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『ありがとうございます』
4月からまた新しい学校に転勤になるベテラン教師の友人が、何度も経験してはいても、新しい学校になれるには時間がかかるとメールが来ました。生徒との出会いは楽しいが、それ以上に、お互いに気を遣うのが教師間の関係とか。3月になると人事異動という言葉が多く見られます。「新しい・・・」とは新鮮であると同時に戸惑いと緊張の時でもあるようです。健康が守られ4月の備えの月に成れるといいですが・・・、と思いながら3月号をお届けいたします。
2019年1月16日から2019年2月15日までの「つのぶえジャーナル」事業への寄付者の報告です。感謝いたします。
三枝みゆき様 佐藤のり様 島田祥子様 馬場暁美様 加納さおり様 匿名2名様
*寄付金口座…郵振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社
また、お便り下さる方やお友達への紹介はこのメール アドレスをご利用ください。多くの方々の「ジャーナル友」が与えられるように願っています。
*「つのぶえジャーナル」はこれをご利用ください。
http://tunobue.blog.shinobi.jp
(米国南長老教会文書伝道事業)刊行責任者
つのぶえ社代表 長村秀勝
『ありがとうございます』
春を告げるお便りをいただきましたので、ご紹介いたします。
私の住む三重県の紀北町では、早くも春の訪れを告げる「フキノトウ」の収穫が最盛期です。土の中から顔を覗かせています。栽培農家では、多くの方に春をお届けしようと頑張っているのですよ。フキノトウは、花が開く前の蕾は食材としても広く知られています。春をお召し上がりください。
2018年12月16日から2019年1月15日までの「つのぶえジャーナル」事業への寄付者の報告です。感謝いたします。
和田順一様 和田貴美子様 佐藤のり様 森谷千文様 井上義明様 羽野 環様 堀 瑛子様 菊池すみ子様 梶川実雪様 加納さおり様 匿名2名様
*寄付金口座…郵振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社
また、お便り下さる方やお友達への紹介はこのメール アドレスをご利用ください。多くの方々の「ジャーナル友」が与えられるように願っています。
*「つのぶえジャーナル」はこれをご利用ください。
http://tunobue.blog.shinobi.jp
(米国南長老教会文書伝道事業)刊行責任者
つのぶえ社代表 長村秀勝
今月のことば
それは主が悩みの日に、その仮屋のうちにわたしを潜ませ、その幕屋の奥にわたしを隠し、岩の上にわたしを高く置かれるからである。
=詩篇27:5=
2019年も2月を迎えました。この世界でこれからの出来事や人生のすべての謎を解きうる人はおそらく誰一人としていないでしょう。しかし、だからこそ、主なる神はすべてのことを良くしてくださると信じることで、十分ではないでしょうか。
多くの人々にとって、何よりも人生の道に暗い影を投げかけるものは、全ての妨害や不運と言います。迷い、疑問に思いつつ歩む日々、正当に評価されず、不当に扱われる毎日、これもまた本当に辛いものであります。
疑問に思いつつ、このようなことに耐えなければならないのでしょうか。なぜ私の人生は不運に巻き込まれるのでしょうか、と思う時もあります。
神様は言われました。「主を恐れることを知っている」あなたは、徐々に、年月を過ぎ去るにつれて、」数多くの「なぜ」に答えを得られたことを知るのであると言い、「不幸な日々が、多くの最善であったこと。もっとも祝福された平和を、神によって良くしてくださったことを、喜びとして見い出す時は、あなたが神の家の奥まった家に進んでいた時であることを」。「不幸な時のゆえに神に感謝することができた時に」。
そこに「主は愛する者を懲らしめられる」。そして「へりくだって主の懲らしめを受ける者は、神の御心に近く引き寄せられていること」を信仰者として悟ることが信仰の喜びと言えるからです。
「何時も喜んでいなさい。感謝しなさい」というみ言葉の意味はここにあるからです。
小閑記
天国は、畑に隠してある宝のようなものである。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をみな売りはらい、そしてその畑を買うのである。
=マタイ13:44=
私たちがあるとき、キリストに出会い、キリストの中に何かを見出すと、この世で得られる最上の清らかな喜び、最大の宝を得ることになります。しかし、多くの人々を躓かせるものは、キリストお一人のために、すべてを捨てなければならないということです。
なぜ、私たちはキリスト者となって、私たちの望み、欲するものを所有し、愛してはならないのでしょうか。多くの人はこの考えを正しいとは認めながらも、去って行ってしまいます。そうしてキリスト教とは、無理な厳しい要求をするものだと思うのです。
もし、あなたもそう思い、そういうご意見なら、お尋ねします。もしも夫なり妻が、多くの男や女と愛を分かち、生活を共にするとすれば、なんとお考えになりますか。それでうまく行くとお考えでしょうか。それは不可能だということはおわかりでしょう。しかもその不可能をキリスト者になろうと思う時に、愚かにもそれを心に持ち続けたいと思うのです。「二人の主人に仕えたいと思うのです」(神と富、信仰の喜びとこの世の喜びを)。
私たちが、他のものをキリストを愛すると同じように、愛そうと思うなら、人生の最も尊い宝であるキリストを所有することは出来ません。
「わたしよりも父または母を愛するものは、わたしにふさわしくない」「息子よ、娘よ、あなたのこころをわたしに渡しなさい」。
もし、あなたの人生の最大の成功と恵み得ようとするならば、生きるにも、死においても、永遠にあなたを飾る輝きを身に着けたいと望むなら、自分を全くキリストに捧げなければならないのです。この決心を挫殺しても日々求められるのがキリスト者の信仰生活です。諦めないで、追い求めましょう。
私たちを完全に所有する、ただお一人の方として主イエス・キリストを受け入れ、選んだこの賢い選択・決断の行いを、生涯の宝として持ち続けたいものです。
<バラ先生ご使用の聖餐盃>
世田谷通信(185)
猫草
外壁の塗り替え。家も10年ほど経過すると直面する問題だ。とは言え、外壁なんて何の知識もない。というわけで、2社から見積もりをとってみた。項目も単価も違うのに、なぜか金額はほぼ一緒。こんなものなのかな、何を基準にすればいいんだろう・・説明で悪い印象はなかったのだが、決め手に欠けた。
3社目に話を聞いてみた。そうしたら「どういう風にしたいですか?」と「だいたい思い通りにはいかないものです」という言葉から始まった。
「どういう風にしたいのか?」と言われても、そもそも何色の壁か覚えていない。でもあちこち薄汚れてきた。小さなクラックがあちこち入っている。それらを綺麗にして、新築当時のような状態になればいいなあ・・とぼんやり思っている事に気がついた。
新築当時?いやちょっと待って。今の自分の顔をどんなに化粧品で塗っても、10代20代の肌には戻れないのだ。だって土台が違う。時間は巻き戻せない。そんなことは分かっている。なのに外壁に関しては漠然とその「できないこと」を求めていないか。まず、乾燥してシミもシワもある壁に、何を塗ったところでそれなりの結果だと認めること。ここがスタートなのだ。
「だいたい思い通りにはいかないものです」という言葉。色の印象というのも面積が大きいほど誤差が大きくなることに由来する。手の甲にちょっと付けてこんなもんでしょ、と選んだファンデーションを顔に塗ったら「あれ?」と思うのと一緒だ。それが家サイズになれば尚更だろう。
なるほどね、と「壁を塗り直すこと」の意味について少し納得したところで、昔読んだ本を思い出した。「赤毛のアン」シリーズ、第2巻「アンの青春」だ。公会堂の塗り替えをすることになり、アン達、村の改善委員は品の良い外観にしようと、屋根はこれ、壁はこの色と落ち着いた色を指定する。しかし、ペンキ番号の伝達ミスで、思わぬ派手な青い色に塗られてしまう。こんなはずじゃなかったと落ち込むアンに、「気にしなさんな、アン。たいがいペンキというものは、1年ごとに、いやな色になっていくものだが、あの青は最初からいやな色なんだから、さめていけば、かえって、きれいになるかもしれないよ。」と慰めるシーンがある。うちの外壁もそれぐらい、おおらかな気持ちで考えたいものだと思う。
『美しい朝に』・・51・・
K・Aさんの都合により2月号の『美しい朝に』は休載させていただきます。
編集子
*********
「朝の祈り 夜の祈り」
J・ベイリー著
新見 宏訳
朝
つくり主また贖い主なる神よ、あなたの祝福が伴わなければ、わたしはきょう歩み出すことができません。朝の活気と新鮮さや、健康な肉体や、現在の仕事の好調なことに欺かれて、自分の力によりたのむ過ちに陥ることがありませんように、これらのよい賜物は、すべてあなたから与えられたものです。
それらを与えるのも、取り去るのも、あなたの自由です。わたしが手の中ににぎっているべきものではなく、ただ信頼をもってとらえるものです。これらの賜物は、ただそれを与えてくださるあなたにたえずより頼むときにのみ正しく受けるにふさわしいものです。
どうか、あなたの賜ったものをすべてみ手に返し、わたしの心とからだのすべての力もすべての世のたからも、他のひとびとにおよぼすわたしの感化も、いっさいを、あなたに仕える目的のために再びささげさせてください。父よ、これらはすべてあなたのものです。みむねのままにお用い下さい。キリストよ、これらはみなあなたのものです。聖霊よ、それらはみなあなたのものです。
きょう、どうかわたしの言葉において語り、わたしの思考の中おいて考え、わたしの行為においてみわざをなしてください。この世に対するあなたの大いなる目的をはたすために、このような弱い人間の器をもお用いになることを知っていますので、どうかこの日、わたしの生活を通路として、あなたのきよい愛とあわれみとが、わたしのすぐ近くにある人々の生活に届くようにしてください。
神よ、聖なる主のみ前に、すべての友、隣人、この町の人々、ことにここに住む貧しい人々を覚えます。どうかわたしに恵みを与え、み名において力のかぎり彼らに仕えることを得させください。
とうとびまつるイエスよ、あなたはそのとうといいのちを、兄弟なる人間の贖いのために用い、安楽の楽しみや、世の富に心をよせることなく、いっさいの時間と月日を、無私の愛の行為にあてられました。どうか、この日わたしを恵み、あなたの踏み開かれた道を歩むことを得させてください。
み名に、栄光と讃美とがかぎりなくありますように。 アーメン
夜
天の父よ、あなたはわたしの五体をあなたに仕えるためにかたちづくり、わたしの魂を、ただあなたに従うためにおつくりになりました。いま、わたしは、悲しみと、心からの悔い改めをもって、過ぎ去ったこの一日の、咎めと過ちを認めます。父よ、わたしはあまりにも長い間あなたの忍耐を試み、またあまりにもしばしばあなたが与えてくださった信頼を裏切りました。それでもなおあなたは、わたしが心を低くしてみ前にくることを喜んであられます。どうか、わたしの多くの罪を、あなたのつきない愛の大海に沈めないでください。
私自身がたてた目標にすら忠実でありえなかったことを、
こころみにあって、自ら欺いたことを、
よりよい道を知っていながらなおかつ悪を選んだことを、
主よ、お許しください。
他の人々に要求する目標を、自分にあてはめなかったことを、
他の人々の苦しみに目をつぶり、自分自身の苦しみから学ぶのが鈍かったことを、
自分にかかわりのない悪事に対しては無関心でありながら、自分の身におよぶ悪に対しては過敏であったことを、
となりの人の善と、自分の悪とを認めるに遅かったことを、
となりの人のあやまちに対しては心をかたくなにしつつ、自分の過ちにはいつでも寛大であったことを、
あなたが、わたしには小さい仕事を、わたしの兄弟には大きい仕事を与えられたことをしんじようとしなかったことを、
主よ、お許しください。
「神よ、わたしのために清い心をつくり、わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください。
わたしをみ前から捨てないでください。
あなたの聖なる霊をわたしから取らないでください。
あなたの救いの喜びをわたしに返し、自由の霊をもってわたしを支えてください」。 アーメン
『その愛のゆえに』
=時々の記=
(154)
12月15日
今朝は、みぞれのようなものが降ったりやんだりで、とても冷たい一日となりました。寒さが和らいでくれることを願っています。寒椿が誇らしげにつぼみをつけ始めました。さすがに寒さに強い花ですから、この寒さにもびくともしていません。
茶畑や裾白々と花のあり。
古の伊賀は琵琶湖や霧の海。
初冬やかぎろひしばし雲染む。
初霜や葎(むぐら)刈られし跡白く。
間のありて芭蕉大きく羽撃ちけり。 馬場路哉
散歩に出かけようと思って、マフラーをして手袋をはめて、長靴を履いて行きます。先ほどまで降っていたみぞれで結構滑りやすくなっていますので気を付けていきます。今年も寒いクリスマスとなりそうです。
12月31日
郵便受けにゴダート先生からのクリスマスカードが届けられていました。私は今年は先生のお歳のことを考えてお返事をいただくのは申し訳ないと考えて、こちらからはクリスマスカードは出しませんでした。それなのに、先生は私のことを覚えていてくださり、“お元気ですか?”とのお心優しいお手紙をくださいました。申し訳なくてすぐにお返事を書きましたが。郵便局の窓口はお休みです。
仕方がないので4日まで待つことにいたしました。
お手紙の中に昨年の10月にアメリカを襲ったハリケーンで恐ろしいほどに大きな木々がなぎ倒され、まるで戦争で襲撃された後のようだったとありました。でも幸いなことに先生と愛犬は守られて建物の中で残っておられたというのです。
万両忌庭手入れして偲びけり。
日向ぼこちょっとしてより教会へ。
山際にかぎろひ赤く冬に入る。
年賀状書くや面影浮かべつつ。
第九聴き高揚すなり大晦日。 馬場路哉
1月9日
今年になって初めて、水道の水が凍結していました。外の気温は氷点下4度でした。あちらこちらで氷が目につきました。お隣の方と新年のご挨拶をしたところ、今朝の冷え込みで凍っている庭で転倒してしまい、とても痛みが激しく、救急車を呼ぼうかと思ったといっておられました。お一人で気丈に生活しておられます。私とはとても仲が良くて、立ち話のつもりがとても長くなってしまいます。
鈴鹿峰に初雪う薄く幾条も。
冬霧か雲か多羅尾の山に湧く。
同志社の女牧師のクリスマス。
荷を積める郵便バイクの年の暮れ。
良き窪の枇杷大きくて花数多。 馬場路哉
昨日、先生からもっと運動をするように言われた主人は、この寒い中、山添村を歩きに行きました。お昼になっても帰ってこないので心配しましたが、何かあったら、どなたかが連絡してくれると思って待ちました。朝出て行ったのが9時前でしたのに、帰ってきたのは午後1時過ぎでした。途中で局長さんと呼び止められて、昔話をしていたら、あっという間に時間がたってしまったというのです。
ケータイも持っていない私たちですから、何かあった時にはどなたかのお世話にならなければなりませんから、できるだけ連絡は細かくするようにしています。
この頃はよく転倒して救急搬送されたという話を聞きます。お互いにくれぐれも足元に気を付けて慌てないで一歩一歩踏みしめながら歩くことが大切ですね。
馬場暁美
「上野緑ヶ丘教会会員」
眸(ひとみ)・・95・・
☆ 何時ものように川べりを散歩していましたら、もう土筆が顔を出していました。自然の営みは、私たちの生活感覚とは違うのですね。きっと一週間もしたらそこここに見ることになるのでしょう。散歩の楽しみがまた一つ与えられました。 千葉県 T・Mさん
☆ 屋根の上も雪、お向かいの家に行くのも難儀する雪、雪、雪、雪です。おしいしお米が出来る恵みの水になると言われてはいますが、困り物でもあります。ここに生まれ育ったわたしにはあたりまえですが、友だちに写真を送ると、よくもまあそんなところに・・・といわれますが、それでも大好きです。どこから来てどこに行くのか、動物の足跡があります。共に生きているんだなあ~、と思える今です。 新潟県 A・Aさん
☆ お元気ですか。数か月前になりますが、兄が航空自衛隊員で、遺族会で京都に行って来ました。御所や平安神宮が昨年の台風で木々が倒れたり折れたりした跡がありました。御所は、天皇の交代だけで手がいっぱいなのでしょうか植木にまで気を配ることができないのでしょうね。道路から見ても悲惨な状態です。平安神宮は、初めて行ったのですが 権禰宜さんに案内して頂き普通は入れないところまで見せて貰いました。琵琶湖疎水を引いていて、今では絶滅危惧種類がいるそうです。赤もが発生した時に浄化装置をつけていたのでブラックバスなど外来種が入らず、自然が守られているとのことです。泥も1メートル位あります。飛び石で外国人が踏み外して池にはまってしまう人もいるとか…。面積がとても広いことに驚きました。冷泉通りがあることも新発見でした。 奈良県 T・Mさん
☆ 穏やかな新年を迎えることができました。今年は昨年のような災害のない一年であってほしいと思いましたし、子供たちも健康であってほしいと願っています。私たちも中年、余分なお肉も増えてきました。仕事や家事も頑張ります。でも少し気持ち的にはゆとり世代の生活を考えて、ママさんコーラス入ろうかと思っています。主人とは、高校時代の合唱仲間でした。 福島県 U・Kさん
<身近な出来事を「眸」に投稿してください> 編集子
十戒と主の祈り・・5・・1・・
鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
=刻んだ像=
第二戒①・礼拝する方法
出エジプト記20:4~6、32:3~6
第二戒は、「あなたはじぶんのために刻んだ像を造ってはならない」(口語訳)です。そして、この戒めには違反した場合の刑罰と、守った場合の祝福の約束が加えられています。
ローマ教会とルーテル教会は、第一戒とこの第二戒とを一つにして、第一戒としています。その代わりに第十戒を二つに分けて、第九戒を他人の妻の貪りとし、第十戒を他人の持ち物の貪りとします。それは人為的で不自然ですが、第十戒の時にそのことを学ぶことにします。
第一戒は、すべての他の神々と言われるものを拒否するように命じていますから、主なる神だけが真の神であるということです。第二戒は、第一戒と違って、その真の神を礼拝する方法の戒めです。広い意味としては、自分勝手な方法で神を礼拝してはならないという戒めです。
イスラエルの民は、モーセがホレブの山に登り、40日が過ぎても下ってこなかったので、ホレブの山の麓で、アロンの指示に従って、金の子牛を作りました。それを主なる神の像として造りました。「すると彼らは『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ』と言った」(出エジプト32:4)のです。アロンはそれを見て、その前に祭壇を築き、「明日は主の祭りを行う」と言いました。
このアロンの言葉から分かるように、民の意識はこの子牛の像によって主なる神を礼拝すると考えていました。そういうことは、第一戒だけであり、この第二戒がなかったとすれば、イスラエルの民は主なる神に向かって罪を犯したという意識は、生まれないことになります。
イスラエルの国が、ソロモンの死後、南北に別れますが、北のヤロブアムは、祭りの時に民がエルサレムに上ることを嫌って、金の子牛を二体作らせ、その一つをベテルに置き、もう一つをダンに置いて、「あなたがたはもはやエルサレムに上る必要はない。見よ、イスラエルよ、これがあなたがたをエジプトから導き上ったあなたの神である」(列王記上12:28)と言いました。これも同じで、第一戒の違反です。
このようにアロンもヤロブアムも主なる神を否定したわけではありません。しかし、ソロモンが妻たちのために、高台を築きました。それは明らかに別の神々、偶像の神々を礼拝する場所でした(列王記上12:10)。そして、アハブ王になると、彼は積極的にバアルを礼拝し、第一戒や第二戒に明らかに違反しました。神の裁きがエリヤを通して臨みました。このように、第一戒は偶像
礼拝を禁じる命令であり、第二戒は、主なる神を自分勝手は方法で礼拝することを戒める命令です。第一戒の偶像礼拝は、第二戒の像を作ることと関係します。
第二戒②・神を利用する
出エジプト記20:4~6、Ⅰサムエル4:3~11
刑務所の宗教教誨師をしていた時、教誨師の十数人が年に一度の研修旅行をしましたが、ある年、奈良の少年刑務所を見学に行きました。その折、京都の有名な寺院を訪ねましたが、同行の浄土真宗の僧侶の一人が、立って眺めている私たち三人の牧師に向かって、「われわれはこの仏像を拝んでいるのではないのです。その背後におられる仏に向かって手を合わせているのです」と言いました。
ローマ教会も似たようなことを教えています。ヴァチカンの聖ペトロ教会に行った人は見られたと思いますが、おびただしい数の彫像と絵画があります。見ていると、人々はペトロ像の足の親指に触れて祈っています。そのためにその指はピカピカに光っていました。ローマ教会も、こうした行為を偶像礼拝とは考えず、聖人や天使を崇敬することは、「神ご自身に賛美と感謝とをささげることになります」(カトリック要理72)と教えています。
先週はこの第二戒の学びの最初として、神礼拝は、人間が自分勝手な方法で行ってはならないことを学びました。しかし、礼拝に関してはいろいろな面があって、必ずしも100パーセント、神が指示を与えているわけではありませんから、ウエストミンスター信仰告白の1章6項の最後のところで、わたしたちはこう告白しています。「また、神礼拝と教会政治とに関しては、常に守られるべき御言葉の一般原則にしたがって、自然の光とキリスト教的分別とによって秩序付けられるべき、人間の行為と共同体に共通ないくつかの事情のあることを認める」。神礼拝の場合、例えば、礼拝の時間や長さ、回数、要素の順序などの周辺的な事柄には、相違はあり得るということです。こういうことにまで、聖書は言及していません。
像を作って、それを拝んではならないのは、神を人間の願いに従わせようとする罪のためです。例えば、イスラエルの民がペリシテ人との戦いで敗れたため、祭司たちに十戒の入ってる契約の箱を戦場に運ばせました(Ⅰサムエル4:3~8)。その箱が戦場についた時、民は歓声を上げました。神が来て戦ってくださると思ったからです。しかし、イスラエルはその戦いに敗北し、契約の箱が奪われました。主なる神がイスラエルのために働かれることを拒否されたのは、民が神の主権的な働きを求めたのではなく、自分たちのために神を利用しようと願ったためでした。
主なる神はイスラエルという民を、お選びになったアブラハムから起こして、御自分の民とし、その歩むべき道を示されました。示されたところに従って、民は神に従わなければならなかったのです。ところが、彼らは、このように契約の箱によって、主を自分たちに従わせようとしたのでした。偶像はこうして利用される性質をもっています。
<バラ先生ご使用の洗礼用鉢>
バラ・マカルピン 日本伝道百年史・・15・・
水垣 清著
(元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)
8 バラの伝道・・7・・
1882年(明治15)、50歳になられた先生は、名古屋から坂野嘉一氏を同伴して徒歩で瀬戸村に伝道、加藤吉太郎方で集会された。瀬戸地方の集会は1888年(明治21)10月20日信徒41名、小児3名で、瀬戸永泉教会(現日本基督教団瀬戸永泉教会)として設立された。
瀬戸伝道で信徒の家に泊られた先生に、「ニワトリを料理して差し上げたところ“私はこの家の時を告げるトケイを食べてしまった”と久しく慨嘆されていた」(伊藤虔三氏談)という逸話が残っている。
この瀬戸伝道を経て先生は、三河路に入り、奥三河の津具村(愛知県)に向かわれた。途中、三国山系戸越峠を越えられるとき「この三つの国を与え給え」と熱心に祈られたとのことである。美濃、信濃、三河を望み見る三国連山に立って、バラ先生の救霊の祈りは熱く燃えたにちがいない。
奥三河、津具村地方の伝道は、後に豊橋、岡崎伝道とともに南長老教会ミッションの伝道地としてS・P・フルトン師(1865~1938・中央神学校校長)によって引き継がれ伝道された。古い洋傘と日焼けした黒服の逞しいバラ先生の僻地伝道の姿は、これら山国の村民や宿場町の人びとに畏敬の念をもって見られていたにちがいない。
荒っぽい、そしてぎこちない日本語を話すバラ先生の言葉の背後には、温かい心と人を動かす熱誠があった。純正な福音の種を、かたくなな日本人の石の心に植え付けるためには、たとえ偶像教徒であってもこれを軽蔑したり、嘲笑する優越感はバラ先生にはなかった。
因習の石を取り除くにも、優しく振舞う外科医のメスのような細心の注意と、相手の心の傷を癒さんとする愛があった。
東奔西走、文字通り疲れを忘れたかのように前人未踏の山地を歩き回り、聖書の信仰を伝えてやまなかった先生によって、日本に正統信仰の土台が築かれたのである。
<マカルピン家の紋旗>
「キリスト教百話」
問24 キリストの再臨ということが言われていますが、それはどういうことですか。最後の審判あるとも聞いていますが・・・。
答・・2・・
歴史上では、キリストの再臨がすぐにでも起こるように言った人や、それを信じた人たちがいました。大分前のことですが、一通の葉書が送られてきまして「来年の夏ごろには富士山が爆発して世の終わりとなるからご用心ください」という知らせが書いてありました。実際には何事も起こりませんでしたが、そういうことより、むしろ最近の世相や国際情勢には、「このまま行けば世も終わりとなるのではないか」と危ぶまれるものがあるように思います。
日本でも、「末法時代の到来か」と言われた時がありました。平安末期の戦火、戦乱によって明日が望めなくなったからです。「世も終わりか」と思われるような時はあるものです。しかし、わたしたち人間の思いと、わたしたちを超えたところにある神様の思いとが一致するわけではありません。
キリスト教には「歴史を支配される神」という神様に対する信仰があります。ここで少し歴史というものについての理解の仕方について触れてみたいと思いますが、先ずは「世界の動きというものはその時々の人間の営みの所産であって、その中に特にこれと言った何かの意思が働いているのではない」という考えがあるように思います。過去と・現在・未来というものが直線的に無目的に移行しているという考え方です。
次に「歴史は繰り返す」と言われます。また「永却回帰」という思想もあります。「昔あったことは今もこれからも同じように繰り返される人間の営みはそのようなものだ」ということになりましょうか。
但し、変化しつつ進んでいるのが、との理解もあります。この三つの理解の仕方はそれぞれ説得性を持っているように思います。そして、それは、無目的的であるという点で共通しています。
これに対して、聖書の見方は「歴史は神の支配の展開である」という点において、人間を超えた超越的主体によって、目的的に進められている、という理解に立っているのでありまして、これは神の存在を前提とし、神を世界そのものの歩みが主であると信じている信仰によっての理解であります。
それは、聖書の冒頭に「初めに、神は天と地を創造された」(創世記1:1)と記されていることに明らかなように、この地上の歴史というものは、神によって始められたものであるという理解であります。理屈から言えば「その初めのことを書けるのは、その初めに立ち会った人でなくてはなるまい。しかし人間は神のよる創造の最後に造られたものであるというのであれば、初めを見た人はいないのであるから、聖書の話は作り話に過ぎない」と言うことになります。
まことにその通りでありまして、「見てきたような嘘を書くな」という主張の一面性を否定はしません。が、それは小説の真実性が虚構を用いて表されていることを理解されるなら納得できるように、聖書の表現形式と言うものも、信仰に拠って理解している真実を表現しているものとして受け止めるところから、歴史とその中に生きる人間の生き方が決まってくると思っています。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・
元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<2019年2月のラジオ放送予定>
2月 3日 落合健仁 (金城学院大学文学部宗教主事)
10日 落合健仁 (金城学院大学文学部宗教主事)
17日 吉松 純 (金城学院大学人間科学部宗教主事)
24日 吉松 純 (金城学院大学人間科学部宗教主事)
(放送開始1952年10月)
(CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
第87課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・40・・・
F 信仰の強い人たちは、その信仰の自由をどのように行使するべきか。
・・・14:13~23
「それゆえ、今後わたしたちは、互いにさばき合うことをやめよう。むしろ、あなたがたは、妨げとなる物や、つまずきとなる物を兄弟の前に置かないことに、決めるがよい」(14:13)。
しかし、この考えはこの章のパウロの文脈には合いません。パウロはここで述べている弱い信者というのは、ちょっとしたきっかけでたらすく不節制に陥ってしまいやすい人々ではありません。彼らは不節制になりやすい人々では全くありません。それどころか彼らはある事柄を節制する人々なのです。彼らは肉を全く食べようとしないで、野菜のみを食べようとしている人々です。弱い人々の弱点というのは、不節制や節度を失うことではなく、ある事柄について宗教的にびくびくするという弱点のことなのです。弱点であるのは肉を食べないという点なのです。強い人々は少しもびくびくしないで、それを食べることができないが、弱い人々はそれについてびくびくしたのです。
それでは、強い人が弱い人の前に置くべきではない「つまずき」とは何であるのでしょうか。14~23節にのべられていることを考慮すると、「つまずき」というのは、弱い人々が悪いことであると信じている事柄を行わせるように、弱い人々を推進するような強い人々の側の行為を指していることがわかります。
弱い人々の側の失敗というのは、ある種類の不節制に陥ることの罪ではなくて、彼らが自ら神の前に言い開きを十分にしていない事柄や、かれらがまだ疑念や躊躇を感じているような事柄をあえて行う罪なのです。23節「しかし、疑いながら食べる者は、信仰によらないから、罪に定められます。すべて信仰によらないことは、罪である」に注目すべきです。ここで罪というのは、食べる罪ではなく、疑いつつ食べる罪のことです。それをすることは正しいことであるという確信がなく、疑いつつ食べることの罪なのです。
私たちは、次の課で、14~23節をさらに詳しく学ぶことになります。ここでは、13節で述べられている「さまたげになる物」や「つまずきになる物」の本当の意味を理解するために、14~23節を大まかに見たにすぎません。弱いキリスト者たちのさまたげとなるものは、不節制に陥ることや罪み深い放縦に走ることではなくて、確信がなく疑いつつ物事をすることなのです。それ自体が悪いことではなく、強いキリスト者ならば何のためらいもなく行うようなことでも、疑いながら行うことです。「つまずきとなる物」というのは、弱いキリスト者たちに、彼らがためらいを感じているような事柄を行わせるように勧める結果となる強い信者の側の行為を指しているのです。
J・G・ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」