拝読しています。みことばをかみしめています。朝夕は病室でお祈りします。朝には血圧のお薬を飲みます。わたしは障害者なのでこの病院で生涯を終えることになります。毎月の「つのぶえジャーナル」は楽しみです。牧師先生は月に一度、来てくださり聖書の学びとお祈りの時は持っています。先生とわたしの二人だけでもう10年以上続いて来てくださいます。ご自愛ください。アーメン

     子供から今度新しいタイプのテレビを買ったので、私たちのを使ってと譲り受けましたので、主人は書斎と私専用のパソコンのある机のコーナーで、それぞれヘッドホーンで利用しています。それぞれ趣味や好みが違いますので、大助かりです。スポーツでも応援するチームはちがいます。主人は阪神、私は日ハムという具合ですから、これからはチャンネルの奪い合い(いつも主人優先)はなくなりそうです。

     もう2か月も過ぎました。一年ごとの契約社員も長くなりました。それが当り前になっているのが、良いのか悪いのか、よくわかりません。不安定と便利さはあります。ほとんどの女性社員は同じ立場です。正規、非正規と言われていましたが、どうなんでしょうか。上手に今の制度を活用すれば、これもまたアリと思って、会社のパソコンと向き合っています。勤務中なのに、メールを送信してしまいました。

△「ジャーナル友さん」へ。私の住む松江市は、近年のお城ブームで松江城が観光スポットになり、大勢の人が来るようになりました。松江市民の楽しみは、日常の生活の中で抹茶を嗜むことです。そのために、老舗の美味しい和菓子もありますよ。ところで、皆さん「宍道湖」は読めますか。「しんじこ」と読みます。宍道湖は、中海と日本海との水位の差がほとんどないため、中海から塩分が混ざりあう気水湖で、「宍道湖七珍」としてスズキ、モロゲエビ、ウナギ、アマサギ、シラウオ、コイ、 シジミがあります。一度召し上がってください。何だか観光案内になってしまいましたが、宍道湖を代表する味覚として親しまれていまして、 13の産卵期が旬ですよ。

     昨日、仕事で豚コレラの発生農場に行き、お手伝いをしてきました。すでに処分も埋設も終わり、空の豚舎は石灰で真っ白になり、埋設地を平す重機の音が響くなか、片付けたり、掃除したりしました。鶏インフルエンザのときも同じですか、みんな殺してしまうのですよね。そこまで?とも思うし、じゃあどうするの?と言われると、どうしようもない。つらいです。早く終息してくれることと、もう他で発生しないでと祈るばかりです。農場主の気持ちを思うと、やりきれません。あと、処分を担当している獣医さんは、1週間家に帰ってないそうです。その方から、ほんの数時間手伝っただけなのに、ありがとうございますと言われ感心しました。獣医さんは、皆いい方ばかりでした。

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緑を大切に!
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書籍紹介
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エネルギー技術の
 社会意思決定

日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
 定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本

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教会における女性のリーダーシップ
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント 
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
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「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
定価 2000円 

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「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
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「十戒と主の祈り」
鈴木英昭著
 「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
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われらの教会と伝道
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本

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さんびか物語
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円

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